【岡本漆園 舟橋蒔絵 平棗】 而妙斎 箱 [茶道具]
なっかなか・・・蒔絵作品の入荷が、陶磁器に比すると圧倒的に少ない当店です。。。
『何故?』
それは、納得できる作品でお値頃なものが全く無いから、です。
感覚的に、陶磁器での満足レベルと蒔絵の満足レベルとでは、価格帯が3倍は差があるように思います。
ということで、ご紹介出来る機会がなかなか。^_^;
この度、『時代』は新しくなってしまいますが、面白みのある作品が手に入りましたのでご紹介致します!
【岡本漆園 舟橋蒔絵 平棗】
幅 8.9cm
高さ 6.3cm
製作年代 平成中期頃
箱 共箱 而妙斎 箱
『重厚』な平棗です。
大胆にも、『国宝』に認定されております『本阿弥光悦』の有名な『舟橋蒔絵硯箱』を茶器へとリ・イマジネーションした意欲作です!
その、『本歌』を見てみましょう。
通常の硯箱とは違い、蓋を大きく張り詰め・・・高く盛り上げ、センターに『鉛板』をはめ、銀板により文字を入れております。
このデザイン感覚、そして『書』を意匠に見立てる感性こそが、『光悦蒔絵』の真骨頂であるといえます。
江戸時代・初期の作品で、1967年に国宝に認定され『東京国立博物館』に所蔵されております。
今回の作品を元に、『和歌』を紐解いてみましょう。
8世紀頃の、村上天皇の勅撰による『後選和歌集』にある『源等(みなもとのひとし)』による歌です。
春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の20巻からなり、総歌数は1425首だそうです。
(序詞)人のもとにつかはしける
鉛の上に蒔絵された部分から・・・
『東路』
『乃』
『さ乃ゝ』
『舟橋』(鉛の橋を以て代える)
『かけて』
『濃ミ』
~東路の佐野の舟橋かけてのみ~
甲の上角から・・・
『思』
『わたる』
『を知』
『人そ』
~思わたる人ぞ~
甲の下角に
『なき』
~なき~
『人のもとにつかはしける 東路の 佐野の舟橋かけてのみ 思わたる人ぞなき』
東路の佐野の船橋(群馬県高崎市にあった橋)、舟橋は舟を連ねてその上にかける橋です。
思い渡る→想い続ける、と
女性への、募り続ける想いを詠んだ『恋の歌』です。
想いが通じないこと、または今は居ない人への想いであるとも取れますね。
または、今はまだ見ぬ相手への希望かも。
全面に『波蒔絵』を施し、紛溜と蒔絵にうよりダイナミックな舟を連ねて魅せ、本歌より強く・・・恋のメッセージ感が増しております。
まさに、現代的ともいえますね。(^^;
内側も『紛溜』にて高級感がある中、『而妙斎』の花押が朱書されております。
書付箱
今も続く、京都四条の『岡本漆専堂』は表流のお道具も手掛けており、御書付道具などは『漆園』ブランドの逸品作として送り出されております。
まもなく、2月。
『バレンタインデー』のお道具としていかがでしょう☆
※御成約済みです。
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【Journal of FUJII KOUNDO】
当ブログは、『藤井香雲堂』の各種インフォメーションをお知らせするものです。
インスタグラムやツイッター、Facebook等のSNS全盛時代ですが・・ブログでしか表現出来ない情報をお届けする為、『敢えて』ブログ形式に拘っております!
お問い合わせはメールもしくはお電話にてご気軽にどうぞ。
fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
090-8578-5732 (直通)
【BASE 215】 大阪市浪速区日本橋東2-1-5 大阪南美術会館内
当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。
当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。
大変ちいさなギャラリーですので、コロナ禍で有りますことと、おひとりおひとりと、きちんとご対応したいのでアポイントメント制となっております。何卒ご理解の程宜しくお願い申し上げます。
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『何故?』
それは、納得できる作品でお値頃なものが全く無いから、です。
感覚的に、陶磁器での満足レベルと蒔絵の満足レベルとでは、価格帯が3倍は差があるように思います。
ということで、ご紹介出来る機会がなかなか。^_^;
この度、『時代』は新しくなってしまいますが、面白みのある作品が手に入りましたのでご紹介致します!
