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【東雲焼 瀬戸釉 菱水指】 [尾張陶磁器]

さて、新春第2弾です!

先ほどの、『米禽焼』の元となった・・・『東雲焼(しののめやき)』のご紹介となります。


こちらも、お値頃作品ですので最後の方に販売価格表記致します☆



東雲焼 口四方水指 (1)-1.jpg



【東雲焼 瀬戸釉 菱水指】


幅    15.5cmx15cm

高さ   15cm

製作年代 明治~大正時代

箱    伝世箱




『横井米禽』が後に継承した窯が、この『東雲焼』です。


明治26(1893)年に、尾張藩の士族であった『木全年輝』が開窯しました。


茶器・雑器を製作する窯でしたが、全体的に「品のある」作行きのラインナップであった為、広い地域で愛用されました。

共箱作品が少なく、また「銘」が無いものも多数ある為・・・『東雲焼』と知られず作品が流れていることも多いように思います。


一番の人気は、『乾山』風の菱水指でしょう。

なかなか、古作の琳派風の表現がなされたものです。


その水指と「陶胎」を共通とする作品がこちらです。


裏側に回ってみましょう。


東雲焼 口四方水指 (2)-1.jpg


高取焼風でもありますが、瀬戸釉でしょう。


下部は轆轤のやさしい丸み、上部へ向かって末広になっていきつつ「菱形」へ展開するという複雑な形状です。

この、「凛」とした風格はなかなかのものです。


東雲焼 口四方水指 (4)-1.jpg


内側の「灰釉」は、『夜寒焼』等と似た感じであり・・・近隣の窯であった為、関連性があるかもしれません。


東雲焼 口四方水指 (5)-1.jpg


外側の釉薬と内側の釉薬を変え、底部は土見せになってる辺りは・・・瀬戸とも高取ともまた異なるアプローチです。

むしろ京焼の影響を感じさせます。


東雲焼の菱水指シリーズは代表的なものです。銘があるときは「東雲」印が左側に小さく押印されることもあります。

この作品は無銘のタイプになります。



『東雲焼』は名古屋市東古渡・・という、現在の『中区金山』地区に存在し、販売所は『末広町』という名古屋市科学館のある白川公園の側であったと伝わります。

販売所を別に設けてることから、数量を扱う窯であったことがうかがえます。


大正13(1924)年迄の31年程の稼働となりましたが・・・・その窯の火は、途絶えることなく『米禽焼』として継承されていくのです。



※ご成約済みです。





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【横井米禽 藤田家旧蔵写 安南蜻蛉茶碗】 [尾張陶磁器]

新春のスタートはお値頃品シリーズから参りたいと思います!



米禽 安南写茶碗 (4)-1.jpg


【横井米禽 藤田家旧蔵写 安南蜻蛉茶碗】


幅    9.3cm

高さ   6.9cm

高台径  6cm

製作年代 大正時代

箱    極め箱




『横井米禽(よこいべいきん)』の作品はその出来栄えと数の伝世品の多さで、茶人の間で愛用されております。

しかし、案外・・・ザクっとしか詳細は知られてないかもしれません。



茶道具商を営んでおりました『横井兼吉』という方が若いころから『石川柳城(いしかわりゅうじょう)』という名古屋の南画家に絵を習い、また・・・瀬戸や多治見の窯場に訪れ研究を重ね、明治期に広く製作した『夜寒焼(よさむやき)』にて技を習得したのです。


元が茶道具商であることから(魯山人もそうですが、古美術商を営む別の才能に長けた人は昔は色々といらっしゃったのです)、名品に触れる機会の多さが自身の研鑽に役立ったのです。


といっても、「観る」ことが出来てもそれを「手わざ」として発揮できるのはイコールではないことであり・・・そこは元来の「才能」と「センス」に拠るところが大きかったと思われます。


