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第5回 はんなり骨董楽市 丸善 日本橋店のお知らせです。 [催事]

先日の大美へお越し頂いました皆様、誠に有難うございました。

また来年、どうぞ宜しくお願い申し上げます。


そして、疲れのとれないまま・・・今日は一日で突貫準備中の催しのお知らせです。(^^;



京都・大阪発 はんなり骨董楽市 特集:古文房具-机上の愛玩品-

日本橋店 3階ギャラリー 

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2018年8月29日(水)~9月4日(火)  
9:30~20:30 (※最終日は17時閉場)

<入場無料>

京都・大阪より、江戸から現代までの茶道具・諸道具・美術品など
珍品逸品の数々を集め、お値打ち価格で展示即売いたします。

また、今回は「古文房具~机上の愛玩品~」を特集展示いたします。
古代より、文房具は文人墨客たちにとって実用だけでなく手元に置
いて愛でる対象でもありました。本展では、硯・筆・水滴・筆筒・
筆架・書鎮・矢立・墨など、使っても眺めていても楽しめる、趣が
あり飽きのこない品々をご紹介いたします。

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当店のDM掲載作品


名古屋の丸善から東京へ移って・・・はや、5年目です。

年に一度のこの催しは、他のどの催しとも違う雰囲気なので楽しいです。


また、8月15日に発刊されました、『宮川香山 釉下彩』の発刊記念に併せまして、今回、10月よりスタートする『香山式 2』のプレで少し香山特集も致します。

会場内で、この本の販売も行われます。

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初代 平澤九朗 瀬戸 一重口水指 淡々斎書付 [商品]

当店では、これまでも数点取り扱いました、九朗の水指です。

今回珍しいのは、淡々斎の箱書きが添っていることです。


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初代 平澤九朗 瀬戸 一重口水指 淡々斎書付

九朗の瀬戸釉はなかなかに秀逸で、初代と2代と共に一重口水指を定番作品として製作されております。

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アングルを変えて。

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内側を覗いてみましょう。

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『く』の彫銘


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共箱が現存します。

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このような感じで・・・・

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屋牢蓋の書付蓋が添います。

『九朗作』としっかり書かれておりますのも、この時代では珍しいです。


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近代の塗蓋が添ってる場合は、景色のあるところを正面に取られることが多いのですが、九朗水指の時代蓋の場合は、景色のあるところをやや斜めにされる傾向がございます。

客付、の方に見所を持ってくるという事なのでしょう。

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初代九朗作の水指でも佳品の部類に入ります。

幅 14.8~16.2㎝ 口径14.1㎝ 高さ15㎝




平澤九朗

安永元年~天保11年(1772~1840)

尾張藩士で屋敷内に窯を築き本格的に作陶。有楽流の茶人で識見に富んだ教養人でもあった。
古瀬戸釉を得意とし、志野・織部の手法・釉料を自由に使いこなし、会心の作のみ同好の士に贈るを常とした。その作品は評価が高く、当時より九朗焼として珍重され、尾張の余技作家の中では最も有名。


※売却済みです。

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古楽山焼 出雲 耳付水指 淡々斎書付 [商品]

本日のご紹介は、久しぶりに扱います古楽山の水指です。

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古楽山焼 出雲 耳付水指 淡々斎書付  江戸時代


なかなかの風格です。

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反対側より。

轆轤目のよく現れている造りで、下の方はやや四方の形状に、上半分が円形という、面白い意匠取りです。



楽山焼は松平藩三代綱近の時代に、毛利藩から1677年に招聘された倉崎権兵衛と加田半六により開窯されました。

1694年、権兵衛の没後二代~四代と加田半六が楽山焼を続け、中断した後、四十年後に初代の長岡住右衛門が継承し、現在の十二代空郷まで続いております。

半六は初代~六代まで記録が残っており、四代は1775年に、六代が1817年に没したとなっております。

また、他にも窯の従事者も数名いたことから、この100年間の初期楽山焼は、権兵衛や半六を頭領とした『工房』的な解釈が一番近いのではなかろうかという解釈になっており、最近では権兵衛時代から半六時代迄の初期楽山焼を総称して、古楽山焼又は権兵衛焼というようになりました。

