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【湊焼 山本窯 十五代吉右衛門 赤茶碗】 銘 『拂子』淡々斎 箱  [国焼(地方窯)]

『堺』『湊焼』のご紹介、続けてみましょう。


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (3)-1.jpg



【湊焼 山本窯 十五代吉右衛門 赤茶碗】 

幅   13.1cm

高さ  6.9cm

高台径 5.5cm

製作年代 大正時代頃

箱    淡々斎箱  銘 拂子

状態   口縁に微小ホツレ 高台内側に欠け





『樂家』の三代目、現代に至る迄・・・稀代の名工として名高い、『ノンコウ』(道入)の弟、『道楽』(吉兵衛・吉右衛門とも)が、その名の通り・・・・

若いころに、道楽を重ねたことで樂家から勘当される事態になりました。

その後、『堺』の『大島郡湊村』に流れ着き・・・茶の湯としては本筋の地にて樂焼の窯を開くことになったのです。

ときに、明暦元(1655)年頃といいます。

兄・ノンコウに劣らず名工であったということで、僅かな伝世品からもその伝承は裏付けられると思います。

残念ながら、樂美術館蔵以外としての流通品は、3点程しか目にしたことが有りません。


さて・・・そこから259年(!)の間、道楽窯は続きました。


道楽自身に子が居なかった為、二代目は親戚であった弥兵衛を京都より呼び寄せて継承させたとのことです。

ちなみに、ややこしい話ですが・・・『道楽焼』は何故か『道入焼』との看板を出していたようで、この辺は商売的な要因でしょうか。

そして、のちに理由は不明ですうが、『山本窯』と名を変えることになります。

『山本家』ではきちんと歴代作品や家系図等がきちんと遺されていたのですが、1945年7月10日の堺空襲にてすべてが灰燼と帰すことになるのです。

歴代ごとに印と共に整理されていたと言いますので、大変残念としかいいようがありません。。


初期に堺にてわずかな期間稼働した『宗味焼』、『道楽焼』が湊焼の創始と言って過言ではなく、少し遅れて京都より渡来し、始まった『上田窯』は『道楽焼』にて釉薬などを学んだそうです。


・・・・と、長くなりましたが、最初期から一番長期に渡り存在した『本湊焼』の最後の代の作品なのです。



湊焼 赤茶碗 淡々斎 (4)-1.jpg


『湊焼』のお茶碗といえば、手捻りの樂焼のイメージが強いです。

しかし、この作品は轆轤引きにより薄く、上品に形成され・・・・また、側面には箆目により篠木風の意匠となっております。


形状も端反りです。


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (5)-1.jpg


15代目 山本窯の『佐太郎吉衛門』は江戸時代の最後である、慶応3(1867)に生まれ、大正12(1923)年に没します。

まさに、激動の時代です。

15代は、雑器類は京都より招聘した職人に任せ、自身は茶人としての活動を中心に、茶陶のみを作っていたようです。

工人、としてだけでなく、この辺の事情からもこのお茶碗の品性がいわゆる湊焼との差を感じさせるのでしょうか。


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (8)-1.jpg


山本窯は、西湊町の浄土真宗 本願寺派『延長寺』と代々親交が深く、作品も道楽時代からのものが遺されてるようです。


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (6)-1.jpg

微小ほつれ部分

湊焼 赤茶碗 淡々斎 (7)-1.jpg

さらに微小な・・


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高台の内側の欠けもそんなに気になりません。


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (1)-1.jpg


湊焼 赤茶碗 淡々斎 (2)-1.jpg


淡々斎の箱になります。

十五代は『圓能斎』の没する前年に亡くなっておりますので、この書付は後年によるものです。


銘である『拂子』(ほっす)

中国の禅宗では僧が説法時に威儀を正すのに用いるものです。


茶席の銘としましては、通年使いの無季の銘となっております。


そういう銘では他には代表的に抜粋しますとこんなラインナップになります。


無事、常盤、末広、瑞雲、和敬 好日、佳日、千歳、和心、松風、松籟
松翠、老松、相生、古今、無心、吉祥、福寿、閑居、閑坐、不老、知足
洗心、払子、喫茶去、無一物、千年翠、庵の友、千代の友