【岡本漆園 舟橋蒔絵 平棗】
幅 8.9cm
高さ 6.3cm
製作年代 平成中期頃
箱 共箱 而妙斎 箱
『重厚』な平棗です。
大胆にも、『国宝』に認定されております『本阿弥光悦』の有名な『舟橋蒔絵硯箱』を茶器へとリ・イマジネーションした意欲作です!
その、『本歌』を見てみましょう。
通常の硯箱とは違い、蓋を大きく張り詰め・・・高く盛り上げ、センターに『鉛板』をはめ、銀板により文字を入れております。
このデザイン感覚、そして『書』を意匠に見立てる感性こそが、『光悦蒔絵』の真骨頂であるといえます。
江戸時代・初期の作品で、1967年に国宝に認定され『東京国立博物館』に所蔵されております。
今回の作品を元に、『和歌』を紐解いてみましょう。
8世紀頃の、村上天皇の勅撰による『後選和歌集』にある『源等(みなもとのひとし)』による歌です。
春(上・中・下)、夏、秋(上・中・下)、冬、恋(六巻)、雑(四巻)、離別(附 羇旅)、賀歌(附 哀傷)の20巻からなり、総歌数は1425首だそうです。
(序詞)人のもとにつかはしける
鉛の上に蒔絵された部分から・・・
『東路』
『乃』
『さ乃ゝ』
『舟橋』(鉛の橋を以て代える)
『かけて』
『濃ミ』
~東路の佐野の舟橋かけてのみ~
甲の上角から・・・
『思』
『わたる』
『を知』
『人そ』
~思わたる人ぞ~
甲の下角に
『なき』
~なき~
『人のもとにつかはしける 東路の 佐野の舟橋かけてのみ 思わたる人ぞなき』
東路の佐野の船橋(群馬県高崎市にあった橋)、舟橋は舟を連ねてその上にかける橋です。
思い渡る→想い続ける、と
女性への、募り続ける想いを詠んだ『恋の歌』です。
想いが通じないこと、または今は居ない人への想いであるとも取れますね。
または、今はまだ見ぬ相手への希望かも。
全面に『波蒔絵』を施し、紛溜と蒔絵にうよりダイナミックな舟を連ねて魅せ、本歌より強く・・・恋のメッセージ感が増しております。
まさに、現代的ともいえますね。(^^;
内側も『紛溜』にて高級感がある中、『而妙斎』の花押が朱書されております。
書付箱
今も続く、京都四条の『岡本漆専堂』は表流のお道具も手掛けており、御書付道具などは『漆園』ブランドの逸品作として送り出されております。
まもなく、2月。
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【横井米禽 模長袴伊賀 花入】堀田宗達 箱 [茶道具]
『米禽伊賀』・・・・この言葉を一度は、耳にされた(目にした)方も少なくないかと思います。
『〇〇伊賀』という古伊賀焼の名称に倣って、誰かが言い始めた名称でしょう。
それほどまでに、『巧み』な伊賀焼を焼けているということなのです。
過去には、美術オークションにて古伊賀と見誤られたことがあった逸話もあるくらいです。
作者の名前は『横井米禽』。
大正から昭和初期に名古屋にて数々の名品を生み出した人です。
今回は、米禽による伊賀花入をご紹介致しましょう。
【横井米禽 模長袴伊賀 花入】
幅 15cm
高さ 25.5cm
製作年代 大正13年~昭和16年頃
箱 共箱、堀田宗達 箱
堂々とした花入です。
背面もなかなかのミドコロで、どちらを正面にしたらよいものやら。。。
『伊賀に耳あり、信楽に耳なし』という言葉があります。
しっかりとした耳が有ります。左右をやや異なる感じになって『ひょうげた』感じですね。
上から。
底部に入る、『手印』も古伊賀を模してます。
共箱には、『模 長袴』とされておりますように『長袴』という銘の古伊賀の写しのようです。
伊賀焼は約1200年前の天平年間(729~749年)に『伊勢神宮』の『神瓶』を作るため、伊賀の『丸柱寺谷』の地にて窯を築いたのが最初とされております。
農耕器具や生活雑器等も作られていたようですが、茶陶としてはそこからさらに遙かに時代が下り・・・天正12(1584)年、伊賀領主の『筒井定次』が『古田織部』との交流の中で、茶壷・水指・花入・・・そして、茶入といった茶器を製作させていたのが、今に伝わる伊賀焼の祖といえます。
高い温度で焼成することで溶けだしたビードロや焦げや火色の競演が、茶人達の人気を博すことになりました。
それらを、『筒井伊賀』と呼びます。
その後、少しの中断を経て・・・江戸時代初期の、寛永年間(1624~1644年)に『小堀遠州』による指導により、洗練された茶器である『遠州伊賀』が生まれます。
その後、『伊勢国津藩』の二代藩主となった『藤堂高次』により京都から陶工である『孫兵衛・伝蔵』を呼び寄せ茶器が造られました。
この時は『水指』が中心であったともいわれます。
これが『藤堂伊賀』です。
寛文9(1669)年に原料であった陶土の採取が禁止となると、伊賀の陶工は信楽へと移っていきったり、また、粗製乱造もあり、藤堂高次が元禄12(1699)年に没すると衰退してしまいました。
時を超えて、近代。