実際に、伝世品を集めて研究された結果、同一の作行のものが存在せず、あまりにバラバラであったことが判明しました。

五代とされております、復興楽山焼初代長岡家の頃のことも、窯の所在地も含めて謎のままで、あくまで伝世によるものでしか判断出来ないのが現状です。

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斜めより。

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内側の様子。

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底面。

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塗箱で、朱漆書による淡々斎の書付がございます。


旧蔵者は、権兵衛作として濃茶用に楽しまれていたようです。

運び、にも置き、にもぴったりの風格ある水指です。

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1700年後半~1800年代前半、の作品と推測されます。

高さ18.5㎝ (摘みまで21㎝) 口径10㎝ 幅16.5㎝



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2018年8月20日の新入荷情報です。 [新入荷]

いよいよ、台風20号が迫っております。

今日は大阪美術倶楽部で準備の日でしたが、街の雰囲気は既に嵐の前の静けさ…状態で、独特の雰囲気でした。(^^;



新入荷情報を少しお届け致します。



仁阿弥道八 黒 茶碗

横井米禽 安南花文火入 柴田極め箱

輪島塗宗哉 群鶴蒔絵大棗 内銀溜 久田尋牛斎箱




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仁阿弥道八 刷毛目茶碗 [新入荷]

もう1点、道八作品の御紹介になります。

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仁阿弥道八 刷毛目茶碗


道八作品の中でも代表的なもののひとつが、『刷毛目』になります。

元は1400年代~1500年代に朝鮮半島で製作されていた、灰色の素地に白土を刷毛でざっくり回し描きすることで生じる意匠です。

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内側より

道八刷毛目、とも云われ古来より人気の高いシリーズです。

茶碗以外にも、鉢も存在します。

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この勢いの良さ、造形のゆらぎ感が相まって生まれる味わいは、本歌以上とも称されるものです。

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高台脇に、『道八』と書き銘が入っております。

勿論、共箱もございます。

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サイズ 幅14.5~14.6㎝ 高さ6.2㎝


この作行ですが、比較的・・お値頃です。

※ご成約済みです。


仁阿弥道八 天明3(1783)~安政2(1855)

京都の陶家高橋家の2世で,最も著名。名は光時,通称は道八,号は法螺山人など。

仁阿弥の号は剃髪して仏門に入った 42歳以降用い,また文化9 (1812) 年に仁和寺宮家より法橋号を賜わった。

主として京都五条坂で製陶し,晩年は伏見桃山でも焼いた。

琳派や狩野派の絵を器体に写した雲錦手 の酒器や茶器のほか,人物や鳥獣魚介などをかたどった置物類も得意とした。

磁器も創製して名声を得,諸藩から多くの用命を受けた。




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お問い合わせ先  

藤井香雲堂

メール:fujii-01@xc4.so-net.ne.jp

直通電話:090-8578-5732

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仁阿弥道八 仁清模茶碗 松ノ画 [新入荷]

続きまして、本日も仁阿弥のお茶碗のご紹介です。

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仁阿弥道八 仁清模茶碗 松ノ画 (1826年~1855年頃)


仁阿弥は、京都の粟田口にありました雲林院宝山家に師事しました。

伝統のある粟田焼の陶家です。ここで得た京焼の技術に、伊勢亀山藩士から粟田焼の陶工へ転身した、父初代道八から学んだ陶法や作風の影響を受け、仁阿弥は活躍の道筋をつけました。

