【仁阿弥道八 桃山御本 茶碗】 鵬雲斎 箱 [幕末京焼]
今月は、なかなかの多忙さで・・・仕入れや販売、商品管理で手一杯でした。
次の展示会迄の数日の間に、記事を作成できたら、と思います。
まずは、仁阿弥道八のお茶碗のご紹介です。
先月から、続いておりますね。(^^;
【仁阿弥道八 桃山御本 茶碗】
幅 12.8cm x 13.6cm
高さ 7.9cm
高台径 5.4cm
製作年代 天保13(1842)~安政2(1855)年
箱 共箱(蓋のみ) 書付用新調箱 鵬雲斎 書付
『仁阿弥道八』の製作年代を区分すると、以下のように分類されます。
◎青年期 『粟田口時代』
初代道八が宝暦13年頃に粟田口へ移り始めた窯を、文化元年に初代が没した後継承。
◎壮年期 『五条坂窯時代』
文化8(1811)年に、清水坂に移築。「染付磁器」の先駆けとなり名を馳せた。
その後、名声を基に各地の庭窯へ招聘される。
◎晩年期 『桃山窯時代』
天保13(1842)年、60歳を機に息子『三代道八』へ家を譲り、「伏見桃山城下江戸町」へ隠居し、始めた趣味に没頭した時代。
この最後にあたる時代の作品のご紹介です。
『五三の桐』(ごさんのきり)、と呼ばれる紋様が施されております。
「 3枚 の 桐 の 葉」 の上 に、「 桐の花」 を 左右に 三つ ずつ、 中央 に 五つ 配した ものです。
『豊臣秀吉』が使っていたのが『五七の桐』とよばれるもので、現在では日本政府も使う紋様です。
しかし、織田信長の家臣時代の豊臣秀吉は、「五三桐」を使用しておりました。
後に豊臣姓を名乗った際に「五七桐」の家紋へ切り替えたのです。
『桐』は・・古代中国の神話に登場する鳳凰が止まる木とされています。
昔から桐は神聖な植物とされており、日本に於きましても天皇などの皇室が使用できる紋章とされてきたのです。
それは、天皇はかつて・・神に近い存在とされており、神聖な「鳳凰」が止まる木とされていた桐を紋様としていたのです。
しかし、後に有力者も使うようになっていき・・・
室町幕府の初代将軍『足利尊氏』が『後醍醐天皇』から恩賞として賜り使用したのが最初といわれます。
『豊臣秀吉』が、豊臣姓を名乗った際には、当時の天皇であった『後陽成天皇』から与えられた紋であったそうです。
反対側にも。
内側にもあります。
仁阿弥が隠居した、「伏見」にはもう当時は城は有りませんでした。
・・・そもそも、関西人である私も『伏見桃山城』というのがややこしいのです。
「伏見」のある、桃山地区は・・・東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には「巨椋池」が広がり水運により「大坂」と「京都」とを結ぶ要衝の地でありました。
今でも、その面影が残っております。
伏見城は三度に渡って築城されました。
◎朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に『豊臣秀吉』が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に築かれたものを『指月伏見城』といいます。
しかし、『慶長伏見地震』により倒壊し、無事であった秀吉は木幡に避難しました。
◎避難した木幡山(桃山丘陵)に城が再築され、それを『木幡山伏見城』と呼びます。
しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没し、遺言にり『豊臣秀頼』は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の『徳川家康』がこの城に入り政務をとることになりました。
その後、関ヶ原の戦いの際には家康の家臣『鳥居元忠』らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失となるのです。
この辺は、こないだまでの大河ドラマ『どうする?家康』で描かれておりましたね。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、3代将軍の頃までは大いに利用されていたのですが、『一国一城令』のこともあり、『二条城』を残し1619年(元和5年)に廃城とされたのです。
伏見廃城に伴い、元和9年12月には、『小堀遠州』が伏見奉行に任ぜられました。
そして元禄時代には、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて『桃山』と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として『桃山城』『伏見桃山城』と呼ばれることになったのです。
伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっており、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられており、そのことがさらに・・・『伏見桃山城』ってなんぞや?という現在の認知度に繋がったのでしょう。(^^;
・・・・と、長くなりましたが、お茶碗の続きです。
仁阿弥道八は隠居時代は悠々自適に過ごしたようです。
朝夕には、旧桃山城頭に登って島津家より拝領した『法螺貝』を吹いて愉しみ、気の向くままに作陶し、茶を喫していたとか。
あまり、作品としてのバリエーションは知られておらず、お茶碗と土瓶が後世の記録に有ります。
お茶碗も、今回ご紹介するような『桃山御本』と呼ばれる物のみのようです。
上質に精製された土で、丁寧かつ・・地味ながらも技の光る作行きのお茶碗となります。
3か所切り高台となります。
瓢箪枠に『桃山』の印が押されるのが通例です。
秀吉ゆかりの『桐文』と『桃』を思わせるようなピンクの斑点を以て、『御本手』と為す、このセンスは・・・仁阿弥の『引きとひねり』の美学と云わずしてなんとやらです。
移って最初の時に製作され、寺院に贈られたものは、名刺代わりのようで・・まだ『御本手』では無かったようです。
その後、今の様式のお茶碗が一定数造られたようです。
道八家に於いても、『桃山御本』は重要な作品であったようで、後代でも写しものが造られており・・・その作品により、仁阿弥の桃山御本の存在が後世に伝わっているのです。
希少な、共箱が蓋だけ現存しております。
こちらには、特徴的な大きな桃山窯の印が押されております。
こちらにも、通常の筆と仁阿弥の小角印の他に、初見の珍しい朱印も併印されております。
書付用として桐箱が新調され、鵬雲斎の書付が添います。
仁阿弥の最晩年の心穏やかな心情が反映されたかのような、上品な作品です。
希少性もさることながら、お値段の良さもアピールポイントなのです。
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当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。
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先月から、続いておりますね。(^^;
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幅 12.8cm x 13.6cm
高さ 7.9cm
高台径 5.4cm
製作年代 天保13(1842)~安政2(1855)年
箱 共箱(蓋のみ) 書付用新調箱 鵬雲斎 書付
『仁阿弥道八』の製作年代を区分すると、以下のように分類されます。
◎青年期 『粟田口時代』
初代道八が宝暦13年頃に粟田口へ移り始めた窯を、文化元年に初代が没した後継承。
◎壮年期 『五条坂窯時代』
文化8(1811)年に、清水坂に移築。「染付磁器」の先駆けとなり名を馳せた。
その後、名声を基に各地の庭窯へ招聘される。
◎晩年期 『桃山窯時代』
天保13(1842)年、60歳を機に息子『三代道八』へ家を譲り、「伏見桃山城下江戸町」へ隠居し、始めた趣味に没頭した時代。
この最後にあたる時代の作品のご紹介です。
『五三の桐』(ごさんのきり)、と呼ばれる紋様が施されております。
「 3枚 の 桐 の 葉」 の上 に、「 桐の花」 を 左右に 三つ ずつ、 中央 に 五つ 配した ものです。
『豊臣秀吉』が使っていたのが『五七の桐』とよばれるもので、現在では日本政府も使う紋様です。
しかし、織田信長の家臣時代の豊臣秀吉は、「五三桐」を使用しておりました。
後に豊臣姓を名乗った際に「五七桐」の家紋へ切り替えたのです。
『桐』は・・古代中国の神話に登場する鳳凰が止まる木とされています。
昔から桐は神聖な植物とされており、日本に於きましても天皇などの皇室が使用できる紋章とされてきたのです。
それは、天皇はかつて・・神に近い存在とされており、神聖な「鳳凰」が止まる木とされていた桐を紋様としていたのです。
しかし、後に有力者も使うようになっていき・・・
室町幕府の初代将軍『足利尊氏』が『後醍醐天皇』から恩賞として賜り使用したのが最初といわれます。
『豊臣秀吉』が、豊臣姓を名乗った際には、当時の天皇であった『後陽成天皇』から与えられた紋であったそうです。
反対側にも。
内側にもあります。
仁阿弥が隠居した、「伏見」にはもう当時は城は有りませんでした。
・・・そもそも、関西人である私も『伏見桃山城』というのがややこしいのです。
「伏見」のある、桃山地区は・・・東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には「巨椋池」が広がり水運により「大坂」と「京都」とを結ぶ要衝の地でありました。
今でも、その面影が残っております。
伏見城は三度に渡って築城されました。
◎朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に『豊臣秀吉』が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に築かれたものを『指月伏見城』といいます。
しかし、『慶長伏見地震』により倒壊し、無事であった秀吉は木幡に避難しました。
◎避難した木幡山(桃山丘陵)に城が再築され、それを『木幡山伏見城』と呼びます。
しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没し、遺言にり『豊臣秀頼』は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の『徳川家康』がこの城に入り政務をとることになりました。
その後、関ヶ原の戦いの際には家康の家臣『鳥居元忠』らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失となるのです。