地元の有志と時の有力者により『古伊賀復興会』なるものが発足し、横浜より『二代 眞葛香山』を招聘し、当時の工人達への指導と製作を依頼。
大正12(1923)年に『古伊賀復興の儀』が執り行われ、現代へ続く伊賀焼へと続くのです。
話は長くなりましたが・・・・こののち、伊賀の土を取り寄せ、横井米禽が自身の腕と眼により作られた古伊賀焼写しが、この作品なのです。
香山贔屓であります私でも、米禽作品の方に軍配が上がると思います。(^^;
箱です。
底部、共箱部分です。
蓋の甲・裏と名古屋の遠州流茶人でありました、『堀田宗達』の書付が有ります。
堀田宗達は、遠州流の家元主鑑であり目利きであったといわれます。
米禽と同時代の人です。
横井米禽は、明治19(1885)生まれ、昭和16(1941)年没。
元は古美術商であったのですが、『夜寒焼』に出入りし陶芸を志し・・大正13(1924)年に『東雲窯』を買い取り、自身の製作活動をスタートさせます。
その作風は古今の様々なやきものを自在に写し、自身の美意識を内包させるものでありました。
『眼』と『技』が磨かれた稀有な存在であり、また作られるものが『茶の用』に足るものが多かった為に『米禽焼』として名古屋を中心に広く愛されることとなったのです。
その中でも別格なのが、『米禽伊賀』なのです。
上の画像をは少し、アングルを変えてみると・・・また花入の印象も異なりますので、どうぞ☆
堂々とした風格です。
これまで扱った・観た・・米禽伊賀花入の中でも上クラスといっても過言では有りません。
ぜひ、お勧めいたしましょう☆
※御成約済みです。
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【Journal of FUJII KOUNDO】
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当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。
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【十二代正玄・十一代宗哲 朱塗竹輪 蓋置 惺斎好み 二十ノ内】 [茶道具]
今回は、珍しく・・・・竹の塗作品をご紹介致します。
当店も、ようやく『百貨店催事』の呪縛(?)から解放されましたので、『乾燥』による破損事故に恐れることなく、塗物や竹工芸のラインナップに手が出しやすくなりました。(^^;
『竹蓋置』
利休時代に広まったアイテムです。
鎌倉時代頃からの『書院茶』では、『台子』に『皆具』であったので・・・唐銅の蓋置であったわけです。
利休時代にも、『七種』の唐銅蓋置が制定されましたが・・・『武野紹鴎』が水屋で使用していた竹蓋置を元に、寸法を『一寸三分』から『一寸八分』にリメイクし利休が点前で使いだしたことが最初といわれます。
『茶道筌蹄』(さどうせんてい)という文化3(1816)年『啐啄斎』の高弟であった『稲垣休叟』が記した、茶道や道具に関する手引書に、こう記載されております。
『竹青白 紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。
元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、
中節と上節とを製して、道安と少庵両人へ贈らる。
上に節あるを少庵に送り、中に節あるを道安取られしなり、是よりして席に用ひ来る。
炉には中節、風炉には上節と定む。』
当初から、炉・風炉の規定があったのかは不明ですが、江戸後期にはそう規定されていたようです。
また、当初は『青竹』で『使い捨て』であったのを油抜きして白竹として経年使用するように変化して、『運び点前』、もしくは『小間』で使用されます。
今回、ご紹介致します作品は『竹』に『塗り』を施した物です。
【十二代正玄・十一代宗哲 朱塗竹輪 蓋置 惺斎好み 二十ノ内】
幅 4.6cm
高さ 5.5cm
製作年代 昭和6(1931)年
箱 共箱 惺斎好み箱
惺斎の『花押』が下書きを元に黒田正玄が彫り入れております。
上から
後ろ側
下から
2重箱です。
『辛未』 昭和6年・・・1931年、惺斎が69歳の時です。
恐らく、『古希』を記念して『好み道具』として20個作られたのでしょう。
十二代 黒田正玄 (久万吉 昭和48年没)の竹の削り出しと彫り、
十一代 中村宗哲(元斎 平成5年没)による朱塗り、の合作となります。
『節無し』ですので、通年お使いいただけます。
竹、そのものを使う竹蓋置よりも、より丁寧な削り出しなどによる『作品性』が生まれ、フォルムも『凛』としたものを感じさせるのです。
昭和60年に刊行された、惺斎の好み物集である『看雲』にも紹介されております。
さらに。
この作品は、『看雲』に掲載されております『現物』でございます!