1804年に父を亡くした仁阿弥は、1806年より粟田青蓮院宮への出入りを仰せつかります。

時に19世紀、茶の湯が社会への広い普及により、寺院での大法要茶会・公卿・武家・豪商の交際に必須の教養となっておりました。

それにより、茶道具の需要が高まり、高級な茶道具の”写し”の注文が京都の陶工に入るようになりました。

当時、写しの再現技量は、京都の陶工にとって成功の鍵を握る能力であったといわれます。

仁阿弥もまた、その”写し”の佳品を多数遺しました。

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このお茶碗も、箱書きから"模” = ”写し”としての注文品であることが伺えます。

道八の場合、完コピの場合のみ”模”を書かれるような傾向があります。

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釉薬の具合、この掛け分けの意匠、絵付け・・・野々村仁清の意匠が強く出ております。

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胴締めや轆轤の感じ、仁阿弥の仁清写茶碗らしい形状です。

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軟質なお茶碗ですので、どうしても浸み、は生じます。

茶だまり、の感じも良く点て易い造りです。

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依頼主の意向でしょう、印も”仁清”として造られております。

”仁”の字体は仁阿弥印と共通するところがありますのは当然でしょう。

共箱は仁阿弥印になります。

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昭和七年三月に開催されました、京都美術倶楽部に於ける某家の入札目録に出ております。


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落ち札も作品と共に一緒に伝世しております。


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しっとり、した味わいの色絵茶碗です。

この時代のこういうものは案外探すと無いので、取合せに重宝することでしょう。

※売却済みです。


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仁阿弥道八 桃山御本 茶碗 鵬雲斎玄室 箱 [新入荷]

まだまだ、幕末期シリーズ続きます。

幕末の京焼3大名工のひとり、仁阿弥道八のさらにレアな作品の御紹介です。

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仁阿弥道八 桃山御本 茶碗  (1842年~1855年頃)

幅13.6㎝ 高さ16.7㎝



和漢の古陶器の写しに優れていたことで知られる、二代目高橋道八、すなわち仁阿弥道八ですが・・・写しのレベルの高さとは別に、モダンデザインを伝統的な意匠と包括させた作行というものが存在します。

2014年12月~2015年3月までサントリー美術館で開催された展観より、少し引用してみましょう。

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この野崎家に伝わる鶴香合や、ボストン美術館に所蔵される雀香合をご覧ください。

野生の動物がまるでロボット?というほどに箆けずりによってシャープに生まれ変わってます。

そして、そのデザインはまるで掛け軸に描かれることのあるような、写実では無いのに写実的な特徴を印象づけるという効果を生み出します。



そのデザインの共通性が感じられるのが今回ご紹介するお茶碗です。

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御本茶碗の意匠をベースにしながら、鶴ではなく桐の紋を外と中に型押ししてます。

その周りにはピンクの斑の発色が華を添えております。



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高台回りの箆削りによる造形は、この意匠としてはシンプルなお茶碗にアクセントをつける事で、じわじわくる味わいを生じさせます。


この作品が珍しいのは、その意匠だけではございません。

天保13年、1842年に仁阿弥道八は家業を三代に譲り、伏見桃山へ隠居することにいたしました。

その地にて、『桃山窯』を築き晩年の自由な作品作りに勤しみます。

このお茶碗はその桃山窯にて造られた作品になります。

印は、『桃山』印が押されております。


外箱には鵬雲斎大宗匠の箱書がございます。

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共箱がございます。箱裏には桃山印の朱印も押印されており、さらに七代道八の極めもございます。

珍しい、高橋道八の受け取り書も現存しております。百匹・・・当時としてはかなりの高値ですね・・・(^^;

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道八は、どうやら当時・・・高値でさばけるルート(もしくは商人)があったようで、あちこちの豪商や名家に作品が多数点在していたことが伺えます。

そのおかげで、名声は広く知れ渡ることになることにもなったようです。




仁阿弥道八 天明3(1783)~安政2(1855)