この辺は、こないだまでの大河ドラマ『どうする?家康』で描かれておりましたね。
焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、3代将軍の頃までは大いに利用されていたのですが、『一国一城令』のこともあり、『二条城』を残し1619年(元和5年)に廃城とされたのです。
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そして元禄時代には、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて『桃山』と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として『桃山城』『伏見桃山城』と呼ばれることになったのです。
伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっており、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられており、そのことがさらに・・・『伏見桃山城』ってなんぞや?という現在の認知度に繋がったのでしょう。(^^;
・・・・と、長くなりましたが、お茶碗の続きです。
仁阿弥道八は隠居時代は悠々自適に過ごしたようです。
朝夕には、旧桃山城頭に登って島津家より拝領した『法螺貝』を吹いて愉しみ、気の向くままに作陶し、茶を喫していたとか。
あまり、作品としてのバリエーションは知られておらず、お茶碗と土瓶が後世の記録に有ります。
お茶碗も、今回ご紹介するような『桃山御本』と呼ばれる物のみのようです。
上質に精製された土で、丁寧かつ・・地味ながらも技の光る作行きのお茶碗となります。
3か所切り高台となります。
瓢箪枠に『桃山』の印が押されるのが通例です。
秀吉ゆかりの『桐文』と『桃』を思わせるようなピンクの斑点を以て、『御本手』と為す、このセンスは・・・仁阿弥の『引きとひねり』の美学と云わずしてなんとやらです。
移って最初の時に製作され、寺院に贈られたものは、名刺代わりのようで・・まだ『御本手』では無かったようです。
その後、今の様式のお茶碗が一定数造られたようです。
道八家に於いても、『桃山御本』は重要な作品であったようで、後代でも写しものが造られており・・・その作品により、仁阿弥の桃山御本の存在が後世に伝わっているのです。
希少な、共箱が蓋だけ現存しております。
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【仁阿弥道八 茶碗考③】~高麗写し~ [幕末京焼]
さて、次は『高麗系統』です。
『仁阿弥道八』のお茶碗の中では、一番主力作品といっても過言ではないでしょう。
『書院茶』から、『侘び茶』へと移行する中、お道具も『唐物』から『高麗物』へと嗜好が変わってきました。
当初は、現地で存在した『飯茶碗』等の「見立て」転用であったようですが・・・桃山時代末期から江戸時代初期には、日本からの「注文品」を現地で製作し日本へ送らせたので「茶陶」を意識されたものになっております。
天文6(1537年)に開かれた、『十四屋宗伍』という珠光の弟子であった茶人の茶会記に於いて、「高ライ茶碗」という記述が最初といわれます。
『唐物』ほどでは無いものの・・・今風にいう所の、『オーダー輸入品』ですから、国内に於いておいそれと、手に入る物では有りません。
江戸時代も後期になりますと、町衆にまで茶の湯が広まってくる中で・・・『高麗写し』の需要が高まってくるのは当然なのです。
江戸後期では、『青木木米』も高麗写しを作っておりますが、基本的に京焼界では『清水六兵衛』が初代から二代へと継承された頃です。
同時代としては、『永樂保全』『眞葛長造』が存在しております。
『仁阿弥道八』と併せて、幕末京焼の三大名工と称されます。(『茶陶』中心として)
『高麗写し』という側面から見ますと・・・
『永樂保全』は全体の中で僅かにしか、存在しません。
『御本写し』『唐津写し』の『2シリーズ』です。
また、さらに希少なものでは『雲鶴青磁』が在ります。
『眞葛長造』はさらに少なくなり・・・同じく、『雲鶴青磁』と他には『三島』位でしょうか。
その点、『仁阿弥道八』は高麗茶碗のうつし、ほぼフルラインナップと云っても過言では有りません。
『三島』『刷毛目』は数が多く、凡作も多数存在しますが、他は概ね素晴らしい出来栄えです。
この辺は、『建仁寺』との深い縁関係が影響しています。
建仁寺に伝世している作品群を手にし、研究出来たであろうことは大きなアドバンテージでしょう。
しかし、それ以前に仁阿弥の精神性の高さが作品たちに反映されていると思います。
【仁阿弥道八 黄伊羅保 茶碗】
幅 14.6cm
高さ 6.7cm
高台径 5.1cm
製作年代 文政9(1826)~天保13(1842)年頃
箱 共箱
『黄伊羅保』のうつしになります。
目跡、も再現されております。
きちんと、石が混じり込んで作られておりますが、イライラする感じはなく・・・上品な作行きです。
丁寧な轆轤形成のあと、高台周りは箆で丁寧に削り出してます。
高台内に『仁阿弥』三文字小印が押されております。
共箱です。
この作品と同じ時期の製作になるものが、『東京国立博物館』にも所蔵されております。
展示されることもあります。
重量は「237g」であり、こちらもまた重すぎず・・・良い感じなのです。
仁阿弥の伊羅保は、伝世数というより・・・流通量としましては珍しい部類に入ります。
しかし、このお茶碗はそれらの中でもさらに出来映えは「上」と云いましょう☆
長くなりましたが、『仁阿弥道八 茶碗考』シリーズは新しく道八茶碗が手に入りましたら続きます。
※御成約済みです。
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『仁阿弥道八』のお茶碗の中では、一番主力作品といっても過言ではないでしょう。
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当初は、現地で存在した『飯茶碗』等の「見立て」転用であったようですが・・・桃山時代末期から江戸時代初期には、日本からの「注文品」を現地で製作し日本へ送らせたので「茶陶」を意識されたものになっております。
天文6(1537年)に開かれた、『十四屋宗伍』という珠光の弟子であった茶人の茶会記に於いて、「高ライ茶碗」という記述が最初といわれます。
『唐物』ほどでは無いものの・・・今風にいう所の、『オーダー輸入品』ですから、国内に於いておいそれと、手に入る物では有りません。
江戸時代も後期になりますと、町衆にまで茶の湯が広まってくる中で・・・『高麗写し』の需要が高まってくるのは当然なのです。
江戸後期では、『青木木米』も高麗写しを作っておりますが、基本的に京焼界では『清水六兵衛』が初代から二代へと継承された頃です。
同時代としては、『永樂保全』『眞葛長造』が存在しております。
『仁阿弥道八』と併せて、幕末京焼の三大名工と称されます。(『茶陶』中心として)
『高麗写し』という側面から見ますと・・・
『永樂保全』は全体の中で僅かにしか、存在しません。
『御本写し』『唐津写し』の『2シリーズ』です。
また、さらに希少なものでは『雲鶴青磁』が在ります。
『眞葛長造』はさらに少なくなり・・・同じく、『雲鶴青磁』と他には『三島』位でしょうか。
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『三島』『刷毛目』は数が多く、凡作も多数存在しますが、他は概ね素晴らしい出来栄えです。
この辺は、『建仁寺』との深い縁関係が影響しています。
建仁寺に伝世している作品群を手にし、研究出来たであろうことは大きなアドバンテージでしょう。
しかし、それ以前に仁阿弥の精神性の高さが作品たちに反映されていると思います。
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幅 14.6cm
高さ 6.7cm
高台径 5.1cm
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『黄伊羅保』のうつしになります。
目跡、も再現されております。
きちんと、石が混じり込んで作られておりますが、イライラする感じはなく・・・上品な作行きです。
丁寧な轆轤形成のあと、高台周りは箆で丁寧に削り出してます。
高台内に『仁阿弥』三文字小印が押されております。
共箱です。
この作品と同じ時期の製作になるものが、『東京国立博物館』にも所蔵されております。
展示されることもあります。
重量は「237g」であり、こちらもまた重すぎず・・・良い感じなのです。
仁阿弥の伊羅保は、伝世数というより・・・流通量としましては珍しい部類に入ります。
しかし、このお茶碗はそれらの中でもさらに出来映えは「上」と云いましょう☆
長くなりましたが、『仁阿弥道八 茶碗考』シリーズは新しく道八茶碗が手に入りましたら続きます。
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【仁阿弥道八 茶碗考②】~『道八樂』の魅力~ [幕末京焼]
『道八樂』、は大きく3種に分類して良いでしょう。
まずは、『利休好み写し』
これらは、『写し』を意識するあまり・・・形状にどことなく、道八の力量を制限された感じで、受ける印象は「端正」ではありますが、面白みには欠けるように思えます。
次に、『道八様式』
『樂焼』というキーワードで存分に腕を奮った作品です。
『富岳文』は朧な雪景色のようでもあり、発色も含めて絶品です。
また、『朱釉』の茶碗は・・・近年、あまりに『一入』作品が多すぎるというのが実は『玉水焼』であったものが混入している可能を指摘されており、その朱釉の技法は『一入』の子であった『一元』が一時、本樂にて従事していたからこそ、と云われます。
しかし、仁阿弥もなかなかの発色具合なのです。
三つ目は、『追慕、注文』系統です。
『乾山』を意識した『立鶴絵』や文字入りなどの作品にあたります。
それでは、『道八様式』の『道八樂』をご紹介致します。
【仁阿弥道八 黒 茶碗】
幅 12.1cm
高さ 6.2cm
高台径 4.6cm
製作年代 文政9(1826)~天保13(1842)年頃
箱 共箱
形状も発色も見事なお茶碗です。
反対側もこのように・・・
重量、薄さなど・・・お茶碗としての用に適ったものであります。
高台周りも巧く出来上がっております。
『仁阿』の2文字印です。
共箱です。
大阪、心斎橋の『小大丸』の旧蔵品です。 優品の表流道具類と共に蔵出しされました。
平茶碗、のように見えますが深さもあり・・・蔵の貼り紙には『冬』とも分類されております。
「使う方」の「使い方」、ですね!
