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【蒟醤 亀 香合 (啐啄斎 判) 吸江斎 箱】 [茶道具]

【2024年1月17日加筆】



「贔屓(ひいき)」というコトバ・・・普段から、何気なく使っているものです。

しかし、案外と由来は知られておりません。


それは、『贔屓亀(ひきがめ)』という『神獣』の存在から来ているのです。


その辺りの事情は後述するとしまして・・・


今回は、その『贔屓亀』を模した作品のご紹介です。



キンマ亀香合 (4)-1.jpg


【蒟醤 亀 香合 (啐啄斎 判)】 


幅    6.5cm x 6cm 

高さ   3.8cm

製作年代 江戸時代

箱    吸江斎 箱   駒沢利斎 作



とても、品の良い作品です。


『蒟醤(きんま)』により製作されております。



中国の『填漆(てんしつ)』技法が、中国の南方(四川・雲南地方)より・・タイやミャンマーに伝わり、現地の民工芸品として発展し、普及したものが『蒟醤(きんま)』と云われます。

その後、室町時代末期頃に日本に伝来し人気を博したのです。

日本に於きましては、そこから数百年の長き時の流れのあと・・・江戸時代後期に『玉楮 象谷(たまかじぞうこく)』により他の漆技術と共に完成され、以降「讃岐」のお家芸となり知られるようになりました。



竹や木、乾漆などで形成した器物の上に、漆を塗り重ね・・・『蒟醤剣』にて文様を彫り込みます。

その後、彫溝に色漆を埋め込み、表面を研ぎ出すことで文様を表現する技法です。

研ぎ出し方によりハッキリとも、味わい深くとも自在に表現出来ます。


語源は、タイ語の「キン・マーク」であり、噛むという意味の「キン」+「マーク」は檳榔樹(びんろうじゅ)の実を意味します。

現地では、清涼剤として檳榔樹の実と貝灰を混ぜ草の葉に巻いて噛む風習があり、

それらを入れる容器に施された線刻文様も『キンマ』と呼ぶようになったと言われております。


この作品は、そういった現地の実用美術品の渡来ではなく、江戸期に『盒子』として作られたものが渡来したものと思われます。



キンマ亀香合 (5)-1.jpg


愛らしいフォルムです。

キンマ亀香合 (7)-1.jpg

甲羅の紋様もイイ感じです。


「角」が生えております。「神獣」を模しております。


キンマ亀香合 (6)-1.jpg

平べったく作られております。

これには、意味があるのです。



『竜生九子(りゅうせいきゅうし)』という、中国の伝説上の生物があります。

それは・・・竜が生んだ九匹の子で、それぞれ姿形も性格も異なっているといいます。

各々の性格で、様々な場所で各々の活躍を見せますが・・決して、竜になることは出来ませんでした。

これを『竜生九子不成竜』といいます。


いくつか、それを解した書物が伝わっておりますが少しづつ違いもあるようで・・今回は以下の文献を引用致します。


『升庵外集』(楊慎, 1488~1559年)『天禄識余』の説


1. 贔屓(ひき)

形状は亀に似ている。重きを負うことを好む。


2. 螭吻(ちふん)

形状は獣に似ている。遠きを望むことを好む。


3. 蒲牢(ほろう)

形状は竜に似ている。吼えることを好む。


4. 狴犴(へいかん)

形状は虎に似ている。力を好む。または悪人を裁くを好む。


5. 饕餮(とうてつ)

形状は獣に似ている。飲食を好む。


6. (はか)

形状は魚に似ている。水を好む。


7. (がいさい)

形状は竜に似ている。殺すことを好む。


8. (さんげい)

形状は獅子に似ている。煙や火を好む。


9. (しょうず)

形状は貝にも蛙にも似ている。閉じることを好む。



(※6~9の漢字が、入力投稿するとエラーを起こしましたので、平仮名で申し訳ございません。)


今回の作品のモチーフは、『贔屓亀』なのです。


中国では、『贔屓亀』の石像が各地で設置されております。その後、朝鮮半島や日本にも広まったようです。

それらは『重たい柱』を背負った様子になっているのです。


hiikigame.jpg

各地に存在しますが、こちらが一番今回の作品に近いでしょうか?




『贔屓』は古くは・・『贔屭』という文字でした。

「贔」は「貝」が三つで、これは財貨が多くあることを表します。

「屭」はその「贔」を「尸」の下に置いたものであろ、財貨を多く抱えることを表します。

「この財貨を多く抱える」ということが、「大きな荷物を背負う」ということに繋がり・・・石像などでその様子が表され、「盛んに力を使う」「鼻息を荒くして働く」などの意味をもつようになったそうです。

「ひき」の音は、中国語で力んだ時の擬音語からきております。


長くなりましたが・・・なので、「重たいもの」を背負っているので平べったいのです。


そして、「龍の子」であったことから、頭に「耳」が生えているのです。



キンマ亀香合 (11)-1.jpg


「鱗」の紋様らしき意匠もありますね。


キンマ亀香合 (9)-1.jpg


この作品の蓋裏には、『啐啄斎(そったくさい)』の花押が在ります。


表千家8代目、『件翁宗左 啐啄斎(そったくさい)』 (1744生~1808年没)