10年以上前に・・・山陽地方にお納めした物が、この度、蔵より出てまいりました。
これもまた、ご縁です。
以前より価格が3分の1~4分の1程度になってしまいました・・・お値打ちです。
※御成約済みです。
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当店も、ようやく『百貨店催事』の呪縛(?)から解放されましたので、『乾燥』による破損事故に恐れることなく、塗物や竹工芸のラインナップに手が出しやすくなりました。(^^;
『竹蓋置』
利休時代に広まったアイテムです。
鎌倉時代頃からの『書院茶』では、『台子』に『皆具』であったので・・・唐銅の蓋置であったわけです。
利休時代にも、『七種』の唐銅蓋置が制定されましたが・・・『武野紹鴎』が水屋で使用していた竹蓋置を元に、寸法を『一寸三分』から『一寸八分』にリメイクし利休が点前で使いだしたことが最初といわれます。
『茶道筌蹄』(さどうせんてい)という文化3(1816)年『啐啄斎』の高弟であった『稲垣休叟』が記した、茶道や道具に関する手引書に、こう記載されております。
『竹青白 紹鴎始なり、節合を切、一寸三分なり。
元水屋の具なりしを、利休一寸八分に改め、
中節と上節とを製して、道安と少庵両人へ贈らる。
上に節あるを少庵に送り、中に節あるを道安取られしなり、是よりして席に用ひ来る。
炉には中節、風炉には上節と定む。』
当初から、炉・風炉の規定があったのかは不明ですが、江戸後期にはそう規定されていたようです。
また、当初は『青竹』で『使い捨て』であったのを油抜きして白竹として経年使用するように変化して、『運び点前』、もしくは『小間』で使用されます。
今回、ご紹介致します作品は『竹』に『塗り』を施した物です。
【十二代正玄・十一代宗哲 朱塗竹輪 蓋置 惺斎好み 二十ノ内】
幅 4.6cm
高さ 5.5cm
製作年代 昭和6(1931)年
箱 共箱 惺斎好み箱
惺斎の『花押』が下書きを元に黒田正玄が彫り入れております。
上から
後ろ側
下から
2重箱です。
『辛未』 昭和6年・・・1931年、惺斎が69歳の時です。
恐らく、『古希』を記念して『好み道具』として20個作られたのでしょう。
十二代 黒田正玄 (久万吉 昭和48年没)の竹の削り出しと彫り、
十一代 中村宗哲(元斎 平成5年没)による朱塗り、の合作となります。
『節無し』ですので、通年お使いいただけます。
竹、そのものを使う竹蓋置よりも、より丁寧な削り出しなどによる『作品性』が生まれ、フォルムも『凛』としたものを感じさせるのです。
昭和60年に刊行された、惺斎の好み物集である『看雲』にも紹介されております。
さらに。
この作品は、『看雲』に掲載されております『現物』でございます!