得意としたのは、なんといっても『伊賀』でありますが、続いて・・・・『御本』や『安南』です。

もちろん各種国焼きのうつしから染付に至る迄全てこなせました。


今回のご紹介は、『安南写し』です。



米禽 安南写茶碗 (4)-1.jpg


小ぶり、なお茶碗です。

お酒でも楽しめそうです。


米禽 安南写茶碗 (5)-1.jpg


色合いも絶妙なのです。


米禽 安南写茶碗 (7)-1.jpg




『安南焼』は、ベトナム地域北部より渡来したやきものです。


5,6世紀に始まったとされ、日本には桃山時代~江戸初期に入ってきました。


端正な形であり、『チョコレートボトム』とも云われる高台内が赤茶色になったものが最初に伝わったシリーズです。

それらが『お茶碗』であったかどうかは不明です。

高台の大きさや頑丈さ、高さから推測すると・・・ヘビーユースの使いやすさを重視した感じが致しますので、日用雑器なのかもしれません。


しかし、独特の風合いから日本では珍重されました。


徳川家に伝わる『紅安南茶碗』も有名です。


その後、それらを元に・・・より日本の茶人の好みに応じて「沓形」で高台内も「施釉」されたものを「注文」して輸入した作品群が登場致します。

『蜻蛉』や『人物』を描いたりして・・・古染付にもなんとなく通じる価値観・感性がうかがわれます。

遠州時代の流行が反映されているのでしょうか。

このお茶碗は、その後期の安南を写しておりますので、高台内はこのように。


米禽 安南写茶碗 (6)-1.jpg




米禽 安南写茶碗 (8)-1.jpg


米禽作品は、「銘」のあるものと無いものが有りますが、その法則性は有りません。

また、価値の差違も無いのであくまで作品次第での評価となります。




米禽 安南写茶碗 (2)-1.jpg


米禽 安南写茶碗 (3)-1.jpg


箱は極め箱になります。

大阪の豪商であった、『藤田家』所蔵の安南茶碗を模したもの、と記されております。



『米禽焼』は横井米禽が大正12(1923)年、38歳のとき(※一説には大正13(1924)年とも)に名古屋の『東雲焼(しののめやき)』の窯を譲り受けて稼働致しました。


次回は、その『東雲焼』の作品をご紹介致します。




【横井米禽】 明治19年(1886)生~昭和16(1941)年没



※御成約済みです。






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【BASE 215】 大阪市浪速区日本橋東2-1-5 大阪南美術会館内


当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。

当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。



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【平澤九朗 織部手付小鉢 六十三翁彫り有】 [尾張陶磁器]

小粒でピリリ、という作品が入りました☆

幕末尾張陶でございます。


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【平澤九朗 織部手付小鉢】


幅14.5㎝×15㎝ 高さ13㎝


重量 615.4g

製作年代 天保6(1835)年頃

合わせ箱



九朗は尾張藩士で、屋敷内に窯を築き本格的に作陶。その作品は当時より評価が高く九朗焼として珍重されました。

尾張徳川家の御深井焼にも招聘されるほどで、尾張の余技作家の中では最も有名です。


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色調、も造形、もなかなかのものです。


有楽流の茶人でもあり、自身の茶室“今昔庵”で茶の湯を楽しみ、小堀宗中・松尾不俊斎・不蔵庵龍渓などと交流を深めました。故に、茶事などの小間で活きる作品が多い傾向もあります。

この作品も、小間での菓子器としてはもちろん・・・懐石での預け鉢としても、個人の愉しみとしても抜群です。

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この作品も年齢を彫り入れる九朗の晩年のシリーズのひとつで、成熟した技が光る小鉢です。

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底に「六十三翁」という彫りが入れられることで、製作年代が判別できる作品です。

この作品が作られてから・・5年後の九朗は文政7(1824)年、六十八歳でこの世を去りました。


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花生、としても面白いかもしれませんね。



「円熟の技」が垣間見える・・・優品のご紹介でした。





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【黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼】 [尾張陶磁器]

赤津焼とは瀬戸焼の中でも赤津地区で焼かれる伝統的な釉薬を使った陶器の事です。


徳川幕府が開き、江戸時代には名古屋城を中心とした尾張徳川藩が出来ました。

この尾張藩への陶器の供給源や御用窯などを目的として、徳川幕府により美濃から陶工が呼び戻され瀬

戸村、赤津村、下品野村に窯を開きます。この後、赤津焼は尾張藩の御用窯と高級茶器から日常品までを作っていくことになります。

瀬戸黒、黄瀬戸など・・・桃山陶器の有名どころの名前に瀬戸と入っているのも、元は瀬戸が中心であった為にそこで作られていたと考えられていたのです。

しかし、粗製乱造を防ぎ、それぞれの家業を守るため、藩の命により・・・瀬戸では、一家の長男、ただ一人しか陶家をもつことが許されず、それが故に広がりもなく閉塞していくことになります。

その中、新たに”本業”と別に”新製”瀬戸が生まれるのは江戸も後期、それも磁器製造によって新たな時代を迎えることになるのですが、それはまた別の話としまして・・・



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黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼

幅  11㎝

高さ 7.8㎝

時代 幕末~明治期


大きさ、がお茶碗として優等生な黒織部はなかなかありません。

このお茶碗は、赤津陶工の製作による特徴を備え、土も釉も良い作品です。


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見込み。

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高台径 5.3㎝


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反対側は、七宝文が描かれております。


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伝世の箱には、祖母懐茶碗、となっておりますが、普通に春岱~春仙辺りの作の赤津焼でしょう。

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高台脇、のおそらく印のあたりが削られております。

、ので、作者は特定出来ませんが、お茶碗としてはいたって良いモノでしたので、扱うことにいたしました。


瀬戸、といえば・・・このような話があります。

陶(トウ・すえ)と言う字は中国では窯の事を指します。

瀬戸は「すえ(陶)のところ(所)」が「すえと」になり「せと」に繋がったといわれております。


瀬戸の赤津焼も、今では多数の窯が稼働しておりますが、幕末から明治への変革期には大変な状況にあったようです。

藩の御用であったため、藩が無くなってしまうという事態にはどうしていけばよいのか?