『道八樂』の印象は、『吉左衛門樂』に比して・・・やや華奢、であり、またどことなくアーティスティックであります。
千家に直接通じる、『茶陶』窯としての樂家の「造り」との違いがここに出ていると思います。
次は、「高麗系」になります。
※商談中です。
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これらは、『写し』を意識するあまり・・・形状にどことなく、道八の力量を制限された感じで、受ける印象は「端正」ではありますが、面白みには欠けるように思えます。
次に、『道八様式』
『樂焼』というキーワードで存分に腕を奮った作品です。
『富岳文』は朧な雪景色のようでもあり、発色も含めて絶品です。
また、『朱釉』の茶碗は・・・近年、あまりに『一入』作品が多すぎるというのが実は『玉水焼』であったものが混入している可能を指摘されており、その朱釉の技法は『一入』の子であった『一元』が一時、本樂にて従事していたからこそ、と云われます。
しかし、仁阿弥もなかなかの発色具合なのです。
三つ目は、『追慕、注文』系統です。
『乾山』を意識した『立鶴絵』や文字入りなどの作品にあたります。
それでは、『道八様式』の『道八樂』をご紹介致します。
【仁阿弥道八 黒 茶碗】
幅 12.1cm
高さ 6.2cm
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重量、薄さなど・・・お茶碗としての用に適ったものであります。
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『仁阿』の2文字印です。
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『道八樂』の印象は、『吉左衛門樂』に比して・・・やや華奢、であり、またどことなくアーティスティックであります。
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当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。
当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。
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【仁阿弥道八 茶碗考①】~展観にみる、分布から~ [幕末京焼]
現在、『仁阿弥』のお茶碗が現在2碗、手元にありまして、アレコレと思いに耽る中・・・
ちょっと「仁阿弥 茶碗考」なぞ、していようと思います。
いつもでしたら、作品紹介に付随しての記載なのですが、ちょっと長くなりますのでお茶碗の紹介と併せて3部構成で参ります。(^^;
『仁阿弥道八』は、その高名さは幕末陶工の中では群を抜いてメジャーです。
もちろん、「技」の凄さはもちろんではあるのですが、寺社・宮門跡等からのご縁で、各地へ招聘されたりしたことで評価が広範囲に渡り、その効果でしょうか・・・日本各地に作品が伝播しておりますのが要因でしょう。
東京国立を始め・・美術館にも、あちこちに道八作品が所蔵されていることも、現代ではプラスに働いております。
しかしながら、『仁阿弥道八』単体での展観、というのは「安政2(1855)年」に仁阿弥が没してからの約170年の間に「2度」開催されたのみのようなのです。
◎昭和3(1928)年 5月12日~16日 (短ッ!)
京都帝室博物館 『陶工 仁阿弥道八 作品展』
◎平成26(2014)年 12月20日~平成27(2015)年3月1日
サントリー美術館 『天才陶工 仁阿弥道八』
他に、昭和13(1938)年に大阪市立博物館で、『一方堂』を中心にした展観が在ったという話ですが、内容は未確認です。
そもそも、当店が深く興味を抱いております、「幕末京焼」は近年に至るまで美術館の展観としてはスポットが当たってこなかったのです。
200年といった、年月の経過と共にようやく最近では表舞台に立ちだした感が在ります。
さて、先述の「2度」の展観の出品目録の中から・・・「お茶碗」に絞って調べてみます。
◎京都帝室博物館 『陶工 仁阿弥道八 作品展』
《茶碗出品総数 39点》
仁清・色絵 8
乾山 2
樂 黒 3
赤 4
瀬戸黒 1
高麗 井戸 1
三嶋 5
蕎麦 2
伊羅保 3
珠光青磁 2
御本 1
半使 1
刷毛目 2
桃山 1
他 2
この、数の分布は・・・私の経験上、近年の伝世品の流通状況に非常に近似したバランスに思えます。
「没後73年」といった当時ならではの、多岐に渡る所蔵者・・・おそらくは1次もしくは2次所有以内であることから、優品が揃ったことでしょう。
次に、10年前の方です。
◎サントリー美術館 『天才陶工 仁阿弥道八』
《茶碗出品総数 38点》
仁清 色絵 9
樂 黒 12
赤 5
高麗 三嶋 1
蕎麦 1
伊羅保 2
珠光青磁 1
御本 1
トトヤ 1
絵高麗 1
桃山 1
暦手 2
朝日 1
前者に比して、見当たらない技法もある代わりに、新たな技法のものの見られます。
『国焼写し』が登場しております。
京都の茶人・茶道具商の間で、永らく高い評価を受けてきたのは、この内で『志野 永井信斎所持 年男 暦手 写し』でしょう。
幕末期は、特に人気だったのか・・・樂了入や、他の陶工での写しも確認しております。
しかし、やはり『仁清写し系』『樂』『高麗写し系』
この3種が道八の真骨頂と云えます。
仁清系は、当時の「絵師」とのコラボレーション作品も、道八作としてはポピュラーです。
それらは、大概にして・・・「侘びた」様相で「雅味」のあるものです。
しかし、本人による「色絵」は・・・ちょっと、評価が分かれるところでしょう。
実の弟であります、『尾形周平』にも共通する感じも在ります。
また、私自身も扱ったことが在りますが、「丸々」仁清写し・・・という作品が、確認されております。
それは、「仁清」印を用いており、共箱が無ければ道八作品とは確認し難いものです。
所有時は、最後まで腑に落ちず・・・しかし、作行きはどうにも道八であるのでした。
どうやら、この僅かに存在する「仁清写し」は、それ専用に「高橋家」が用意した「印」が用いられてるという説もようやく知りえました。
引き続き、今後も調査しますがここに記しておきます。
さて、『樂』系統です。
本樂(という呼び方で良いのかどうかですが)、が近所に存在しておりますのに、何故??
しかも、特に黒樂に至っては・・・仁阿弥は特に巧い!のです。
国焼研究家で知られました、故・保田憲司氏は道八の樂を高く評価しておりました。
近年、『樂直入』さんによる『玉水焼』の研究発表が為されました。
そこに至るには、過去・・・孤軍奮闘された『保田憲司』氏の『玉水焼』研究もベースにあったようですが、その・・・愛するあまりに私見が私情と紙一重な内容が、私個人は共感を覚えるところでは有りましたが、直入さんはあまり快く思われなかったようです。(^^;
しかし、その中の文面から・・・推察されることが在りました。
『本樂』というものの世間での「立ち位置」です。
もちろん、確実な評価とレベルで存在はしておりましたが、その流通範囲は、「金額的」もしくは「生産数」的な面で限定的であったかもしれません。
「脇窯」と簡単な紹介で現代に伝わる『玉水焼』が、実は京都市 ⇒ 京都府 という範囲で見た際には『南樂家』として「双璧」として認識され、一般人にはより身近な楽焼あったという可能性があります。
それでなければ、3千家の書付が当時より存在するのも、また中断期を挟んで幕末期に復興窯(と呼んで良いのか分かりませんが)迄稼働していたこと・求められていたことの説明が付かないのです。
そこで、『道八樂』(と称してみましょう)。
明治に入ってからの三代では見られなくなる「楽焼」ですが、初代・二代では主力作品であります。
ここには、上記のような世相・流通状況の中で・・・『樂焼』の需要が確実に存在したからということの裏付けとなります。
保田氏はノンカウに匹敵するともおっしゃられておりましたが、いいものは確かに良いのです!
次のブログでは樂焼作品をご紹介致します。
⇒ 続く
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もちろん、「技」の凄さはもちろんではあるのですが、寺社・宮門跡等からのご縁で、各地へ招聘されたりしたことで評価が広範囲に渡り、その効果でしょうか・・・日本各地に作品が伝播しておりますのが要因でしょう。
東京国立を始め・・美術館にも、あちこちに道八作品が所蔵されていることも、現代ではプラスに働いております。
しかしながら、『仁阿弥道八』単体での展観、というのは「安政2(1855)年」に仁阿弥が没してからの約170年の間に「2度」開催されたのみのようなのです。
◎昭和3(1928)年 5月12日~16日 (短ッ!)
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◎平成26(2014)年 12月20日~平成27(2015)年3月1日
サントリー美術館 『天才陶工 仁阿弥道八』
他に、昭和13(1938)年に大阪市立博物館で、『一方堂』を中心にした展観が在ったという話ですが、内容は未確認です。
そもそも、当店が深く興味を抱いております、「幕末京焼」は近年に至るまで美術館の展観としてはスポットが当たってこなかったのです。
200年といった、年月の経過と共にようやく最近では表舞台に立ちだした感が在ります。
さて、先述の「2度」の展観の出品目録の中から・・・「お茶碗」に絞って調べてみます。
◎京都帝室博物館 『陶工 仁阿弥道八 作品展』
《茶碗出品総数 39点》
仁清・色絵 8
乾山 2
樂 黒 3
赤 4
瀬戸黒 1
高麗 井戸 1
三嶋 5
蕎麦 2
伊羅保 3
珠光青磁 2
御本 1
半使 1
刷毛目 2
桃山 1
他 2
この、数の分布は・・・私の経験上、近年の伝世品の流通状況に非常に近似したバランスに思えます。
「没後73年」といった当時ならではの、多岐に渡る所蔵者・・・おそらくは1次もしくは2次所有以内であることから、優品が揃ったことでしょう。
次に、10年前の方です。
◎サントリー美術館 『天才陶工 仁阿弥道八』
《茶碗出品総数 38点》
仁清 色絵 9
樂 黒 12
赤 5
高麗 三嶋 1
蕎麦 1
伊羅保 2
珠光青磁 1
御本 1
トトヤ 1
絵高麗 1
桃山 1
暦手 2
朝日 1
前者に比して、見当たらない技法もある代わりに、新たな技法のものの見られます。
『国焼写し』が登場しております。
京都の茶人・茶道具商の間で、永らく高い評価を受けてきたのは、この内で『志野 永井信斎所持 年男 暦手 写し』でしょう。
幕末期は、特に人気だったのか・・・樂了入や、他の陶工での写しも確認しております。
しかし、やはり『仁清写し系』『樂』『高麗写し系』
この3種が道八の真骨頂と云えます。
仁清系は、当時の「絵師」とのコラボレーション作品も、道八作としてはポピュラーです。
それらは、大概にして・・・「侘びた」様相で「雅味」のあるものです。
しかし、本人による「色絵」は・・・ちょっと、評価が分かれるところでしょう。
実の弟であります、『尾形周平』にも共通する感じも在ります。
また、私自身も扱ったことが在りますが、「丸々」仁清写し・・・という作品が、確認されております。
それは、「仁清」印を用いており、共箱が無ければ道八作品とは確認し難いものです。
所有時は、最後まで腑に落ちず・・・しかし、作行きはどうにも道八であるのでした。
どうやら、この僅かに存在する「仁清写し」は、それ専用に「高橋家」が用意した「印」が用いられてるという説もようやく知りえました。
引き続き、今後も調査しますがここに記しておきます。
さて、『樂』系統です。
本樂(という呼び方で良いのかどうかですが)、が近所に存在しておりますのに、何故??