禅語としてはいかようにも深く読めますが、他社を導く為の言葉ではなく・・・

むしろ、自身を律し、背筋を伸ばしてお客様をお迎えするという意識としての御銘でしょう。


状態としては問題なくお使いになれるものですが、お値段として反映させていただきお使い頂けやすくご紹介致します。


※ご成約済みです。



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【備前 伊部手一重口 水指】 [国焼(地方窯)]

先日は『満月』の『仲秋の名月』でした。

次は7年後とか。

ちゃんと、見れました見れました。しかし~カメラではうまく撮れないんですよね~(素人[あせあせ(飛び散る汗)]


そんな、秋の夜長に考えました。

『備前焼』


近代工芸、としてはそこそこきちんとした評価がありますが、茶道具としては・・・いまひとつ、地味なポジション。。。

日本古来のもので、中世より続く・・・六古窯のひとつに数えられます。

他の窯もそうですが、備前焼は貯蔵用のやきものとして壺や甕、擂鉢や皿・碗、そして瓦などを作っており・・・備前の国にて需要が満たされておりました。

もちろん、消耗品として。


室町時代後期より、唐物を中心とした、『武家茶』として茶の湯の流行が興ります。


そうして広まるうちに、名物道具を中心にした武家や豪商の間で広まった茶の湯に対して、『侘数奇』が発生してきます。

『千利休』もその道です。

16世紀には『見立て』などで、侘び数寄者の間で『備前焼』を使いだした例が見られます。

壺を水指にしたものでしょうか。

その後、『唐銅』を写させたものなど茶道具として生まれた備前焼が登場し始めるのです。


室町時代では、まだ『備前焼を使うのは上級者である』とされる向きがあり、見どころのある道具として着目されつつある中、まだまだ広く評価されるまでのものではなかったようです。


その後、『小堀遠州』が備前焼を非常に、重用しております。

その辺から備前焼が茶陶として花開くのです。


『小堀遠州』の1628年~1644年の間の茶会記に登場する『備前焼』を数えてみました。(^^;


花入 4回

水指 51回

建水 17回 (このうち、7回は古備前とありますので、桃山期のものですね)

このうち、同時に登場してるときもあります。



こんなに備前焼を使ってる茶人は、ひょっとしたら岡山県人以外では皆無なのでは?!などと思ってしまうくらいに『推し』ております。


そして、遠州時代より端正な茶道具としての形状としての備前焼が登場し始めるのです。

おそらく指導が入ったのでしょう。


用途だけでなく、技法的なもの、見た目を重視したもの、そして釉薬を使わない代わりに意匠としての意図を表現できる、窯変なども多様されていくのです。



さて・・・今回、ご紹介致しますのは、そういった意匠化の技法のひとつであります、『伊部手』と呼ばれるものです。



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【備前 伊部手一重口 水指】


幅    16.5cm

高さ   14.7cm

製作年代 江戸時代 中後期頃

箱    伝世箱



扱いやすい、サイズ・形状。 そして魅せる景色の水指です。



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くっきり出た轆轤目に、箆使いにてザクっと斜めに切り込んでおります。


『伊部手』は室町時代から存在した技法だそうですが、積極的に取り入れられたのは1610年頃、遠州時代以降とされます。


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『胡麻』とよばれる発色が出ております。


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内底に『窯切れ』が在りますが、水漏れはいたしませんのでご安心を。


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『伊部手』とは、黒く発色する土を塗りつけて表面に彩りを意図する技法です。


胡麻の出方も、轆轤形成を全面に出す造り方も、茶の湯が大成して茶道具の需要が高まっていく中で、徐々に洗練されていったものです。


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裏側もいい造りなのです。



伊部焼 一重口水指 (1)-1.jpg


全所有者は、丹波焼として使っていたようですが・・・


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元はちゃんと、備前焼の伊部手として伝世していたものです。


令和2年、1か月半のみでしたが・・岡山県立博物館に於きましてとてもいい展観がございました。

『備前のある場所 ~取り合わせの魅力~』


これまでのように、備前焼を単体として紹介するのではなく、当時の取り合わせ・・・高麗や国焼などと併せることで、とても魅力あるものに映りました。


近年、あまり備前焼の茶道具を求める声が少ないように思います。

それは古いものはもちろん、近代の作家によるものでも。


しかし、それは『使い手』の理解と腕が無い為なのかもしれません。


奇しくも、室町時代に戻ってしまったかのようですね。(^^;