寛政~文化年間頃です。


贔屓亀の文献が現れるのは1500年代前半になります。

作品の造りの丁寧さからも・・おそらく江戸時代前期頃に渡来、ないし注文したものと推測されます。


キンマ亀香合 (3)-1.jpg


箱は、表千家十代『祥翁 吸江斎(きゅうこうさい)』です。

おそらく35歳頃の筆でしょう。

キンマ亀香合 (12)-1.jpg

型取って仕立てられた『仕覆』が添います。


キンマ亀香合 (1)-1.jpg

キンマ亀香合 (2)-1.jpg


利斎は九代目でしょう。



キンマ亀香合 (4)-1.jpg


最後に・・・・「贔屓の引き倒し」という諺がございます。

「ある者を贔屓しすぎると、かえってその者の不利となって、為にはならない」

という意味であり・・・それは、『贔屓亀』の上に載っている柱の土台となる『贔屓』を引っぱると、柱が倒れるいうことから来ているのです!



さて、色んなキーワードが含まれたこの作品、如何様にもお愉しみ下さいませ☆



※ご成約済みです。


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【樂 慶入 桐ノ画 菓子皿 碌々斎 自画】 [茶道具]

『表流』のお道具のご紹介が続きます。


『樂家』の初代とされます『長次郎』が『田中宗慶』や『田中宗味』『田中常慶』らと工房を共にし、一緒に製作していたことは広く知られております。


『田中宗慶』 『天下一焼き物師』の名を許される。長次郎の『妻』の『祖父』

『田中宗味』 宗慶の子 宗味の娘が長次郎の『妻』※上記の注釈と同じく

『田中常慶』 宗慶の子 



『常慶』は、『吉左衛門』を名乗っており、長次郎や宗慶没後の樂家を引き継いだことから、『二代目』ということになり、以降の樂家では『吉左衛門』の名を継承することになりました。


『常慶』は、時代の流れに併せて長次郎・宗慶時代には無かった、『土見せ』や『沓形』を取り入れ、また・・・新しい釉薬として『白釉』と呼ばれる、後世では『香炉釉』というものを生み出しました。


常慶没後・・・250年の月日が経った、明治17(1884)年。


この作品が製作されるのです。



慶入 碌々斎自画菓子皿 (3)-1.jpg



【樂 慶入 桐ノ画 菓子皿 碌々斎 自画】


サイズ  幅22cm 高さ2.3cm

製作年代 明治17(1884)年頃

箱    共箱  入札落札付属



表千家11代『碌々斎』が48歳位の時、『常慶250回忌』が行われました。

その際に製作されたのがこの作品です。


慶入 碌々斎自画菓子皿 (4)-1.jpg



樂家も11代目、慶入の時代です。

慶入は旦入の娘である『妙國』の婿養子となり、弘化2(1845)年に十一代吉左衞門を襲名しました。

明治4年(1871)剃髪隠居して慶入と号しましたが、碌々斎とは縁も深く『皆伝』も授与されております。

抹茶茶道衰退期である、明治期を含む75年間を苦労して製作活動を続けており、茶碗以外の懐石道具や置物等多岐にわたる作品を遺しております。

共通するのが、上品さ。


この作品も形状や造りに、丁寧さと上品さがにじみ溢れております。


お気づきのことでしょう。



『常慶』を偲ぶ作品ですから、『香炉釉』なのです!


慶入 碌々斎自画菓子皿 (6)-1.jpg


なので、『土見せ』も設けられております。


慶入 碌々斎自画菓子皿 (5)-1.jpg


碌々斎が、書付と朱書のみならず・・・表面の『桐』の絵も描いているのです!


また、この時にのみ、用いられた『天下一』印は、常慶の父である田中宗慶を包括した田中家へのリスペクトなのです。


慶入 碌々斎自画菓子皿 (2)-1.jpg



慶入 碌々斎自画菓子皿 (1)-1.jpg


共箱


慶入 碌々斎自画菓子皿 (7)-1.jpg


過去の売立入札の落ち札です。


あ・・・『藤井』になってる。(笑)


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主菓子を3つ盛り、して楽しみたいお道具です。



※ご成約済みです。




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【十代 中川浄益 七宝鳳凰耳 柄杓立 惺斎 十五ノ内】 [茶道具]

今回は、珍しい金属作品のご紹介となります。

千家十職の一家として数えられるも・・現在は後継ぎの事情により、やむなく「欠番」状態となっております『中川浄益』の作品です。




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【十代 中川浄益 七宝鳳凰耳 柄杓立】



製作年代 昭和初頭 (1926~1928年頃)


サイズ  幅 9.3cm 高さ 16.7cm


箱    惺斎 箱  十五の内

     共箱 2重箱




『杓立』としては、若干低め・・であり、幅はふっくらと『花入並』です。

とても愛らしい形状であるものの、それを取り巻く意匠の数々が『渋い』ことにより引き締めております。



日本では、『金属工芸』はかなり・・・古くより、南方や大陸からもたらされたモノにより早い段階より知られておりました。


2000年前には青銅器が伝わり、宋時代(960~1279年)や元時代(1271~1386年)の『唐銅(からかね)』のものが珍重されてきたわけですが、利休時代には『書院茶』から『侘び茶』へと移行する際に『竹』へと主流が移行します。