しかも、特に黒樂に至っては・・・仁阿弥は特に巧い!のです。
国焼研究家で知られました、故・保田憲司氏は道八の樂を高く評価しておりました。
近年、『樂直入』さんによる『玉水焼』の研究発表が為されました。
そこに至るには、過去・・・孤軍奮闘された『保田憲司』氏の『玉水焼』研究もベースにあったようですが、その・・・愛するあまりに私見が私情と紙一重な内容が、私個人は共感を覚えるところでは有りましたが、直入さんはあまり快く思われなかったようです。(^^;
しかし、その中の文面から・・・推察されることが在りました。
『本樂』というものの世間での「立ち位置」です。
もちろん、確実な評価とレベルで存在はしておりましたが、その流通範囲は、「金額的」もしくは「生産数」的な面で限定的であったかもしれません。
「脇窯」と簡単な紹介で現代に伝わる『玉水焼』が、実は京都市 ⇒ 京都府 という範囲で見た際には『南樂家』として「双璧」として認識され、一般人にはより身近な楽焼あったという可能性があります。
それでなければ、3千家の書付が当時より存在するのも、また中断期を挟んで幕末期に復興窯(と呼んで良いのか分かりませんが)迄稼働していたこと・求められていたことの説明が付かないのです。
そこで、『道八樂』(と称してみましょう)。
明治に入ってからの三代では見られなくなる「楽焼」ですが、初代・二代では主力作品であります。
ここには、上記のような世相・流通状況の中で・・・『樂焼』の需要が確実に存在したからということの裏付けとなります。
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【三代 清水六兵衛 萩写寿文字 大綱和尚筆八十翁】 即中斎 箱 [幕末京焼]
六代 六兵衛さんのご紹介の次は・・・ちょっと、遡りまして。
三代のご紹介でございます!
【三代 清水六兵衛 萩写寿文字 大綱和尚筆八十翁】
幅 11.8cm
高さ 11.1cm
高台径 5.5cm
製作年代 嘉永5(1852)年頃
箱 大綱和尚 箱、即中斎 箱 眼鏡外箱
三代六兵衞は、1820(文政3)年に、二代の次男として生まれました。
1838(天保9)年に18歳で三代を襲名します。
この時、二代六兵衛はまだ、48歳と隠居にはまだ若い年でありましたので、二代・三代は現役状態で両輪を回すことで『六兵衛』家を盛り立てたのです。
初代の後に、若干の中断期を経て二代が再興したのですが、三代が中興の祖と言っても過言ではありません。
嘉永元(1848)年に、五条坂の登窯を買い取ることになり、『清水家』はついに『窯元』となりました。
江戸時代、『窯』は限られた数の決まったものでした存在が許されなかったため、既存の『窯元』で焼成をしてもらうのが大半でありました。
それは、交流と技術伝播の場でもあったので、京焼発展の元となるのですが、やはり『窯元』になることはひとつのステータスであったのです。
嘉永6(1853)年に禁裏御所内に陶製雪見大燈籠を納め、また、彦根藩主・井伊直弼や将軍・徳川慶喜を輩出した一橋家、京都所司代など、諸家の注文を受けました。
元治2(1865)年、天皇の行幸の天皇の鳳輦をかつぐ駕輿丁にも任じられるなどの栄誉にも預かります。
幕末から、明治維新にかけて・・・ 文人、画家との交流が深くし、文人趣味に適した煎茶器を製作しましたが、他方では・・新しい時代に即した新様式の作品にも積極的に取り組みます。
これは、後代にも受け継がれる六兵衛家の家風でもあり、三代の時に『六兵衛様式』が整ったのです。
明治6(1873)年、『京都府勧業御用掛』となり,染付の洋食器を造り,伊羅保や織部釉のタイルなども製造。
明治8年『第4回京都博覧会』で新設された制度の審査員となり,あわせて銅牌も受賞。
明治11年のパリ万国博覧会と明治12年のシドニー万国博覧会では銅牌を,16年にはアムステルダム万国博覧会で銀牌を受賞します。
まさに、時代と共に発展していったのです。
さて、時代を少し戻しましょう。
時は、嘉永5(1852)年頃。
大徳寺の435世である、『大綱和尚』の「80歳」の記念に製作されたのが、この作品です。
側面に、大綱和尚の筆による『八十翁 (花押)』と描かれております。
内側にも、大綱和尚にゆる『寿』の字が。
優しい、色調とフォルムです。
樂長入を思わせるような赤色ですが、薄い鼠色のような感じもまじりあってます。
側面に少し、「窪み」をつけております。
これにより、「笑み」というような感じとなり・・・元気な老僧がにやり、としたようにも感じてしまいます。(^^;
これは、『萩写し』として製作されました。
『萩焼』は、当時・・・茶陶においては民間での需要が増大しており、藩庁は文化12(1815)年と天保3(1832)年の二度にわたって、『松本焼』の「濃茶々碗」に紛らわしい茶碗の製造と御用窯以外での『大道土』使用の禁令を出しています。
それは、萩焼の粗製乱造による混乱と、藩窯としての厳しい統制という締め付けという歴史の中、良い萩焼が手に入りにくい世相でもありました。
また、幕末期は『萩焼』の写しのニーズも高く、『赤膚焼』での『木白』や尾張でも『萩写』の作品が多く見られます。
もちろん、京焼でもしかり。
それらは、『写し』というより『テイスト』を持ち込んでそれぞれの諸窯での製作による『別のモノ』
として生まれ、伝世することになるのです。
この作品も、むしろ云われないと、萩焼の写しといは分かりません。
胴締めの形状、大きく貫入の入った景色位です。
しかし、高台側を見てみましょう。
この、割高台の形状や、土の感じ。
所謂、六兵衛っぽさはその作行きのベースではしっかり見られるものの、作品としては大変珍しいものです。
『大綱宗彦』(だいこうそうげん)安永1(1772)年~万延元(1860)年
大徳寺435世であり、大徳寺塔頭黄梅院第14世住職でした。
6歳で黄梅院に入り、大徳寺409世で梅院第13世住職である融谷宗通に師事し、文政3(1820)年に大徳寺435世に就任しました。
和歌や茶の湯に深く親しみ、裏千家11代『玄々斎』、表千家10代『吸江斎』、武者小路千家7代『以心斎』と交流しました。
公家等にも広く交友があり、当時の文化サロンの主のような存在であった節が在ります。
喝喰として自身が面倒を見ていた後の『永樂保全』の才能を見抜き、了全に養子にするように段取りしたことも有名です。
そんな、大綱和尚ですが、没時88歳と当時としては長命であり・・・まだ人生の途中であった『80歳』の祝いとして製作されたのが、このお茶碗です。
『清水六兵衛 萩寫 寿之字 拙筆 八十翁 大綱』
別箱として、即中斎の箱書きも添います。
このような、仕覆も大切に誂えられております。
眼鏡箱の外箱になります。
京焼の珍しいものとしても、また国焼のコレクションとしても、そして・・千家道具の組み合わせとしても愉しめる作品となっております。
造り手の技により、薄い造りや凝った造形に、適度な重量感が下部の方に配置することで樂茶碗とはまた異なる、風格として『主茶碗』としてお使いいただきたく思います!
