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【湊焼 長浜窯八代 舞猩々 置物】 [国焼茶陶【江戸後期】]

たまには、茶道具以外のモノもご紹介致しましょう。

といっても、『床脇』の錺物にもお使い頂けますが。(^^;



ちょっと、希少な作品です。



湊焼 猩々置物 (3)-1.jpg


【湊焼 長浜窯八代 舞猩々 置物】


幅  17.6cm 

高さ 16.8cm

製作年代 幕末~明治初期頃

箱  共箱




『千利休』、の出身で知られる・・・大阪『堺』の地は、交易・商業・茶の湯の一大地として栄えておりました。


考古学的なやきもの、は置いておいて・・・

初期の『樂焼』は『長次郎』だけではなく、その周辺全てを包括して『長次郎焼』として初期樂に分類されるものです。

利休の庶子であります『田中宗慶』の子『常慶』『宗味』がそれぞれやきものを継承しております。

宗味は堺にて、『宗味焼』を創始し、『常慶』の子である『のんこう』は京都にて、『道楽』がこれまた堺にて『道楽窯』をそれぞれ始めるのです。


また、その同時期位に、京都より移ってきた『上田吉右衛門』が『御室焼』と称し、交趾焼など軟質低火度焼成のやきものを始めるのです。


所謂、『湊焼』というものはこの『上田窯』を中心として、派生・追従して諸窯が開窯していったという認識で良いと思われます。

いずれも、明治末期迄にはほぼ廃窯となってしまいました。

さて、今回の作品は『長浜窯』のものです。

『上田吉右衛門』の親戚で、『長浜屋』と『吉郎屋』の2家があり、上田窯2代目の頃(享保9年以降)に、本家に倣って窯を開きました。


この3家はお互い、切磋琢磨しつつ倣い、競い、高めあってきたようです。


湊焼 猩々置物 (3)-1.jpg


サイズ感といい、釉薬の発色といい、造形といい・・・抜群な作行きです。


湊焼 猩々置物 (4)-1.jpg


湊焼の代表する釉薬を全て組み合わせております。

『赤』『白』に『緑』『黄』といった『交趾』を使い、その4色のみで見事に表現しているのです。


湊焼 猩々置物 (5)-1.jpg


『舞』の『動』の表現と置物としての『安定性』という相反する要項を両立しております。


湊焼 猩々置物 (6)-1.jpg



猩々.jpg


『能』の5番目の題目が『猩々』です。


むかし、揚子江の傍らにある金山に、親孝行者の高風(こうふう)という男が住んでいました。

高風は市場で酒を売れば多くの富を得るだろうという、神妙な夢を見てお告げに従い市場で酒を売り始めます。

酒売りは順調に進んでいたのですが・・・

毎日高風の店に買いに来る客の中に、いくら飲んでも顔色が変わらず、酒に酔う様子がない者がおりました。

不思議に思った高風が名前を尋ねると、自分は猩々と言う海中に住む者だと答えて立ち去しました。

そこで高風は美しい月夜の晩、潯陽江の川辺で酒を用意し猩々を待っていると、水中の波間より猩々が現れます。


共に酒を酌み交わし、舞を舞い踊り、やがて猩々は高風の徳を褒め、泉のように尽きることのない酒壷を与えて帰ってゆくのでした。


このお話は日本での創作を加えたものらしく、元はベトナムの『獣』で、人の言葉を発し酒を好むことが中国の古代の文献に見られる『狌狌』(しょうしょう)から来ているようです。


しかし、陽気にお酒を飲んで舞う様子は愉しげなのです。

湊焼 猩々置物 (7)-1.jpg



現代、残っている『湊焼』は『津塩窯』のみです。

津塩家は、『長浜屋』を引き続いたものとし、現在は16代か17代となります。

しかし、長浜屋の歴史資料が消失しておりますので、代の計算は難しいと言われておりますが、わずかに遺されたものから研究者によると、この作品の印銘は『八代目』と分類されております。