白熱灯の下では、また違う顔をしましたので、そちらもご覧頂き・・・本日の筆を置きたいと思います。


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Special Thanks Mr.shikone



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【奥田木白 赤膚焼人形手写 茶碗】 惺斎 箱 [国焼(地方窯)]

奈良の中心地より・・・やや『南』へ下ったところに『大和郡山』という地があります。

スクリーンショット (1).png


かつては、『郡山藩』と呼ばれ・・・お城も存在します。


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郡山城は1580年に筒井順慶の築城による、大和でもっとも大規模な城郭です。

豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。

(現在では天守閣は無いのですが、城郭は現存します)

城主であった、『羽柴秀長』が常滑から陶工『与九郎』を呼び寄せて始まった、奈良市の五条町『赤膚山』でのやきものがありました。


『赤膚焼』(あかはだやき)です。


『遠州七窯』として数えられていることで知られます。

しかし遠州存命時代には茶陶は無かったようです。では何故七窯に数えられているのでしょう?


小堀遠州は、実は『郡山』の地にゆかりがあるのです。


天正13(1585)年、『豊臣秀長』が大和郡山城に移封されると、遠州の父『正次』が家老となり、『政一』(後の遠州)も一緒に大和郡山に移り住み、幼少期を過ごすことになったのです。

『豊臣秀長』は『千利休』に師事し、また『山上宗二』を招くなど・・・この地は『京都』『堺』『南都(奈良)』と並び、茶の湯が盛んになったといいます。


小姓だった政一は秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子との邂逅の中・・・やがて、古田織部に茶の湯を学ぶことになるのです。


『徳川家康』に仕えた後の活躍は知られる通りです。


窯の実際の稼働は遠州没後のことのようでもあり、幕末期の書物には『遠州印』とよばれるものが記載されて『9つ』作品があったと記されておりますがさだかではありません。


『遠州七窯』は江戸後期頃の文献にて初めて名が登場する、実は後世の名称なのです。


しかし、遠州好みに合致する諸国国焼きの窯のひとつとして・・江戸後期から現代に至るまで認識されている雅味な窯であることには違いないのです。

その、『赤膚焼』の魅力が最大限開いたのが『奥田木白』時代なのです。

今回は、その木白作品をご紹介致します。



木白 人形手茶碗 (3)-1.jpg



【奥田木白 赤膚焼人形手写 茶碗】


幅   13.5cm

高さ  7.8cm

高台径 5.2cm

重量  317g

製作年代 江戸後期

箱    惺斎書付



『青磁人形手』とよばれるタイプのお茶碗です。


青磁?と思われる方も多いでしょうが・・・土灰を主とする『青磁釉』を『酸化炎』で焼成するとこのような色に発色するようです。

『還元炎』で焼成すると知られる緑色の青磁となります。



唐物では『米色青磁』と称され、日本では醤油のような赤茶色であることから『醤手』(ひしおで)とも云われます。

『侘び茶』がもてはやされた日本では、このような発色の茶碗は人気が高かったようです。


ぐるっと見回してみましょう。


木白 人形手茶碗 (4)-1.jpg

外には『檜垣紋様』が、味わい深い『箆使い』にて刻まれております。


木白 人形手茶碗 (5)-1.jpg


フォルムも、背が高すぎず・・・低すぎず、茶碗としては最高のバランスです。


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見込み側も美しいものです。

底に『窯切れ』はございますが、漏れなどもちろんございませんし使用になんら問題は有りません。



木白 人形手茶碗 (7)-1.jpg


『人形手』と呼ばれる所以は、内側に『人物』のような絵が入ってることからです。


口縁内側分の『雷文帯』と呼ばれる『押印』による文様があります。

こちらも、人形手のお約束事項です。


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木白研究者の弁として文献にて拝見した、興味深い記述が有ります。


木白作品は大量生産ではなく1点1点を丁寧に手作りされるものである。故に手間と神経を使う作業ではあるが・・・土が乾ききる前、まだ少し柔らかい間に削りを入れることで・・力強さから自然と土が微妙な収縮をすることで生まれる、柔らかな木白独自の箆削りが生まれる、と。


なるほど!