10年以上前に・・・山陽地方にお納めした物が、この度、蔵より出てまいりました。
これもまた、ご縁です。
以前より価格が3分の1~4分の1程度になってしまいました・・・お値打ちです。
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【河井寛次郎 倣元瓷葱翠青茶盞 鐘渓窯】 [近代工芸]
新年1発目、酒器シリーズのご紹介のラストを飾るのは・・・・
『河井寛次郎』、です。
寛次郎と云えば、後期の『筒描き』と呼ばれるダイナミックな作風が有名ですが、個人的には初期の中国テイストからの、個性としては淡いながらも品格を感じさせる作品群に惹かれます。
昨年後半、およそ30年ぶり?に『河井寛次郎記念館』へ寄ってみました。
観光客で溢れる・・・五条坂から少しだけ、南の方の閑静な住宅街に佇んでおります。
中は、生活感を残したままのアトリエ・・・工房が遺されており、ポスターやキャプション、結界などが無ければタイムスリップしたような感じになるのです。
『市中の山居』ともいえる、この場所で寛次郎は製作活動をしており、『喧噪』と『静寂』が交差する空気感の中での時の流れは・・・また格別であったのだろうと推測します。
概ね、人が置かれております環境というのは、どちらかに偏っているものですから。
大正時代。
横浜の地では『眞葛窯』では、初代がその寿命を終えようとしつつある頃です。
京都の方も近代化が進んでおりましたが、ハイカラな横浜とは違ってまだまだ日本的ではああったようです。
当時の空気感、を画像をお借りしてご覧いただきましょう。
大正2年、四条大橋開通。
南座の辺りでしょうか?
さて、この頃の寛次郎は・・・
大正9(1920)年 京都五条坂で制作活動を開始します。
『鐘渓窯』という窯名にて、 中国や韓国の古陶磁をモチーフにした作品群を生み出しました。
そして、2年後には早くも東京での高島屋にて個展が開かれ、あっという間に有名になっていくのです。
この頃の作品の魅力、は『造形力』よりも『釉薬』の美しさに比重が高いように思われます。
用の美、意識しないものこそ美、という禅問答のような『民藝』運動よりも、もっと純粋な気もするのです。
そんな私が、スッと・・入ってくるように気になった作品がこちらです。
【河井寛次郎 倣元瓷葱翠青茶盞 鐘渓窯】
幅 12cm
高さ 3.9cm
高台径 3.5cm
製作年代 大正期
共箱
名前のように、『元時代』の磁器作品をモチーフに・・・
『葱翠青』(そうすいせい)
青々とした青! ととにかく青ということです。(^^;
蛍光灯1灯のみですので、この色ですが・・当てる光量や色目によって、『怪しく』も『艶やか』にも、変幻する不思議な釉薬です。
口周りにはうっすらとした紫も発色しております。
のぞき込むと、まるで恒星に吸い込まれるような感じになります。
青磁作品と同様に、高台周りの土見せの外周に釉薬をぴったり止めて掛けております。
『鍾渓窯』印
のちに、作品には銘を入れなくなる『寛次郎』ですが、この頃は中国の陶磁器と混在しないように、との思いから敢えて『窯印』を入れていたようです。
そこは、自身の名前ではなく『窯名』であったというところに自身の性格が出ているように感じるのです。後年、人間国宝認定も辞されておりますことからもうかがえます。
黒田陶苑様の旧蔵です。
共箱も状態良し、です。
河井寛次郎は大正末頃から、 スリップウエアに感激したことから作風が変化し、柳宗悦・濱田庄司らと民芸運動を起こし、中期作品へと移行していくのです。
『茶盞』(ちゃわん)と記されておりますが、それはあくまで形状としての分類上であり、この作品はやはり、使うなら『酒飲』であり、純粋に『色』を愉しむ為のアイテムであるのです。
使う為に作る作品、『道具』には『用の美』が宿り、思わぬ魅力が発生することがあります。
使うことを想定しない、モノにはそれはそれで純粋に追及することでしか生まれない『美』、というのがあるのも事実です。
どちらが正解、というのでは有りません。
愉しかったら、良いのでしょう☆
※売却済みです。
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『河井寛次郎』、です。
寛次郎と云えば、後期の『筒描き』と呼ばれるダイナミックな作風が有名ですが、個人的には初期の中国テイストからの、個性としては淡いながらも品格を感じさせる作品群に惹かれます。
昨年後半、およそ30年ぶり?に『河井寛次郎記念館』へ寄ってみました。
観光客で溢れる・・・五条坂から少しだけ、南の方の閑静な住宅街に佇んでおります。
中は、生活感を残したままのアトリエ・・・工房が遺されており、ポスターやキャプション、結界などが無ければタイムスリップしたような感じになるのです。
『市中の山居』ともいえる、この場所で寛次郎は製作活動をしており、『喧噪』と『静寂』が交差する空気感の中での時の流れは・・・また格別であったのだろうと推測します。
概ね、人が置かれております環境というのは、どちらかに偏っているものですから。
大正時代。
横浜の地では『眞葛窯』では、初代がその寿命を終えようとしつつある頃です。
京都の方も近代化が進んでおりましたが、ハイカラな横浜とは違ってまだまだ日本的ではああったようです。
当時の空気感、を画像をお借りしてご覧いただきましょう。
大正2年、四条大橋開通。
南座の辺りでしょうか?
