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【佐野長寛 石地塗 平棗】 [漆工芸]

さて・・8月も始まってしまいました。

今月上旬は、ちょっとお値頃のおススメ作品のご紹介となります。



伝説の「京漆工」・・・『佐野長寛』からどうぞ!


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【佐野長寛 石地塗 平棗】


幅  9.1cm 

高さ 5.5cm


製作年代 文政7(1824)~安政3(1856)年頃


箱  共箱



『佐野長寛』は、寛政6(1794)年に漆器問屋「長浜屋治兵衛」の次男として生まれました。

幼少の頃より、父の元で「漆芸」を学び、早くも13歳の時は「日本一の漆工になる」と語ったと伝えられております。

また、高貴で雅風ある作品を作るために「詩歌」を学び、和歌も嗜むようになったそうです。

儒者・数奇者がいると聞けば、訊ねて教えを乞い、中村宗哲を始め・・京都のさまざまな市中の漆工を訪ね教えを乞うたともいいます。


文化11(1814)年頃、父が亡くなり・・・21歳で家業を継承することになります。

しかし、まだまだ勉強不足であることを意識し、10年近くもの長期にわたる修業の旅に出たそうです。

その旅は、紀州・吉野・奈良といった古来の漆の産地から始まり、ついには日本全国の漆器にまつわる産地を渡り歩いて、各地の技術を学ぶものであったと。

そして、各地の富豪や大名を訪ねて、秘蔵の名器を見せて貰うことで、美術鑑を高めることであったといいます。

そして、最後にたどり着いた江戸にておいては・・ 当時、幕府の「本丸御用」の「印籠蒔絵師」が「紫漆」を使うと聞き、 訪ねて丁重に教えを乞いましたが断られたそうで・・・逆切れした長寛は、ついには独自でその技法を開発するに至ったとか。

恐ろしいほどの意欲と行動力です。(^^;



文政5(1822)年、京都に戻り「新町三条上ル」に居を構えて満を持して家業を再開したのです。


その制作品は、たちまち評判を生み・・ 高麗の名工『張寛』の5代後の子孫もあったこともあり、「張寛」の再来と評され、「弓」扁を削り遜って『長寛』と 自らその名を号したのです。



そこから、様々なエピソードもあるのですが・・・その一部は後述するとしまして、作品に戻りましょう。


佐野長寛 石地塗平棗 (2)-1.jpg




この作品、一見・・・「無地」の黒平棗に見えますが・・・実は「石地塗」(いじぬり)となっているのです。


佐野長寛 石地塗平棗 (3)-1.jpg



成型した木地に、ベースとなる漆を塗り、その上に灰や漆を蒔いて乾かし・・・さらにその上に漆を薄く塗って研ぎ出します。

この技法によって、表面は光沢のあるツルツルしながらも、光の加減により深層部のムラのような景色がうっすら浮かび上がることで、味わいがでるものなです。

刀の鞘の塗によく使われていた技法ともいいます。


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非常に薄造りであり、フォルムと相まってとても上品な棗です。

佐野長寛 石地塗平棗 (5)-1.jpg


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このショットだと、『石地塗』が分かりやすいですね。


佐野長寛 石地塗平棗 (1)-1.jpg

共箱です。 甲書きはございません。



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大き目なお茶碗とも。


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小ぶりの平茶碗とも。





長寛の有名なエピソードとしては、2つほどありますがそのひとつを。


天保6年、今津屋某家で祝い事のあることを聞いた長寛は吸物椀を造って贈りました。

喜んだ今津屋さんが、祝の客にて吸物を出しましたが・・客人がいざ飲もうとすると蓋が取れませんでした。

いかにも不思議に思った今津屋さんが、翌日に佐野長寛に・・このことを問いましたところ、

「いや、これはうかつな事をしてしまったわい。わしも老たかなあ」

蓋に「錐(きり)」で小さな穴をあけて、空気を通して蓋を開けてみましたら・・

一夜もたった中の吸物ですが、なんとはまだ温たかかったそうです!

身と蓋を精密に寸法を合わせすぎてきっちり造ったためにこうなったようで。

穴を元のように塗り直し、今津屋さんに再び納めた時に、幼少より嗜んでおりました和歌を一首。


「我が老の拙さ業も、後の世にまた顕はるる時やあらなん」


その遺した歌の通り、「無欲」で「弊衣蓬髪」を恥じず,常に斬新な意匠の創意を試みた長寛の名は後世の漆工たちに大きな影響を与え、様々なデザイン様式を遺したのです。



※ご成約済みです。




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【大原貫学 青貝平卓】 [漆工芸]

戦前期の、大阪には今では失われた技術を持つ職人達が存在しておりました・・・。


それらの存在を記憶の風化と共に失ってはいけない、ということで大阪歴史博物館が一大展観を行いました。


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大阪歴史博物館開館15周年記念特別展

「近代大阪職人アルチザン図鑑―ものづくりのものがたり―」


明治維新以後の工芸界は東京を中心に発展を遂げ、国内外で高い評価を受けるようになります。しかしその一方、中央から離れた大阪での作り手や作品の中には、十分に世に知られないままのものが少なくありません。

平成28年は、大阪歴史博物館が開館してから15年となります。その間にも数多くの大阪の職人“アルチザン”の存在や作品が明らかになりました。これらは当館の前身たる大阪市立博物館の40年に大阪歴史博物館での15年を加えた、55年間の調査・収集の積み重ねによるものです。

本展覧会では、これまでの当館活動の中で見いだされた初公開作品を含む「忘れられた大阪の工芸」約170件を展示します。その中には美術か美術でないか、その区分にとらわれない「博物館」ならではの展示作品も少なくありません。そのような大阪の職人“アルチザン”が残した作品を通じ、大阪の近代工芸の知られざる魅力をご紹介します。



その際に、当方もご協力させて頂いアルチザン、に『大原貫学』という名工が居ます。


今回は、その貫学の作品のご紹介です。


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【大原貫学 青貝平卓】


幅 51.4㎝×30.7㎝ 高さ 12.8㎝

大正時代~昭和時代初期



反対側より。


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貫学は、本当に作品のデザインの上品さもさることながら・・・・仕事がかっちり丁寧なのです。


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使われている螺鈿(青貝)はかなり上質なものを選び抜かれており・・・質の一定レベル感も整えられ、さらに輝きも配置も秀逸です。

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木地形成もしっかりされており、全体のシャンとした感じも良いのです。


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裏側は布張の漆がけです。

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銘部分です。

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共箱

DSC04767-1.jpg 

共箱裏側です。

抱玉庵というのが貫学の号です。


およそ30年ほどの活躍だったのでしょうか・・・一代限り、の名工として彗星のように現れ、消えました。。。


戦前の大阪には、本当に指物師をはじめ凄い職人たちが、財界人の茶道への傾倒と併せて活躍の場を与えられ、その技を競い合いました。

それらは、ただ・・・ただひたすらに良い作品を作り続けるという、”職人~アルチザン~”として自己の追求をしており、名声や役職、受賞などといった雑音には目をくれませんでした。

それが故に、コトバとしては後世に残らず・・・ただ、作品があるだけ。

そういうストイックなものこそ、今見直されなくてはならないと思うのです。



※ご成約済みです。


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