【市江鳳造 志野塩筒 茶碗】 [おもろいで!幕末尾張陶]
ベースでは、『今月のお茶碗』というものがございます。
一言で申し上げますと・・・『推し』、であり、『点出し』のお茶碗であります。
1月の、お茶碗のご紹介です。
【市江鳳造 志野塩筒 茶碗】
(寸法) 幅 10.8㎝ 高さ 9㎝ 高台径 4㎝
(製作年代)弘化4(1847)年頃
市江鳳造、ご存じの方はご存じですが、”わしゃ、知らん!”という御仁も多いかと思います。(^-^;
幕末の尾張藩士のひとり、で平澤九朗の弟子、というのが分かりやすいところです。
九朗ほど、多岐にわたる製作ではありませんでしたが、なかなか雅味のある作品を遺しております。
今回のお茶碗、鳳造の中でも逸品の部類に入ります。
塩筒形です。しおげ、です。
元は塩入れ、や酢を入れていたこんもりした陶器を、茶人が寒い時期に使う茶碗に見立てたというところから来るようです。
利休時代にも使われていた記録があります。
上から。
反対側より。
一周、”千本松”が描かれております。
高台側より。
さて・・・ここからが、このお茶碗の面白みのところ。
高台脇に、朱書きにて”須磨”とあります。
旧蔵者の印が箱に御座います。
”時流庵 蔵” ”一鶴” もしくは”一声”でしょうか。
明治頃の茶人のようですが、詳細は分かりませんが・・なかなかの文人ぶりです。
この方が朱書きをされたようです。
そのココロは。。
能の演目、”松風”からのようです。
田楽の名手亀阿弥がつくった汐汲という曲を、観阿弥が改作して松風村雨と名づけ、さらに世阿弥が手を加えて現行の曲にしあげたという見事なお話だそうです。
秋の夕暮れ。
旅の僧が『須磨の浦』にて、なんとも・・・いわくありげな松の木の前で、ふと足を止めました。
その松が、在原行平の寵愛を受け、悲恋の末にこの世を去った・・・”松風”と”村雨”という姉妹の旧跡であると知った僧は哀れに思い、弔います。
そして、日も暮れる頃に『汐汲車』を引く二人の海人女が現れ、汐汲みを始めます。
ふたりに一夜の宿を乞い塩屋へ招かれた僧は、二人とともに秋の夜語りする中で、夕刻浜辺で弔った松の木のことを話すと・・・
二人は涙を落としながら、実は・・自分たちがその”松風”と”村雨”の亡霊だと明かします。
その昔・・・行平が三年ほど須磨にて滞在した折に寵愛を受けたものの、その後、都へ帰った行平はほどなく亡くなってしまい、ふたりも後を追うように死んでしまったと。
松風は、行平の形見の立烏帽子と長絹をまとい、松を行平に見立てて狂乱の舞を舞いますが、
僧に回向(えこう)を請い、後世を頼むと・・・夜も白んでだ頃、やがて二人の姿は消え、ただ松風が吹くばかりでした。
はい、『 』の中のキーワードがこのお茶碗にございます。
『須磨』と名付けられたこのお茶碗は『塩筒』であり、須磨の景色である『千本松』が一周に描かれております。
そして、千本末に吹く風…「松風」へと。
塩筒をひき、舞いを舞う・・・その情景が浮かぶような。
こういう、お遊びをするのが幕末~明治頃の文人趣味というものですね☆
共箱です。
市江鳳造が80歳(江戸時代では大変な長生きです!)の年賀に際して、数の内として作られたことが分かります。
作品にも、『八十翁 鳳造 (梨棗)印』とあります。
梨棗は、”りそう”と読むそうです。(読めますかいな・・・('_'))
弘化4(1847)年頃の作ですね。
今月は、お越し頂きました皆様には、このお茶碗でおもてなし、させて頂いて居ります☆
市江鳳造
1768~1852 江戸時代後期の陶工。
明和5年生まれ。尾張藩士。平沢九朗にならい,茶器・雑器をつくる。
「梨棗(りそう)」などの印をもちい,鳳造焼といわれた。
江利右衛門と同一人とされる。嘉永(かえい)5年閏(うるう)2月14日死去。85歳。名は成房。通称は鯉右衛門(りえもん)。
※ご成約済みです。
=======================================================
Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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一言で申し上げますと・・・『推し』、であり、『点出し』のお茶碗であります。
1月の、お茶碗のご紹介です。
【市江鳳造 志野塩筒 茶碗】
(寸法) 幅 10.8㎝ 高さ 9㎝ 高台径 4㎝
(製作年代)弘化4(1847)年頃
市江鳳造、ご存じの方はご存じですが、”わしゃ、知らん!”という御仁も多いかと思います。(^-^;
幕末の尾張藩士のひとり、で平澤九朗の弟子、というのが分かりやすいところです。
九朗ほど、多岐にわたる製作ではありませんでしたが、なかなか雅味のある作品を遺しております。
今回のお茶碗、鳳造の中でも逸品の部類に入ります。
塩筒形です。しおげ、です。
元は塩入れ、や酢を入れていたこんもりした陶器を、茶人が寒い時期に使う茶碗に見立てたというところから来るようです。
利休時代にも使われていた記録があります。
上から。
反対側より。
一周、”千本松”が描かれております。
高台側より。
さて・・・ここからが、このお茶碗の面白みのところ。
高台脇に、朱書きにて”須磨”とあります。
旧蔵者の印が箱に御座います。
”時流庵 蔵” ”一鶴” もしくは”一声”でしょうか。
明治頃の茶人のようですが、詳細は分かりませんが・・なかなかの文人ぶりです。
この方が朱書きをされたようです。
そのココロは。。
能の演目、”松風”からのようです。
田楽の名手亀阿弥がつくった汐汲という曲を、観阿弥が改作して松風村雨と名づけ、さらに世阿弥が手を加えて現行の曲にしあげたという見事なお話だそうです。
秋の夕暮れ。
旅の僧が『須磨の浦』にて、なんとも・・・いわくありげな松の木の前で、ふと足を止めました。
その松が、在原行平の寵愛を受け、悲恋の末にこの世を去った・・・”松風”と”村雨”という姉妹の旧跡であると知った僧は哀れに思い、弔います。