京都の陶家高橋家の2世で,最も著名。名は光時,通称は道八,号は法螺山人など。

仁阿弥の号は剃髪して仏門に入った 42歳以降用い,また文化9 (1812) 年に仁和寺宮家より法橋号を賜わった。

主として京都五条坂で製陶し,晩年は伏見桃山でも焼いた。

琳派や狩野派の絵を器体に写した雲錦手 の酒器や茶器のほか,人物や鳥獣魚介などをかたどった置物類も得意とした。

磁器も創製して名声を得,諸藩から多くの用命を受けた。


※ご成約済みです。

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大阪歴史博物館 『西郷どん』展のご紹介です! [見聞録]

暑い日が続いております。

などというフレーズは、もうブログはもちろん・・・お客様とのメールやお手紙の中でも、TVやラヂオでも嫌というほど毎日使いすぎて食傷気味ですね。(+_+)

といいつつ、なんとなく・・・本当に気のせいか? 立秋の日辺りから、少しマシになったような?気がする、ような気がします。(この薄い表現度合い、ご理解ください)

そんな中、本日は大阪歴史博物館で開催中の「西郷どん展」に行ってまいりました。


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巡回展ですが、なかなか・・・見応え充分で、2時間かかりました。

数年前の「真田丸展」に比べると、地味目な気もしますが・・・資料など読んでいて面白いです。

さすが、大阪歴史博物館での開催だけあって? 心持ち、大阪にまつわる資料類が充実していたような。

以下に開催概要をコピーしておきますので、皆様、是非☆


大阪歴史博物館では、平成30年7月28日(土)から9月17日(月・祝)まで、6階特別展示室において、明治維新150年 NHK大河ドラマ特別展「西郷どん」を開催します。

明治維新から150年、平成30年(2018年)のNHK大河ドラマは「西郷(せご)どん」です。

明治維新のヒーロー・西郷隆盛には、肖像写真が一枚も残っておらず、その生涯は謎に満ちています。薩摩(鹿児島県)の下級藩士の家に生まれた西郷隆盛(小吉、吉之助)は、両親を早くに亡くし、家計を補うため役人の補佐として働きます。

やがて薩摩藩主の島津斉彬(なりあきら)に目を留められた西郷は、斉彬の密命を担い江戸へ京へと奔走し、薩摩のキーパーソンとなっていきます。

多感な青年期を経て、3度の結婚、2度の島流し。極貧の下級武士に過ぎなかった素朴な男は、勝海舟、坂本龍馬ら盟友と出会い、揺るぎなき「革命家」へと覚醒し、徳川幕府を転覆させます。類まれな「勇気と実行力」で明治維新を成し遂げた西郷ですが、最後は明治新政府と闘い、命を散らすことになります。

この展覧会では、NHK大河ドラマ「西郷どん」と連動し、西郷隆盛ゆかりの品や、同時代の歴史資料などを紹介、西郷の人間像と彼が生きた時代を浮き彫りにします。


平成30年7月28日(土)~9月17日(月・祝)

休 館 日 火曜休館 ※ただし8月14日(火)は開館

開館時間 午前9時30分から午後5時まで(会期中の金曜日は午後8時まで)

                ※ただし、入館は閉館の30分前まで


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ドラマでも、史実でも登場する薩摩藩の”小松帯刀”・・・私にとっては、この時代の人物の中では意外と馴染のある名前だったりします。

お詳しい方、お気づきかと思います。

初代 眞葛香山が明治元年より虫明に行っていたのはこちらでもなんどもご紹介しております。

その頃、小松帯刀が香山に、薩摩に来て薩摩焼を助けてほしいという依頼をするのです。

そして、その話に乗った香山が、なかなか離してくれない虫明より、逃げるように帰ったところ・・明治3年、小松帯刀が急死し、この話は宙に浮いてしまいました。

そんな経緯の末、薩摩の御用商人、梅田半之助に呼ばれて横浜でやきものを始めることになるのです。

小松帯刀が存命でしたら、香山の後の活躍も大きく変わっていたことでしょう。


結局、香山に話が変わってしまいました。(^^;


ここで、速報です。

10月の東美アートフェアのホームページが開設されました!


