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【O-LINE 03】 加賀月華 作 萬古窯 窯変一輪生 大正~昭和初期 [ONEGORO LINE]

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加賀月華 作 萬古窯 窯変一輪生

大正~昭和初期

胴径 9.4㎝ 高さ 23㎝



【加賀月華】

常次郎。明治21年桑名町に生れ、大正11年より桑名の物産として名ありし万古窯の再興を図り、地元の赤須賀に築窯して古万古の作風を学び今日に至つた。

帝展文展には昭和4年以来連年入選、其他日本美術協会、商工省工芸展等に出品し、屡々受賞してゐた。板谷波山にも師事し、その技量をかなり見込まれていた。

昭和12年没、享年50歳  桑名市新町の光徳寺に葬る。

寺内にある 沼波弄山の碑に隣接して板谷波山揮毫の月華墓碑が建っている。

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窯変釉により、複雑な色調を端正に整えて発色されております。

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口造りも凝っております。

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胴に、浮き盛り線を施すことで、下蕪の形状を引き締める効果を出してます。

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印銘です。


萬古焼は、江戸中期(1700年代後半)に桑名の沼波弄山が始めた三重県のやきものです。陶器と磁器の特徴を併せ持った特性をもち、文人により急須などで人気を博しました。

その後一時、中断し弟子筋などにより、幕末期に再興されます。

月華は、幕末~明治期に森有節が萬古焼を復興させたあと、ふたたび陰りが出ていた萬古焼を、近代工芸と茶陶の双方面から底上げして活躍した、近代萬古の祖ともいえます。

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共箱です。


月華の作品は、萬古焼のやわらかさの中に、波山ゆずりのきりっとしたフォルムが特徴である、と感じております。

この作品も、窯変により単色でありながらも、複雑な様相を思わせる釉薬に緊張感のある形状で、

花を生けたときにお互いを引き立て合う佳品に仕上がっております。

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『芍薬』 と共に。 



※売却済みです。



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【初代 眞葛香山 (宮川香山 真葛香山)】倣青華元様七賢人画 水指 鵬雲斎 箱 [眞葛香山]

当店で所有しております、香山作品の中で・・・展示会等で茶人様方からどの地方でも、年代を問わず高評価を頂戴しております作品です。

常々、時間が無い物で・・・意匠のきちんとした整理・ご紹介がなかなか出来ずにおりましたが、このCOVID19モードの中で、ようやくご説明さしあげられる機会が☆



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初代 眞葛香山 (宮川香山 真葛香山) 倣青華元様七賢人画 水指                      共箱・香斎極め外箱・鵬雲斎大宗匠 箱

明治37~45年頃  (1904~1912年)


幅 17㎝  高さ 16.6㎝  口径(内)13.8㎝



初代香山の珍しい水指です。当時は抹茶が衰退しており、二代に比して茶道具が少ないという事情もあります。

時代背景から文人趣味が反映されており、共箱・書付は七賢人となっておりますが、中国で有名な八仙人を描いております。

八仙は道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚いものです。

日本における七福神のようなもので、掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっています。

昔は日本では七賢人と八仙人は同義として混同されておりました。


さて、その意匠のご紹介を参りましょう☆

『 』内は人物を表すもの、と神通力を発揮するとされる所持アイテムです。


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藍 采和(らん さいか) 『貧』 『花籠』

字は養素。暗八仙は花籠。少年や青年、女性といったさまざまな説がある。唐の人。

いつも破れた藍色の長衫に三寸幅ほどの黒い木の皮を腰帯代わりに巻いており、腰には墨で汚れた板をぶら下げている。片足には穴の空いた靴を履き、もう片足は素足であった。

夏は上着の下に綿入れを重ね、猛暑の中遊びまわっても汗をかかない。冬には服を脱いで単衣になり雪の中を遊びまわるが吐く息は全く白くならず、雪の中で寝ても体から湯気が出ていたという。