また、食器につきましても・・・丁度、『正倉院』ならびに『正倉院展』を見てきたところですが、その正倉院には未だに未使用の『砂張』の食器が多数眠ったままといい、また日常に於きましても日本人は古来より『木工』の食器を中心としてきました。(現代では陶磁器ですが)


この辺は、『金属』というものがおそらくは農耕民族である日本人にとっては馴染めないもの、『格調高い』ものであるという認識が関係しているのかもしれません。

高湿度な日本では樹木が豊富で身近な素材でありましたので。

しかし、神社仏閣では要所要所に金属作品が見られ、長い歴史の中でも金属加工技術は確実に継承・発展してきました。

そんな中・・・利休に『腰黒薬缶』を依頼され、製作したことで千家との繋がりが深くなったのが『浄益家』です。

それは天正15(1587)年の『北野大茶会』で使用する為のもので、初代浄益(当時はまだ『紹益』)が造ったものです。

他にも『火箸』の製作もあり、この2種が『中川浄益』に利休より許された『家業』であります。


最後の十一代浄益さんの言によれば、寛永年間頃より千家出入りとなり、江岑の指導を受けたといいます。


その後、家元好みのものを製作したりと脈々と歴史を紡いできました。


さて・・・時代は進み・・・明治時代、抹茶茶道の衰退により浄益家は八代~九代頃に大きな借財を背負うことになりました。

しかし、『内国勧業博覧会』や『万国博覧会』等の開催により『貿易』としての日本美術作品がもてはやされることとなります。

浄益も茶道具以外のハイレベルな工芸品の製作を行いました。


その流れから、大正時代より抹茶茶道の復権で茶道具製作が復活するのですが、そこに明治頃よりの新たな感性・技を併せ持った浄益の新時代茶道具の登場となるのです。


前置きが長くなりましたが・・・とういう時代背景の元に生まれた、逸品作品のご紹介なのです。


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複雑な形状を持っております。


筋により口縁部より、5つの範囲を区切り意匠化してます。


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『環付』は『鳳凰』の顔の意匠です。


こうした全体の丸みや細かい形の造形を可能とするのが『鋳金(ちゅうきん)』の技術です。

銅の合金を高熱で溶解し、型に流し込むことで形成します。


よく、量産する為の鋳金と混同されますが、複雑な形状の実現の為に選択される技法でもあります。

銅には鉛や『錫(すず)』を混入し上質な銅と致します。


それが『青銅』というものです。

時代を経ると、青錆が発生することから名付けられました。


茶道具の世界では呼び名を変え、『唐銅(からかね)』と呼ばれる合金です。



明治初頭に、政府が国の金属技術の調査を行いました。

古くからある金属加工家である『竜文堂』や『金谷五郎三郎』『藤屋九兵衛』家や・・そして『中川浄益』家が家伝の調合法などを提出しました。


東京国立博物館にも写本が保管されております、『銅器之説』というもので、その中で示されてる配合では、浄益家だけが群を抜いて『錫』の比率が高いそうです。

それは、浄益作品の銅の質が圧倒的に高いことを表しているのです。


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『金象嵌』により『桐』と『鳳凰』、『青海波』が施されております。


これは、この作品が昭和天皇の御大典に併せて特別製作されたモノであることを推察出来ます。


『七宝象嵌』により施されているのは・・・『宝尽し』紋様です。



『宝珠(ほうじゅ)』

もとは密教法具の一つで、先にとがった珠で火焔が燃え上がることもある。

望みのものを出すことができる珠。



『七宝(しっぽう)』

花輪違い円の吉祥性か、宝尽くしの一つにかぞえられている。

七宝の円形は円満を表します。


『軍配(ぐんばい)』

軍配団扇ともいい、邪気を払うものとされます。

勝負の采配を決める道具から転じて、物事を見極める才を象徴します。


『開扇(かいせん)』

末廣ともいい、吉祥が広がる意味となります。



『丁字(ちょうじ)』

スパイスのグローブのこと。

平安時代に輸入され、薬用・香料・染料・丁字油にもなり、希少価値から宝尽くしの一つになりました。


『宝鑰(ほうやく)』

蔵を開ける鍵で、雷文形に曲がっています。

縁起の良い福徳の象徴です。



『宝巻・巻軸(ほうかん・まきじく)』

ありがたいお経の巻物。

交差して置いた物を「祇園守」といいます。


『隠れ蓑(かくれみの)』

天狗が持っているとの伝えがあります。

危険な事象から身を隠して護っていただけるという意味です。



これらの七宝象嵌は、浄益家が九代頃に実現した、『古七宝焼』の再現を可能としたことから艶やかな金象嵌と対比させて作品に取り込んでおります。


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十代 中川浄益

本名 中川淳三郎 紹心  昭和15(1940)年没

満州に渡っていたが、九代の病状の悪化により呼び戻す。明治44(1911)年の九代没後より浄益家を守りました。


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2重箱となります。


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惺斎の六十代半ば頃の筆です。



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浄益家が千家十職の肩名は、その名も・・『錺師(かざりし)』。


『水屋道具』より始まった浄益家が、『錺モノ』の逸品を生み出せる家になりました。


しかし平成20(2008)年、十一代が没し・・・現在では浄益の工房の火は絶えたままなのです。




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【西村道也 四方燗鍋 古染付蓋添】 [茶道具]

懐石道具の中で密かに好きな『アイテム』が有ります。

それが・・・『燗鍋』です。

大きさ、が程よく・・・時代物では、様々な形状や意匠のバリエーション、蓋の合わせ方で変わる見え方等・・・面白いんですね。

なので、ちょこちょこと扱っております。

今回の作品はなかなかカッコいいですよ!



