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【仁阿弥道八 桃山御本 茶碗】 鵬雲斎 箱 [幕末京焼]

今月は、なかなかの多忙さで・・・仕入れや販売、商品管理で手一杯でした。

次の展示会迄の数日の間に、記事を作成できたら、と思います。


まずは、仁阿弥道八のお茶碗のご紹介です。

先月から、続いておりますね。(^^;


仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (6)-1.jpg


【仁阿弥道八 桃山御本 茶碗】


幅  12.8cm x 13.6cm

高さ  7.9cm 

高台径 5.4cm

製作年代 天保13(1842)~安政2(1855)年

箱   共箱(蓋のみ) 書付用新調箱 鵬雲斎 書付



『仁阿弥道八』の製作年代を区分すると、以下のように分類されます。


◎青年期 『粟田口時代』 

初代道八が宝暦13年頃に粟田口へ移り始めた窯を、文化元年に初代が没した後継承。


◎壮年期 『五条坂窯時代』

文化8(1811)年に、清水坂に移築。「染付磁器」の先駆けとなり名を馳せた。

その後、名声を基に各地の庭窯へ招聘される。

◎晩年期 『桃山窯時代』

天保13(1842)年、60歳を機に息子『三代道八』へ家を譲り、「伏見桃山城下江戸町」へ隠居し、始めた趣味に没頭した時代。



この最後にあたる時代の作品のご紹介です。


仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (7)-1.jpg


『五三の桐』(ごさんのきり)、と呼ばれる紋様が施されております。

「 3枚 の 桐 の 葉」 の上 に、「 桐の花」 を 左右に 三つ ずつ、 中央 に 五つ 配した ものです。


『豊臣秀吉』が使っていたのが『五七の桐』とよばれるもので、現在では日本政府も使う紋様です。

しかし、織田信長の家臣時代の豊臣秀吉は、「五三桐」を使用しておりました。

後に豊臣姓を名乗った際に「五七桐」の家紋へ切り替えたのです。


『桐』は・・古代中国の神話に登場する鳳凰が止まる木とされています。

昔から桐は神聖な植物とされており、日本に於きましても天皇などの皇室が使用できる紋章とされてきたのです。

それは、天皇はかつて・・神に近い存在とされており、神聖な「鳳凰」が止まる木とされていた桐を紋様としていたのです。

しかし、後に有力者も使うようになっていき・・・

室町幕府の初代将軍『足利尊氏』が『後醍醐天皇』から恩賞として賜り使用したのが最初といわれます。

『豊臣秀吉』が、豊臣姓を名乗った際には、当時の天皇であった『後陽成天皇』から与えられた紋であったそうです。


仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (8)-1.jpg

反対側にも。


仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (9)-1.jpg


内側にもあります。


仁阿弥が隠居した、「伏見」にはもう当時は城は有りませんでした。


・・・そもそも、関西人である私も『伏見桃山城』というのがややこしいのです。


「伏見」のある、桃山地区は・・・東山から連なる丘陵の最南端に位置し、南には「巨椋池」が広がり水運により「大坂」と「京都」とを結ぶ要衝の地でありました。


今でも、その面影が残っております。


伏見城は三度に渡って築城されました。


◎朝鮮出兵(文禄の役)開始後の1592年(文禄元年)8月に『豊臣秀吉』が隠居後の住まいとするため伏見指月(現在の京都市伏見区桃山町泰長老あたり)に築かれたものを『指月伏見城』といいます。

しかし、『慶長伏見地震』により倒壊し、無事であった秀吉は木幡に避難しました。



◎避難した木幡山(桃山丘陵)に城が再築され、それを『木幡山伏見城』と呼びます。

しかし、秀吉はその1年後の1598年(慶長3年)に城内で没し、遺言にり『豊臣秀頼』は伏見城から大坂城に移り、代わって五大老筆頭の『徳川家康』がこの城に入り政務をとることになりました。


その後、関ヶ原の戦いの際には家康の家臣『鳥居元忠』らが伏見城を守っていたが、石田三成派の西軍に攻められて落城し建物の大半が焼失となるのです。

この辺は、こないだまでの大河ドラマ『どうする?家康』で描かれておりましたね。

焼失した伏見城は1602年(慶長7年)ごろ家康によって再建され、3代将軍の頃までは大いに利用されていたのですが、『一国一城令』のこともあり、『二条城』を残し1619年(元和5年)に廃城とされたのです。


伏見廃城に伴い、元和9年12月には、『小堀遠州』が伏見奉行に任ぜられました。

そして元禄時代には、城跡一帯が開墾され桃の木が植えられて『桃山』と呼ばれたことから、後に伏見城の通称として『桃山城』『伏見桃山城』と呼ばれることになったのです。

伏見城跡は伏見奉行所の管理とされ幕末まで立入禁止となっており、本丸跡などの主郭部分はのちに明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)とされたことから現在も無許可での立入りが禁じられており、そのことがさらに・・・『伏見桃山城』ってなんぞや?という現在の認知度に繋がったのでしょう。(^^;


・・・・と、長くなりましたが、お茶碗の続きです。


仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (10)-1.jpg


仁阿弥道八は隠居時代は悠々自適に過ごしたようです。

朝夕には、旧桃山城頭に登って島津家より拝領した『法螺貝』を吹いて愉しみ、気の向くままに作陶し、茶を喫していたとか。

あまり、作品としてのバリエーションは知られておらず、お茶碗と土瓶が後世の記録に有ります。


お茶碗も、今回ご紹介するような『桃山御本』と呼ばれる物のみのようです。

上質に精製された土で、丁寧かつ・・地味ながらも技の光る作行きのお茶碗となります。


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3か所切り高台となります。

仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (12)-1.jpg

瓢箪枠に『桃山』の印が押されるのが通例です。




秀吉ゆかりの『桐文』と『桃』を思わせるようなピンクの斑点を以て、『御本手』と為す、このセンスは・・・仁阿弥の『引きとひねり』の美学と云わずしてなんとやらです。


移って最初の時に製作され、寺院に贈られたものは、名刺代わりのようで・・まだ『御本手』では無かったようです。

その後、今の様式のお茶碗が一定数造られたようです。


道八家に於いても、『桃山御本』は重要な作品であったようで、後代でも写しものが造られており・・・その作品により、仁阿弥の桃山御本の存在が後世に伝わっているのです。


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希少な、共箱が蓋だけ現存しております。

こちらには、特徴的な大きな桃山窯の印が押されております。



仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (3)-1.jpg

こちらにも、通常の筆と仁阿弥の小角印の他に、初見の珍しい朱印も併印されております。



仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (1)-1.jpg

仁阿弥道八 桃山御本茶碗 鵬雲斎 (5)-1.jpg


書付用として桐箱が新調され、鵬雲斎の書付が添います。


仁阿弥の最晩年の心穏やかな心情が反映されたかのような、上品な作品です。


希少性もさることながら、お値段の良さもアピールポイントなのです。



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