町へ出ては、長さ三尺余りの大きな拍板(拍子木)でリズムを取りながら「踏歌」という新体詩を歌い、酔えば踊り、老若男女はみな彼の後をついてまわって面白がっていた。
彼の歌をよく聞くと、思いつくままに口から出まかせを歌っているようだが、実は仙道の教えが込められていた。しかし、誰一人それに気づく者はいなかった。

彼の踊りに対して銭が投げられると、縄で縛って持っていく時もあればそのまま放っておく時もあり、持って帰ってもそのまま乞食にやったり、酒屋で一杯やったりと、あまり気にすることはなかった。
彼は神出鬼没で、現れたと思いきや、すぐまた不意にいなくなってしまう。度々天下を周遊しており、いつまで経っても年をとることはなかった。同じ八仙の李鉄拐と逢い、道を論じ合うこともあったという。

ある日、采和が城の堀端にある酒屋で飲んでいると、天から笙の音が聞こえてきた。笙の音とともに舞い降りてきた白鶴に乗って急いで見に行こうとしたが、その際、彼は長衫や靴、帯、拍板などを振り落してしまった。それらは彼の姿が雲間に消えると同時に消え失せたという。


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張 果(ちょう か)『老』 『魚鼓(楽器の一種)』



敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐の玄宗時期に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。天宝年間に尸解(死んで肉体から解脱し、仙人になる)したといわれる。正史にも名を連ね、多くの伝承を残している。

恒州の条山にこもり、近隣には数百歳と自称していた。白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。
則天武后に招かれて山を降りた時に死に、死体は腐敗してしまった。しかし後日、生き返っているところを発見された。
開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤が死体に向かって玄宗の意を伝えると、死んでいた張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舎人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。

張果は、玄宗に老いていることを問われ、白髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が妹の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな法術を行った。

食事は酒と丸薬だけしかとらず、法術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という法術を行うものたちにも、正体を見定めることはできなかった。

玄宗は高力士に相談し、本当の仙人か見定めるため、張果に毒酒を飲ませた。
張果は「うまい酒ではない」といい、毒で焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光禄大夫と通玄先生の号を与えた。

玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が渾沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。
張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年(742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。


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曹国舅(そう こっきゅう)『貴』 『玉板(玉製の板)』



名は佾(いつ)、字は景休(けいきゅう)。北宋建国の元勲曹彬の五男の曹玘の子。

仁宗の皇后(曹皇后)の弟であるため、国舅(天子の外戚の呼称)と呼ばれる。暗八仙は雲陽板(カスタネットに似た楽器)。

『神仙通鑑』によると、彼は弟の曹景植が姉の権力を笠に着て悪事を働くのを見かねて、山中に隠遁し修行をし始めた。それを見た呂洞賓と漢鍾離がやってきて、「何の修行をしているのか」と訊かれ、道の修行だと言った。

「では、その道はどこにあるのか」と笑いながら訊かれると、黙って天を指した。「その天はどこにあるのか」と畳み掛けられると、自分の心を指した。

すると、二人は大いに笑って、「心はすなわち天、天はすなわち道である。お前は既に道が何であるかを知っている」と言い、彼に還真の秘旨を授け、神仙の仲間に加えたという。


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(左側)韓湘子(かん しょうし)『少』 『笛』


名は湘、字は清夫といい、「子」は男子の尊称。

唐代の文豪・韓愈の甥の韓老成(韓愈の次兄の韓介の実子で、韓愈の長兄の韓会の養子)の子であり、子供の頃から韓愈に養われていた。

韓愈の子弟たちが学問に励む一方、彼は酒ばかり呑みぶらぶらしている放蕩者だった。

二十歳の頃、突然行方不明になったかと思うと、しばらくしてぼろを身につけて帰ってきた。
韓愈が学問をするようにすすめると、「私が学んでいることはあなたのものとは違います」と言い、草の花をすぐに咲かせることができる、と言った。