そして、日も暮れる頃に『汐汲車』を引く二人の海人女が現れ、汐汲みを始めます。
ふたりに一夜の宿を乞い塩屋へ招かれた僧は、二人とともに秋の夜語りする中で、夕刻浜辺で弔った松の木のことを話すと・・・
二人は涙を落としながら、実は・・自分たちがその”松風”と”村雨”の亡霊だと明かします。
その昔・・・行平が三年ほど須磨にて滞在した折に寵愛を受けたものの、その後、都へ帰った行平はほどなく亡くなってしまい、ふたりも後を追うように死んでしまったと。
松風は、行平の形見の立烏帽子と長絹をまとい、松を行平に見立てて狂乱の舞を舞いますが、
僧に回向(えこう)を請い、後世を頼むと・・・夜も白んでだ頃、やがて二人の姿は消え、ただ松風が吹くばかりでした。
はい、『 』の中のキーワードがこのお茶碗にございます。
『須磨』と名付けられたこのお茶碗は『塩筒』であり、須磨の景色である『千本松』が一周に描かれております。
そして、千本末に吹く風…「松風」へと。
塩筒をひき、舞いを舞う・・・その情景が浮かぶような。
こういう、お遊びをするのが幕末~明治頃の文人趣味というものですね☆
共箱です。
市江鳳造が80歳(江戸時代では大変な長生きです!)の年賀に際して、数の内として作られたことが分かります。
作品にも、『八十翁 鳳造 (梨棗)印』とあります。
梨棗は、”りそう”と読むそうです。(読めますかいな・・・('_'))
弘化4(1847)年頃の作ですね。
今月は、お越し頂きました皆様には、このお茶碗でおもてなし、させて頂いて居ります☆
市江鳳造
1768~1852 江戸時代後期の陶工。
明和5年生まれ。尾張藩士。平沢九朗にならい,茶器・雑器をつくる。
「梨棗(りそう)」などの印をもちい,鳳造焼といわれた。
江利右衛門と同一人とされる。嘉永(かえい)5年閏(うるう)2月14日死去。85歳。名は成房。通称は鯉右衛門(りえもん)。
※ご成約済みです。
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2021年2月の、ベースの営業予定です。 [BASE215]
新入荷作品の手入れや仕立て、などをしながら・・・PC作業に勤しんでおります☆
皆様方からの、ご連絡をおまちしております☆
◯1月26日(火) 9時半~14時半 迄 ※11:00ご予約有
♢27~28 オークション出張(東京)
◯1月29日(金) × ※予約有
《2月の予定です》 現時点です。
〇2月1日(月)~5日(金)
〇2月8日(月)~10日(水)、12日(金)
〇2月15日(月)
♢2月17日(水)~23日(火) 上本町近鉄百貨店 骨董まつり 出店
〇2月24日(水)~26日(金)
【楽 惺入 交趾柘榴写 香合 鵬雲斎 箱】 [茶道具]
当店では、久しぶり・・、楽の香合のご紹介です。
交趾柘榴写、です。
昨年にご紹介いたしました仁阿弥作のものと比較してご覧いただいても一興です☆
https://koundo.blog.ss-blog.jp/2020-06-05-1
↑こちらから、どうぞ。
【楽 惺入 交趾柘榴写 香合】
幅 6㎝ 高さ 4.9㎝
共箱
覚入極め別箱 鵬雲斎大宗匠 書付蓋
大正後期~昭和初期頃
ぐるっと作品を見回してみましょう。
交趾とは、現在のベトナム北部を示す地名です。
実際に焼成されたのは中国の南方で、漢代には交趾郡がおかれたことが知られます。
この地方の広東省の諸窯,浙江省の宜興 (ぎこう) ,蜀山などの窯で軟陶の三彩のものが制作されたようで江戸時代に輸入されました。
低い温度で焼いた軟陶の三彩。緑、黄、紫の釉が鮮やかな柘榴形の型物香合。
相撲の番付表を模した安政2年(1855)刊の『形物香合相撲』では、「東前頭二十一枚目(東二段目十位)」に位置します。
京焼では、保全や和全、仁阿弥が写しておりますが、楽では珍しいかもしれません。
交趾釉は、楽家の初期から得意とするところであり・・・古作の味わいのある釉調がうまく出ております。
型ではなく、手びねりの為、合子部分の甘さはございますがご愛敬。
底部です。
印は大きさの都合上、内側になります。
わずかな窯切れはあります。
なかなかの上がりです。
眼鏡箱
共箱 覚入極め箱
鵬雲斎大宗匠 の前期の箱です。
十三代 惺入 明治20(1887)年~ 昭和19(1944)年
弘入の長男で、弘入の隠居にともない・・大正8年(1919)32歳で十三代吉左衞門を襲名します。
楽家歴代の中でも、釉薬研究に長けていたといわれており、実直な性格がそのまま作品に投影され優品を遺します。
しかしながら、この時代・・・大まかなところだけでも、第1次世界大戦、関東大震災、そして太平洋戦争へ向かう中、大変な時代背景です。
そんな中、制作に対する意欲を持ち、また・・書画、和歌、漢学、謡曲などへの精通、楽家の家伝の研究などに尽力しました。
釉薬についても、新たな鉱石などを取り入れたりもし、先へ向かう眼も持っていたようです。
平和な時代であったら、もっと惺入の斬新な作品を見られたことでしょう。
しかし、このようなクラシカルな様式にも、他とはあきらかに異なる精神性が感じられるように思える、のです。
※売却済みです。
=======================================================
Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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交趾柘榴写、です。
昨年にご紹介いたしました仁阿弥作のものと比較してご覧いただいても一興です☆
https://koundo.blog.ss-blog.jp/2020-06-05-1
↑こちらから、どうぞ。
【楽 惺入 交趾柘榴写 香合】
幅 6㎝ 高さ 4.9㎝
共箱
覚入極め別箱 鵬雲斎大宗匠 書付蓋
大正後期~昭和初期頃
ぐるっと作品を見回してみましょう。