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【西村道也 四方燗鍋 古染付蓋添】


幅     17 x 11.9cm

高さ    13.5cm

製作年代  享保年間

箱     大西浄長極め




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シャープな四方形ですが、よく見ると・・堅い感じが致しません。

絶妙なフォルムで丸みや反り、を加えることでやさしさとカッコ良さを両立させております。

各部を見てまいりましょう。


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上から


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『手』は木瓜形です。 手取り釜や釣り釜の弦に見られる形状です。

側面をアップしましょう。

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『桐』の地紋が浮き上がって意匠となっております。


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蓋は『古染付』です。

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州浜形のもので、これを中心として燗鍋作品が製作されております。


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蓋裏


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内側の状態も良い方です。


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底部です。

三つ足となってます。


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大西家の13代目、『大西浄長』による極め箱です。記されたのは昭和4(1929)年であることが判ります。


西村道也は、京都の釜師である西村家の三代目です。

千家出入りの釜師で,徳川吉宗時代・・・・表流の6代,原叟(覚々斎)時代に活躍しました。

通称は弥市郎、のちに『弥三右衛門』名を『孝知』といいました。

さらに、『道弥』⇒『道冶』と号が変遷します。

代表作 『鳳凰風炉』『百佗釜』『少庵巴釜』など。

元禄13(1700)年に『釜師之由緒』に茶道の釜師についての様々なことまとめた本を著したことでも知られます。


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道也の作風といわれる・・京風の上品、で穏健という雰囲気がこの作品にも如実に出ています。

大きさの大きすぎず、小さすぎずというこころも絶妙なのです。





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【岡本漆園 舟橋蒔絵 平棗】 而妙斎 箱 [茶道具]

なっかなか・・・蒔絵作品の入荷が、陶磁器に比すると圧倒的に少ない当店です。。。

『何故?』

それは、納得できる作品でお値頃なものが全く無いから、です。

感覚的に、陶磁器での満足レベルと蒔絵の満足レベルとでは、価格帯が3倍は差があるように思います。

ということで、ご紹介出来る機会がなかなか。^_^;


この度、『時代』は新しくなってしまいますが、面白みのある作品が手に入りましたのでご紹介致します!




漆園 舟橋蒔絵平棗  (3)-1.jpg


【岡本漆園 舟橋蒔絵 平棗】


幅    8.9cm

高さ   6.3cm

製作年代 平成中期頃

箱    共箱 而妙斎 箱




『重厚』な平棗です。


大胆にも、『国宝』に認定されております『本阿弥光悦』の有名な『舟橋蒔絵硯箱』を茶器へとリ・イマジネーションした意欲作です!


その、『本歌』を見てみましょう。


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通常の硯箱とは違い、蓋を大きく張り詰め・・・高く盛り上げ、センターに『鉛板』をはめ、銀板により文字を入れております。

光悦蒔絵硯箱 上から.jpg

このデザイン感覚、そして『書』を意匠に見立てる感性こそが、『光悦蒔絵』の真骨頂であるといえます。

江戸時代・初期の作品で、1967年に国宝に認定され『東京国立博物館』に所蔵されております。


今回の作品を元に、『和歌』を紐解いてみましょう。


8世紀頃の、村上天皇の勅撰による『後選和歌集』にある『源等(みなもとのひとし)』による歌です。

春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の20巻からなり、総歌数は1425首だそうです。



DSC09722-1.jpg


(序詞)人のもとにつかはしける

鉛の上に蒔絵された部分から・・・


『東路』

『乃』

『さ乃ゝ』

『舟橋』(鉛の橋を以て代える)

『かけて』

『濃ミ』


~東路の佐野の舟橋かけてのみ~


DSC09721-1.jpg

甲の上角から・・・


『思』

『わたる』

『を知』

『人そ』


~思わたる人ぞ~


DSC09723-1.jpg


甲の下角に

『なき』


~なき~




『人のもとにつかはしける 東路の 佐野の舟橋かけてのみ 思わたる人ぞなき』




東路の佐野の船橋(群馬県高崎市にあった橋)、舟橋は舟を連ねてその上にかける橋です。


思い渡る→想い続ける、と


女性への、募り続ける想いを詠んだ『恋の歌』です。

想いが通じないこと、または今は居ない人への想いであるとも取れますね。

または、今はまだ見ぬ相手への希望かも。


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全面に『波蒔絵』を施し、紛溜と蒔絵にうよりダイナミックな舟を連ねて魅せ、本歌より強く・・・恋のメッセージ感が増しております。

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まさに、現代的ともいえますね。(^^;


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内側も『紛溜』にて高級感がある中、『而妙斎』の花押が朱書されております。