湊焼 猩々置物 (8)-1.jpg

長浜屋の『吉兵衛』は、弘化年間(1844~1848)年頃~明治10(1877)迄の稼働であったようで、この作品は江戸後期~明治初期までとなります。

共箱も現存しております。


湊焼 猩々置物 (2)-1.jpg


他の湊焼が、『吉右衛門』を名乗るのに対して、長浜屋は『吉兵衛』となります。


湊焼 猩々置物 (1)-1.jpg



ここのところ、ご縁が在りまして・・・珍しい堺のやきものの入手が続いております。

同じ、『泉州』の地の人間としては親近感もさることながら・・・戦災により、知る人、知る術が年々減少する状況に、なんとか整理して世にご紹介したいと思っておりますのです。



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【古曽部焼 雪笹 手鉢】 [国焼茶陶【江戸後期】]

秋をすっ飛ばしたような、今年の気候ですが・・・あちこちで初雪もちらほらのようです。

ということで、まもなく時候となります作品のご紹介です。



古曽部 雪笹手鉢 (3)-1.jpg


【古曽部焼 雪笹 手鉢】


幅    25.2x17.7cm

高さ   18.2cm

製作年代 嘉永4(1851)~明治15(1882)年頃

箱    伝世箱




「三代 五十嵐信平」の作品となります。


「古曽部焼」は、大阪府高槻市古曽部町で存在した窯です。

寛政年間(1789~1801)頃に初代五十嵐新平が開窯し、明治末頃に四代で廃窯となりました。

現地での伝世では寛永年間にやきものをした人が居て、それが小堀遠州に認められたことから、「遠州七窯」のひとつに数えられているという話もありましたが、実際のところは・・・

作品も窯跡も発見されておらず、また・・・「遠州七窯」というモノ自体が、嘉永七年に発行された「陶器考」にて述べられた、「当時」の現存窯の中から遠州の好みに合致する、という窯を選ばれただけというのが真相のようです。

道具商の筆によるものですから、都合の良いような記述であったことは想像に足ります。(人のことは言えない?(^^;)


さて、作品に戻りましょう。


古曽部焼は比較的、暗い色調のもの・・・「灰色」や「緑がかった高麗風の色」、「くすんだような安南風のもの」がメインであり、初代辺りでは色絵のものなども在ります。


初代は地元の農家である五十嵐家の出で、京都で陶器を学んだようです。

古曽部焼は、基本的に藩窯でなく民窯であることから・・・茶器類もありますが、大方は日常使いのものを作っておりました。

そんな中、この作品の逸品さは群を抜いております。




古曽部 雪笹手鉢 (4)-1.jpg



「雪笹手鉢」、は「乾山」作がルーツとして広く知られております。


しかし、それは国焼コレクションの聖地として知られる・・・「滴翠美術館」に所蔵される作品”のみ”しか現存確認される個体は有りません。


むしろ、それを元としたと推察される「仁阿弥道八」作品が有名であり、その作品群によって現代迄知られることになったものです。


「仁阿弥道八」様式では、灰釉は明るく、取っ手は竹を拠ったような複雑なもの、本体は笹の形状に合わせた輪花口に透かしを入れ、脚は竹の根に。そして白化粧にて鮮やかに雪が舞うのです。

有名なものでは「湯木美術館」や「逸翁美術館」所蔵のものが知られますが、上記のような特徴は「伝乾山」作品には見られないものであり、また後世に仁阿弥道八作を写したものでもそのまま再現は出来ておりません。


道八作品が生まれて、そう時代が離れてない時代。


五十嵐信平(信五郎)(1833年生~1882年没)が幕末の万延元(1860)年頃に窯元を継承しました。

(※初代・二代の新平から字が変わります。)