※御成約済みです。
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【三代 清水六兵衛 萩写寿文字 大綱和尚筆八十翁】
幅 11.8cm
高さ 11.1cm
高台径 5.5cm
製作年代 嘉永5(1852)年頃
箱 大綱和尚 箱、即中斎 箱 眼鏡外箱
三代六兵衞は、1820(文政3)年に、二代の次男として生まれました。
1838(天保9)年に18歳で三代を襲名します。
この時、二代六兵衛はまだ、48歳と隠居にはまだ若い年でありましたので、二代・三代は現役状態で両輪を回すことで『六兵衛』家を盛り立てたのです。
初代の後に、若干の中断期を経て二代が再興したのですが、三代が中興の祖と言っても過言ではありません。
嘉永元(1848)年に、五条坂の登窯を買い取ることになり、『清水家』はついに『窯元』となりました。
江戸時代、『窯』は限られた数の決まったものでした存在が許されなかったため、既存の『窯元』で焼成をしてもらうのが大半でありました。
それは、交流と技術伝播の場でもあったので、京焼発展の元となるのですが、やはり『窯元』になることはひとつのステータスであったのです。
嘉永6(1853)年に禁裏御所内に陶製雪見大燈籠を納め、また、彦根藩主・井伊直弼や将軍・徳川慶喜を輩出した一橋家、京都所司代など、諸家の注文を受けました。
元治2(1865)年、天皇の行幸の天皇の鳳輦をかつぐ駕輿丁にも任じられるなどの栄誉にも預かります。
幕末から、明治維新にかけて・・・ 文人、画家との交流が深くし、文人趣味に適した煎茶器を製作しましたが、他方では・・新しい時代に即した新様式の作品にも積極的に取り組みます。
これは、後代にも受け継がれる六兵衛家の家風でもあり、三代の時に『六兵衛様式』が整ったのです。
明治6(1873)年、『京都府勧業御用掛』となり,染付の洋食器を造り,伊羅保や織部釉のタイルなども製造。
明治8年『第4回京都博覧会』で新設された制度の審査員となり,あわせて銅牌も受賞。
明治11年のパリ万国博覧会と明治12年のシドニー万国博覧会では銅牌を,16年にはアムステルダム万国博覧会で銀牌を受賞します。
まさに、時代と共に発展していったのです。
さて、時代を少し戻しましょう。
時は、嘉永5(1852)年頃。
大徳寺の435世である、『大綱和尚』の「80歳」の記念に製作されたのが、この作品です。
側面に、大綱和尚の筆による『八十翁 (花押)』と描かれております。
内側にも、大綱和尚にゆる『寿』の字が。
優しい、色調とフォルムです。
樂長入を思わせるような赤色ですが、薄い鼠色のような感じもまじりあってます。
側面に少し、「窪み」をつけております。
これにより、「笑み」というような感じとなり・・・元気な老僧がにやり、としたようにも感じてしまいます。(^^;
これは、『萩写し』として製作されました。
『萩焼』は、当時・・・茶陶においては民間での需要が増大しており、藩庁は文化12(1815)年と天保3(1832)年の二度にわたって、『松本焼』の「濃茶々碗」に紛らわしい茶碗の製造と御用窯以外での『大道土』使用の禁令を出しています。
それは、萩焼の粗製乱造による混乱と、藩窯としての厳しい統制という締め付けという歴史の中、良い萩焼が手に入りにくい世相でもありました。
また、幕末期は『萩焼』の写しのニーズも高く、『赤膚焼』での『木白』や尾張でも『萩写』の作品が多く見られます。
もちろん、京焼でもしかり。
それらは、『写し』というより『テイスト』を持ち込んでそれぞれの諸窯での製作による『別のモノ』
として生まれ、伝世することになるのです。
この作品も、むしろ云われないと、萩焼の写しといは分かりません。
胴締めの形状、大きく貫入の入った景色位です。
しかし、高台側を見てみましょう。
この、割高台の形状や、土の感じ。
所謂、六兵衛っぽさはその作行きのベースではしっかり見られるものの、作品としては大変珍しいものです。
『大綱宗彦』(だいこうそうげん)安永1(1772)年~万延元(1860)年
大徳寺435世であり、大徳寺塔頭黄梅院第14世住職でした。
6歳で黄梅院に入り、大徳寺409世で梅院第13世住職である融谷宗通に師事し、文政3(1820)年に大徳寺435世に就任しました。
和歌や茶の湯に深く親しみ、裏千家11代『玄々斎』、表千家10代『吸江斎』、武者小路千家7代『以心斎』と交流しました。
公家等にも広く交友があり、当時の文化サロンの主のような存在であった節が在ります。
喝喰として自身が面倒を見ていた後の『永樂保全』の才能を見抜き、了全に養子にするように段取りしたことも有名です。
そんな、大綱和尚ですが、没時88歳と当時としては長命であり・・・まだ人生の途中であった『80歳』の祝いとして製作されたのが、このお茶碗です。
『清水六兵衛 萩寫 寿之字 拙筆 八十翁 大綱』
別箱として、即中斎の箱書きも添います。
このような、仕覆も大切に誂えられております。
眼鏡箱の外箱になります。
京焼の珍しいものとしても、また国焼のコレクションとしても、そして・・千家道具の組み合わせとしても愉しめる作品となっております。
造り手の技により、薄い造りや凝った造形に、適度な重量感が下部の方に配置することで樂茶碗とはまた異なる、風格として『主茶碗』としてお使いいただきたく思います!
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【朝日焼 八代目長兵衛 茶碗 十五代極め箱】 [幕末京焼]
幕末期の京焼をよく取り扱う当店ですが・・・意外に、抜けておりますのが『朝日焼』だったりします。
小堀権十郎の箱書があったりするモノは何度か扱いましたが、基本的に・・・朝日焼は、きちんとした代特定が難しく、ほとんどが茶碗の雰囲気や箱書きによって伝世し、流通していることが多いものです。
『遠州七窯』の中でも、「本当に」遠州に認められた由緒正しい窯である『朝日焼』です。
初代『陶作』は慶長年間(1600年頃)に開窯しており、家康や秀忠の時代。
小堀遠州の指導により、茶陶の製作を中心としていたようです。
そして「朝日」の2文字を頂き、また・・・2代目『陶作』(初~3代は同名)の時には遠州の三男の『権十郎』により直筆を頂戴したと伝わります。
寛永年間の野々村仁清に先んじて、当時としては珍しい「押印」の窯となったのです。
江戸初期の三代目までは大いに茶の湯が町衆に迄浸透し、世の中も平和であった為に朝日焼も人気を博したようですが、その後・・4代~7代までは不遇の時代であったようです。
舟守など、他の仕事をしながら細々と作陶していたという話です。
そして、『八代目 長兵衛』の時代。
御所の出入りを許されることとなり、公卿庭田家の庇護のもと朝日焼の復興を果たすのです。
慶安年間(1648~1652年)頃に一時廃絶し、文久1(1861)年に再興されたという説(そうすると9代となるのですが、窯元にて8代よりと公言されております)もありますが、いずれにせよ200年近く表舞台から遠ざかったというのは間違いなさそうです。
今回は、その朝日焼の「中興の祖」となった八代目の希少な作品をご紹介致します。
【朝日焼 八代目長兵衛 茶碗】
寸法 幅12.5cm 高さ6.4 高台径 4.5cm
製作年代 文政8(1825)~嘉永5(1853)年
箱 伝世箱 15代朝日豊斎極め外箱
やや小ぶり、のお茶碗です。
しかし、今の時代でスタンダードとなりつつある・・・「各服点」(かくふくだて)の濃茶用としては、抜群の風合い・サイズなのです。
案外・・無地の小ぶりな茶碗というは見つかりにくいモノです。
さすが、再生を果たしたというだけあって、八代目作品は見事な茶陶を実現しております。
形状の端正さ、口造りの綺麗さ。
外側の轆轤目もミドコロが有るのですが、内側の方はさらに魅惑的なのです。
ここで、伝世箱を見てまいりましょう。
朝日焼茶碗
山代国宇治にて
産す
朝日印 右にあるは
婦るき(古き)手なり
甲書きの方は、「朝日 茶碗」「瀧津瀬」
『瀧津瀬』は、水が激しく流れる浅瀬や滝壺、または瀧自体を指しますが、『万葉集』や『古今和歌集』にも登場する言葉です。
10世紀後半に日本初の長編といわれる、『宇津保物語』という・・のちの『源氏物語』の完成に大いに影響を与えたものにも・・・藤原の君による歌で、「滝津せにうかべるあわのいかでかは淵せにしづむ身とはしるべき」と詠まれております。
お茶を頂いた後・・・内側を見ていると、まるで引き込まれそうな、「激しい流れ」を感じます。
『目跡』(めあと)ですら・・・まるで流れの中を泳ぐ『魚』たちにも見えてくるのです。
昔の人の、「銘付け」は粋なものですね。
古朝日や楽山焼によく見られる、『長石』の嚙み込みもいやらしくなく、手に馴染むように収まってます。
『竹節』高台の造形や、高台内の削りも素晴らしいものです。
今では『朝日』印を代々使用しております。
『朝』の一部が『卓』となっているものは権十郎より拝領した印ですので、「2代目」とする向きがあります。
しかしその他は・・・全て『朝日』ですので、代の特定は伝世品の収集と研究をされております窯元以外は難しいのではないでしょうか?
茶人・道具商は箱書きを頼りに推定していることが殆どと思われます。
逆に、そこまで重要視する必要が無く・・というか、むしろ初期の江戸前期と思いたい、という向きが研究の深化につながらなかったという気が致します。
いずれにせよ、江戸時代に入り・・・茶道の公家から武士、ひいては町衆にまで伝播する中、『宇治茶』の人気の高まりはブランドとしての高級化につながり、同じ宇治の地の『朝日焼』もまた・・・高級茶器の産地として認識されるようになったのです。
100年程での衰退、そして200年もの停滞、その後の200年の始まり・・の息吹を感じる、茶碗のご紹介でした。
極め外箱です。
今回の作品も・・・写真ではうまく魅力を再現出来ませんでした。
実物の方がずっと良いですよ。(^^;
※御成約済みです。
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藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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インスタグラムやツイッター、Facebook等のSNS全盛時代ですが・・
ブログでしか表現出来ない情報をお届けする為、『敢えて』ブログ形式に拘っております!