彼が盆に土を盛り、牡丹を植えると、彼が言ったとおりすぐに花が咲いた。
よく見ると、花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」と書いてあった。意味を尋ねると、月日が経てばわかるという。

その年(819年)、憲宗の怒りに触れた韓愈は潮州へ流され、その途中大雪に遭うが、そこに韓湘子が現れ、以前自分が咲かせた花びらに書かれていた一句が的中したのだと言う。

韓愈が地名を尋ねてみると、そこははたして藍関だった。そこで韓愈はその句に語句を付け足して、詩にして韓湘子に贈った。
やがて宿場に着くと、韓湘子は韓愈に一粒の薬を渡し、「瘴気の立ち込める地方では健康を保ちにくいでしょう。これを一粒飲めば、瘴気を防ぐことができます」と言い、しばらくして去っていった。その後、韓湘子の言ったことはすべて的中したという。





(右側)何仙姑(か せんこ) 『女』 『蓮の花』


名は瓊で、「仙姑」とは女仙という意味である。八仙中唯一の女仙。暗八仙は荷花(蓮の花)。各種伝説には仙女、道姑(どうこ・女道士)、巫女の3つの姿で描かれている。

『東遊記』によると、彼女は唐代の武則天の時に、広州増城県にある雲母渓にいた何素(『仙仏奇踪』等、他の文献では何秦とも)の娘で、生まれたときには六本の髪の毛が生えていたという。
十四、五歳のとき、夢に神人が現れて、「雲母の粉を食べなさい。そうすれば身体が軽くなって、不死となるだろう」と言われた。
明け方、目が覚めると、「神人は私を騙すはずがない」と思った。そして、言われたとおり雲母の粉を食べてみると、確かに身体が軽くなった。そこで母親はすぐに彼女に婿を取らせようとしたが、彼女は結婚しないと固く誓い、結局彼女に結婚を強いることはできなかった。

ある日、渓谷で李鉄拐と藍采和に出会い、仙人になる秘訣を教わった。それからというもの、いつも山谷を行き来し、その姿はまるで飛んでいるかのようだった。
毎日朝に家を出ては暮れに戻ってきて、山で採れる果物を持って帰り、母に渡した。
母親はどうしたのかと訊くと、「ただ名山の仙境へ行き、女仙と道について論じ合っているだけです」と言った。
しばらくすると、しゃべり方がおかしくなった。武則天はこのことを訊いて、使いの者を送り宮中に召し出そうとしたが、その途中で忽然と姿を消した。武則天は臣下に国中を捜させたが、結局見つけることはできなかった。景龍年間に、李鉄拐が彼女を引き連れ、白昼昇天し去っていった。

天宝9年に、麻姑と一緒に五色の雲の中に立っているのが見られた。
また、大暦年間中、ある人が広州の小さい石楼で彼女に会っているのを刺史の高皇が目撃し、それを朝廷に奏上したという。
また、北宋の仁宗の時、永州零陵県に生まれ、十三歳の時お供と共に山に入って茶を採っていた際、お供を失い迷っていたところ、呂洞賓に出会い、仙桃を与えられ仙人となったという説、また、武則天の時代に豆腐屋の娘である何秀姑が仙人になったという説などもある。


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李鉄拐(り てっかい) 『賤』 『葫蘆(瓢箪)』


名は玄、凝陽、洪水、岳など諸説ある。 鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。

絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、もとはがっしりとした体格の道士であった。
二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。
しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。
彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。

兵法三十六計の一つ、借屍還魂は、この逸話をもとにした計略である。 また、西王母に師事して東華教主となり、漢鍾離を得道させたという説もある。
ほかにも岳寿という小役人が李屠という者の体を借りて李鉄拐になったという話もある。

鄭州奉行所の都孔目(裁判官)である岳寿は、悪の限りを尽くし、私腹を肥やして地獄に落ちてしまったが、生前、一つだけいいことをしていたことから呂洞賓に地獄から助け出された。
しかし、死体は既に焼かれており、仕方なく死んだばかりの鄭州東城門内の肉屋である李屠の息子の小李屠に乗り移ったところ、小李屠は足が悪かったところから、杖をつくようになった。