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ありがとうございます。

当店の出展作品が、ポスターに採用されました。


https://toobi.co.jp/artfair2018





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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃 [新入荷]

ここのところ、同時代の関係者の作品達とのご縁が続いております。

本日は、保全の盟友であり、宗三郎(回全)の実父であります佐野長寛の作品をご紹介致しましょう。


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佐野長寛 黒髹茶用饌器 倣 盛阿弥作意 五客揃



江戸時代の終わり、幕末期の京都に自身を”漆匠”と称する名工が居ました。

「佐野長寛」です。


少し、長くなりますが・・・あまり、文献では目にすることも無いかとも存じますので、ご紹介してみましょう。


寛政6年(1794)漆器問屋 長濱屋治兵衛の次男として新町通三条上ルに生まれ、 治助を通称とし、後に治兵衛を称しました。

幼い頃から父に漆工を学び、早くも13歳の時には 日本一の漆工になる、と父に語ったそうです。

詩歌を学び、儒者・数奇者にも教えを乞いました。そのことはセンスを磨き、精神性等の鍛練に役立てるためであったようです。

父のみでなく、さらに京都市中の漆工にも学ぶために訪ねて回り、特に中村宗哲に多いに教えを乞うたそうです。


二十一才の時に父を亡くし、家督を継ぐことになった長寛ですが、翌年より日本諸国に学びの旅に出ます。

まずは紀州・吉野・奈良など畿内を訪ね、 さらに諸国の漆器産地を歴訪し、最後に江戸に至りました。 その道中には大名や豪商の所持する名品の数々を見せてもらって眼の鍛練にも励みます。

 文政5年(1822)、帰京して自身の作品製作を始めました。

意匠と技術へのこだわりは高く、富裕層の間で作品の評判は高まり、注文が殺到したそうです。

注文主の雅味に応じてとことん追求して製作し、また自身の意にそぐわない注文にはいくらお金を積んでも応じなかったとも言われます。

その反面、断髪して髭や髪を剃らず、粗末な着物を纏って一向に気にしなかったと伝えられます。


高麗の名工「張寛」の再来とも云われ、実際にも5代の末葉でもあったことから、少し字を変えて 「長寛」と号します。


まだまだ、長くなりそうなので、この辺で作品紹介に戻ります。(^^;

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共箱です。

この、盛阿弥というのは桃山時代から江戸初期に活躍した、利休の塗師であり、豊臣秀吉から”天下一”の称号を授けられた方です。

この作品は利休好を写しておりますが、利休好はサイズも後年変化し大と小があります。

最初期である盛阿弥の意匠を写したということです。

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黒髹 というのは黒の漆塗り、の意味になります。

近年では、「四つ椀」は入れ子になる飯椀と汁椀の蓋と身を併せて四つ、から四つ椀と言われることが多いですが、元はこの作品のように四種の蓋物の揃いのことを指します。

飯椀 (口径13.9㎝)

汁椀 (口径13.5㎝)

平椀 (口径13.2㎝)

壷椀 (口径11.4㎝)


5客づつになります。

未使用といっても過言ではないほど、状態が良く現存しております。

1mm程の微小ホツレを2カ所、色押さえしてますが、それ以外は驚くほどのコンディションです。


ここで、長寛の有名なエピソードもご紹介してみましょう。


懇意にしていた豪商、前川五郎左衛門の注文を受けた吸物椀を持参したときのことです。

先客が居た為、次室に控えていた長寛は、五郎左衛門との話の中で長寛が居る事を知らないその先客が、 「長寛という人は呑んだくれで、箸にも棒にもかからぬ所業が多く、 世間では名工と言うが、そうでもないのではないか」と言い出しました。