この作品を見るときに感じる、なんとも言えない・・高貴さと、暖かみの調和はそこにあったのかと、膝を打った次第です。


『奥田木白』は『大和郡山藩』の御用小間商人であり陶工でもありました。


天保7(1836)年より郡山藩医『青木木兎』の指導を受け楽焼を始め、天保10(1839)年には稗田村(えだむら)と呼ばれる地で『瓦窯』を設け、本格的な作陶に入りました。


『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并樂焼(なんばんならびにらくやき)』という・・・いわゆる『諸国国焼き写し処』という看板を掲げ、製作並びに赤膚焼の販売所を行っていたのです。

その堂々とした看板からも、自身の腕っぷしの自身がうかがえますが・・実際に、日本各地からの需要が多く依頼されるほどの評判であったようです。

轆轤師として『山口縫造』の名が記されており、また絵付け物は絵師とのコラボレーションも多く遺されております。

実際の茶陶における『赤膚焼の祖』というべき存在なのです。

明治4(1871)年に没する迄の35年間に多種多様の作品を日本中に広めました。



・・・っと、箱書のことを忘れておりました。(^^;

木白 人形手茶碗 (1)-1.jpg

木白 人形手茶碗 (2)-1.jpg


表千家家元、惺斎宗匠の大正時代の箱になります。


木白 人形手茶碗 (3)-1.jpg


『国焼』、本当に良いものですね~さいなら、さいなら、さいなら・・・

(そんな、映画紹介番組がありましたのを、ふと何十年かぶりに思い出しました[あせあせ(飛び散る汗)]


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【上田吉右衛門(八代目) 御本写 湊焼重物】 [国焼(地方窯)]

久々の! 湊焼の入荷です☆

なかなかの逸品だと自負しております。

どうぞ、ご覧下さいませ。


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【上田吉右衛門(八代目) 御本写 湊焼重物】



幅    17.5cm

高さ   20.4cm

制作年代 明治元年~明治20年頃



『堺 湊焼』は、大阪府堺市の窯です。

堺は・・・利休の活躍した地としてしられ、『泉州』の中心地でありました。

堺の裕福な町衆である魚屋に生まれた利休は、若いうちから茶の湯に親しみ、北向道陳、武野紹鴎に師事しました。

のち、豪商となった利休は、茶の湯をもって信長に近づき・・・その死後は、秀吉の茶頭として仕えながら、茶道を大成しました。


『湊焼』というもの自体は、室町時代よりやきものの産地として存在しております。

灰炮烙は、安土桃山時代より製作が開始され広く知られるようになりました。

本格的には江戸前期の延宝年間(1673~1681年)頃より、『御室焼』と称して開窯されたものが現在へと続く『湊焼』の祖となります。

その名の通り、『上田吉右衛門』が京都の『御室』より移り住んで陶器の商いと製作をしていたのです。

その後も窯は代を重ねながら稼働し続け、五代目(寛政~文政時代)が『交趾』の焼成に成功しました。ノンコウの弟が創始した『道楽窯』より施釉を伝授されたという話です。

湊焼のイメージとしては、『赤楽』と『交趾』が強いのが湊焼の特徴ともいえます。


軟質陶器の楽焼窯にて、雅味あふれる作品群を製作していたのです。


さて、今回の作品ですが・・湊焼の中でも珍しい作風かつ、かなりハイレベルな作品です。


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曲げ物で作られる、『重箱』(縁高)を見事にやきもので再現しております。


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木地の目風な糸目の上に、七宝紋様を意匠取りしております。

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蓋には『松』の絵が。



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やきものですが、ぴっちり合うように3段の重を角もきれいに形成いるのが見事なのです。


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『泉州堺本湊焼吉右衛門』


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ボールペンと比較致しました。大きさもそこそこあります。



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共箱です。 八代目は歴代上田窯の中でも一番の名工であったといわれる六代目に匹敵する技量の持ち主でありました。

明治になって、姓を『湊』としました。

この頃は、『山本窯』や『長浜屋窯』といった窯が堺にて存在し、互いに切磋琢磨し湊焼の黄金期ともいえる時代です。


その中でも、中心的な存在であったのが『上田窯』であり、その最後の代となった八代目は明治元年~明治30年頃に活躍しました。

明治39年に亡くなるまで常に研鑽を続け名品を遺しました。

(その子、は『左国松窯』として湊焼の志を継承することになります。)


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『御本』風の色調と斑点も見事な味わいとなっており、それは・・『桜』にも『紅葉』にも見え、春秋のお使いにも楽しめそうなのです。


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【三代 古曽部焼 五十嵐信平 兎香合】惺斎 箱 [国焼(地方窯)]