交趾とは、現在のベトナム北部を示す地名です。
実際に焼成されたのは中国の南方で、漢代には交趾郡がおかれたことが知られます。
この地方の広東省の諸窯,浙江省の宜興 (ぎこう) ,蜀山などの窯で軟陶の三彩のものが制作されたようで江戸時代に輸入されました。
低い温度で焼いた軟陶の三彩。緑、黄、紫の釉が鮮やかな柘榴形の型物香合。
相撲の番付表を模した安政2年(1855)刊の『形物香合相撲』では、「東前頭二十一枚目(東二段目十位)」に位置します。
京焼では、保全や和全、仁阿弥が写しておりますが、楽では珍しいかもしれません。
交趾釉は、楽家の初期から得意とするところであり・・・古作の味わいのある釉調がうまく出ております。
型ではなく、手びねりの為、合子部分の甘さはございますがご愛敬。
底部です。
印は大きさの都合上、内側になります。
わずかな窯切れはあります。
なかなかの上がりです。
眼鏡箱
共箱 覚入極め箱
鵬雲斎大宗匠 の前期の箱です。
十三代 惺入 明治20(1887)年~ 昭和19(1944)年
弘入の長男で、弘入の隠居にともない・・大正8年(1919)32歳で十三代吉左衞門を襲名します。
楽家歴代の中でも、釉薬研究に長けていたといわれており、実直な性格がそのまま作品に投影され優品を遺します。
しかしながら、この時代・・・大まかなところだけでも、第1次世界大戦、関東大震災、そして太平洋戦争へ向かう中、大変な時代背景です。
そんな中、制作に対する意欲を持ち、また・・書画、和歌、漢学、謡曲などへの精通、楽家の家伝の研究などに尽力しました。
釉薬についても、新たな鉱石などを取り入れたりもし、先へ向かう眼も持っていたようです。
平和な時代であったら、もっと惺入の斬新な作品を見られたことでしょう。
しかし、このようなクラシカルな様式にも、他とはあきらかに異なる精神性が感じられるように思える、のです。
※売却済みです。
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TEL 090-8578-5732
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2021年1月16日~20日の新入荷情報です。 [新入荷]
・・・・新入荷情報です。
嬉しいやら、嬉しくないやら・・・なかなか、愉しめるモノばかり手に入りました。☆
♢江戸後期 仁阿弥道八 一漢獅子 蓋置 ※ご成約済み
♢江戸後期 出雲焼 小茶碗 岡田雪台 箱 ※ご成約済み
♢ 三浦竹軒 松ノ図 茶碗
♢江戸後期 仁阿弥道八 富士之絵 黒茶碗 共箱無 淡々斎 箱 ※ご成約済み
♢江戸後期 仁阿弥道八 露山焼 茶碗 共箱 藪内透月斎箱
♢江戸後期 永楽和全 盧橘 茶碗
♢江戸後期 市江鳳造 志野塩筒 茶碗 八十八翁 ※ご成約済み
♢大正時代 斉藤快楽 赤絵福之字 片口向付 【10客】
♢江戸後期 仁阿弥道八 蛮磁水注(南蛮水指) 一閑蓋
ちょっと、整理に時間がかかりそうです。(^-^;
<おしらせ>
明日のベースは午前中に所用の為、13時~17時の営業となります。
◯22日(金) 13時~ ※1組ご予約有
◯25日(月) 9時半~17時 ※9:30ご予約有
◯26日(火) 9時半~14時半 迄 ※11:00ご予約有
●27~28 オークション出張(東京)
◯29日(金) × ※予約有
嬉しいやら、嬉しくないやら・・・なかなか、愉しめるモノばかり手に入りました。☆
♢江戸後期 仁阿弥道八 一漢獅子 蓋置 ※ご成約済み
♢江戸後期 出雲焼 小茶碗 岡田雪台 箱 ※ご成約済み
♢ 三浦竹軒 松ノ図 茶碗
♢江戸後期 仁阿弥道八 富士之絵 黒茶碗 共箱無 淡々斎 箱 ※ご成約済み
♢江戸後期 仁阿弥道八 露山焼 茶碗 共箱 藪内透月斎箱
♢江戸後期 永楽和全 盧橘 茶碗
♢江戸後期 市江鳳造 志野塩筒 茶碗 八十八翁 ※ご成約済み
♢大正時代 斉藤快楽 赤絵福之字 片口向付 【10客】
♢江戸後期 仁阿弥道八 蛮磁水注(南蛮水指) 一閑蓋
ちょっと、整理に時間がかかりそうです。(^-^;
<おしらせ>
明日のベースは午前中に所用の為、13時~17時の営業となります。
◯22日(金) 13時~ ※1組ご予約有
◯25日(月) 9時半~17時 ※9:30ご予約有
◯26日(火) 9時半~14時半 迄 ※11:00ご予約有
●27~28 オークション出張(東京)
◯29日(金) × ※予約有
【森香州 虫明焼釣瓶形 水指】 惺斎 箱 [茶道具]
『虫明焼』というのは不思議なやきものです。
華やかでもなく、かといって地味でもなく・・・そして、茶人様方では”好きじゃない”という人があまり居ないという。。。
数年前に、岡山の県博と京都の茶道資料館で開催された、展観にて茶陶としての古い虫明焼については、江戸後期~明治期にかけて、ほぼほぼ研究が完成形に近い形でまとまっております。
幕末期、岡山藩の筆頭家老であった伊木三猿斎が大茶人であり、藩窯であった虫明焼と三猿斎の庭窯的に数奇者茶道具の生産へとシフトしたことが、実質的な虫明焼のスタートとなります。
初代清風与平を招聘したり、他地方から陶工を呼んで、自身の集めていた京焼の楽や長造の眞葛焼を元にした作品を作らせておりました。
しかし、やはり虫明焼の一大ブレイクポイントとといえば当時京都に滞在しておりました、初代 眞葛香山を明治元年に招聘したことでしょう。
香山の手により、京焼の伝統の雅味と、虫明焼の融合で後に伝説となる”月に雁水指”等の作品が生まれたのです。
先述の展観での、テーマであったのは京焼からの虫明焼への繋がり、です。
香山についての、あれやこれや・・・は当ブログで、しょっちゅう出てきてますので(笑)、略させて頂きますが・・・
香山が、生涯弟子というだけでなく人として面倒を見てかわいがった陶工が居ます。
それが、『森 香州』です。
香山の”香”の字を頂いております。
大変、苦難な人生を送られたようですが・・・技術のセンスのすばらしさは群を抜いております。