仁阿弥の没後から5年ですね。



古曽部 雪笹手鉢 (5)-1.jpg



見事な造形です。



古曽部 雪笹手鉢 (6)-1.jpg


雪の意匠も躊躇なく、鮮やかに大胆に。


古曽部 雪笹手鉢 (8)-1.jpg


反対側から。


今に至る迄、ここまで良く仕上がってる雪笹手鉢の写しは見たことが有りません。

三代信平は、窯の量産体制を整え雑器を数多く作るのですが、自身の製作レベルの高さは本作品で実証されます。


古曽部 雪笹手鉢 (9)-1.jpg


故にでしょうか、印銘は量産型とは異なる、三代の中でも希少なタイプが使われております。



古曽部 雪笹手鉢 (2)-1.jpg


古曽部 雪笹手鉢 (1)-1.jpg


大事にされていたことがうかがえる伝世箱です。


古曽部 雪笹手鉢 (3)-1.jpg



古曽部焼の名は、現在では異なるタイプの茶道具窯として新たに紀州焼をルーツにもつ寒川さんにより活かされております。

しかし、当時の世相や需要で人気を博し…民窯であった古曽部焼が「遠州七窯」に数えられる程の評価をされていたことは、近年では世の記憶から薄れつつあるのです。



※売却済みです。


《追記》ちょっと、要研究事項がありましたので・・・あくまで、この内容は参考程度でお願いいたします。私自身も追及したいと思います。(^^;

資料として、残しておきます。




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【BASE 215】 大阪市浪速区日本橋東2-1-5 大阪南美術会館内


当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。

当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。



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【永楽保全 雲鶴青磁 酒飲】共箱・即全極め外箱 [国焼茶陶【江戸後期】]

『保全』の作品は既に最晩年作品でも169年が経過しております。

まぁまぁ、古いものですが・・・「茶道具」というジャンルが大半であった為か、大事にされていて伝世数・現存数が多く、今でも作品自体は様々なものが、流通し手にすることが可能です。

しかし、そんな中でもレア物というものが有りまして。。。

当店では、その辺を重点的に取り扱うように心がけております。



今回ご紹介の「酒盃」は、2重、3重の希少さを誇る作品でございます!



永楽保全 雲鶴青磁盃 (1)-1.jpg


【永楽保全 雲鶴青磁 酒飲】


幅    6.8cm

高さ   3.8cm

高台径  2.8cm

製作年代 嘉永元年(1848)~7(1854)年

箱    共箱 即全極め外箱




保全作品の中でも、湖南焼より、高槻焼より、長等山焼より・・・遙かに希少性が高いのが、実は「雲鶴青磁」です。


「幕末京焼の三大名工」であります、「保全」「仁阿弥」「長造」の3名たちも、それぞれが「雲鶴青磁」に挑戦しております。


18代高麗の王である「毅宗(きそう)」の在位期(1146~1170年)から25代の「忠烈王(ちゅうれつおう)」の在位期(1274~1298年)朝に至る間の頃に作られていた官窯です。

日本では「鎌倉時代」ですね。

中国の青磁に対して、単色の高貴な色にならなかったせいか・・・造形による複雑さを王朝より求められたようですが、製作上の問題からそれを避け・・・その代わり、として「象嵌」による絵付けデザインの装飾による煌びやかさを追及したという事情が生んだ「美」であります。