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(左側) 漢鍾離(かんしょうり) 『富』 『芭蕉扇』

鍾離 権(しょうり けん)のこと。姓を鍾離といい、名は権である。字は寂道。号は雲房先生。正陽真人とも呼ばれる。 漢鍾離(かんしょうり)は別名で、これは「漢の人、鍾離権」の意味である。

もとは漢に仕えており、左諌議大夫になったが、漢が滅んだ後は西晋に仕えて将軍になった。
しかしある戦いで敗れ、終南山に逃げ込むも、道に迷ってしまう。山中をさまよい歩いていると、東華帝君に出逢い、長生真訣・赤符玉篆金科霊文・金丹火候青龍剣法を授かったという。

しかし、実際は五代の人であり、「天下都散漢(天下一の暇人)鍾離(鍾離権)」と自称していたのが、「漢の人、鍾離権」になってしまったという説もある。

その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれる。暗八仙は芭蕉扇であり、死者の魂をよみがえらせることができるという。






(右側) 呂 洞賓(りょ どうひん) 『男』 『剣』

名は嵒(巌、巖、岩とも書く。もとの名は煜)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。

民間信仰の対象となり人々に敬愛されたことから、13世紀に元の武宗から「純陽演正警化孚佑帝君」の称号を贈られ、正式な神仙となった。以後の王朝からも神と公認され、道教での普遍的な称号は孚佑帝君と称される。
蒲州永楽県(現在の山西省運城市芮城県)の人。
祖父は唐の礼部侍郎の呂渭。父は海州刺史の呂譲。
師は鍾離権であり、終南山で秘法(飛剣を飛ばし魔を退治する「天遁剣法」、また雷雨を操る「雷法」)を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。
科挙受験者であり、教養のある出自であることから優れた詩歌を幾つも残したという伝承があり、現代にも呂洞賓作と名乗る修行書や詩歌作品が多数残されているが、宋風の特徴を持つ作品が多く、他の作者がその人気に肖って仮託したものと考えられる。

生まれながらに金形木質・鶴頂亀骨・左眉の角に黒子があるなどの異形だった、母親が一羽の白鳥が室内に入る夢を見たあとに出生した、などの異常誕生譚がある。
幼い頃から聡明で、一日に万言を記したという。身長8尺2寸、好んで華陽巾を被り、黄色の襴衫を着て、黒い板をぶら下げていた。20歳になっても妻を娶ろうとはしなかった。

出世を目指し、科挙を二回受けたが、落第してしまう。長安の酒場にて、雲房と名乗る一人の道士(鍾離権)に出逢い、修行の誘いを受けるが、出世の夢が捨て切れず、これを断った。

鍾離権が黄粱を炊いている間、呂洞賓はうたた寝をし、夢を見る。科挙に及第、出世し、良家の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。そうして40年が過ぎるが、ある時重罪に問われてしまい、家財を没収され、家族は離れ離れとなり、左遷されてしまう。
そこで目が覚めるが、まだ黄粱は炊けていなかった。俗世の儚さを悟り、鍾離権に弟子入りを求めると、十の試練を課されることとなる。これを見事こなした呂洞賓は、晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった。



・・・・・・・・・八人分・・・です。(^^;

それでは、画題となった8人に登場して頂きましょう☆

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水指の六面に、1人づつ4面、2人づつ2面、で合計8人です。


”面”ごとに窓の中に丁寧な人物像が描かれ、周りは異なる意匠にて見る人を楽しませてくれる趣向となっております。


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マクズブルーと相まって興味深い作品に仕上がっています。絵柄ごとに盛り上がる形状と枠組でアクセントを付けつつも全体的なデザインとしても一体感を持って完成させているセンスも秀逸です。