幕末期や明治1~3年の香山作品は、99%贋作が多く数も少ない為・・・
手に入りにくく、実質的に手に入れることが出来る、一番古くて良い虫明焼というのは、”香州”の作品になるのですが、これまた・・・やはり贋作問題に悩まされるほど、困った流通作品が多いのです。(^-^;
今回は、久々にスカッとした香州作品が手に入りました☆
【森香州 虫明焼釣瓶形 水指】 惺斎 箱
幅 18.5㎝×20.4㎝ 高さ21.5㎝
明治末期~大正時代
割蓋、の釣瓶形です。
この形状は、六代あたりの浄益による銅作品でも見られるものです。
内側です。
塗蓋には惺斎の割り書があります。
書付箱です。通称、自動車判と云われるものです。
良い土で、丁寧に仕上げられております。
”むしあけ”印と、”香洲”印です。
むしあけ(本当はむしあげ、ですが・・・)印は外巻き形と呼ばれるものです。
香州の特徴として、鉄釉の発色と絵付けの良さ、が挙げられております。
確かに、現代迄の全ての虫明焼の鉄釉絵付けの中でも、この作品はトップレベルといっても過言ではありません。
香州と香山との邂逅、そして自身の苦難の歴史を年表を基に辿ってみましょう。
1880(明治13)年の3月、 虫明焼・森角太郎窯(香洲の父)が倒産し、一家の責任を一身に背負った香洲が12月1日 、横浜の眞葛窯へ赴く。
香山が虫明に滞在していた際に、父子で師事した縁からです。
明治15年4月、 虫明へ帰り再興を計るが、明治19年春には再び経営難に陥り、経営を譲り渡し、自身は職長として従事。秋までに数度窯に火を入れるも好転せず、全てを手放して秋に父・弟・妻子を伴って再び横浜の眞葛窯へ行くことになりました。
この明治19年3月、伊木三猿斎が亡くなったことも要因であったのでしょう。
ここまでを、『第1次香洲窯』といいます。
それから8年間、横浜で香山の眞葛窯に従事します。
明治26年、岡山の酒津に於いて、渡辺祐吉氏が輸出用の作品を製作する窯を興すにあたって、香洲を呼び寄せ1年ほど手伝いますが、この窯も2,3年のものでありました。
明治28年、土地有力者の援助で、虫明焼再興の機運が高まり、合資会社を設立して『第2次香洲窯』がスタートします。
この時期は、同志もバックアップの有力者たちも趣味人であった為、環境にも恵まれ・・香洲自身も眞葛香山の元でかなりの技と感性などを身に着けた直後でもあったので、香洲作品の一番円熟期といえます。
優品のほとんどがこの時期です。
しかし、経営的な採算は決して良くなく・・・・明治32年には廃窯となります。
その後、香洲は漁業組合の理事や、村の名誉職をしながら農作業などもするといった自適生活を送ります。
ところが、またしても・・明治38年、地元有志による出資で窯を築くことになります。
虫明焼の奥義を会得している現存最高の陶工である香州をほっておかなかったのでしょう。
香州もまた、地元で名を高めた『虫明焼』が廃れることに耐えられなかったのです。
しかし、経営が道楽的で一向に企業としての体が整わなかったため、香洲は出資者と仲違いし、7年ほどした大正元年頃に一時廃窯となります。
ここまでが、『第3次香洲窯』です。
翌、大正2年4月22日、再び香山を頼って・・・横浜へ赴きます。
借金にも追われ・・家族にも無断での逃避行でもあったといいます。
丁度、香山が軽井沢にて『三笠焼』の復興と運営を頼まれた時期であり、6月に香洲も同行しその事業を手伝うことになります。
香山は最初だけで、軌道に乗った後は香洲に任せました。
11月の冬に一度横浜へ戻り、翌大正3年5月に再度、三笠焼を焼成。
そして大正3年の秋には虫明の地へと戻りました。
しかし、ここで終わりではありません。
高名な初代清風与平や、世界に名だたる香山が関係した、伊木三猿斎の庭窯で地元唯一のやきものの火を消してはならない、という備前の窯元を中心とし、虫明の地である邑久郡のひとたちを巻き込んで再び復活の狼煙を上げることになるのです。・・・『第4次香洲窯 会社窯』
大正7年から、一陶工として製作に励んでいた香洲ですが、大正10年12月13日・・・67歳でこの世を去ることになります。
常に戦い続けた人生でありましたが、その根底には自身の陶工としての”技”と”業”のせめぎあいがあったように思えます。
そして、生涯変わらなかったのは父からの想いと、虫明の地で初めて香山に師事したときからの虫明焼への愛であったのでしょう。
虫明の地より、夕陽を臨んで。
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TEL 090-8578-5732
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華やかでもなく、かといって地味でもなく・・・そして、茶人様方では”好きじゃない”という人があまり居ないという。。。
数年前に、岡山の県博と京都の茶道資料館で開催された、展観にて茶陶としての古い虫明焼については、江戸後期~明治期にかけて、ほぼほぼ研究が完成形に近い形でまとまっております。
幕末期、岡山藩の筆頭家老であった伊木三猿斎が大茶人であり、藩窯であった虫明焼と三猿斎の庭窯的に数奇者茶道具の生産へとシフトしたことが、実質的な虫明焼のスタートとなります。
初代清風与平を招聘したり、他地方から陶工を呼んで、自身の集めていた京焼の楽や長造の眞葛焼を元にした作品を作らせておりました。
しかし、やはり虫明焼の一大ブレイクポイントとといえば当時京都に滞在しておりました、初代 眞葛香山を明治元年に招聘したことでしょう。
香山の手により、京焼の伝統の雅味と、虫明焼の融合で後に伝説となる”月に雁水指”等の作品が生まれたのです。
先述の展観での、テーマであったのは京焼からの虫明焼への繋がり、です。
香山についての、あれやこれや・・・は当ブログで、しょっちゅう出てきてますので(笑)、略させて頂きますが・・・
香山が、生涯弟子というだけでなく人として面倒を見てかわいがった陶工が居ます。