その後、その緑色ですら発色が難しくなり・・・次代には「三島手」という灰色へ、そして「李朝」と変遷していきました。


さて、最近JFKでのワードとして登場しております『うつしもの』文化ですが。。


京焼に於いては、写しの需要というより・・・『陶工の技量・興味の表現』的な要素が大きかったというように感じております。


さて、保全のお話に戻りましょう。


保全の雲鶴青磁は、なかなかの風合いの再現が特徴です。

しかし、経験上・・・アイテムとしては、「本歌」では存在しない形状・種類を敢えて、製作しているように思えます。


本作でもしかり。


作品を見てまいりましょう。



永楽保全 雲鶴青磁盃 (1)-1.jpg


保全 雲鶴青磁 酒飲 (12)-1.jpg


永楽保全 雲鶴青磁盃 (4)-1.jpg


永楽保全 雲鶴青磁盃 (2)-1.jpg


高麗青磁の雲鶴青磁といえば、「飛雲舞鶴」の紋様です。

この作品も、象嵌により意匠化されております。


永楽保全 雲鶴青磁盃 (3)-1.jpg


保全 雲鶴青磁 酒飲 (11)-1.jpg


印は、保全作品の中でも希少な「小印」タイプです。

これらは、おそらく注文品による小品にのみ使用されていたとおぼしきもので、共箱と併せて発見するのはかなり希少です。


サイズも、当時としては珍しく・・・「ぐい呑み」サイズです。


保全 雲鶴青磁 酒飲 (1)-1.jpg


2重箱です。


保全 雲鶴青磁 酒飲 (4)-1.jpg

共箱 (甲)

保全 雲鶴青磁 酒飲 (5)-1.jpg

共箱 (裏)


保全による雲鶴青磁の作品の製作年代は、集中されておらず、私の研究してきた個体でも、善五郎・善一郎・保全 時代に渡ります。

この辺は、晩年期が染付尽くしであったのとはまた事情が異なるのでしょうが、解き明かしていきたいところです。


保全 雲鶴青磁 酒飲 (2)-1.jpg


16代即全の極め箱 (甲)


保全 雲鶴青磁 酒飲 (3)-1.jpg


即全極め箱の(裏)です。



永楽保全 雲鶴青磁盃 (6)-1.jpg


雲鶴青磁写しの特徴である、上釉の貫入の張り方もファンタジーなのです。


口造りの柔らかさ、手取りの重さ等・・バランスは用の美を生み出しております。


これは、是非・・・日本酒をペアリングしてお愉しみ頂きたいです!


酒器コレクションとしても、保全コレクションとしても希少度の高い作品であることは間違いありません。




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【奥田木白 赤絵萬古焼写 蓋置】 [国焼茶陶【江戸後期】]

先日に続きまして・・・『木白(もくはく)』作品のご紹介でございます。

今回の物も、なかなかの逸品なのです。


木白 萬古焼写蓋置 (1)-1.jpg


【奥田木白 赤絵萬古焼写 蓋置】


幅    5.7cm
 
高さ   5.3cm

製作年代 幕末期

箱    共箱






『諸国国焼写し処』 

『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并(並びに楽焼類)』


この看板を大きく掲げるだけあって、抜かりない仕上りです。


この作品は、『萬古焼』の写しになります。



萬古焼の創始者である『沼波弄山(ぬなみろうざん)』は1718年に、桑名の豪商であった沼波家に生まれ、陶器の『萬古屋』という廻船問屋を営んでいました。

幼いころから茶道に精進した茶人であった弄山は、1736~40年の間に、その茶趣味が高じて朝日町に開窯します。


教養人でもあった弄山は、京焼の技法を元に当時珍しかった更紗模様やオランダ文字など異国情緒あふれる意匠の作品を生み出し、好評を博しました。

弄山が作品に押した「萬古」または「萬古不易」の印は、

「何時の世までも栄える優れたやきもの」という意味であるとか、屋号の「萬古屋」から、どいう説が伝わっております。


その人気ぶりは江戸の方にも伝わり、江戸・小梅村(現在の東京都墨田区)でも「江戸萬古」を開窯して評判となり、当時の将軍の御成りもあったと伝えられています。

しかし、弄山に後継者が居ず・・・没後しばらくして萬古焼は途絶えてしまうのです。


天保年間(1830〜1843年頃)、桑名の陶器師森有節らによって萬古焼が再興され、「有節萬古」として新たなデザイン・技法の萬古焼が人気となりますが・・・一時期、萬古焼は途絶えており、所望する声が絶えませんでした。