共箱に加えて、京都真葛の五代香斎による極め外箱がつき、さらに裏千家の先代家元であります、鵬雲斎大宗匠による箱書がございます。


塗り蓋も上質なものが添っておりますが、なんと替え蓋もございます。

そちらに替えましたのがこちら。

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また、印象が変わりますね。


なかなか、初代の水指で良い物は稀少でございます。



JFK Web価格 【要・お問い合わせ】  



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藤井香雲堂 JFK お問い合わせ先 


【メール】 fujii-01@xc4.so-net.ne.jp


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【O-LINE 2】 膳所焼 (岩崎新定作) 大江写茶入 [ONEGORO LINE]

ONEGORO シリーズのご紹介、第2弾です。


お茶入として、扱いやすさと上がりの良さで時代を問わず人気の膳所焼の茶入です。


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膳所焼 (岩崎新定作) 大江写茶入


サイズ  幅5.1㎝  高さ9.5㎝    口径(内)2㎝


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G蓋です。(^^;


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口も大き目で使いやすく、底も綺麗な状態です。


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印銘、”せせ”です。

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間道の仕覆も上品で、大き目の茶入を引き締めます。

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状態はほぼ未使用です。


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共箱



今では膳所焼としてひとくくりにされておりますが、古膳所は数カ所の窯が存在しておりました。

そのうちの、湖南にあった大江焼として遺されており、美術館に所蔵されている茶入を本歌としたのが、この大江写しです。

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参考の古膳所焼で、大江焼と思われるものです。

一番有名なのは、中興名物で『大江』と銘のあるものです。

膳所窯が瀬田の大江に在ったことから小堀遠州に名付けられました。

伝来は、小堀遠州〜松平備前守〜松平不昧〜根津嘉一郎〜根津美術館




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たっぷりとした風格と、口の広さ・・・と飾り映えも使いやすさも備えた良い茶入で個人的に好きなタイプです。





※ご成約済です。



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新シリーズ・はじめます☆ 【O-LINE 1】 苫舟 香合 [ONEGORO LINE]

新型コロナウイルスで、世間は完全な自粛中です。

非常事態宣言が発令されてから・・19日目です。周りでは毎日のニュースでさらに気を引き締める雰囲気もありますが、少々緩みがちな様子もただよっているこの週末です。

しかし、皆様方の(もちろん私も)健康が第1ですので、くれぐれもお気をつけ下さいませ。

私の方は、まだまだ「やれること」「やりたいこと」が有りますもので、心身の健康維持も兼ねてベースへは通って仕事を続けております。

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といっても、車移動によるドア・トゥ・ドアで、3日間業務・1日間休日というサイクルを続けております。

さて、そんな中ですが・・・当JFKでは、これまでの「こだわり」のご紹介以外に、ちょっとお値頃品のご紹介もたまには盛り込んでみましょう、という企画・・・


【ONEGORO-LINE】


を始めることにいたしました。


是非、お愉しみ下さいませ☆


では、第1弾です。


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 苫舟 時代香合


幅 9cm×4.3cm 高さ3.8cm    箱 合わせ



あじわいのある香合です。

苫舟というのは、苫をまとった舟のことです。


苫とは、菅(すげ)・茅(かや)などで編んで作ったもの。船などを覆い、雨露をしのぐのに用います。


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時代のものですが、なかなか良くできております。

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形状もさることながら、色合いも。

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径年変化にて、透けた溜塗りの本体には、螺鈿による意匠が施されております。

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内側の”朱”も根来調で。

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見えますでしょうか?内底は網代(あじろ)になっているんです。