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【BASE 215】 大阪市浪速区日本橋東2-1-5 大阪南美術会館内
当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。
当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。
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小堀権十郎の箱書があったりするモノは何度か扱いましたが、基本的に・・・朝日焼は、きちんとした代特定が難しく、ほとんどが茶碗の雰囲気や箱書きによって伝世し、流通していることが多いものです。
『遠州七窯』の中でも、「本当に」遠州に認められた由緒正しい窯である『朝日焼』です。
初代『陶作』は慶長年間(1600年頃)に開窯しており、家康や秀忠の時代。
小堀遠州の指導により、茶陶の製作を中心としていたようです。
そして「朝日」の2文字を頂き、また・・・2代目『陶作』(初~3代は同名)の時には遠州の三男の『権十郎』により直筆を頂戴したと伝わります。
寛永年間の野々村仁清に先んじて、当時としては珍しい「押印」の窯となったのです。
江戸初期の三代目までは大いに茶の湯が町衆に迄浸透し、世の中も平和であった為に朝日焼も人気を博したようですが、その後・・4代~7代までは不遇の時代であったようです。
舟守など、他の仕事をしながら細々と作陶していたという話です。
そして、『八代目 長兵衛』の時代。
御所の出入りを許されることとなり、公卿庭田家の庇護のもと朝日焼の復興を果たすのです。
慶安年間(1648~1652年)頃に一時廃絶し、文久1(1861)年に再興されたという説(そうすると9代となるのですが、窯元にて8代よりと公言されております)もありますが、いずれにせよ200年近く表舞台から遠ざかったというのは間違いなさそうです。
今回は、その朝日焼の「中興の祖」となった八代目の希少な作品をご紹介致します。
【朝日焼 八代目長兵衛 茶碗】
寸法 幅12.5cm 高さ6.4 高台径 4.5cm
製作年代 文政8(1825)~嘉永5(1853)年
箱 伝世箱 15代朝日豊斎極め外箱
やや小ぶり、のお茶碗です。
しかし、今の時代でスタンダードとなりつつある・・・「各服点」(かくふくだて)の濃茶用としては、抜群の風合い・サイズなのです。
案外・・無地の小ぶりな茶碗というは見つかりにくいモノです。
さすが、再生を果たしたというだけあって、八代目作品は見事な茶陶を実現しております。
形状の端正さ、口造りの綺麗さ。
外側の轆轤目もミドコロが有るのですが、内側の方はさらに魅惑的なのです。
ここで、伝世箱を見てまいりましょう。
朝日焼茶碗
山代国宇治にて
産す
朝日印 右にあるは
婦るき(古き)手なり
甲書きの方は、「朝日 茶碗」「瀧津瀬」
『瀧津瀬』は、水が激しく流れる浅瀬や滝壺、または瀧自体を指しますが、『万葉集』や『古今和歌集』にも登場する言葉です。
10世紀後半に日本初の長編といわれる、『宇津保物語』という・・のちの『源氏物語』の完成に大いに影響を与えたものにも・・・藤原の君による歌で、「滝津せにうかべるあわのいかでかは淵せにしづむ身とはしるべき」と詠まれております。
お茶を頂いた後・・・内側を見ていると、まるで引き込まれそうな、「激しい流れ」を感じます。
『目跡』(めあと)ですら・・・まるで流れの中を泳ぐ『魚』たちにも見えてくるのです。
昔の人の、「銘付け」は粋なものですね。
古朝日や楽山焼によく見られる、『長石』の嚙み込みもいやらしくなく、手に馴染むように収まってます。
『竹節』高台の造形や、高台内の削りも素晴らしいものです。
今では『朝日』印を代々使用しております。
『朝』の一部が『卓』となっているものは権十郎より拝領した印ですので、「2代目」とする向きがあります。
しかしその他は・・・全て『朝日』ですので、代の特定は伝世品の収集と研究をされております窯元以外は難しいのではないでしょうか?
茶人・道具商は箱書きを頼りに推定していることが殆どと思われます。
逆に、そこまで重要視する必要が無く・・というか、むしろ初期の江戸前期と思いたい、という向きが研究の深化につながらなかったという気が致します。
いずれにせよ、江戸時代に入り・・・茶道の公家から武士、ひいては町衆にまで伝播する中、『宇治茶』の人気の高まりはブランドとしての高級化につながり、同じ宇治の地の『朝日焼』もまた・・・高級茶器の産地として認識されるようになったのです。
100年程での衰退、そして200年もの停滞、その後の200年の始まり・・の息吹を感じる、茶碗のご紹介でした。
極め外箱です。
今回の作品も・・・写真ではうまく魅力を再現出来ませんでした。
実物の方がずっと良いですよ。(^^;
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【永樂保全 河濱焼無地 茶碗】 [幕末京焼]
「気づき」というものがあります。
当店では、新たに、手にした作品はまず、べースにて展示し、研究を行い・・その後、惜しみなく展示会に投入するのですが、それには「訳」がございます。
作者とか、作品の「説明」というのはすぐに出来ますが・・・それでは「本質」はまだ見えておりません。
そして、自身の経験や知識というのは、大したこと無いもので。
「解った」つもりにはなっているもので、「その先」にあるものを知りたいのです。
ベースで展示しておりますと、お客様の眼や同業者の眼に触れることで、気付いてないことを知らされたり、またじっくり対峙することで見えてきたりします。
多数お越しになられる「展示会」でもしかり。
年齢にかかわらず、経験や知識を積まれた方からのアドバイスや、お話してる中で自分の中で閃いたりすること等も多々ございます。
そして、これまた年齢や性別にも関係なく、特に知識お持ちでない方の曇りの無い眼で見て頂いた際の感想とか意見・・というのがまた、真理をついてることがあるものです。
当店の営業スタイルならでは、の双方向コミュニケーションが作品の理解を深めてくれるものと有難く思っております。
そういう、過程で・・最初の自己評価以上に、お客様の評価が高かった作品のご紹介を致します。
【永樂保全 河濱焼無地 茶碗】
サイズ 幅 10.7cm
高さ 8.3cm
高台径 5.3cm
製作年代 嘉永2(1849)~3(1850)頃
箱 共箱 而全極め添え書
嘉永元年、永楽善一郎を名乗っていおりました保全は、「やすたけ(保全)」へと号を変えます。
それは、その後7年の間に続く苦難の旅路のはじまりでした。
嘉永3年10月に江戸へ向かうのですが、その直前である嘉永2~3年頃、滋賀県琵琶湖畔である、膳所の地で作っていた作品群があります。
「河濱焼」(かひんやき)
京焼や中国陶磁器の「写し」の専門であった永楽保全が、おそらく・・・唯一、国内他地方のやきものを意識した「国焼」に挑戦したものです。
元は、「絵唐津」にインスピレーションを受けたようなテイストで、堀内家の5代目である「鶴叟・不識斎」の還暦を記念した製作であったと思しきもので、不識斎自身の雅味あふれる鉄絵による絵付けが施された保全の手によるゆがみを持ったお茶碗が中心のやきものです。
当方も好きなやきもので、よく扱うのですが・・・・
今回、ご紹介するのは「絵付け無し」の個体なのです。
スッキリした感じです。
形状やサイズは、非常に手に馴染むモノで、「茶碗」として秀逸なものです。
正面はややへこみを持たせております。
反対側です。
口造りや茶溜まりも、非常に点て易いようになっております。
この、大きく回り込むような轆轤での造りの大胆かつ、見事なこと。
高台周りもよく作られております。
箆目、による削り出しの妙が冴えております。
「河濱」銘です。
箱
甲書きです。
保全の共箱となります。
通常は、「不識斎」の箱のみとなり、保全の共箱は存在しません。
それ故にこの個体は、不識斎の絵付けが無い為に共箱が存在し、希少なものとなります。
また、筆跡により保全時代の最初期と判断出来るのです。
17代永楽の隠居号である、「而全」の極めが添え書きされております。
おそらく、この保全筆跡を見慣れてない方もいらっしゃる為に、わざわざ付けたのでしょう。
「河濱焼」は古来より珍重される為、高値で流通がされていたので基本的には伝世品は荒れていないモノが多いのです。
共紐や、添え書状も現存することも有ります。
さて・・・話を最初に戻しましょう。
このお茶碗は、私としましては・・・不識斎の画によるお茶碗を見すぎていたせいで、逆に物足りなく思っていた作品でした。
確かに、茶道具商や道具数寄の男性方には、私と同じような印象を持たれている様な方々が多かったのです。
しかし、裏腹に・・・年齢を問わす、女性の方々のこのお茶碗への評価の高さは目を見張るものがありました。
そういう方々のお話を伺っておりますと、このお茶碗で見えていなかったモノがどんどん見えてきました。
大きさ、重量、いやらしくなく、それでいて綺麗にかけられた釉薬、造り手の目線から見た場合は、轆轤の引き方から薄さの造り、そして箆での形成や高台造りにいたるところの秀逸さ。
経験や欲目で目が曇っていたことを気付かされたのです。
そして、不思議なことに、このお茶碗は、その魅力をきちんと写真では収められないことが出来ないということも気づいたのです。
X(ツイッター)やインスタグラムが苦手な私でありますが、まだまだブログも甘ちゃんなのです。(^^;
※ご成約済みです。
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当店では、新たに、手にした作品はまず、べースにて展示し、研究を行い・・その後、惜しみなく展示会に投入するのですが、それには「訳」がございます。
作者とか、作品の「説明」というのはすぐに出来ますが・・・それでは「本質」はまだ見えておりません。
そして、自身の経験や知識というのは、大したこと無いもので。
「解った」つもりにはなっているもので、「その先」にあるものを知りたいのです。
ベースで展示しておりますと、お客様の眼や同業者の眼に触れることで、気付いてないことを知らされたり、またじっくり対峙することで見えてきたりします。
多数お越しになられる「展示会」でもしかり。
年齢にかかわらず、経験や知識を積まれた方からのアドバイスや、お話してる中で自分の中で閃いたりすること等も多々ございます。
そして、これまた年齢や性別にも関係なく、特に知識お持ちでない方の曇りの無い眼で見て頂いた際の感想とか意見・・というのがまた、真理をついてることがあるものです。
