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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃 [新入荷]

ここのところ、同時代の関係者の作品達とのご縁が続いております。

本日は、保全の盟友であり、宗三郎(回全)の実父であります佐野長寛の作品をご紹介致しましょう。


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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃



江戸時代の終わり、幕末期の京都に自身を”漆匠”と称する名工が居ました。

「佐野長寛」です。


少し、長くなりますが・・・あまり、文献では目にすることも無いかとも存じますので、ご紹介してみましょう。


寛政6年(1794)漆器問屋 長濱屋治兵衛の次男として新町通三条上ルに生まれ、 治助を通称とし、後に治兵衛を称しました。

幼い頃から父に漆工を学び、早くも13歳の時には 日本一の漆工になる、と父に語ったそうです。

詩歌を学び、儒者・数奇者にも教えを乞いました。そのことはセンスを磨き、精神性等の鍛練に役立てるためであったようです。

父のみでなく、さらに京都市中の漆工にも学ぶために訪ねて回り、特に中村宗哲に多いに教えを乞うたそうです。


二十一才の時に父を亡くし、家督を継ぐことになった長寛ですが、翌年より日本諸国に学びの旅に出ます。

まずは紀州・吉野・奈良など畿内を訪ね、 さらに諸国の漆器産地を歴訪し、最後に江戸に至りました。 その道中には大名や豪商の所持する名品の数々を見せてもらって眼の鍛練にも励みます。

 文政5年(1822)、帰京して自身の作品製作を始めました。

意匠と技術へのこだわりは高く、富裕層の間で作品の評判は高まり、注文が殺到したそうです。

注文主の雅味に応じてとことん追求して製作し、また自身の意にそぐわない注文にはいくらお金を積んでも応じなかったとも言われます。

その反面、断髪して髭や髪を剃らず、粗末な着物を纏って一向に気にしなかったと伝えられます。


高麗の名工「張寛」の再来とも云われ、実際にも5代の末葉でもあったことから、少し字を変えて 「長寛」と号します。


まだまだ、長くなりそうなので、この辺で作品紹介に戻ります。(^^;

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共箱です。

この、盛阿弥というのは桃山時代から江戸初期に活躍した、利休の塗師であり、豊臣秀吉から”天下一”の称号を授けられた方です。

この作品は利休好を写しておりますが、利休好はサイズも後年変化し大と小があります。

最初期である盛阿弥の意匠を写したということです。

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黒髹 というのは黒の漆塗り、の意味になります。

近年では、「四つ椀」は入れ子になる飯椀と汁椀の蓋と身を併せて四つ、から四つ椀と言われることが多いですが、元はこの作品のように四種の蓋物の揃いのことを指します。

飯椀 (口径13.9㎝)

汁椀 (口径13.5㎝)

平椀 (口径13.2㎝)

壷椀 (口径11.4㎝)


5客づつになります。

未使用といっても過言ではないほど、状態が良く現存しております。

1mm程の微小ホツレを2カ所、色押さえしてますが、それ以外は驚くほどのコンディションです。


ここで、長寛の有名なエピソードもご紹介してみましょう。


懇意にしていた豪商、前川五郎左衛門の注文を受けた吸物椀を持参したときのことです。

先客が居た為、次室に控えていた長寛は、五郎左衛門との話の中で長寛が居る事を知らないその先客が、 「長寛という人は呑んだくれで、箸にも棒にもかからぬ所業が多く、 世間では名工と言うが、そうでもないのではないか」と言い出しました。

それを聞いた長寛は静かに立ち上がり、 その家の台所で大きな鉄釜に湯を沸かします。

湯が煮えたぎると、五郎左衛門と先客を呼び、その前で納品すべく持参した椀を放り込み、 薪切れでかき混ぜ煮込みました。

そして、自身の名を明かし、” 拙い技ながら我が椀はよく熱湯にも耐えることを特長としていると言い、 もし持って帰ってもらって明日になって毛筋ほどの亀裂でもあれば、 この職を止め、二度と長寛とも称すまじ”と気色ばんで言いました。 すると客も恥じて謝ったそうです。