その頃です、木白も萬古焼写しを製作していたのは。



木白 萬古焼写蓋置 (1)-1.jpg


木白 萬古焼写蓋置 (2)-1.jpg


木白 萬古焼写蓋置 (3)-1.jpg


「松」「竹」「梅」の意匠がそれぞれあしらわれております。


木白 萬古焼写蓋置 (5)-1.jpg


木白 萬古焼写蓋置 (6)-1.jpg


きちんと焼成された感じがみてとれます。


木白 萬古焼写蓋置 (4)-1.jpg

印は、小印で「赤膚山 木白」と押印されます。


木白 萬古焼写蓋置 (7)-1.jpg


共箱です。


萩焼の写しによって完成した「萩釉」によるクリーム色の釉薬、そして萬古焼の写しによって描かれた「赤絵」の細い彩色、京焼の写しによる絵付けデザイン、それらは・・・現代、我々が認識する「赤膚焼」の特徴ともいうべき、「赤膚焼 奈良絵」へと繋がっていくのです。


「うつしもの」が見事に独自の「うつくしいもの」へと昇華する好例である国焼き窯なのでした。





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『奥田木白』   寛政11(1799)~明治4(1871)年


元は、質商・荒物屋を営みつつ・・茶道や俳諧を嗜む風流人であったようです。


天保6(1835)年より郡山藩の藩医であった『青木木兎』の指導を受けて『樂焼』を始めたのが最初ので、その頃の名は『冠山』でした。

その後、天保10(1839)年に大和群郡山の瓦窯にて作陶を本格的に製作開始。

翌年の天保11(1840)年より、赤膚焼(中ノ窯)『伊之助』に焼成を、轆轤師として『山口縫造』を招き、自身は形成と絵付けデザインに大いに注力し、一気に人気を博したのです。




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【奥田木白 珠光青磁写 茶碗(鉢)】 [国焼茶陶【江戸後期】]

さて・・・7月の特別ご紹介『平茶碗 3碗』のラストです。

こちらもまた、希少な作品なのです!


奥田木白 珠光青磁写 (4)-1.jpg



【奥田木白 珠光青磁写 茶碗(鉢)】



幅   15.7cm

高さ  6cm

高台径 5.3cm

製作年代 幕末期



様々な時代と幅広い陣容を構える・・・京焼に比して、大阪や奈良は意外と江戸期のやきものは目立つところが無いのが事実です。


そんな中、奈良の地に於いてスターダムにのし上がった名工といえば、この人につきると思います。




『奥田木白』   寛政11(1799)~明治4(1871)年




元は、質商・荒物屋を営みつつ・・茶道や俳諧を嗜む風流人であったようです。


天保6(1835)年より郡山藩の藩医であった『青木木兎』の指導を受けて『樂焼』を始めたのが最初ので、その頃の名は『冠山』でした。

その後、天保10(1839)年に大和群郡山の瓦窯にて作陶を本格的に製作開始。

翌年の天保11(1840)年より、赤膚焼(中ノ窯)『伊之助』に焼成を、轆轤師として『山口縫造』を招き、自身は形成と絵付けデザインに大いに注力し、一気に人気を博したのです。


なんといっても・・・掲げられていた木白の看板が、その神髄を語っております。



『諸国国焼写し処』 

『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并(並びに楽焼類)』



そうなのです、様々な写しを得意としていたのです。


その需要が日本各地より寄せられ、様々な要望に応えていたのですが、ここにはやはり・・京焼もそうですが、その時代背景というものが存在すると思います。


高麗や唐物などは入手困難ですし、和物ですら江戸初期~中期のもの古いものはもちろん、今焼きとしてのものなどですら、今のような流通経路や紹介方法が無いもので、入手することが叶わないということです。

町衆に迄広まった『茶の湯』ですが、指標とされていた先人たちの古の『茶会記』を見て、取り合わせや道具の存在を知り、憧れ・所望するとなったときに、必要となるのが『うつしもの』ということです。


では、まずは作品のご紹介を。


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このフォルム、口造りには木白ならではの特徴が見られます。


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『珠光青磁』の特徴である紋様がきちんと。


このへらでの流れる紋様、刻み、なんとなく木白の人間性、というものが現れ居る様です。



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木白、作品にはどこか『やさしさ』を感じるフォルムや特徴、が内包されている気がするのです。