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書付箱

漆園 舟橋蒔絵平棗  (1)-1.jpg

今も続く、京都四条の『岡本漆専堂』は表流のお道具も手掛けており、御書付道具などは『漆園』ブランドの逸品作として送り出されております。


まもなく、2月。

『バレンタインデー』のお道具としていかがでしょう☆


※御成約済みです。



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【横井米禽 模長袴伊賀 花入】堀田宗達 箱 [茶道具]


『米禽伊賀』・・・・この言葉を一度は、耳にされた(目にした)方も少なくないかと思います。


『〇〇伊賀』という古伊賀焼の名称に倣って、誰かが言い始めた名称でしょう。


それほどまでに、『巧み』な伊賀焼を焼けているということなのです。


過去には、美術オークションにて古伊賀と見誤られたことがあった逸話もあるくらいです。


作者の名前は『横井米禽』。


大正から昭和初期に名古屋にて数々の名品を生み出した人です。


今回は、米禽による伊賀花入をご紹介致しましょう。


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【横井米禽 模長袴伊賀 花入】


幅    15cm

高さ   25.5cm

製作年代 大正13年~昭和16年頃

箱    共箱、堀田宗達 箱



堂々とした花入です。


背面もなかなかのミドコロで、どちらを正面にしたらよいものやら。。。


米禽 伊賀花入 (7)-1.jpg


『伊賀に耳あり、信楽に耳なし』という言葉があります。


しっかりとした耳が有ります。左右をやや異なる感じになって『ひょうげた』感じですね。


米禽 伊賀花入 (9)-1.jpg


上から。


米禽 伊賀花入 (10)-1.jpg


底部に入る、『手印』も古伊賀を模してます。

共箱には、『模 長袴』とされておりますように『長袴』という銘の古伊賀の写しのようです。



伊賀焼は約1200年前の天平年間(729~749年)に『伊勢神宮』の『神瓶』を作るため、伊賀の『丸柱寺谷』の地にて窯を築いたのが最初とされております。

農耕器具や生活雑器等も作られていたようですが、茶陶としてはそこからさらに遙かに時代が下り・・・天正12(1584)年、伊賀領主の『筒井定次』が『古田織部』との交流の中で、茶壷・水指・花入・・・そして、茶入といった茶器を製作させていたのが、今に伝わる伊賀焼の祖といえます。


高い温度で焼成することで溶けだしたビードロや焦げや火色の競演が、茶人達の人気を博すことになりました。


それらを、『筒井伊賀』と呼びます。


その後、少しの中断を経て・・・江戸時代初期の、寛永年間(1624~1644年)に『小堀遠州』による指導により、洗練された茶器である『遠州伊賀』が生まれます。

その後、『伊勢国津藩』の二代藩主となった『藤堂高次』により京都から陶工である『孫兵衛・伝蔵』を呼び寄せ茶器が造られました。

この時は『水指』が中心であったともいわれます。

これが『藤堂伊賀』です。


寛文9(1669)年に原料であった陶土の採取が禁止となると、伊賀の陶工は信楽へと移っていきったり、また、粗製乱造もあり、藤堂高次が元禄12(1699)年に没すると衰退してしまいました。


時を超えて、近代。

地元の有志と時の有力者により『古伊賀復興会』なるものが発足し、横浜より『二代 眞葛香山』を招聘し、当時の工人達への指導と製作を依頼。

大正12(1923)年に『古伊賀復興の儀』が執り行われ、現代へ続く伊賀焼へと続くのです。


話は長くなりましたが・・・・こののち、伊賀の土を取り寄せ、横井米禽が自身の腕と眼により作られた古伊賀焼写しが、この作品なのです。


香山贔屓であります私でも、米禽作品の方に軍配が上がると思います。(^^;


米禽 伊賀花入 (1)-1.jpg

箱です。


米禽 伊賀花入 (4)-1.jpg


底部、共箱部分です。


米禽 伊賀花入 (2)-1.jpg


米禽 伊賀花入 (3)-1.jpg


蓋の甲・裏と名古屋の遠州流茶人でありました、『堀田宗達』の書付が有ります。


堀田宗達は、遠州流の家元主鑑であり目利きであったといわれます。

米禽と同時代の人です。


横井米禽は、明治19(1885)生まれ、昭和16(1941)年没。


元は古美術商であったのですが、『夜寒焼』に出入りし陶芸を志し・・大正13(1924)年に『東雲窯』を買い取り、自身の製作活動をスタートさせます。

その作風は古今の様々なやきものを自在に写し、自身の美意識を内包させるものでありました。

『眼』と『技』が磨かれた稀有な存在であり、また作られるものが『茶の用』に足るものが多かった為に『米禽焼』として名古屋を中心に広く愛されることとなったのです。

その中でも別格なのが、『米禽伊賀』なのです。



上の画像をは少し、アングルを変えてみると・・・また花入の印象も異なりますので、どうぞ☆


米禽 伊賀花入 (6)-1.jpg


米禽 伊賀花入 (8)-1.jpg


堂々とした風格です。


これまで扱った・観た・・米禽伊賀花入の中でも上クラスといっても過言では有りません。

ぜひ、お勧めいたしましょう☆

※御成約済みです。


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【十二代正玄・十一代宗哲 朱塗竹輪 蓋置 惺斎好み 二十ノ内】 [茶道具]