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そういう、過程で・・最初の自己評価以上に、お客様の評価が高かった作品のご紹介を致します。
【永樂保全 河濱焼無地 茶碗】
サイズ 幅 10.7cm
高さ 8.3cm
高台径 5.3cm
製作年代 嘉永2(1849)~3(1850)頃
箱 共箱 而全極め添え書
嘉永元年、永楽善一郎を名乗っていおりました保全は、「やすたけ(保全)」へと号を変えます。
それは、その後7年の間に続く苦難の旅路のはじまりでした。
嘉永3年10月に江戸へ向かうのですが、その直前である嘉永2~3年頃、滋賀県琵琶湖畔である、膳所の地で作っていた作品群があります。
「河濱焼」(かひんやき)
京焼や中国陶磁器の「写し」の専門であった永楽保全が、おそらく・・・唯一、国内他地方のやきものを意識した「国焼」に挑戦したものです。
元は、「絵唐津」にインスピレーションを受けたようなテイストで、堀内家の5代目である「鶴叟・不識斎」の還暦を記念した製作であったと思しきもので、不識斎自身の雅味あふれる鉄絵による絵付けが施された保全の手によるゆがみを持ったお茶碗が中心のやきものです。
当方も好きなやきもので、よく扱うのですが・・・・
今回、ご紹介するのは「絵付け無し」の個体なのです。
スッキリした感じです。
形状やサイズは、非常に手に馴染むモノで、「茶碗」として秀逸なものです。
正面はややへこみを持たせております。
反対側です。
口造りや茶溜まりも、非常に点て易いようになっております。
この、大きく回り込むような轆轤での造りの大胆かつ、見事なこと。
高台周りもよく作られております。
箆目、による削り出しの妙が冴えております。
「河濱」銘です。
箱
甲書きです。
保全の共箱となります。
通常は、「不識斎」の箱のみとなり、保全の共箱は存在しません。
それ故にこの個体は、不識斎の絵付けが無い為に共箱が存在し、希少なものとなります。
また、筆跡により保全時代の最初期と判断出来るのです。
17代永楽の隠居号である、「而全」の極めが添え書きされております。
おそらく、この保全筆跡を見慣れてない方もいらっしゃる為に、わざわざ付けたのでしょう。
「河濱焼」は古来より珍重される為、高値で流通がされていたので基本的には伝世品は荒れていないモノが多いのです。
共紐や、添え書状も現存することも有ります。
さて・・・話を最初に戻しましょう。
このお茶碗は、私としましては・・・不識斎の画によるお茶碗を見すぎていたせいで、逆に物足りなく思っていた作品でした。
確かに、茶道具商や道具数寄の男性方には、私と同じような印象を持たれている様な方々が多かったのです。
しかし、裏腹に・・・年齢を問わす、女性の方々のこのお茶碗への評価の高さは目を見張るものがありました。
そういう方々のお話を伺っておりますと、このお茶碗で見えていなかったモノがどんどん見えてきました。
大きさ、重量、いやらしくなく、それでいて綺麗にかけられた釉薬、造り手の目線から見た場合は、轆轤の引き方から薄さの造り、そして箆での形成や高台造りにいたるところの秀逸さ。
経験や欲目で目が曇っていたことを気付かされたのです。
そして、不思議なことに、このお茶碗は、その魅力をきちんと写真では収められないことが出来ないということも気づいたのです。
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【永楽和全 昻子金襴手 向付】 6客 [幕末京焼]
幅 約12.3cm
高さ 約6cm
高台径 約4.8cm
製作年代 天保14(1843)~明治4(1871)年頃
箱 共箱
和全は天保14(1843)年に保全が隠居し、21歳で善五郎の12代目を襲名しました。
保全は嘉永7(1854)年に没するまで一線級の作陶活動を続けており、『永楽家』としては2つの才能がそれぞれに、素晴らしい作品たちを世に出していた黄金期ともいえます。
しかし、和全が実質的に善五郎としてデビューとなったのは、嘉永5(1852)年に『佐野長寛』の次男であり、和全の義弟であります‥『西村宗三郎』と共に『大内山』に築いた『御室窯』です。
この地は、『野々村仁清』の窯跡であり、宗三郎の所有する土地であったといわれます。
それは、仁清の名の威を借り・・・大々的に「永楽家初となる本窯」所有の宣伝の意味合いも含んでのことであったと思われるのです。
江戸初期の仁清・乾山の時代から京焼は、衰退期となっており‥江戸後期に様々な名工・新しい技術などにより、再び花開いてきている、時代背景でもありました。
和全独自の特徴として・・・・
『金襴手の磁器焼成』、『布目の意匠化』、『削ぎ落としの美学の菊谷焼』
この3点に尽きると考えます。
金襴手に於いては、金泥による絵付けであった保全に対して、和全では『金箔』の絵付けを実現しております。
これによりさらに、中国磁器の侘びた風合いの再現が可能となったのです。
今回ご紹介の『向付』は、まさに和全の得意とするものでした。
丁寧に形成された陶胎に、丁寧な絵付けが施されております。
赤絵、の絵付けに染付による『玉取獅子』が見込みに描かれております。
この染付は、やや薄目・・・に思えるかもしれませんが、ここは意図したところでしょう。
外側がかっちりとした赤絵絵付けを中心とした絵付けであったら、内側は濃い呉須の方が合いますが、そとが赤地金襴であるため、その風合いを生かすには内側はこのくらいの呉須がバランスが良いのです。
高台周りまで計算された造りを為された上、高台内には砂のひっつきまでの再現されております。
北宋時代の『定窯(ていよう)』にて『金花』とよばれる金箔文様の焼付けの技術が、磁器としての金襴の最初であったといいます。
比較的、地味な柿釉や黒地に金彩のようです。
元時代以後は景徳鎮窯におきましても金襴手が焼かれ、明の嘉靖年間での『白磁五彩地』や『金箔文様』によるものがいわゆる『金襴手』として渡来し、日本に於きましても江戸時代の中期頃に大いに人気となります。
それが故に、江戸時代後期に『手に入れることのできる写し』として国内製の需要があったというのが理解できるのです。
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【三代 高橋道八 赤樂栄螺 蓋置】 [幕末京焼]
歴代『高橋道八』では・・・やはり、どうしても2代目であります、『仁阿弥道八』に注目が集中しがちであります。
実際、当店でも道八では仁阿弥が取り扱いのほとんど、と言っても過言ではありません。
しかし、後代でもなかなかのモノもあります。
特に三代では、正直・・・仁阿弥にひけを取らない優品の多さが目立ちます。
2014年、サントリー美術館で開催された『天才陶工 仁阿弥道八』展の『第7章』に於きましては、『仁阿弥道八』と『三代』の同じテーマの作品を比較展示しておりましたが、いずれもレベルとしては遜色なく、それでいて共通するテイストを保ちながら・・・それぞれの個性が発揮されているのを感じました。
道八家は、実は初代より『樂焼』に良さがあるというのはあまり知られておりません。
概ね、お茶碗ばかりとなるのですが・・・本樂見紛うもの、違えども良きもの、が存在します。
今回ご紹介しますのは、「お茶碗」ではないのですが、なかなかの佳品なのです。
【三代 高橋道八 赤樂栄螺 蓋置】
幅 7x6.4cm
高さ 4.3cm
製作年代 天保13(1842)~明治7(1874)年頃
箱 共箱
三代道八は、『高橋光英』といい、文化8(1811)年に生まれました。
丁度、仁阿弥道八が、『粟田口』から『五条坂』へ窯を移した年です。
その後、父の元で修行を重ね・・・文政10(1827)年の紀州御庭焼『偕楽園』へ赴いた際にも、また天保3(1831)年の高松藩主の招聘による『讃窯』築窯も同行し、天保13(1842)年には伏見桃山へ隠居した父に代わって、家督を継ぐことになるのです。
見事な赤樂による蓋置で、『窯変』の景色も抜群です。
これは『栄螺』蓋置で、『利休七種蓋置』のひとつとなります。
『火舎香炉』
『五徳』
『三葉』
『一閑人』
『蟹』
『栄螺』
『三閑人』
利休といいつつ、武野紹鴎による選定もあったりとするようですが。
小さな香炉を転用したという『火舎(穂屋)』や、書院茶の頃からの『墨台』を流用した蟹というものもあります。『栄螺』は本物の内側に金箔を貼ったものが最初という説も。
これらの蓋置が元となり、利休時代に『竹蓋置』が用いられるようになるのです。
七種は唐銅のものが基本となっておりますようですが、江戸時代になってやきもので模した作品たちが生まれました。
書院 ⇒ 小間 (棚無し) ⇒ 広間 (棚) と茶道の主流が移り行く中で、道具も変遷していく様です。
けっこう、しっかりした造りと焼で、あやうい感じが全くありません。
突起部も、下手したら・・・永楽のものより丈夫な感じです。
もちろん、本樂よりも。
フォルムも色も良し、なのです。
印はこのように・・・内側に押印されております。
共箱です。
おそらく、幕末期のものでしょう。
※ご成約済みです。
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実際、当店でも道八では仁阿弥が取り扱いのほとんど、と言っても過言ではありません。
しかし、後代でもなかなかのモノもあります。
特に三代では、正直・・・仁阿弥にひけを取らない優品の多さが目立ちます。
2014年、サントリー美術館で開催された『天才陶工 仁阿弥道八』展の『第7章』に於きましては、『仁阿弥道八』と『三代』の同じテーマの作品を比較展示しておりましたが、いずれもレベルとしては遜色なく、それでいて共通するテイストを保ちながら・・・それぞれの個性が発揮されているのを感じました。
道八家は、実は初代より『樂焼』に良さがあるというのはあまり知られておりません。
概ね、お茶碗ばかりとなるのですが・・・本樂見紛うもの、違えども良きもの、が存在します。
今回ご紹介しますのは、「お茶碗」ではないのですが、なかなかの佳品なのです。
【三代 高橋道八 赤樂栄螺 蓋置】
幅 7x6.4cm
高さ 4.3cm
製作年代 天保13(1842)~明治7(1874)年頃
箱 共箱
三代道八は、『高橋光英』といい、文化8(1811)年に生まれました。
丁度、仁阿弥道八が、『粟田口』から『五条坂』へ窯を移した年です。
その後、父の元で修行を重ね・・・文政10(1827)年の紀州御庭焼『偕楽園』へ赴いた際にも、また天保3(1831)年の高松藩主の招聘による『讃窯』築窯も同行し、天保13(1842)年には伏見桃山へ隠居した父に代わって、家督を継ぐことになるのです。