えらいことをするものです。(^^;

そんな高温で煮たら、割れはせずとも歪むなり、変色するなりしそうなものですが。。。


まだ、別の逸話があります。こちらはさらに有名なお話です。

天保6年(1935)、茶道具商今津屋の祝い事に長寛は源氏絵の吸物椀を20客製作して贈りました。

喜んだ今津屋が、祝の客の前にこの吸物椀を早速お出しすることにしたのですが、どのお客さんのお椀も蓋が一向に開けられません。

翌朝、今津屋に呼ばれた長寛は、「いや、これはうかつな事をしてしまったわい。わしも老いたかなあ」と大いに笑って、蓋に錐で小さな穴をあけて、空気を通して蓋を開けることにしました。

ところが、一夜もたった中の吸物はまだ温たかかったそうです。

その位、蓋と身がぴっちり合うように作りこんでしまったと。

その後、開けた穴を埋めて再び収めましたが・・・

嘉永6年(1853)今津屋にてこの作品の外箱の裏に和歌を添えたそうです。


「我が老の拙さ業も、後の世にまた顕はるる時やあらなん」
 
老いた自分の拙い作品も、いずれ後世、また見直されることがあるやもしれないと。


余談ですが、長寛は大徳寺の大綱の下で禅を学んでおります。


そして、実際に後年にこんなことも起こります。

明治19年(1886)9月、 この吸物椀が京都の市場に出ました。

不景気の中、最高入札価格は210円にもなり、次点である200円の入れ札が3業者居たそうです。
ところが、この3人がどうしても、と食い下がり。。その内の1人が相応の利付けして代わってもらうことになり、結局300円の値になったそうです。

この逸話は当時の新聞に載るほど有名になりました。


えらい話ですね。(^^;


かなり、回り道をしましたが・・・

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この作品にもその片鱗がみえます。

なんともいえない重量感と、造り、しっとりした漆の肌さわりに、蓋と身を合わせたときの上品さ、はさすが、長寛でしょう。


佐野長寛は、安政3年(1856)3月2日に没し、釈休専と諡されました。

その跡は子の秀太郎が継ぎましたが、翌々年36歳の若さで没し、絶家したと伝えられます。


大正14年(1925)2月24日、京都の名だたる道具商と漆器商その他が結集し、長寛七十年祭が行われました。

京都の浄宗寺で法要を営み、 4月3日の9時からは妙法院で祭典が行われ、小書院では茶莚が、 御座間では点心が振舞われました。 また豊国神社、豊秀舎には4茶席が設けられました。
 
恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)では、北側の庭園で 京都漆工会の主催の茶席が設けられて茶がふるまわれ、 作品は4月3日~7日まで博物館内に展示されました。
 

佐野長寛作品 所蔵の美術館・博物館

・京都国立博物館
(龍鳳凰漆絵蒔絵食籠)

・三井記念美術館
(鉄錆写提銚子)

・野村美術館
(龍蒔絵桃形菓子器・散桜柴蒔絵食籠・城端写菓子盆・ 紅葉漆絵吸物椀・正法寺漆絵蓋物・伊勢物 語吸物椀)

・湯木美術館
(絵萬暦食籠・片輪車蒔絵菜盛椀)

・滴翠美術館
(蔦蒔絵棗)

・逸翁美術館
(八角食籠・正法寺蒔絵菓子器)

・MIHO MUSEUM
(蒟醤写八角食籠)

・耕三寺博物館
(砂張写青海盆)



御精読有難うございます。 大変長くなりました・・・1時間半かかってしまいました。(+_+)


※ご成約済み

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fujii-01

コメント欄にご質問を頂戴致しましたが、個人の携帯番号が記載されておりましたので、当方の判断にて削除させて頂きました。

メール等でのお問い合わせお願い申し上げます。


by fujii-01 (2019-03-21 17:04) 

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