それを聞いた長寛は静かに立ち上がり、 その家の台所で大きな鉄釜に湯を沸かします。

湯が煮えたぎると、五郎左衛門と先客を呼び、その前で納品すべく持参した椀を放り込み、 薪切れでかき混ぜ煮込みました。

そして、自身の名を明かし、” 拙い技ながら我が椀はよく熱湯にも耐えることを特長としていると言い、 もし持って帰ってもらって明日になって毛筋ほどの亀裂でもあれば、 この職を止め、二度と長寛とも称すまじ”と気色ばんで言いました。 すると客も恥じて謝ったそうです。


えらいことをするものです。(^^;

そんな高温で煮たら、割れはせずとも歪むなり、変色するなりしそうなものですが。。。


まだ、別の逸話があります。こちらはさらに有名なお話です。

天保6年(1935)、茶道具商今津屋の祝い事に長寛は源氏絵の吸物椀を20客製作して贈りました。

喜んだ今津屋が、祝の客の前にこの吸物椀を早速お出しすることにしたのですが、どのお客さんのお椀も蓋が一向に開けられません。

翌朝、今津屋に呼ばれた長寛は、「いや、これはうかつな事をしてしまったわい。わしも老いたかなあ」と大いに笑って、蓋に錐で小さな穴をあけて、空気を通して蓋を開けることにしました。

ところが、一夜もたった中の吸物はまだ温たかかったそうです。

その位、蓋と身がぴっちり合うように作りこんでしまったと。

その後、開けた穴を埋めて再び収めましたが・・・

嘉永6年(1853)今津屋にてこの作品の外箱の裏に和歌を添えたそうです。


「我が老の拙さ業も、後の世にまた顕はるる時やあらなん」
 
老いた自分の拙い作品も、いずれ後世、また見直されることがあるやもしれないと。


余談ですが、長寛は大徳寺の大綱の下で禅を学んでおります。


そして、実際に後年にこんなことも起こります。

明治19年(1886)9月、 この吸物椀が京都の市場に出ました。

不景気の中、最高入札価格は210円にもなり、次点である200円の入れ札が3業者居たそうです。
ところが、この3人がどうしても、と食い下がり。。その内の1人が相応の利付けして代わってもらうことになり、結局300円の値になったそうです。

この逸話は当時の新聞に載るほど有名になりました。


えらい話ですね。(^^;


かなり、回り道をしましたが・・・

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この作品にもその片鱗がみえます。

なんともいえない重量感と、造り、しっとりした漆の肌さわりに、蓋と身を合わせたときの上品さ、はさすが、長寛でしょう。


佐野長寛は、安政3年(1856)3月2日に没し、釈休専と諡されました。

その跡は子の秀太郎が継ぎましたが、翌々年36歳の若さで没し、絶家したと伝えられます。


大正14年(1925)2月24日、京都の名だたる道具商と漆器商その他が結集し、長寛七十年祭が行われました。

京都の浄宗寺で法要を営み、 4月3日の9時からは妙法院で祭典が行われ、小書院では茶莚が、 御座間では点心が振舞われました。 また豊国神社、豊秀舎には4茶席が設けられました。
 
恩賜京都博物館(現在の京都国立博物館)では、北側の庭園で 京都漆工会の主催の茶席が設けられて茶がふるまわれ、 作品は4月3日~7日まで博物館内に展示されました。
 

佐野長寛作品 所蔵の美術館・博物館

・京都国立博物館
(龍鳳凰漆絵蒔絵食籠)

・三井記念美術館
(鉄錆写提銚子)

・野村美術館
(龍蒔絵桃形菓子器・散桜柴蒔絵食籠・城端写菓子盆・ 紅葉漆絵吸物椀・正法寺漆絵蓋物・伊勢物 語吸物椀)

・湯木美術館
(絵萬暦食籠・片輪車蒔絵菜盛椀)

・滴翠美術館
(蔦蒔絵棗)

・逸翁美術館
(八角食籠・正法寺蒔絵菓子器)