奥田木白 珠光青磁写 (7)-1.jpg


奥田木白 珠光青磁写 (8)-1.jpg


土質も大変良いもので、焼き上がりもしっかりした感じです。


印付もよく、『赤膚山 ◎印 木白』



余談ですが、『木白』の号は元々、商いをしていたときの屋号が『柏屋』であったことから、『柏』を分解して付けた名前であったとか。




『珠光青磁』というものについて、過去のJFKでもご紹介しました内容を引用してご紹介致します。



村田珠光が見出し、後世へと知らしめた道具として・・・有名なものに、『珠光青磁』というものがあります。

天文11(1542)~天正(1575)年までの34年間の茶会記に、23回も登場することも知られております。


珠光から利休に渡ったものは後に戦国武将の三好実休に現在の価格で5千万円で譲られたとか。
(この茶碗は、本能寺の変で焼失したようです)

さて、珠光青磁・・・この機会に研究して楽しんでみましょう。


『珠光茶碗』といっても、数が少ないせいかよく知られていない部分が多いと思います。


珠光茶碗というのは、唐物です。

官窯にて完全なる管理の元、多大なコストをかけて還元焼成された『青磁』に対し、そこまでの温度管理をせずに(出来ず?)酸化焼成にて作られております。

それは『雑器』として生まれたものであったからと推測されております。


様々な諸説がありますが、研究が進む中で・・・最初の茶会記に登場した鎌倉時代のものは、現在知られている『珠光青磁茶碗』とは手が異なるものであったということです。

珠光茶碗に対する詳細な記述、が今でいう珠光茶碗と合致しないということです。

茶会記での登場回数の多い中、それは同じもの、同手、が複数回登場したということではなく・・・珠光茶碗に憧れ、それに類するものを求めた当時の茶人により、新たに発掘されたものが今で知られる『珠光青磁茶碗』の殆どを指すものとなります。

さらに江戸中期頃以降に、博多遺跡群で出土したシリーズが、現在知られる各地で所有・展示されている珠光青磁なのです。

福建省の同安県にて発見された窯跡で類似したものが出土したことから、現在では『同安窯系青磁』として分類されます。


同安窯系青磁(珠光青磁)は南宋時代である12世紀~13世紀に造られたもので、その中でも12世紀前半~中頃のタイプ、それ以降12世紀後半~13世紀に入るタイプがあり、後期になると文様が簡素化されている傾向にあります。


やや緑色が強いものや、このように黄色みがかったもの、等があるようです。


京焼などでも写されている『珠光青磁』が、この黄色味のあるものばかりということから・・・おそらく関西圏内で見ることが出来た『同安窯系青磁』(珠光青磁)がこのタイプが多かった、もしくは個体としては同じもの、であったのかもしれません。


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奈良のコレクターの元で長年所蔵されていた作品です。

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共箱もきちんと。


作品名に、『鉢』となっておりますが後年複数伝世した際の覆い紙には『茶碗』として愛用されてきた歴史が刻まれております。


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全く、お茶碗として問題なくお使い頂けます!


『うつしもの』・・・それは『コピー』でも、ましてや『美術品』でもありません。


当時の『用に迫られ』生まれた、まさしく『お道具』として各地で生まれしものです。

今のような美術館や資料が無い中、また製法のレシピも学校も無く・・・様々な陶工が、熱意と創意工夫で生み出したもので、『写し』の過程に於いて自身の『美意識』『解釈』が混入し、そこに『独自の技』が合わさることで、他には無い独自の作品に仕上がります。

そこに、江戸時代の『うつしもの』の面白さ、があるのです!