それが、『森 香州』です。
香山の”香”の字を頂いております。
大変、苦難な人生を送られたようですが・・・技術のセンスのすばらしさは群を抜いております。
幕末期や明治1~3年の香山作品は、99%贋作が多く数も少ない為・・・
手に入りにくく、実質的に手に入れることが出来る、一番古くて良い虫明焼というのは、”香州”の作品になるのですが、これまた・・・やはり贋作問題に悩まされるほど、困った流通作品が多いのです。(^-^;
今回は、久々にスカッとした香州作品が手に入りました☆
【森香州 虫明焼釣瓶形 水指】 惺斎 箱
幅 18.5㎝×20.4㎝ 高さ21.5㎝
明治末期~大正時代
割蓋、の釣瓶形です。
この形状は、六代あたりの浄益による銅作品でも見られるものです。
内側です。
塗蓋には惺斎の割り書があります。
書付箱です。通称、自動車判と云われるものです。
良い土で、丁寧に仕上げられております。
”むしあけ”印と、”香洲”印です。
むしあけ(本当はむしあげ、ですが・・・)印は外巻き形と呼ばれるものです。
香州の特徴として、鉄釉の発色と絵付けの良さ、が挙げられております。
確かに、現代迄の全ての虫明焼の鉄釉絵付けの中でも、この作品はトップレベルといっても過言ではありません。
香州と香山との邂逅、そして自身の苦難の歴史を年表を基に辿ってみましょう。
1880(明治13)年の3月、 虫明焼・森角太郎窯(香洲の父)が倒産し、一家の責任を一身に背負った香洲が12月1日 、横浜の眞葛窯へ赴く。
香山が虫明に滞在していた際に、父子で師事した縁からです。
明治15年4月、 虫明へ帰り再興を計るが、明治19年春には再び経営難に陥り、経営を譲り渡し、自身は職長として従事。秋までに数度窯に火を入れるも好転せず、全てを手放して秋に父・弟・妻子を伴って再び横浜の眞葛窯へ行くことになりました。
この明治19年3月、伊木三猿斎が亡くなったことも要因であったのでしょう。
ここまでを、『第1次香洲窯』といいます。
それから8年間、横浜で香山の眞葛窯に従事します。
明治26年、岡山の酒津に於いて、渡辺祐吉氏が輸出用の作品を製作する窯を興すにあたって、香洲を呼び寄せ1年ほど手伝いますが、この窯も2,3年のものでありました。
明治28年、土地有力者の援助で、虫明焼再興の機運が高まり、合資会社を設立して『第2次香洲窯』がスタートします。
この時期は、同志もバックアップの有力者たちも趣味人であった為、環境にも恵まれ・・香洲自身も眞葛香山の元でかなりの技と感性などを身に着けた直後でもあったので、香洲作品の一番円熟期といえます。
優品のほとんどがこの時期です。
しかし、経営的な採算は決して良くなく・・・・明治32年には廃窯となります。
その後、香洲は漁業組合の理事や、村の名誉職をしながら農作業などもするといった自適生活を送ります。
ところが、またしても・・明治38年、地元有志による出資で窯を築くことになります。
虫明焼の奥義を会得している現存最高の陶工である香州をほっておかなかったのでしょう。
香州もまた、地元で名を高めた『虫明焼』が廃れることに耐えられなかったのです。
しかし、経営が道楽的で一向に企業としての体が整わなかったため、香洲は出資者と仲違いし、7年ほどした大正元年頃に一時廃窯となります。
ここまでが、『第3次香洲窯』です。
翌、大正2年4月22日、再び香山を頼って・・・横浜へ赴きます。
借金にも追われ・・家族にも無断での逃避行でもあったといいます。
丁度、香山が軽井沢にて『三笠焼』の復興と運営を頼まれた時期であり、6月に香洲も同行しその事業を手伝うことになります。
香山は最初だけで、軌道に乗った後は香洲に任せました。
11月の冬に一度横浜へ戻り、翌大正3年5月に再度、三笠焼を焼成。
そして大正3年の秋には虫明の地へと戻りました。
しかし、ここで終わりではありません。
高名な初代清風与平や、世界に名だたる香山が関係した、伊木三猿斎の庭窯で地元唯一のやきものの火を消してはならない、という備前の窯元を中心とし、虫明の地である邑久郡のひとたちを巻き込んで再び復活の狼煙を上げることになるのです。・・・『第4次香洲窯 会社窯』
大正7年から、一陶工として製作に励んでいた香洲ですが、大正10年12月13日・・・67歳でこの世を去ることになります。
常に戦い続けた人生でありましたが、その根底には自身の陶工としての”技”と”業”のせめぎあいがあったように思えます。
そして、生涯変わらなかったのは父からの想いと、虫明の地で初めて香山に師事したときからの虫明焼への愛であったのでしょう。
虫明の地より、夕陽を臨んで。
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2021年1月 後半のベース営業のおしらせ。 [BASE215]
今週も、終わりとなります。なんだかあっという間でございました。
ブログやインスタグラムでのお問い合わせを頂戴しました皆さま方、また毎日ご覧頂いて居ります200名以上程の皆さま・・・今週も有難うございました。(^^)/
来週は、また新たな出会いがあるか・・・乞うご期待下さいませ☆
では、ベースのおしらせです。
◯18日(月)午後より
●19~21 オークション出張(大阪・名古屋・京都)
◯22日(金) 午後~ 1組ご予約有
◯25日(月)
◯26日(火) ~14時半迄
●27~28 オークション出張(東京)
◯29日(金)×
ブログやインスタグラムでのお問い合わせを頂戴しました皆さま方、また毎日ご覧頂いて居ります200名以上程の皆さま・・・今週も有難うございました。(^^)/
来週は、また新たな出会いがあるか・・・乞うご期待下さいませ☆
では、ベースのおしらせです。
◯18日(月)午後より
●19~21 オークション出張(大阪・名古屋・京都)
◯22日(金) 午後~ 1組ご予約有
◯25日(月)
◯26日(火) ~14時半迄
●27~28 オークション出張(東京)
◯29日(金)×