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苫舟とは、こういう感じでして・・・


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三十石舟、というお話があります。

『三十石』(さんじっこく)または『三十石夢乃通路』は、京と大坂を結ぶ三十石舟の船上をおもな舞台とする上方落語の演目の一つです。

本来は旅噺「東の旅」の一部であり、伊勢参りの最終部、京から大坂の帰路の部分を描く。現在は独立して演じられることが多い。


主人公二人が京からの帰途、伏見街道を下り、寺田屋の浜から夜舟に乗り、大坂へ帰るまでを描いております。

前半は宿の描写、船が出る時のにぎわい、美人が乗ると思い込んだ好色な男の妄想、旅の道中に出会ういろいろなものに触れての軽妙な会話、船頭の物まね、などが続きます。

後半では船中で五十両の金が盗まれる騒動が起きますが、船頭の機転で盗んだ男がつかまり、噺はめでたく結ばれる、といったものです。

これは、余談ですが・・・

苫舟、いろんな趣向でお使い出来ますね。




※ご成約済です。


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仁阿弥道八 絵高麗 茶碗 [国焼茶陶【江戸後期】]

絵高麗茶碗です。

元は茶人により『絵のある』高麗茶碗として呼びならわされていたものですが、その後の研究により中国の磁州窯系のものと分類されております。

絵高麗は、文禄・慶長の役(1592~98)以後、渡来した、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のあるお茶碗のことです。


さて、今回のご紹介の作品は・・・・仁阿弥道八です。


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仁阿弥道八 絵高麗 茶碗


幅 13.8㎝ 高さ 5.5㎝



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反対側からも、どうぞ。


鉄絵の勢いある筆で花を描いております。


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見込みの部分は安南にも通じる感じです。

内側に、一カ所・・・辰砂のような釉の発色が見られます。窯変によって出たものでしょう。

ちょうど・・・飲み口から飲み終わった後にちらりと目に入るお愉しみです。


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格調高い釉調で、さすが仁阿弥らしい上がりです。


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仁阿弥は、江戸後期の京焼の世界に於いて、粟田系の古清水風でもなく、師である奥田潁川のような中国陶磁器の写しでもなく、国焼や高麗の写しを。。。それぞれの趣きを巧みにとらえ、独自の工夫を凝らしてひとつの世界を開いているのが特徴です。


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高台回りの形成も手練れの陶工らしさです。

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印銘です。


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共箱です。


仁阿弥の共箱と使用される印・書き銘の組み合わせには一定のパターンは無く、それぞれの精査と作品からの判断が必要となります。


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5月~9月までお使いになれる形状です。

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抹茶を点ててみました。 

お茶碗の本懐は・・・この色が入ってから、さらに変える表情から受ける印象です。


仁阿弥の称は、文政9年(1826)に仁和寺宮から法橋(称号です)を叙せられる際に拝領した『仁』の字と、醍醐三宝院宮より『阿弥』号を賜ったことから、併せて『仁阿弥』と称されたものです。

ですので、この作品は1826年以降、三代へ代を譲り伏見桃山へ隠居した天保13年(1842)迄の間の作品となります。


仁阿弥の絵高麗は、刷毛目や楽に比して伝世数が少ないアイテムです。

是非コレクションに加えてお愉しみ頂きたく存じます。









※御成約済みです。


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楽 旦入 柚味噌皿 【5客】 [食の器]

楽の向付のご紹介です。

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楽 旦入 柚味噌皿 【5客】


楽吉左衛門の向付の中では、定番のアイテムのひとつになります。

その色彩や形状の侘び加減は、茶人さんにもお料理人さんにも人気の意匠です。


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元は、宗旦好みであり本歌は一入作といわれます。

歴代の作により写しが作られたことで、存在が広まりました。


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印銘があります。


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引き締まった小振りな寸法ですが、茶懐石の向付であるという目的意識で元伯宗旦により設計デザインされた当時としては新世代の向付であります。

桃山陶器との明確な違いがそこにあります。

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シンプルかる流れる形状は、利休の回帰を目指した宗旦の意識があり、調和と控えさを包括したものでしょう。

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状態良好です。

経年により薄いそげのようなものは有りますが、基本的に無傷完品です。

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共箱です。


楽 旦入(1795~1855)