・MIHO MUSEUM
(蒟醤写八角食籠)

・耕三寺博物館
(砂張写青海盆)



御精読有難うございます。 大変長くなりました・・・1時間半かかってしまいました。(+_+)


※ご成約済み

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眞葛長造 古染付写 銀杏香合 [新入荷]

先日の保全の蔵六亀香合もそうでしたが、もう1点・・・逸品の香合をご紹介致します。

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眞葛長造 古染付写 銀杏香合


長造は、仁清の再来ともいわれ幕末に活躍した名工であります。

保全・仁阿弥・長造は幕末の京焼3傑とも言って過言ではありません。

3者とも様々な作品を生み出しておりますが・・・敢えて、一言で表すと。

『繊細丁寧な保全』、『ざっくりと味わいの仁阿弥』、『モダンな優美さの長造』

とでも言いましょうか。

長造はほぼ茶陶のみの作品で、さらに京都に戻ってからの活躍期間が意外と長くないのと、おそらくは工房的ではなく自身を中心としてほぼ1人での製作に近かった為、作品数は多くありません。

その中で香合だけ数があるようにみえますが、かなりの確率で贋作が多く世に出回っております。


今回ご紹介する呉須銀杏香合は型物香合で西方前頭 2段目3位にあります。

明時代末に日本からの注文によって中国南部にて製作されました。

他にも染付銀杏香合といって明るめの色調で山水や蜘蛛の巣を描いたものも有名で、こちらも西方2段目19位にあります。

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この香合や木瓜香合などの特徴として、蓋と身の側面の高さがほぼ同じということがフォルムとして他の香合との大きな違いです。

そのことにより、側面への意匠の書き込みがしっかりでき、趣きが深まります。

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銀杏というのは、あくまで形状デザインのモチーフで、銀杏の時期に使う為という意味の意匠ではありません。その為、絵柄は竹になっております。

小堀遠州による洒脱なデザインと言われております。

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当時は京焼でも呉須の取り扱いが一定のレベルに達しており、五条坂近辺の陶工において染付作品が多数生み出されております。

長造作品の中では染付作品は少ないのですが、この発色と絵付けの見事さは本歌以上の素晴らしさがあるかもしれません。

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蓋裏に書き銘がございます。 拝見でもご覧いただけますね。

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古染付写し となっております。

実際には呉須写し、となるのですがその辺は今と違って曖昧だったのでしょう。

畠山記念館に所蔵されているものに近い意匠です。

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私はこの、大丸印、に入れ込みました。(^^;

このタイプの印は非常に珍しいのです。しかも香合という小さいアイテムに押されることは他に類例を見受けられません。

かなりの自信作であったことが伺えます。

長造は京都数奇者様方や、茶道具商の間では古来より人気でありましたが、その稀少性や資料の少なさから、名前だけは知られるものの、美術の世界ではややマイナーな存在でした。

平成12年に京都の茶道資料館に「茶の湯の京焼 ~眞葛長造~」が開催されたのが初の展観でありました。
(以外にも仁阿弥道八も数年前のサントリー美術館が初でした)

その後、今年の岡山県立博物館と、京都茶道資料館にて開催されました「むしあげ」展で香山のルーツとして長造の逸品群をきちんと紹介されたのも記憶に新しいところです。

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長造の晩年に近い作品になります。


眞葛長造

1797(寛政9年)~1860(万延元年)

若くして青木木米の弟子として作陶生活に入る。後、眞葛ヶ原に開窯。
(木米は潁川の弟子ですが、他にも長造の父・長兵衛にも師事しておりました。)

卓越した製作技術を持ち、独特の成形センスと、藁灰釉を筆頭にした上品で味わいのある釉薬を自在に操り、仁清の意を本歌以上に雅味のある作品を生み出した。

明治期、世界に名を轟かせた宮川香山(眞葛香山)は長造の子である。



※ ご成約済です。


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