今回は、珍しく・・・・竹の塗作品をご紹介致します。

当店も、ようやく『百貨店催事』の呪縛(?)から解放されましたので、『乾燥』による破損事故に恐れることなく、塗物や竹工芸のラインナップに手が出しやすくなりました。(^^;


『竹蓋置』


利休時代に広まったアイテムです。


鎌倉時代頃からの『書院茶』では、『台子』に『皆具』であったので・・・唐銅の蓋置であったわけです。

利休時代にも、『七種』の唐銅蓋置が制定されましたが・・・『武野紹鴎』が水屋で使用していた竹蓋置を元に、寸法を『一寸三分』から『一寸八分』にリメイクし利休が点前で使いだしたことが最初といわれます。

『茶道筌蹄』(さどうせんてい)という文化3(1816)年『啐啄斎』の高弟であった『稲垣休叟』が記した、茶道や道具に関する手引書に、こう記載されております。


『竹青白 紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。

 元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、

 中節と上節とを製して、道安と少庵両人へ贈らる。

 上に節あるを少庵に送り、中に節あるを道安取られしなり、是よりして席に用ひ来る。

 炉には中節、風炉には上節と定む。』


当初から、炉・風炉の規定があったのかは不明ですが、江戸後期にはそう規定されていたようです。


また、当初は『青竹』で『使い捨て』であったのを油抜きして白竹として経年使用するように変化して、『運び点前』、もしくは『小間』で使用されます。


今回、ご紹介致します作品は『竹』に『塗り』を施した物です。


惺斎好み朱塗竹蓋置 (5)-1.jpg


【十二代正玄・十一代宗哲 朱塗竹輪 蓋置 惺斎好み 二十ノ内】


幅    4.6cm

高さ   5.5cm

製作年代 昭和6(1931)年 

箱  共箱 惺斎好み箱




惺斎好み朱塗竹蓋置 (5)-1.jpg

惺斎の『花押』が下書きを元に黒田正玄が彫り入れております。


惺斎好み朱塗竹蓋置 (6)-1.jpg


上から


惺斎好み朱塗竹蓋置 (7)-1.jpg


後ろ側

惺斎好み朱塗竹蓋置 (8)-1.jpg

下から


惺斎好み朱塗竹蓋置 (1)-1.jpg


2重箱です。


惺斎好み朱塗竹蓋置 (3)-1.jpg


『辛未』 昭和6年・・・1931年、惺斎が69歳の時です。


恐らく、『古希』を記念して『好み道具』として20個作られたのでしょう。

惺斎好み朱塗竹蓋置 (2)-1.jpg


十二代 黒田正玄 (久万吉 昭和48年没)の竹の削り出しと彫り、

十一代 中村宗哲(元斎 平成5年没)による朱塗り、の合作となります。


『節無し』ですので、通年お使いいただけます。


竹、そのものを使う竹蓋置よりも、より丁寧な削り出しなどによる『作品性』が生まれ、フォルムも『凛』としたものを感じさせるのです。



DSC09716-1.jpg


昭和60年に刊行された、惺斎の好み物集である『看雲』にも紹介されております。


さらに。


この作品は、『看雲』に掲載されております『現物』でございます!


10年以上前に・・・山陽地方にお納めした物が、この度、蔵より出てまいりました。

これもまた、ご縁です。


以前より価格が3分の1~4分の1程度になってしまいました・・・お値打ちです。

※御成約済みです。

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【横山香宝 虫明焼時雨 茶碗】 鵬雲斎玄室 箱 [茶道具]

旧暦では神無月の10月23日の本日。

ここのところグングンと気温が下がって・・・あちこちで、赤の彩りが目を引き始めてきました。


しかし、ここのところ・・・週末ごとに雨模様です。

せっかくの『紅葉狩り』が台無し?との声もちらりほらり。


日本には、このような天候にすら名を付け、楽しみに変えてしまうところがあります。


『時雨(しぐれ)』


初冬の頃に、いっとき・・風が強まる中、急にぱらぱらと降っては止み、わずか数時間で通り過ぎてゆく雨のことを指すコトバです。


時雨紅葉.jpg


冬の季節風が吹き始める頃、寒冷前線がもたらす雨のようですね。

明るい日照りの中に、輝く・・・黄色や赤色も綺麗なのですが、ややうす暗くなる中に雨粒がしたたり輝く状況もまた、乙なものなのです。


見かけた和歌のうち・・・目を引いたものを挙げてみましょう。


(新古今集 兼輔)時雨ふる 音はすれども くれたけの などよとともに 色もかはらぬ


(後撰集 伊勢)涙さへ 時雨にそひて ふるさとは 紅葉の色も こさまさりけり


(顕季)あまつたふ 時雨に袖も 濡れにけり ひかさのうらを さしてきつれど


(俊恵)月をこそ あはれと宵に ながめつれ くもる時雨も 心すみけり


(俊恵)藻塩草 敷津の浦の ねざめには 時雨にのみや 袖は濡れける


(俊成)いつしかと降りそふ今朝のしぐれかな露もまだひぬ秋の名残に


(続後撰集・冬 西行)東屋の あまりにもふる 時雨かな 誰かは知らぬ 神無月とは


(慈円)やよ時雨もの思ふ袖のなかりせば木の葉の後に何を染めまし


(定家)山めぐり 時雨やをちに 移るらむ 雲間待ちあへぬ 袖の月影



和歌に明るくは有りませんもので、素人的なセレクトですが[あせあせ(飛び散る汗)]