寛政7年生まれ。楽了入の次男。


文化8年(1811)十代吉左衞門を襲名。

弘化2年(1845)剃髪隠居して旦入と号しました。

文政2年(1819)再度紀州へ趣き、徳川治寶侯・斉順侯のお庭焼きである偕楽園窯、清寧軒窯に奉仕しています。

旦入の作行きは父、了入の篦削りを主体とした作風をさらに押し進めたもので、茶碗の各所を引き立たせる篦は多彩をきわめ、篦削りの技巧的な完成をみせています。

また窯変による鮮やかな変化をみせる赤樂茶碗に特長があります。

この向付も赤楽の窯変の良さが見受けられますね。


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利休形 折敷に合わせてみました。 ・・・やはり、しっくりきます。


※ご成約済です。





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永楽和全 染付羅漢 喫茶碗 【5客】 [幕末京焼]

和全さんの、ちょっとイイ物・・・ご紹介致します。


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永楽和全 染付羅漢 喫茶碗 【5客】

嘉永5年~元治年間頃

幅 8.8㎝ 高さ 4.5㎝


白磁に染付の作品です、がその意匠の取り方がなかなか・・なのです。

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1客をクローズアップしてみましょう。


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端反りで、先端へいくほど薄く・・・

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シャープなデザインです。


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見込みは『羅漢』の図が描かれております。

羅漢とは、阿羅漢 の略称です。

供養と尊敬を受けるに値する人を指し、袈裟を着た僧形で現されることが多いです。

中国,日本では十六羅漢・十八羅漢・五百羅漢のように仏道修行者の群れで表現されることも。


お茶を入れたときに中でゆらゆらと垣間見える羅漢の姿、はまるで修行の中で迷いに揺れる姿のようにも?

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口、の内側にこんな細い線を2本ひいており、描くのも大変でしょうが・・・このことで断然引き締まるのです。

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高台の、造りも興味深いです。

厚手の形成となっており、その周りには彫り文が施されております。

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書き銘。

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和全の初期、宗三郎と共に御室窯で焼成していた頃です。

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このような仕覆も添います。

元の所持者は大正初期にこれを入手したらしいですが、大事にされておられたのでしょう。


数もの、であるが故、焼成の際の位置によるものでしょうか、1客だけ軟質陶器風に甘手の焼き上がりのものがありますが、基本的に5客完品です。

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お値打ち価格も含めて・・・お勧め、です。




※御成約済みです。



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【楽吉左右衛門 六代 左入作 柏向付 5客揃】  旦入極め箱 [食の器]

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楽家六代の左入作による、稀少な作品です。

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楽 左入 柏向付 五客  旦入極め箱

幅 8.7㎝ 高さ 4㎝


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楽家では、お茶碗の他に有名なのはやはり”懐石の器”、です。

その中でも植物を題材とした作品が多い中、代表的な作品のひとつが”柏”です。

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楽 左入

1685(貞享2年)~1739(元文4年)

大和屋嘉兵衞の子として生まれ、後に宗入の娘妙修の婿養子となり、宝永5年(1708)六代吉左衞門を襲名。享保13年(1728)剃髪隠居して左入と号しました。

享保18年(1733)には赤黒200碗の茶碗「左入二百」を制作するなど、隠居後も精力的に作陶を続けました。「左入二百」は特に茶人の間で珍重されています。

光悦を思わせる造形的な箆使いと間合い、は合理的ともいう造形探求への裏付けがあったと、先代の楽さん”直入”が語っております。

その箆使いを見てみましょう。

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丸みを帯びながらも、このシャープな造り。

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この頃の器は、利休形の折敷に合わせたサイズとなっております。

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数物でありますが、1点1点の手間は茶碗並みにかかっております。

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この裏側の仁清信楽のような堅い味わい、上側の温かみのある釉薬とのバランスがたまりません。

