愛知陶磁資料館では今、明治の人間国宝展が開催されてます。
個人的には人間国宝・・というものの解釈を持ち出すのはどうかとも思いますが・・現代に解りやすい表現方法なのでしょうか。
ようするに、帝室技芸員展です。 陶芸5名のみの。
この切り口はこれまでなかったのではないでしょうか?
非常に興味深々ですが、ちょっと遠いので仕事と絡めて行ける日を模索中です。
そんな、帝室技芸員の青磁の名手・・・・
初代諏訪蘇山の上作が入荷いたしましたのでご紹介いたします。
上がりがよく、初代作のベストスタンダードといってよいでしょう。
箱も帝室技芸員印付で、晩年作です。
初代諏訪蘇山(すわ そざん)
活動当初より陶磁器の彫像制作に優れた独自性を発揮し、また後年、当代一の青磁の名手として知られた。
嘉永 4年 加賀藩士 諏訪重左衛門好方の子として金沢に生まれる。幼名〈栄三郎〉。
明治 6年 彩雲楼旭山に陶画を学ぶ。翌年結婚、明治八年に東京に転居して陶画を業とした。
明治 10年 八月より一年間、瀬戸・京都等各地製陶場を研究視察した。
明治 15年 七官青磁の研究に着手。
明治 26年 大病からの蘇起を喜び、友山、賀山としていた号を蘇山と改める。
明治 40年 京都・五条坂にて製陶業を始め、七官青磁・白磁・白高麗・交趾釉・漆黒釉の作品を試みる。
砧青磁の再現には他の名工が釉薬からのアプローチに没頭する中、素地に依るところが大きい事を日本で初めて発見。各種の胎土を研究した末に明治十五年からの試製を究め、「青磁」作品を世に出した。
大正 2年 白色で精巧な文様を持ち、素地が紙のように薄い「鳥の子青磁」を考案する。
大正 3年 二月、高麗古窯旧跡の調査を朝鮮王家より嘱託されて渡鮮。十一月帰国。
大正 5年 鉄砂釉を飛ばした「飛青磁」により、花瓶や抹茶碗等を制作。
大正 6年 帝室技芸員を拝命。八年には宮内省より製陶のご用を受け、謹製する。
大正 9年 欧州で作られていた「イリジューム青磁」を制作。後には日本産イリジュームで施釉。
この年「魚眼嵌白金」をも案出。また、金沢時代に苦心していた彩釉の研究に再び没頭、「五彩釉陶磁器」を作る。
大正 11年 感冒から肺炎を併発、逝去。
愛知陶磁資料館の今回の展観で気に入ったフレーズがありましたので、最後にご紹介いたします。
日本陶磁のエース、帝室技芸員たち。
個人的には人間国宝・・というものの解釈を持ち出すのはどうかとも思いますが・・現代に解りやすい表現方法なのでしょうか。
ようするに、帝室技芸員展です。 陶芸5名のみの。
この切り口はこれまでなかったのではないでしょうか?
非常に興味深々ですが、ちょっと遠いので仕事と絡めて行ける日を模索中です。
そんな、帝室技芸員の青磁の名手・・・・
初代諏訪蘇山の上作が入荷いたしましたのでご紹介いたします。
上がりがよく、初代作のベストスタンダードといってよいでしょう。
箱も帝室技芸員印付で、晩年作です。
初代諏訪蘇山(すわ そざん)
活動当初より陶磁器の彫像制作に優れた独自性を発揮し、また後年、当代一の青磁の名手として知られた。
嘉永 4年 加賀藩士 諏訪重左衛門好方の子として金沢に生まれる。幼名〈栄三郎〉。
明治 6年 彩雲楼旭山に陶画を学ぶ。翌年結婚、明治八年に東京に転居して陶画を業とした。
明治 10年 八月より一年間、瀬戸・京都等各地製陶場を研究視察した。
明治 15年 七官青磁の研究に着手。
明治 26年 大病からの蘇起を喜び、友山、賀山としていた号を蘇山と改める。
明治 40年 京都・五条坂にて製陶業を始め、七官青磁・白磁・白高麗・交趾釉・漆黒釉の作品を試みる。
砧青磁の再現には他の名工が釉薬からのアプローチに没頭する中、素地に依るところが大きい事を日本で初めて発見。各種の胎土を研究した末に明治十五年からの試製を究め、「青磁」作品を世に出した。
大正 2年 白色で精巧な文様を持ち、素地が紙のように薄い「鳥の子青磁」を考案する。
大正 3年 二月、高麗古窯旧跡の調査を朝鮮王家より嘱託されて渡鮮。十一月帰国。
大正 5年 鉄砂釉を飛ばした「飛青磁」により、花瓶や抹茶碗等を制作。
大正 6年 帝室技芸員を拝命。八年には宮内省より製陶のご用を受け、謹製する。
大正 9年 欧州で作られていた「イリジューム青磁」を制作。後には日本産イリジュームで施釉。
この年「魚眼嵌白金」をも案出。また、金沢時代に苦心していた彩釉の研究に再び没頭、「五彩釉陶磁器」を作る。
大正 11年 感冒から肺炎を併発、逝去。
愛知陶磁資料館の今回の展観で気に入ったフレーズがありましたので、最後にご紹介いたします。
日本陶磁のエース、帝室技芸員たち。