【二代 眞葛香山(宮川香山) 乾山意黒釉梅画 茶碗】 [宮川香山 眞葛焼]
『十二鬼月』(じゅうにきづき)、鬼舞辻無惨が選別した最強の鬼たちで、上弦・下弦で12人居る・・などというのは・・・もはや世間では当然のように認識されつつありますが。。(^-^;
『二十四節気』(にじゅうしせっき)、は意外と知られておりません。
古い中国で、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を『春・夏・秋・冬』の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の『節気』と12の『中気』に分類し、それらに季節を表す名前がつけられております。
立春(りっしゅん) 1月節 2月4日頃
雨水(うすい) 1月中 2月19日頃
啓蟄(けいちつ) 2月節 3月5日頃
春分(しゅんぶん) 2月中 3月21日頃
清明(せいめい) 3月節 4月5日頃
穀雨(こくう) 3月中 4月20日頃
夏 立夏(りっか) 4月節 5月5日頃
小満(しょうまん) 4月中 5月21日頃
芒種(ぼうしゅ) 5月節 6月6日頃
夏至(げし) 5月中 6月21日頃
小暑(しょうしょ) 6月節 7月7日頃
大暑(たいしょ) 6月中 7月23日頃
秋 立秋(りっしゅう) 7月節 8月8日頃
処暑(しょしょ) 7月中 8月23日頃
白露(はくろ) 8月節 9月8日頃
秋分(しゅうぶん) 8月中 9月23日頃
寒露(かんろ) 9月節 10月8日頃
霜降(そうこう) 9月中 10月24日頃
冬 立冬(りっとう) 10月節 11月7日頃
小雪(しょうせつ) 10月中 11月22日頃
大雪(たいせつ) 11月節 12月7日頃
冬至(とうじ) 11月中 12月21日頃
小寒(しょうかん) 12月節 1月5日頃
大寒(だいかん) 12月中 1月21日頃
・・・といった感じです。
そして、今ですが・・・・・『小寒』で『寒の入り』となり、『大寒』で『寒明け』となるその間でありますので・・・『寒中』のみぎり、となります☆
前説、が長くなりました。
寒中のお道具のご紹介です。(^-^;
【二代 眞葛香山(宮川香山) 乾山意黒釉梅画 茶碗】
幅 12㎝~12.3㎝ 高さ 8㎝ 高台径 5.2㎝
大正時代 後期
香山のお茶碗の中でも、『香山式』というべき代表格が『黒釉』になります。
手びねり、または轆轤挽きからのひねり形成が主となり、堅くなりがちの黒茶碗にどこか温かみのある形状、そして乾山意となる琳派風の絵付けで、独特の仕上がりになります。
出来そうで、他ではなかなか同じようには造れません。
形状・釉・絵付け、それらの絶妙なバランスセンスがいかんなく発揮されております。
抹茶道具は、二代時代に本格的に製作されており、初代に比べて二代の方が作行や完成度は段違いに高いと言えます。
寒中、に一服。。。ほっこりします。
昨年、2月の大美特別展で、展示する予定だった作品です・・・。(-_-)
二代 宮川香山
MAKUZU KOZAN Ⅱ
1859(安政6年)~1940(昭和15年)
初代と共に作品を製作。
初代香山の長兄(長平)の子である。それが故に年齢差は17歳しかなく、その技術力は初代より確実に継承されている。海外へのマクズウェアの紹介と、加えて国内へのフィードバックに努め、眞葛の名声を揺ぎ無いものにした。初代没後は、自身の新たな感性も取り入れ時代の変遷に対応し、焼けない物は無いと言われる。途絶えていた古伊賀釉の復活、千家の茶陶作製等も行い、板谷波山と共に関東陶芸界の重鎮であった。
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古い中国で、太陰暦の季節からのずれとは無関係に、季節を『春・夏・秋・冬』の4等区分する暦のようなものとして考案された区分手法のひとつで、一年を12の『節気』と12の『中気』に分類し、それらに季節を表す名前がつけられております。
立春(りっしゅん) 1月節 2月4日頃
雨水(うすい) 1月中 2月19日頃
啓蟄(けいちつ) 2月節 3月5日頃
春分(しゅんぶん) 2月中 3月21日頃
清明(せいめい) 3月節 4月5日頃
穀雨(こくう) 3月中 4月20日頃
夏 立夏(りっか) 4月節 5月5日頃
小満(しょうまん) 4月中 5月21日頃
芒種(ぼうしゅ) 5月節 6月6日頃
夏至(げし) 5月中 6月21日頃
小暑(しょうしょ) 6月節 7月7日頃
大暑(たいしょ) 6月中 7月23日頃
秋 立秋(りっしゅう) 7月節 8月8日頃
処暑(しょしょ) 7月中 8月23日頃
白露(はくろ) 8月節 9月8日頃
秋分(しゅうぶん) 8月中 9月23日頃
寒露(かんろ) 9月節 10月8日頃
霜降(そうこう) 9月中 10月24日頃
冬 立冬(りっとう) 10月節 11月7日頃
小雪(しょうせつ) 10月中 11月22日頃
大雪(たいせつ) 11月節 12月7日頃
冬至(とうじ) 11月中 12月21日頃
小寒(しょうかん) 12月節 1月5日頃
大寒(だいかん) 12月中 1月21日頃
・・・といった感じです。
そして、今ですが・・・・・『小寒』で『寒の入り』となり、『大寒』で『寒明け』となるその間でありますので・・・『寒中』のみぎり、となります☆
前説、が長くなりました。
寒中のお道具のご紹介です。(^-^;
【二代 眞葛香山(宮川香山) 乾山意黒釉梅画 茶碗】
幅 12㎝~12.3㎝ 高さ 8㎝ 高台径 5.2㎝
大正時代 後期
香山のお茶碗の中でも、『香山式』というべき代表格が『黒釉』になります。
手びねり、または轆轤挽きからのひねり形成が主となり、堅くなりがちの黒茶碗にどこか温かみのある形状、そして乾山意となる琳派風の絵付けで、独特の仕上がりになります。
出来そうで、他ではなかなか同じようには造れません。
形状・釉・絵付け、それらの絶妙なバランスセンスがいかんなく発揮されております。