※御成約済みです。



平茶碗、のご紹介は以上となりますが、木白につきましては ⇒ つづきます。



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裏千家茶道資料館 新春展『やきもの巡り② 大阪・兵庫編』のご紹介です。 [国焼茶陶【江戸後期】]

ちらっと、新入荷情報ブログ内でも言及しましたが・・・

裏千家の運営しております、『茶道資料館』にて、マニアックな展観がスタートしております。

以下、公式HPよりご紹介いたしましょう☆


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茶道資料館 令和4年 新春展


「やきもの巡り② 大阪・兵庫編」


会期1月7日(金) ~ 4月10日(日)



【前期】1月7日(金) ~ 2月20日(日)

【後期】2月23日(水) ~ 4月10日(日)


※新型コロナウイルス感染症の流行状況により、
会期を変更する可能性があります。

文化庁支援事業


開館時間

午前9時30分~午後4時30分 (入館は午後4時まで)

休館日  月曜日(但し、祝日、3月28日は開館)
    各月最終火曜日
     展示替え期間(2月21日、22日)、3月22日


入館料  一般700円、大学生400円、中高生300円
    小学生以下ならびにメンバーシップ校の方は無料

内容

高槻焼、桜井里焼、古曽部焼、大河内焼、難波焼、高原焼、吉向焼

湊焼、谷焼、八田焼、道楽焼。 丹波焼、三田焼、王地山焼、古市焼

出石焼、東山焼、明石焼、朝霧焼、舞子焼、赤穂焼、野田焼、珉平焼

・・・さて、あなたはいくつ知っていますか?

中世以降、日本各地に数多くの陶磁窯が誕生しました。

日本六古窯をはじめ、日本を代表する窯業地へと発展した窯から、近世後期の開窯ラッシュ期に築かれ
た小窯に至るまで、その数は数百にも及ぶと言われています。

しかし、現在、一般的によく知られている陶磁窯はその内のごく一部です。

そこで、近畿各地において、中世から近世後期に生産されたやきものを中心に、「ご当地のやきもの」を紹介する展覧会をシリーズ化して開催いたします。

平成29年春夏展として開催した第1回京都・滋賀編に続き、今回は大阪、兵庫のおよそ20窯を取り上げ、歴史的背景とともに諸窯の特徴、魅力を紹介します。



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第1回の京都・滋賀もの・・に対して、大阪・兵庫は・・・ちょっと色目的には負けてしまいますのは仕方ありません。(^-^;

しかし、関西人でも知らない人が多いようなマニアックな国焼窯が多数紹介されている、希少な展観なのです。

当店からも、所蔵品ならびにお世話させて頂いた作品が「5組」登場しております。


裏千家の初釜に合わせて開催の始まった、新春展・・・是非、ご高覧下さいませ!


(前期・後期で少し展示が変更となりますのでご注意下さい)
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【四代 大樋勘兵衛 仙叟好写 赤茶碗】 共箱 九代極め 鵬雲斎箱 [国焼茶陶【江戸後期】]

寛文6(1666)年、前田利常の茶頭として招聘され・・・金沢の地へ赴いた裏千家の祖ともいうべき、「仙叟」が伴った樂一入の弟子である「土師長左衛門」が・・・大樋村にて楽焼の製作を始めました。

仙叟の好み物として、伝統的な京焼の技法に革新的ともいえるモダンなテイストを盛り込んだものを生み出したのです。

初期大樋焼、初代~4代頃はその路線を固く守り創成期を支えました。

5代目は中興の祖としてさらなる飛躍を図ることになるのですが、初代の作風を強く遺す逸品が見られるのも初期大樋焼ならでは、といえます。


今回は、4代目の勘兵衛の佳品が手に入りました☆


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【四代 大樋勘兵衛 仙叟好写 赤茶碗】


幅 12.4㎝ 高さ 7.4㎝ 高台径 5.3㎝


共箱 

九代極め箱 鵬雲斎箱


製作年代 寛政12(1802)年~文政7(1824)年頃



さて、お茶碗の様子を見てまいりましょう。


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上から。


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反対側より。


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釉調もきれいに発色しております。


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高台側より。


4代目作品、は基本的にしっかり正統派の造りを確実に仕上げているのが特徴と云えます。

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高台側から。


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ちらっと、白いものが見えますね。


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一枝の梅が浮き盛りの絵付けで施されております。



「東風(こち)吹かば にほひをこせよ 梅の花

         主(あるじ)なしとて 春を忘るな」


菅原道真が、冤罪により大宰府へ左遷されることが決まったときに、詠んだ歌です。


春風が吹いたら、匂いを(京から太宰府まで)送っておくれ、梅の花よ。主人(菅原道真)がいないからといって、春を忘れてはならないぞ。


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東風(こち)、は京都(東)から九州(西)へ吹く風のことです。