さて、本題に入りましょう。


独特の『鶯色』に『鉄絵』が特徴の『虫明焼』・・・


季節のお茶碗のご紹介です。


香宝 紅葉茶碗 (4)-1.JPG


【横山香宝 虫明焼時雨 茶碗】 


幅   11.3cm

高さ  8.5cm

高台径 4.5cm

時代合わせ箱+鵬雲斎玄室 箱



このお茶碗は、有名な『虫明12か月茶碗』のひとつになります。


本歌は、永らく・・・初代眞葛香山作と云われてきましたが、実際は文久時代の別人の手によるものです。


備前・岡山藩池田家の筆頭家老であった『伊木三猿斎』が主催した『御庭窯』である『虫明焼』は元は備前焼との近似が問題となって中断しておりましたのを、裏千家『玄々斎』に傾倒、師事した三猿斎により茶陶窯として再興したものです。


『京焼』にあこがれていた三猿斎は、折に付け・・・上京し、茶道具を求めてきておりました。

その中でも『樂焼』と『眞葛焼』には特別な想いがあったようで。。。

樂焼の12か月茶碗をベースに、自身の感性による絵付けのものを虫明焼にて作られたのです。


それぞれが、旧暦の日本の季節感の中・・なかなかの教養を要する侘びさ加減にて絵付けされております。

鉄絵のもの、象嵌のもの、の2種の技法により表現されております。


あまりに有名なのですが、本歌の存在は1組しか知られず・・明治末期~大正初期頃に、眞葛香山の愛弟子であった『森香州』が、所蔵者より借り出し・・・『写し』を作ったことにより世間に知られることになりました。(その際に桜茶碗はうっかり破損してしまい、香州が自作にて補完します)


その後、歴史の中で様々な虫明陶工により写され続け・・・現代に続く虫明焼の定番となったのです。


しかし、やはり後世のものは味わいがどうしても本歌に及びません。

昭和期に活躍した虫明焼の中興の祖というべき『岡本英山』のものはなかなかで、岡山県立美術館にも所蔵されております。


今回のお茶碗も、なかなかのレベルです。

香宝 紅葉茶碗 (4)-1.JPG


鶯色に鉄絵にてさらっと、描いたこの感じが・・・うす暗くなった天候の中の模様を感じさせ、そして単色だからこそ、色が脳内にて再現され・・より赤色をイメージできるのです。

香宝 紅葉茶碗 (6)-1.JPG

端正な形状です。


香宝 紅葉茶碗 (7)-1.JPG


薄造りです。


香宝 紅葉茶碗 (8)-1.JPG


作者は香山の孫弟子にあたる、『横山香宝』です。

初代香山が虫明に赴き、明治元年~三年の期間に指導と改良をした際に師事し、その後も眞葛窯にも参加した愛弟子である『森香州』が、実質的な近代虫明の現地人の祖ともいえるのですが、蔭で支え続けてのが『横山香宝』なのです。


香宝 紅葉茶碗 (2)-1.JPG

伝世の合わせ塗り箱に、書付の二重箱となっております。

香宝 紅葉茶碗 (3)-1.JPG

鵬雲斎大宗匠時期の箱書です。


12か月茶碗は香山により、さらに強烈な京焼・・・長造のテイストにてリメイクされます。

そちらは長年まぼろしの作品となっており、近年まで知られることが知られることがありませんでした。

有難いことに今では写真にて見ることも出来ますし、10年に1度位は実際に展示もして頂けるようです。

それまで、香山作として伝説化していた、この最初の12か月シリーズもそのシンプルさが、かえって茶味があり、皆に好まれるお茶碗として周知されているのです。





横山 香宝(よこやま こうほう)
1869(明治2)年~1942(昭和17)年
瀬戸内市邑久町虫明生まれ。
1883(明治16)年、森香州に師事する。兄・喜代吉(初代香宝)とともに香州の裏方として支えた。
香州と兄の死後、1932(昭和7)年に地元有志の協力を得て瀬溝に築窯し、独立する。
2代目香宝を名乗り、年5~6回窯をたき、?清風や香山を写した優雅な作品を焼いた。
1934(昭和9)年には弟子であった黒井一楽に窯を譲り、指導と手伝いをした。






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【古萬古焼 萩写 数茶碗】 [茶道具]

これは、なかなかのレア・アイテムです。

しかも、今の世相にぴったりのお道具ですので、是非お勧めしたいです☆




萬古焼 数茶碗 (6)-1.JPG


【古萬古焼 萩写 数茶碗】


幅   10.6cm~10.9cm

高さ   5.1cm~5.3cm

高台径  4.2cm~4.7cm

制作年代 江戸時代後期

箱    伝世箱




萬古焼は、古くは江戸中期の『沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)』ににより始められたやきものです。