抹茶道具は、二代時代に本格的に製作されており、初代に比べて二代の方が作行や完成度は段違いに高いと言えます。
寒中、に一服。。。ほっこりします。
昨年、2月の大美特別展で、展示する予定だった作品です・・・。(-_-)
二代 宮川香山
MAKUZU KOZAN Ⅱ
1859(安政6年)~1940(昭和15年)
初代と共に作品を製作。
初代香山の長兄(長平)の子である。それが故に年齢差は17歳しかなく、その技術力は初代より確実に継承されている。海外へのマクズウェアの紹介と、加えて国内へのフィードバックに努め、眞葛の名声を揺ぎ無いものにした。初代没後は、自身の新たな感性も取り入れ時代の変遷に対応し、焼けない物は無いと言われる。途絶えていた古伊賀釉の復活、千家の茶陶作製等も行い、板谷波山と共に関東陶芸界の重鎮であった。
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【永楽正全 青交趾中皿】 10枚組 [食の器]
この、コロナ禍であっても『食』に対する欲求というのは変わりません。
お料理屋様方では、大変なご苦労もなさっておられるようですが・・・それでも皆様方、工夫を凝らしておもてなしをされておられます。
おなじく、『茶の湯』におきましても、かつてない状況に直面しておりますが、こちらも皆様方の工夫により楽しまれているようです。
そんな工夫の中で、脚光をあびつつあるのが、銘々皿です。
取り分け、という形式が敬遠される中でのことですが、それは正座スタイルから椅子スタイルへの現代人の嗜好にも合致するものであり、アフターコロナでも定番化するのは間違いないでしょう。
今回、ご紹介致しますのは・・・・懐石用として、食の器として生まれた中皿ですが、銘々皿としても楽しめそうな作品です。
【永楽正全 青交趾中皿】 10枚組
幅14㎝ 高さ3.5㎝ (各)
1927(昭和2)年~1932(昭和7)年 頃
正全は、永楽14代”得全”の妻であり、のちに”妙全”と号して永楽家の断絶を防いだ”お悠さん”の甥にあたります。
早世した得全のあと、プロデューサー・デザインワークといった面を中心に大正時代の永楽作品を生み出した妙全の、実質的な製作を担っておりました。
妙全の現存作品から推察出来ますように、正全の製作数はかなりの数に及ぶと思われます。
しかしながら、妙全没後・・・正式に代を襲名した”正全”名義の作品は、得全と同じく数は少ないのです。
それは正全としては、襲名後・・わずか5年間しか活躍しないうちに、53歳の若さで亡くなってしまわれたことに起因します。
1927(昭和2)年~1932(昭和7)年のことです。
しかし先述の通り、妙全時代を含むと実質的な製作数は多かったため、その技術力は高かったのです。
この交趾の作品は、明治期に永楽和全が製作した室町三井家旧蔵作品を写したものです。
(現在 三井記念美術館収蔵)
口縁は八稜の輪花の形状で、中央に”寿”の文字が。
その周りに”雲龍”も浮き文が意匠化されております。
和全作品は中央が”福”ですが、アレンジされております。
即全以降では、見受けられない古作の交趾風の味わいが出せており、妙全時代の器では綺麗な上がりに終始していた傾向に対して、少数製作時代だからこそ、の作風かもしれません。
10枚、状態良し、です。 裏面高台まわりの白っぽいのは焼成時に釉薬が解けてしまってる部分です。
お値段も、ほどほどですのでお料理屋さまにも、お茶人さまにもお愉しみ頂けたらと思います。
※御成約済みです。
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おなじく、『茶の湯』におきましても、かつてない状況に直面しておりますが、こちらも皆様方の工夫により楽しまれているようです。
そんな工夫の中で、脚光をあびつつあるのが、銘々皿です。
取り分け、という形式が敬遠される中でのことですが、それは正座スタイルから椅子スタイルへの現代人の嗜好にも合致するものであり、アフターコロナでも定番化するのは間違いないでしょう。
今回、ご紹介致しますのは・・・・懐石用として、食の器として生まれた中皿ですが、銘々皿としても楽しめそうな作品です。
【永楽正全 青交趾中皿】 10枚組
幅14㎝ 高さ3.5㎝ (各)
1927(昭和2)年~1932(昭和7)年 頃
正全は、永楽14代”得全”の妻であり、のちに”妙全”と号して永楽家の断絶を防いだ”お悠さん”の甥にあたります。
早世した得全のあと、プロデューサー・デザインワークといった面を中心に大正時代の永楽作品を生み出した妙全の、実質的な製作を担っておりました。
妙全の現存作品から推察出来ますように、正全の製作数はかなりの数に及ぶと思われます。
しかしながら、妙全没後・・・正式に代を襲名した”正全”名義の作品は、得全と同じく数は少ないのです。
それは正全としては、襲名後・・わずか5年間しか活躍しないうちに、53歳の若さで亡くなってしまわれたことに起因します。
1927(昭和2)年~1932(昭和7)年のことです。
しかし先述の通り、妙全時代を含むと実質的な製作数は多かったため、その技術力は高かったのです。
この交趾の作品は、明治期に永楽和全が製作した室町三井家旧蔵作品を写したものです。
(現在 三井記念美術館収蔵)
口縁は八稜の輪花の形状で、中央に”寿”の文字が。
その周りに”雲龍”も浮き文が意匠化されております。
和全作品は中央が”福”ですが、アレンジされております。
即全以降では、見受けられない古作の交趾風の味わいが出せており、妙全時代の器では綺麗な上がりに終始していた傾向に対して、少数製作時代だからこそ、の作風かもしれません。
10枚、状態良し、です。 裏面高台まわりの白っぽいのは焼成時に釉薬が解けてしまってる部分です。
お値段も、ほどほどですのでお料理屋さまにも、お茶人さまにもお愉しみ頂けたらと思います。
※御成約済みです。
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【角谷一圭 九輪釜】 [茶道具]