今回は、レアでファニーな香合のご紹介です。

ただ・・・色と照明と、カメラ・・・なにより、私の写真の技術不足で、本来の魅力の半分も画像に反映されてない、ということを先にお断りしておきます。(^^;




遠州七窯のひとつ、に数えられている『古曽部焼』です。


江戸時代中期の茶人である、小堀遠州(1579~1647年)の好みの物を製作する国焼き窯として、指導を行った窯を七つ数えられており、現代に伝わっております。


〇志戸呂焼(遠江:遠州)

〇膳所焼(近江)

〇朝日焼(山城)

〇赤膚焼(大和)

〇古曽部焼(摂津)

〇上野焼(豊前)

〇高取焼(筑前)



しかし! これらのうち、『赤膚焼』と『古曽部焼』のふたつは、遠州没後の窯ですので、遠州の選定でないことは、歴史的に自明しております。

どうやら、『陶器考』という1854年に田内梅軒(米三郎),によって書かれた書物で言及されたものから、広がった言い方のようです。


『遠州の好みそうな』ものを作っている『窯』という意味であったのでしょう。


赤膚焼と同じく、当時のニーズであった遠方である国焼諸窯の写し物の需要に応えて、古曽部でも高麗風のものなどもありました。


しかし、元々そういう茶道具を中心とした窯ではないのです。

そして、他の窯と一番違う点は・・・・


『古曽部地方のやきもの』でなく、『五十嵐家』の窯のみであったことです。



初代である新平(1750~1829年)は、現在の大阪府高槻市である、『古曽部村』の農家である『五十嵐家』の出身です。

京都にて製陶技術を学び、寛政2(1790)~3(1791)年頃に開窯しました。


基本的には一般庶民に使用される、日常食器を大量に作る為の窯で、わずかに茶人用の茶器製作も行っていたのです。


しかし、全体の内の量は僅かであるにもかかわらず、茶人の中では『古曽部焼』は広く知られ、求められるようになっており、のちには贋物も多く作られるほどであったのです。

先述の遠州七窯としての紹介の影響であったのかもしれませんね。


さて、作品のご紹介です。


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【三代 古曽部焼 五十嵐信平 兎香合】


幅    3.2cm×4.1cm

高さ   4.2cm

製作年代 明治初期頃

箱    惺斎書付  駒沢利斎 箱



よく、茶道具の兎香合でみられるものと・・・全然違いますね。(^^;


まず、白色でない。


次に、立っている。ピーターラビットです。


ピーターラビットもそうですが、野兎で灰色や茶色は別に、ふつうです。

日本ではなぜだか、白のイメージが強いだけです。



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ちゃんと、かわいい口もあります。

まんまるお目目・・・古曽部焼は基本的に、単色釉と鉄絵です。

ここを彫りでの目にしたことで、お目目くりくり感を出しているのです。

鼻の穴まであります。


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『香合』、といえば型物で作られることが多いのですが・・・当作品はそうではありません。


『てびねり』からの削り出しで造形されております。



蓋を開けるとさらに珍しいです。



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鉄絵にて、『松』のような絵付けがされているのです。

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新年のおめでたい意匠に通じます。


このことから、この『兎香合』はおそらく干支の時に、一点ものに近い少量オーダー作品であることが推測されます。


明治8(1875)年ですね。


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絵付けに交じって、『丸に二』のような字が見えるのです。

これは、納め先の屋号であったか、もしくは製作番号であったか・・


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この辺の造りと印は、古曽部焼らしいところです。

三代の印です。


三代五十嵐信平(1833~1882)年

天保4年に二代の子として生まれます。家業をつぎ,古曾部焼を製作した。釉薬を研究し,中国の辰砂風の小器など,各地の陶磁器を模した種々の製品をつくりだした。明治15年10月に50歳にて亡くなられました。

その後、四代へ継承されますが・・・五代のとき、明治末~大正元年頃に廃窯となってしまうのです。


古曽部焼 兎香合 (1)-1.JPG


三代古曽部の頃は、共箱というものはほとんど存在しません。

上記のように、日用品が多かったことと、茶道具はすぐに千家等の箱に仕立てられたため、と推察されます。


この箱は、千家十職である、『駒沢利斎』により作られ、表千家へと送られました。

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表千家家元十二代の惺斎による箱書きです。

筆跡より、明治26年頃と推察されます。


これは手に入れた茶人さんが、香合を大切にする為に後年、書付を求められたものです。


来年・・・2023年の御題が『友』と発表されております。


そして、干支は『兎』でございます。


このかわいい兎をお傍に置いて頂きとぅございます☆




古曽部焼 兎香合 (3)-1.JPG


この、香合の味わい・・を当ブログにて、伝えきれないのが非常に残念、です!