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十代楽 旦入の極め箱になります。


楽の器・・・・それは単なる食の器としてではなく、様々な風情を独創的な意匠でデザインし、また代々の楽による技法の特徴をも盛り込んだ唯一無比のアイテムなのです。


♢以前の記事に新たに画像を追加してのご紹介です♢



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初代清水六兵衛 御本立鶴 茶碗 五代極め箱 [茶道具]

さて、最後は・・・初代のご紹介です。

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初代清水六兵衛 御本立鶴 茶碗

江戸時代 中期


幅 10.8㎝~11.5㎝ 高さ 8.8㎝



数年前にも同手を扱いましたが、劣らずなかなかの優品です。

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御本立鶴茶碗は小堀遠州によるデザイン発注による注文品であることが知られております。

人気だったらしく、幕末頃迄まで断続的に注文製作されていたようで・・・本歌はかなり時代の幅があります。

しかし、この初代六兵衛作の方が同時代のものよりずっと作品としては上です。

このなんともいえない古作風の味わいはなかなか出せません。

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御本の発色も良いです。鹿の子です。

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しっかりした轆轤形成です。

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反対側から。

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高台側です。

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印銘です。


初代六兵衛は元文三年(1738年)、摂津国(今でいう大阪府の高槻市です)に農家に生れまたと伝わります。

六兵衛家の家伝としては最古のものは明治18年に四代が記したものとなりますが、初代が陶業を学んだ磁器は寛延年間としか判っておりません。

五条坂の海老屋清兵衛に学び、『きよ水』や『清』印を譲り受けたとも。

明和八年(1771年)頃に独立し自身の名を『六兵衛』と改称。

師より譲られた印に因み『清水』姓の通称を名乗り始めます。

開窯、というのではなく・・最近の研究によると、他の窯を借りて焼成する間借り職人としての独立であったということだそうです。

茶陶を中心に製作し、その手腕は類まれなるものであったということです。

独自の鉋使いや箆使いも特筆すべきところですが、御本などの茶陶の上手さが初代の本懐ともいえるでしょう。


妙法院宮 眞仁法親王の命により庭内で黒楽茶碗を造り『六目』の印を拝領するほどのご縁が深く、宮中に集った圓山応挙や呉春などの画家・上田秋成や村瀬拷亭などの文人とも交流し、晩年には煎茶器も製作しました。

寛政十一年(1799年)没。


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こちらも、五代の極め箱になります。

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過去の六兵衛歴代展で展示された、御本立鶴茶碗より数ランク出来栄えが良く、また江戸中期のものとして作歴もはっきりし、また作品の状態も良いので大変お勧めです。


※御成約済みです



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二代 清水六兵衛 雲鶴三島 茶碗 金繕い有 五代極め箱 [幕末京焼]

次は時代をさかのぼって・・・江戸期の六兵衛さん、二代目作品の御紹介です。

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二代 清水六兵衛 雲鶴三島 茶碗

江戸時代後期

幅 12.2㎝ 高さ 9.4㎝



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雲鶴模様が象嵌で施されております。


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反対側からも。

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見込み、底には『福』の字が彫られてます。

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印銘です。


非常に二代目作品としてはハイレベルのものですが、少々金繕いがございます。

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わずかなニュウもしっかりと金で補強しております。

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口縁部の直し部分です。


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箱 (甲)

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五代目による極め箱です。

昭和四年(1929年)の春に極めされたことが記されております。



二代六兵衛は、寛政二年(1790年)・・・初代が53歳の時に生れました。

当時としてはかなり高齢です。そして10歳の時に父である初代が亡くなり・・・六兵衛家は一旦中断してしまうのです。


その後、かなりの苦労をして文化八年(1811年)に家業を再興して、二代六兵衛(静斎)を襲名するのです。

初代の作風を受け継ぎ、実直な優品を造りつつ・・・轆轤目を効かせ、箆跡を残す・・・いわゆる『六兵衛様』式と呼ばれる表現技法は二代目によって確立されたのです。


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二代 六兵衛 

寛政二年(1790)生~万延元年(1860)没


没年は、長造と同じ年ですね。。。



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