桑名の豪商に生まれ、幼少より覚々斎原叟や千如心斎に茶道を学んだ文化人でした。

あまりの人気により江戸にも招かれ・・・別邸と窯を築いたそうです。

弄山亡き後、萬古は衰退し・・・森有節による復興を待つことになります。

有節以降は、急須や造形細工物など、貿易ものを多く製作するようになりましたが、江戸期の萬古焼はいたって京焼を基にした茶陶が中心であったのは、弄山が茶人であったことによるものでしょう。


今回の作品、興味深い点が多々、有るのですが・・・まずは、作品自体を見てまいりたいと思います。


萬古焼 数茶碗 (9)-1.JPG


一見、高取焼?にも見えますが、むしろ『萩』なのです。


萬古焼 数茶碗 (5)-1.JPG

かっちりした造り込みです。

釉薬も丁寧にかけられております。

萬古焼 数茶碗 (5)-1.JPG



萬古焼 数茶碗 (6)-1.JPG


数茶碗で10客揃いなのです。


萬古焼 数茶碗 (7)-1.JPG


萬古焼 数茶碗 (8)-1.JPG


10客完品です。


この、お茶碗・・・実は、私は過去に数度見覚えが有ります。

単体で。


三代だったか、四代の新兵衛として極めのついたお茶碗で、これに近似したものがあったのです。

しかし、一説で・・・これは『萩ではない』という見方もされており、では正体は一体?というのが10年以上前に思っておりました。


今回、中部地方の出物として入手したこの作品。


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萬古焼 数茶碗 (1)-1.JPG

『萬古焼』! 『萩写し』!


萬古焼 数茶碗 (2)-1.JPG


伝世箱、に『年号』!も記されております。


『文政元(1818)年にこれを求む』とあります。


弄山が没したのは安永6(1777年)で、有節の窯が稼働し始めるのが天保年間ですので、その間のことになります。

余談となりますが、松阪の『射和(いざわ)萬古』は安政3(1856)年より7年間のみの稼働でした。


弄山は、プロデューサーとして窯の経営をしてたようで、職人は別に存在したといいます。

弄山存命中の製作品、もしくは文政元年頃に職人が製作したものと思われます。

分類としては、『古萬古焼』となります。


少し後の、赤膚焼の奥田木白もそうですが、江戸後期は『諸国の国焼の写し』の需要が高く、そのうち・・『萩焼』の写しが特に多く見受けられます。

おそらくその時期に、手に入りにくかったのでしょう。


この作品も、小ぶりの数茶碗で、使いよいのですが・・・

コロナ禍で加速した、『各服点』の濃茶様式にぴったりなのです。

薄茶用や、旧来の濃茶茶碗は数あれど・・・案外探しても見つからない、のがこのようなタイプです。


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見た目よりやや軽く、重ねることも出来使い勝手も抜群なのです。



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時代有り、作行きの味わい有り、の数茶碗であらゆる客人を愉しませること間違いなし、です☆


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※ご成約済みです。


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【永楽正全 黄交趾 百合鉢】 [茶道具]

しばらく、普通の(?)展示会がございませんので・・・さらっとした、作品紹介もちょこちょこ続けて参りたいと思います。


今回の作品は、『色がいい!』、掘り出し品です。



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【永楽正全 黄交趾 百合鉢】


幅    20.7cm×18cm

高さ   8cm

高台径  8.9cm

制作年代 大正~昭和初期頃



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百合、はかなり古い時期から日本に伝わったという話で、古事記や万葉集にも登場するようですが、江戸時代にシーボルトが生きた花としては持ち込んだのが最初と伝わります。


明治期には百合の球根が投機的な人気として、高騰し熱狂的な様相だったそうです。


さて、百合は百合でも黄色の百合・・・


黄色の百合.jpg


黄色の百合の花言葉は『陽気』



百合は、開花は『5~8月』ですが、植栽は『10~11月』で間もなくです。


この作品は、見事な開花の様相を、『器』に再現しておりますが、開花をイメージして植栽する時期にお使いいただく、というのもご提案するものです。


正全 百合鉢 (5)-1.JPG


大きすぎず、小さすぎないサイズは、今の時代の『主の菓子器』に合います。

もちろん、茶事での『預け鉢』にも最適なのです。


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正全は、得全亡き後・・・妙全を支えて永楽家を守った名工です。

ですので、妙全時代の作品の多くは正全によるものと言っても過言では有りません。


正全は15代目の永樂で、1880(明治13)年に14代 得全の妻である妙全の甥として生まれました。

建仁寺の黙雷宗淵より「正全」の号を受け、1932年(昭和7年)53歳で亡くなるまで・・・『正全』として活躍したのは、わずか5年間なのです。




この、即全時代などとは違い・・落ち着いた深みのある『黄交趾』は、当時ならではのものですね。



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正全 百合鉢 (2)-1.JPG


共箱 甲

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共箱 裏



造形デザインといい、色といい、申し分ない作品です。

しかし、昨今・・・手頃な価格となってしまっておりますのは、遺憾ではありますが、逆にお愉しみ頂けるチャンスなのは間違いないのです☆


正全 百合鉢 (6)-1.JPG



※ご成約済みです。



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