その頃に完成していた『新製瀬戸焼』である『染付磁器』は、いち早く・・・輸出用として、また国内向けの西洋風磁器作品へと変革と海外への万博などに打って出て成功を収めるのですが、このような伝統的な日本の茶陶の作品は、日が差すことのない時代を耐え忍びつつ・・・伝統の技法を守り抜くのに力を注いでいたのでしょう。

そういう、時代背景の中の、作品なのです。




BASE215 10月の特集  ~ちょっと、お茶碗展~


⑤【黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼】


※ご成約済み

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加藤春岱 三島写 茶碗 [尾張陶磁器]

加藤春岱といえば、幕末尾張陶の中でも格別の名工です。

御深井焼にも呼ばれて従事しております。

1802年(享和2年)赤津の御窯屋に生まれで、激動の明治維新を経て1877年(明治10年)まで生きました。

早くから名工と称された。嘉永3年尾張藩主慶勝より春岱の号を賜り、美濃国安八郡今尾に窯を築いた。
天保2年銘の作品が発見されたことにより、春岱の名は嘉永よりも数十年前から使用していたことが裏付けられました。

瀬戸の窯業技術で成し遂げうるあらゆる種類の焼物をこなし、轆轤と成形、デザインに至っては類を見ない、瀬戸近世の名工です。

さて、今回は・・・私自身もなかなか手にしない、高麗写しの名品です。

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加藤春岱 三島写 茶碗

幅13.8㎝ 高さ5.8㎝

幕末期


尾張陶器は、徳川家のもつ名品を参考に作られたことから・・・質の高い作品が多く存在します。

また、桃山陶器の名産地を擁した地域であることから、その辺の写しもなかなかです。

しかし、京都は京都で・・・寺や神社に伝わる名器を研究した京焼の陶工たちも高麗モノの写しの抜群なものが登場していたのも、同じ幕末時代です。

さて、この三島茶碗・・・


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個人的には京焼にも負けず劣らずのレベルかと思います。

釉薬の具合、象嵌の感じの風合いがたまりません。

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見込みの造形も唸らせます。

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高台回りの造りも茶陶として申し分なく。


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在銘です。


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伝世箱です。

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先日の夜寒焼と並べてみました☆


※多数のお問い合わせ、誠に有難うございました。

出張から戻りましたところ・・・同日に複数名のお問い合わせがあり、交渉の優先順位が付けられない中、一番早くにご決断頂いた方へご成約とさせていただきました。何卒ご容赦下さいませ。



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夜寒焼 田家絵 茶碗 [尾張陶磁器]

名古屋出張から戻りますと・・・必ず(?)入荷いたします、尾張陶。(^-^;

今回もめずらしいもの、入りました。

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夜寒焼 田家絵 茶碗

明治時代

幅 12.5㎝ 高さ 7.3㎝


夜寒焼、は『辻鉦二郎』によって、明治12年ごろ名古屋の古渡夜寒の里(現在の名古屋市中区金山)に窯を築いて茶器を製造したのが始まりです。

最初の頃は名品の茶道具の写しを製作していましたが、次第に日用品としての陶器や染付なども製作するようになりました。

このような色絵のものは珍しい手になります。

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萩焼のような灰釉がきれいにかかってます。

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反対側です。

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端正な轆轤挽きです。


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高台側より。


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銘高台の右側に『よさむ』


『辻鉦二郎』は嘉永元年に酔雪焼を創始した酔雪楼主人・辻宗衛(惣兵衛)の子として生まれました。

明治12年頃に名古屋の夜寒の里に(今でいう金山地区です)窯をひらいて茶器などをやき夜寒焼と称した。

碌々斎も訪れ、自筆の茶道具を残しております。

主に染付で高価に伝世しており、流儀の茶会にて稀に見受けられます。


大正9年8月10日死去。73歳。尾張出身。号は凌古堂です。


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形成時の轆轤目を活かして、霞と風の流れを表現し、田家の煙突から煙が長閑に流れております。

この柔らかい絵付けのトーン、は大和絵派のようです。


夜寒焼で、このようなお茶碗に出会う事は本当に珍しいものです。


※ご成約済みです。

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