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狩野永岳 富士峰図 大綱和尚賛 狩野永信極箱 [WEB BASE(商品紹介)]

ちょっと、珍しいお軸のご紹介です。

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狩野永岳 富士峰図 大綱和尚賛 狩野永信極箱


大綱宗彦 (だいこう そうげん)

安永元年(1772)~安政7年(1860)

大徳寺435世。大徳寺塔頭黄梅院第14世住職

裏千家十一代玄々斎宗室・表千家十代吸江斎宗左・武者小路千家七代以心斎宗守と親交が深く、また永楽保全の参禅の師です。

和歌、茶の湯を能くし、書画に優れました。

さて、作品に戻ります。

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雄大な富士の絵が描かれております。

幕末の画家であります、狩野永岳の筆になります。

少し、略歴を引用してみましょう。

父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代・狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。

初代・狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や二代・山雪の画を熱心に学び、特に30代までは桃山時代の巨木表現に範を取った復古的画風を基本とした。

その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。このように様々な画風を貪欲に吸収し自家薬籠中の物とした。

京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。

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この作品も、まさに大和絵調の富士山です!



永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。

57歳にして禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏の安政度造営が行われ多くの障壁画の制作にあたっている。
臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。

この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。

禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。慶応3年(1867)歿、78才。

門弟に同じく養子で岡山に多くの作品が残る狩野永朝や、長野祐親などがいる。そのほかに岩国吉川家御用絵師の佐藤丹治、土佐藩の河田小龍、京焼の永楽保全なども永岳に画を習ったという。


このように、大綱和尚も永岳も、共に永楽保全と親交があったことが解ります。

では、肝心の大綱和尚の歌を・・・

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月花も 及ばぬ物は 阿津万路に(東路に)

  阿おくも(仰ぐも)高き婦し(富士)の白ゆき




これは、大綱和尚自身による歌です。



永岳も大綱も京都より遥か遠くの江戸へ旅した(東路)体験を各々表現した合作です。

今と違って、京都から江戸というのは行けそうでなかなか行けない遠い地です。また、西の都人にとって富士山を実際に見る機会は人生に一度有るか無いかという出来事です。

現代人にとっても富士山は知っているようで、飛行機や自動車・新幹線から見ることはあっても、実際に登ることは一生にあるかないかというのは変わりません。

このお軸は、人生における光陰矢の如しの儚い時の流れ、そして忘れへぬ想い出や機会を大切にすることを観る人に問いかけているともいえるでしょう。

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箱は狩野永岳の養子であり、10代を継承した永信による極めになります。


※売却済みです。
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