古より伝わる形状の、釜も良いのです・・・が、扱うのはどうしても珍しい形になってしまいます。
7年ぶりに、九輪釜が入りました☆
といっても、意匠などは異なります。今回の方がモダンです~
【角谷一圭 九輪釜】
幅 18.5㎝ 高さ 19.7㎝(肩迄)22㎝(摘み迄)
一圭は、鋳物師の家に生まれ、なんと小学5年生で学校を辞めて(!)父に師事し鋳物を学びます。
十代で既に作品を生み出し、その後に”帝室技芸員”である”香取秀真(かとりほつま)”の指導を受ける中で、芦屋釜の研究を勧められます。
さらに、茶釜研究家である”細見古香庵”との親交の中で、重要文化財級の芦屋・天命の両系統の釜にふれる機会を得、補修にも携わることで、自身の技と見識を高めます。
和銑という、貴重な素材の研究も長け、伝統とは異なる独自の感覚を合わせることで”一圭様式”ともいうべき独特のデザイン釜の世界を構築したのです。
この九輪釜は、そんな中でも珍しい作品です。
銘部分です。 釜の蓋にも在銘あります。
”鳴り”も現存します。
底部
共箱
九輪釜は、寺の塔の頂上を飾る相輪の部分である九輪の形を模した釜で、筒形の胴を九輪の中央を貫く心棒の部分である刹管(さつかん)に、鐶付を刹管を取り巻く笠上の輪である宝輪(ほうりん)を留める軸に見立てたものです。
九輪釜は、正平三年(1348)高師泰(こうのもろやす)が塔の九輪の宝形をはずして鑵子(釜)に鋳直したものが最初といわれております。
利休も所持しているものがあったそうです。
この九輪釜は、一圭デザインによるもので、関東のモダン釜師である長野派にも通じるところがあります。
上から1,1、7と9つの輪があります。
(細い刷毛目のような轆轤目のようなのは除きます)
なかなかの洒落た筒釜になります。
風炉に合わせるも、釣りにするも、立礼棚に合わせるも、よし、です。
『角谷一圭』
1904年 大阪市生まれ
1917年 父巳之助より茶の湯釜制作技法を習う
大国藤兵衛、香取秀眞に師事
1942年 商工省技術保存資格認定
1958年 第5回日本伝統工芸展高松宮総裁賞
1961年 第8回日本伝統工芸展朝日新聞社賞
1976年 勲四等瑞宝章
1978年 重要無形文化財「茶の湯釜」保持者に認定 (人間国宝)
1999年 逝去
※御成約済みです。
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7年ぶりに、九輪釜が入りました☆
といっても、意匠などは異なります。今回の方がモダンです~
【角谷一圭 九輪釜】
幅 18.5㎝ 高さ 19.7㎝(肩迄)22㎝(摘み迄)
一圭は、鋳物師の家に生まれ、なんと小学5年生で学校を辞めて(!)父に師事し鋳物を学びます。
十代で既に作品を生み出し、その後に”帝室技芸員”である”香取秀真(かとりほつま)”の指導を受ける中で、芦屋釜の研究を勧められます。
さらに、茶釜研究家である”細見古香庵”との親交の中で、重要文化財級の芦屋・天命の両系統の釜にふれる機会を得、補修にも携わることで、自身の技と見識を高めます。
和銑という、貴重な素材の研究も長け、伝統とは異なる独自の感覚を合わせることで”一圭様式”ともいうべき独特のデザイン釜の世界を構築したのです。
この九輪釜は、そんな中でも珍しい作品です。
銘部分です。 釜の蓋にも在銘あります。
”鳴り”も現存します。
底部
共箱
九輪釜は、寺の塔の頂上を飾る相輪の部分である九輪の形を模した釜で、筒形の胴を九輪の中央を貫く心棒の部分である刹管(さつかん)に、鐶付を刹管を取り巻く笠上の輪である宝輪(ほうりん)を留める軸に見立てたものです。
九輪釜は、正平三年(1348)高師泰(こうのもろやす)が塔の九輪の宝形をはずして鑵子(釜)に鋳直したものが最初といわれております。
利休も所持しているものがあったそうです。
この九輪釜は、一圭デザインによるもので、関東のモダン釜師である長野派にも通じるところがあります。
上から1,1、7と9つの輪があります。
(細い刷毛目のような轆轤目のようなのは除きます)
なかなかの洒落た筒釜になります。
風炉に合わせるも、釣りにするも、立礼棚に合わせるも、よし、です。
『角谷一圭』
1904年 大阪市生まれ
1917年 父巳之助より茶の湯釜制作技法を習う
大国藤兵衛、香取秀眞に師事
1942年 商工省技術保存資格認定
1958年 第5回日本伝統工芸展高松宮総裁賞
1961年 第8回日本伝統工芸展朝日新聞社賞
1976年 勲四等瑞宝章
1978年 重要無形文化財「茶の湯釜」保持者に認定 (人間国宝)
1999年 逝去
※御成約済みです。
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2021年 最初の新入荷情報です☆ [新入荷]
名古屋出張から帰りました。
今年最初の仕入れは、なかなか手ごわく・・・マニアックなものはことごとく惨敗でした。。。
そんな中、小粒でピリッとしたもの、入りました。
♢楽 惺入 交趾柘榴写 香合 鵬雲斎 箱
♢森香州 虫明焼釣瓶形 水指 惺斎 箱
♢角谷一圭 九輪釜 ※ご成約済み
♢古染付 芙蓉手 平鉢
♢渋紙手 茶入 銘「翁」 宗完箱
※明日は、午後からのベース営業の予定でございましたが、お休みとさせていただきます。
誠に申し訳ございません。
翌、13日は午前中のみ、14日、15日は通常営業となります。
今年最初の仕入れは、なかなか手ごわく・・・マニアックなものはことごとく惨敗でした。。。
そんな中、小粒でピリッとしたもの、入りました。
♢楽 惺入 交趾柘榴写 香合 鵬雲斎 箱
♢森香州 虫明焼釣瓶形 水指 惺斎 箱
♢角谷一圭 九輪釜 ※ご成約済み
♢古染付 芙蓉手 平鉢
♢渋紙手 茶入 銘「翁」 宗完箱
※明日は、午後からのベース営業の予定でございましたが、お休みとさせていただきます。
誠に申し訳ございません。
翌、13日は午前中のみ、14日、15日は通常営業となります。