これは、金沢の地から京都への方向にも通じるものであり、金沢の地で活躍した仙叟の想いというものが意匠に込められているのと同時に、「前田家」の家紋である「梅」にもかけているのです。

そして、仙叟の好みものというと、造形的なデザインが特徴であり仙叟好みの茶碗ではさらに特に際立っております。

このお茶碗も口造りの薄さからのひねり込みの造形が、なかなかのものとなっております。

4代目の大樋は、1758年に生まれ・・・1802年に3代が没したあとに襲名。

勘兵衛と、のちに長左衛門を名乗り・・・・文政7(1824)年10月に隠居して「土庵」を名乗り5代へ譲ります。

この作品は中期頃の作品と思われます。



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眼鏡箱になります。

9代目の極め箱もあります。

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共箱です。


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鵬雲斎の箱が添います。

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甲側には「陽来」とあり、「一陽来福」からのコトバでしょう。

冬が終わり・・・春が来るという意ですが、悪い傾向にあった物事がよい傾向に向かうことも意味します。

(この字は大樋さんの字かもしれません。)



4代大樋は、初代に次ぐ名工である、と10代さんの言がございます。


なかなか、目にすることのないものです・・・このご縁に感謝しつつ、皆様にもご紹介させて頂きました!


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※御成約済み



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仁阿弥道八 絵高麗 茶碗 [国焼茶陶【江戸後期】]

絵高麗茶碗です。

元は茶人により『絵のある』高麗茶碗として呼びならわされていたものですが、その後の研究により中国の磁州窯系のものと分類されております。

絵高麗は、文禄・慶長の役(1592~98)以後、渡来した、やや粗い白化粧の陶胎の土に、鉄描の黒い絵のあるお茶碗のことです。


さて、今回のご紹介の作品は・・・・仁阿弥道八です。


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仁阿弥道八 絵高麗 茶碗


幅 13.8㎝ 高さ 5.5㎝



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反対側からも、どうぞ。


鉄絵の勢いある筆で花を描いております。


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見込みの部分は安南にも通じる感じです。

内側に、一カ所・・・辰砂のような釉の発色が見られます。窯変によって出たものでしょう。

ちょうど・・・飲み口から飲み終わった後にちらりと目に入るお愉しみです。


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格調高い釉調で、さすが仁阿弥らしい上がりです。


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仁阿弥は、江戸後期の京焼の世界に於いて、粟田系の古清水風でもなく、師である奥田潁川のような中国陶磁器の写しでもなく、国焼や高麗の写しを。。。それぞれの趣きを巧みにとらえ、独自の工夫を凝らしてひとつの世界を開いているのが特徴です。


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高台回りの形成も手練れの陶工らしさです。

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印銘です。


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共箱です。


仁阿弥の共箱と使用される印・書き銘の組み合わせには一定のパターンは無く、それぞれの精査と作品からの判断が必要となります。


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5月~9月までお使いになれる形状です。

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抹茶を点ててみました。 

お茶碗の本懐は・・・この色が入ってから、さらに変える表情から受ける印象です。


仁阿弥の称は、文政9年(1826)に仁和寺宮から法橋(称号です)を叙せられる際に拝領した『仁』の字と、醍醐三宝院宮より『阿弥』号を賜ったことから、併せて『仁阿弥』と称されたものです。

ですので、この作品は1826年以降、三代へ代を譲り伏見桃山へ隠居した天保13年(1842)迄の間の作品となります。


仁阿弥の絵高麗は、刷毛目や楽に比して伝世数が少ないアイテムです。

是非コレクションに加えてお愉しみ頂きたく存じます。









※御成約済みです。


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