スマートフォンにて撮影した方がまだ色合いが良く映ってるかもです…

コチラ


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是非、実際に手に取ってみて頂きたいと思います。


最初の展示は、明日より開催の丸善書店 日本橋店 3階ギャラリー はんなり骨董楽市となります。


そうぞ、ご高覧下さいませ。





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【湊焼(津塩窯三代) 湊本窯 箕銘々皿】 5枚 [国焼(地方窯)]


関西は、大阪・・・『泉州 堺』、利休の活躍した地としても知られる交易の栄えた商人のまちでした。


もちろん、茶の湯も盛んであり、古くは桃山時代より『やきもの』が造られておりましたが、茶陶としては樂家三代である、『ノンコウ』の弟が始めた『道楽焼』と、それに続く『山本窯』、少し遅れて・・・『上田窯』により江戸期に人気が高まり、幕末・明治辺りで各窯の競演にて黄金期を迎えます。


それらを、『堺 湊焼』といいます。


軟質な、土に赤樂を中心とし・・・交趾釉などでの、茶陶や懐石道具、雑器・・・飾りもの、等が盛んに製作され、各地に出荷され大いに人気となったようです。


上田窯二代の一門であった人が、享保年代(1700年台前半)に上田窯に倣って始めた窯が、『長浜屋窯』といい八代迄続き、明治にそれを引き継ぐ形で『津塩窯』が始まりました。


『津之国屋』という長浜屋が塩等を取り扱っていた別の屋号を、由来とし『津塩』を名乗り・・・のちに性としたのです。


今回、ご紹介するのは津塩窯 三代目である『津塩政太郎』(本湊焼十五代)の作品です。



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【湊焼(津塩窯三代) 湊本窯 箕銘々皿】 5枚


幅    11.4cm×13.3cm (各)

高さ   2.8cm (各)

製作年代 大正時代頃

共箱




湊焼簑銘々皿 (4)-1.JPG


『箕』は、農作業で穀物を主とする収穫物から不要な小片を吹き飛ばして選別するために古くから用いられてきた道具のことで、日本では竹を素材として作られており、容器としても使えることから広く普及しました。

まさに伝統工芸であり、作るのには大変な技量を要します。

故に近年では樹脂製などもあるようです。


R.jpg


この作品は、見事に楽焼にて『箕』を再現しております。


湊焼簑銘々皿 (6)-1.JPG




津塩政太郎は、轆轤引きを使わず・・手びねりと型形成にて製作していたそうです。

この作品は、手びねりしたものに型を押し付けて、箆などで仕上げて造られてます。



湊焼簑銘々皿 (7)-1.JPG


裏は『布目』となっており、こうすることで使いやすさと耐久性を持たせているように思います。


印は5枚全てにありますが、印に釉がかかってるものとかかってないものがあります。


湊焼簑銘々皿 (2)-1.JPG


湊焼の土は熊取(関空の近くにある地名です)の土で、温度を上がると赤く変色するそうです。

これを還元焼成にて、焼くわけですが・・・釉薬部分のかかり具合と温度差の具合で、味わいが変化するもので・・・

湊焼は元々、釉調としてはシンプルなものだけに、より焼物師の技量により仕上がりが『雅味あふれる』か、『品格の無いものに』なるかの差が出るのです。


その辺の面白さ、と茶処である堺の地域性・・・によるセンスが、『湊焼』の醍醐味でしょう。


湊焼簑銘々皿 (1)-1.JPG


共箱になります。

窯上がり時の微小の釉剥けはあるものの、概ね無傷に近いコンディションです。



湊焼簑銘々皿 (4)-1.JPG


一時期は、複数稼働していました歴史ある湊焼ですが、現在は1か所が細々と・・・寺のお土産ものを製作しているだけのようです。

元が数があったので、伝世数はあるものの・・堺空襲による大打撃により、決して残る数は多いとも言えません。

ここ数十年の間に、一気に新たな所蔵先へと収まっていきつつあり、近年では見るべきものは少なくなってしまいました・・・・。






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