あまり、『茶杓』を手に入れることの少ない私です。
工芸的な魅力を感じないもので・・・#59142;
しかし、道具としての茶道具全般を普通に扱っていた時期から、変わらず好きな『字』を書かれるお茶人さんとして、良い出会いがあると扱わせて頂いておりますのが、『不識斎』です。
堀内家 五代目です。
保全との関りもあることから、余計に親近感もあります。
なにより・・・『筆』がかっこいいのです。
ということで、良いお茶杓が出ましたので、これは是非に・・・と思いまして☆
【堀内不識斎 茶杓二本入】
『松風』 竹
『村雨』 煤竹
制作年代 弘化年間末~嘉永七年頃
共箱 利斎箱
2本入りです。
筒は別にしつらえられております。
『松風』の方です。
いいですねぇ・・・『河濱焼』の時に、絵付けされてた時期とほぼ同じでしょう。
この、真ん中の『節』に景色がありますのが、まるで『鶴』を彷彿させます。
『村雨』 です。
煤竹となっております。村雨が短時間にまとまって強く降る雨・・・・『群れる雨』からの意ともいいます。
その際に空が暗くなる様を現しているようです。
こちらの方は、メジャーな方の花押の変型判の方です。
堀内家五代目 不識斎 宗完 のちに、鶴叟と称します。
安永9年(1780)~嘉永7年(1854)
四代目、方合斎宗心の長男として生まれ、若い時期からから茶湯を修め、父を継いで摂津・高槻藩主『永井家』の茶頭を務めました。
七十五年の人生の間に、道具への関与も深く・・・好み物なども多く、高槻藩の縁でしょうか・・最晩年には『永樂保全』と共に『河濱焼』に参画し、絵付けを担当したりもします。
『絵』も能くします。
これは、表千家に遺されている、不識斎筆による表千家の図です。
本物はカラーで、大和絵風の着色となっております。
堀内家は代々、表千家とも深く・・・表千家 八代の啐啄斎より茶の湯を学んだあと、九代了々斎に出仕しました。
了々斎が早世された後、幼くして家元を継ぐことになった十代 吸江斎を住山揚甫らと補佐し、千家を支えたのです。
茶道・歌・書とマルチな才能をいかんなく発揮し、堀内家の中興の祖といわれます。
共箱です。
拙作 茶杓
松風 村雨
ふしき
箱と杓は利斎の手を借りております。
当時の受け取りも遺されております。
さて、『松風』と『村雨』の組み合わせ・・・なんでしょう?
『古今和歌集』の、第八巻、で在原行平の詠んだ『離別』
『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』
平安時代の『須磨』に住んでいたという『松風』『村雨』の二人の女性とのお別れの歌とされているものです。
須磨で伝わる伝説では、この2人は姉妹で、多井畑の村長の娘達でした。
本来の名は『もしほ』と『こふじ』といいます。
須磨に『汐汲み』に出たところ・・・天皇の勘気を蒙ったことで、須磨に流罪とされていた『在原行平』と出会い、『松風』『村雨』と名付けられ寵愛されました。
のち、行平は赦免されて都に帰ることになります。
その際・・・『松の木』に形見の『烏帽子』と『狩衣』を掛けて残し・・・
『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』
この時に詠んだ別れ歌です。
『松風』『村雨』の姉妹は尼となり、行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだといわれております。
『松風村雨堂』 これが、今も残るその庵の跡です。
この物語は室町時代に謡曲『松風』として知られるようになり、浄瑠璃や歌舞伎などにも波及したそうです。
・・といった題材を2本入りに取り入れた、不識斎。深いですね!
さてさて、上記のご説明の中に・・・茶道具にまつわるあれやこれや、が散りばめられております。
これは、席中で遊び放題ですよ~
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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工芸的な魅力を感じないもので・・・#59142;
しかし、道具としての茶道具全般を普通に扱っていた時期から、変わらず好きな『字』を書かれるお茶人さんとして、良い出会いがあると扱わせて頂いておりますのが、『不識斎』です。
堀内家 五代目です。
保全との関りもあることから、余計に親近感もあります。
なにより・・・『筆』がかっこいいのです。
ということで、良いお茶杓が出ましたので、これは是非に・・・と思いまして☆
【堀内不識斎 茶杓二本入】
『松風』 竹
『村雨』 煤竹
制作年代 弘化年間末~嘉永七年頃
共箱 利斎箱
2本入りです。
筒は別にしつらえられております。
『松風』の方です。
いいですねぇ・・・『河濱焼』の時に、絵付けされてた時期とほぼ同じでしょう。
この、真ん中の『節』に景色がありますのが、まるで『鶴』を彷彿させます。
『村雨』 です。
煤竹となっております。村雨が短時間にまとまって強く降る雨・・・・『群れる雨』からの意ともいいます。
その際に空が暗くなる様を現しているようです。
こちらの方は、メジャーな方の花押の変型判の方です。
堀内家五代目 不識斎 宗完 のちに、鶴叟と称します。
安永9年(1780)~嘉永7年(1854)
四代目、方合斎宗心の長男として生まれ、若い時期からから茶湯を修め、父を継いで摂津・高槻藩主『永井家』の茶頭を務めました。
七十五年の人生の間に、道具への関与も深く・・・好み物なども多く、高槻藩の縁でしょうか・・最晩年には『永樂保全』と共に『河濱焼』に参画し、絵付けを担当したりもします。
『絵』も能くします。
これは、表千家に遺されている、不識斎筆による表千家の図です。
本物はカラーで、大和絵風の着色となっております。
堀内家は代々、表千家とも深く・・・表千家 八代の啐啄斎より茶の湯を学んだあと、九代了々斎に出仕しました。
了々斎が早世された後、幼くして家元を継ぐことになった十代 吸江斎を住山揚甫らと補佐し、千家を支えたのです。
茶道・歌・書とマルチな才能をいかんなく発揮し、堀内家の中興の祖といわれます。
共箱です。
拙作 茶杓
松風 村雨
ふしき
箱と杓は利斎の手を借りております。
当時の受け取りも遺されております。
さて、『松風』と『村雨』の組み合わせ・・・なんでしょう?
『古今和歌集』の、第八巻、で在原行平の詠んだ『離別』
『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』
平安時代の『須磨』に住んでいたという『松風』『村雨』の二人の女性とのお別れの歌とされているものです。
須磨で伝わる伝説では、この2人は姉妹で、多井畑の村長の娘達でした。
本来の名は『もしほ』と『こふじ』といいます。
須磨に『汐汲み』に出たところ・・・天皇の勘気を蒙ったことで、須磨に流罪とされていた『在原行平』と出会い、『松風』『村雨』と名付けられ寵愛されました。
のち、行平は赦免されて都に帰ることになります。
その際・・・『松の木』に形見の『烏帽子』と『狩衣』を掛けて残し・・・
『立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば いま帰り来む』
この時に詠んだ別れ歌です。
『松風』『村雨』の姉妹は尼となり、行平の旧居に庵を結び、彼を偲んだといわれております。
『松風村雨堂』 これが、今も残るその庵の跡です。
この物語は室町時代に謡曲『松風』として知られるようになり、浄瑠璃や歌舞伎などにも波及したそうです。
・・といった題材を2本入りに取り入れた、不識斎。深いですね!
さてさて、上記のご説明の中に・・・茶道具にまつわるあれやこれや、が散りばめられております。
これは、席中で遊び放題ですよ~
※ご成約済みです。
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