見事な赤樂による蓋置で、『窯変』の景色も抜群です。
これは『栄螺』蓋置で、『利休七種蓋置』のひとつとなります。
『火舎香炉』
『五徳』
『三葉』
『一閑人』
『蟹』
『栄螺』
『三閑人』
利休といいつつ、武野紹鴎による選定もあったりとするようですが。
小さな香炉を転用したという『火舎(穂屋)』や、書院茶の頃からの『墨台』を流用した蟹というものもあります。『栄螺』は本物の内側に金箔を貼ったものが最初という説も。
これらの蓋置が元となり、利休時代に『竹蓋置』が用いられるようになるのです。
七種は唐銅のものが基本となっておりますようですが、江戸時代になってやきもので模した作品たちが生まれました。
書院 ⇒ 小間 (棚無し) ⇒ 広間 (棚) と茶道の主流が移り行く中で、道具も変遷していく様です。
けっこう、しっかりした造りと焼で、あやうい感じが全くありません。
突起部も、下手したら・・・永楽のものより丈夫な感じです。
もちろん、本樂よりも。
フォルムも色も良し、なのです。
印はこのように・・・内側に押印されております。
共箱です。
おそらく、幕末期のものでしょう。
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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【眞葛長造 模仁清ゆづり葉茶碗】 鵬雲斎大宗匠箱 [幕末京焼]
6月23日~25日に名古屋美術倶楽部にて開催されます『名美アートフェア』
昨年は、特集~『幕末京焼の煌き』の予定でご用意しておりましたが、有難いことに事前に数々ご成約を頂戴してしまい・・・特集展示が出来なくなってしまいました
今年こそは!とリベンジのつもりでおりましたが、いきなり図録掲載作品(長造 倣呉祥瑞茶碗)が刊行直後にご成約となってしまい、またしても?というところですが今回は、ちゃんと代わりの作品をご用意しております☆
ということで、名美AFの看板(代)のご紹介です。(^^;
【眞葛長造 模仁清ゆづり葉 茶碗】
幅 12.3cm
高さ 7.3cm
高台径 4.7cm
製作年代 江戸後期(1850年頃)
箱 共箱、鵬雲斎大宗匠箱、塗外箱(眼鏡)
野々村仁清、といえば寛永時代の煌びやかさが体現されたかのような『色絵』作品がイメージとして思い浮かべられることが多いと思います。
しかし、『轆轤』の技で無釉での造形を魅力としたものや、『銹絵』のみで『侘び』と『はんなり』を表現したものも仁清ならではのものです。
この作品は、後者に類するもので・・・・
江戸初期から停滞していた京焼が、江戸後期にふたたび百花繚乱のごとく技術革新と新たな陶工たちが登場する中、『仁清』の再来ともいえる名工が『眞葛長造』です。
まずは、作品をご覧いただきましょう。
意匠となる『ゆづり葉』は、成長した新しい葉を見届けるように古い葉が落ちることから、『世代交代』や『継承』を意味し、子孫繁栄の縁起ものとしてお正月飾りにもなりました。
『銹絵』による絵付けですが、やや光沢がかった部分もあります。
高取釉や天目釉のような感じです。窯変による発色でしょう。
眞葛窯の特徴でもある『藁灰釉』の柔和さに、単色の『鉄絵』を茶碗というキャンバスの中で自由に描かれており、右側のスッと伸びる生き生きしたものが『新葉』、左側のやや斜めにかすんだ感じのものが『古葉』を表しているのでしょうか。
茶碗の左右だけで・・・『時の移ろい』を感じさせるのです。
『動』と『静』
『生』と『死』
『有』と『無』
いづれも、表裏一体であり離して考えることはできないものです。
禅の心にも通じましょうか。
『青木木米』に師事し、京都『眞葛ヶ原』にて開窯した『眞葛長造』<寛政9(1797)~万延元(1860)年>は、彗星のごとく現れ活躍した『幕末京焼・三大名工』のひとりとして『仁阿弥道八』『永樂保全』と並び高く評されております。
徳川時代、初期京焼として現代に至る迄大きな影響を与え続ける『仁清・乾山』の伝統を完全に吸収、自身のセンスにて表現する作品を生み出し、『眞葛焼』なるものを確固たる評価の元に知らしめました。
その『精神性』や『技』は、四男である『虎之助』へと継承されます。
のちに、『初代 宮川香山』として世界にマクズウェアの名を轟かせました。
実は、『香山』の名を最初に名乗っていたのは『長造』です。
晩年期に『香山』号を使用しておりました。
全体としてはかなり希少な部類になる、『香山』記名の共箱です。
1850年~1860年の間の一期間であると思われます。
個人的研究ではその10年の内でも前期頃だと推測します。
先日、『100歳』を迎えられた『鵬雲斎大宗匠』の箱も有ります。
2つの箱を眼鏡タイプの塗外箱に仕舞われます。
長造作品は、『伊木三猿斎』も個人的に傾倒しており多数を自身の蔵へとコレクションしており、果てには香山を招聘し、庭焼きとして『むしあげ焼』の改良を指導を依頼するまでになります。
また、海外へは輸出されておりませんでしたが、『エドワード・S・モース』や『ジョルジュクレマンソー』が、日本にて長造作品を数多く求め、海外に渡ることとなりました。
現在では、米・ボストン美術館、カナダ・モントリオール美術館・イギリス・アシュモリアン美術館にも所蔵作品を見ることが出来ます。
茶人や、国焼愛好家の間では知られていた長造ですが、一般的にはメジャーとまではいえません。
それは『知る人ぞ知る』という存在で愉しまれていたことと、数が多いようで少ないことも要因です。
陶工を多数使って大規模に製作していた窯ではなく、あくまで本人による単独アーティスト的であったのでしょう。
平成に入ってから『茶道資料館』にて開催されたのは単一展観としては初でした。
この作品はいわば、『零代・香山』といえるものです。
今ではメジャーな眞葛香山の再評価もわずか20年程前からのスタートです。長造の再評価は、まだこれからなのかもしれません。
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昨年は、特集~『幕末京焼の煌き』の予定でご用意しておりましたが、有難いことに事前に数々ご成約を頂戴してしまい・・・特集展示が出来なくなってしまいました
今年こそは!とリベンジのつもりでおりましたが、いきなり図録掲載作品(長造 倣呉祥瑞茶碗)が刊行直後にご成約となってしまい、またしても?というところですが今回は、ちゃんと代わりの作品をご用意しております☆
ということで、名美AFの看板(代)のご紹介です。(^^;
【眞葛長造 模仁清ゆづり葉 茶碗】
幅 12.3cm
高さ 7.3cm
高台径 4.7cm
製作年代 江戸後期(1850年頃)
箱 共箱、鵬雲斎大宗匠箱、塗外箱(眼鏡)
野々村仁清、といえば寛永時代の煌びやかさが体現されたかのような『色絵』作品がイメージとして思い浮かべられることが多いと思います。
しかし、『轆轤』の技で無釉での造形を魅力としたものや、『銹絵』のみで『侘び』と『はんなり』を表現したものも仁清ならではのものです。
この作品は、後者に類するもので・・・・
江戸初期から停滞していた京焼が、江戸後期にふたたび百花繚乱のごとく技術革新と新たな陶工たちが登場する中、『仁清』の再来ともいえる名工が『眞葛長造』です。
まずは、作品をご覧いただきましょう。
意匠となる『ゆづり葉』は、成長した新しい葉を見届けるように古い葉が落ちることから、『世代交代』や『継承』を意味し、子孫繁栄の縁起ものとしてお正月飾りにもなりました。
『銹絵』による絵付けですが、やや光沢がかった部分もあります。
高取釉や天目釉のような感じです。窯変による発色でしょう。
眞葛窯の特徴でもある『藁灰釉』の柔和さに、単色の『鉄絵』を茶碗というキャンバスの中で自由に描かれており、右側のスッと伸びる生き生きしたものが『新葉』、左側のやや斜めにかすんだ感じのものが『古葉』を表しているのでしょうか。
茶碗の左右だけで・・・『時の移ろい』を感じさせるのです。
『動』と『静』
『生』と『死』
『有』と『無』
いづれも、表裏一体であり離して考えることはできないものです。
禅の心にも通じましょうか。
『青木木米』に師事し、京都『眞葛ヶ原』にて開窯した『眞葛長造』<寛政9(1797)~万延元(1860)年>は、彗星のごとく現れ活躍した『幕末京焼・三大名工』のひとりとして『仁阿弥道八』『永樂保全』と並び高く評されております。
徳川時代、初期京焼として現代に至る迄大きな影響を与え続ける『仁清・乾山』の伝統を完全に吸収、自身のセンスにて表現する作品を生み出し、『眞葛焼』なるものを確固たる評価の元に知らしめました。
その『精神性』や『技』は、四男である『虎之助』へと継承されます。
のちに、『初代 宮川香山』として世界にマクズウェアの名を轟かせました。
実は、『香山』の名を最初に名乗っていたのは『長造』です。
晩年期に『香山』号を使用しておりました。
全体としてはかなり希少な部類になる、『香山』記名の共箱です。
1850年~1860年の間の一期間であると思われます。
個人的研究ではその10年の内でも前期頃だと推測します。
先日、『100歳』を迎えられた『鵬雲斎大宗匠』の箱も有ります。
2つの箱を眼鏡タイプの塗外箱に仕舞われます。
長造作品は、『伊木三猿斎』も個人的に傾倒しており多数を自身の蔵へとコレクションしており、果てには香山を招聘し、庭焼きとして『むしあげ焼』の改良を指導を依頼するまでになります。
また、海外へは輸出されておりませんでしたが、『エドワード・S・モース』や『ジョルジュクレマンソー』が、日本にて長造作品を数多く求め、海外に渡ることとなりました。
現在では、米・ボストン美術館、カナダ・モントリオール美術館・イギリス・アシュモリアン美術館にも所蔵作品を見ることが出来ます。
茶人や、国焼愛好家の間では知られていた長造ですが、一般的にはメジャーとまではいえません。
それは『知る人ぞ知る』という存在で愉しまれていたことと、数が多いようで少ないことも要因です。
陶工を多数使って大規模に製作していた窯ではなく、あくまで本人による単独アーティスト的であったのでしょう。
平成に入ってから『茶道資料館』にて開催されたのは単一展観としては初でした。
この作品はいわば、『零代・香山』といえるものです。
今ではメジャーな眞葛香山の再評価もわずか20年程前からのスタートです。長造の再評価は、まだこれからなのかもしれません。
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