さて、この頃の寛次郎は・・・
大正9(1920)年 京都五条坂で制作活動を開始します。
『鐘渓窯』という窯名にて、 中国や韓国の古陶磁をモチーフにした作品群を生み出しました。
そして、2年後には早くも東京での高島屋にて個展が開かれ、あっという間に有名になっていくのです。
この頃の作品の魅力、は『造形力』よりも『釉薬』の美しさに比重が高いように思われます。
用の美、意識しないものこそ美、という禅問答のような『民藝』運動よりも、もっと純粋な気もするのです。
そんな私が、スッと・・入ってくるように気になった作品がこちらです。
【河井寛次郎 倣元瓷葱翠青茶盞 鐘渓窯】
幅 12cm
高さ 3.9cm
高台径 3.5cm
製作年代 大正期
共箱
名前のように、『元時代』の磁器作品をモチーフに・・・
『葱翠青』(そうすいせい)
青々とした青! ととにかく青ということです。(^^;
蛍光灯1灯のみですので、この色ですが・・当てる光量や色目によって、『怪しく』も『艶やか』にも、変幻する不思議な釉薬です。
口周りにはうっすらとした紫も発色しております。
のぞき込むと、まるで恒星に吸い込まれるような感じになります。
青磁作品と同様に、高台周りの土見せの外周に釉薬をぴったり止めて掛けております。
『鍾渓窯』印
のちに、作品には銘を入れなくなる『寛次郎』ですが、この頃は中国の陶磁器と混在しないように、との思いから敢えて『窯印』を入れていたようです。
そこは、自身の名前ではなく『窯名』であったというところに自身の性格が出ているように感じるのです。後年、人間国宝認定も辞されておりますことからもうかがえます。
黒田陶苑様の旧蔵です。
共箱も状態良し、です。
河井寛次郎は大正末頃から、 スリップウエアに感激したことから作風が変化し、柳宗悦・濱田庄司らと民芸運動を起こし、中期作品へと移行していくのです。
『茶盞』(ちゃわん)と記されておりますが、それはあくまで形状としての分類上であり、この作品はやはり、使うなら『酒飲』であり、純粋に『色』を愉しむ為のアイテムであるのです。
使う為に作る作品、『道具』には『用の美』が宿り、思わぬ魅力が発生することがあります。
使うことを想定しない、モノにはそれはそれで純粋に追及することでしか生まれない『美』、というのがあるのも事実です。
どちらが正解、というのでは有りません。
愉しかったら、良いのでしょう☆
※売却済みです。
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【Journal of FUJII KOUNDO】
当ブログは、『藤井香雲堂』の各種インフォメーションをお知らせするものです。
インスタグラムやツイッター、Facebook等のSNS全盛時代ですが・・ブログでしか表現出来ない情報をお届けする為、『敢えて』ブログ形式に拘っております!
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【BASE 215】 大阪市浪速区日本橋東2-1-5 大阪南美術会館内
当店の出張営業所です。現在では『岸和田本店』よりこちらを中心に活動しております。
当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。
大変ちいさなギャラリーですので、コロナ禍で有りますことと、おひとりおひとりと、きちんとご対応したいのでアポイントメント制となっております。何卒ご理解の程宜しくお願い申し上げます。
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【任土斎(九代)弥兵衛 鶴香合】 松尾宗古(6代)仰止斎 箱 ※追記 [幕末京焼]
【2023年1月16日 加筆 元記事は、2022年11月の分です。】
茶の湯の世界では・・・今月は『炉開き』
旧暦の十月(亥月)、『亥月の亥の子の祝い日』に茶室の炉を開きます。
新暦でいうと・・今月の11月6日がその日にあたります。
亥は子だくさん、であり・・そして亥は、中国の陰陽五行説で水の性質をもつことから火を防ぐと考えられ『火の用心』の意味も込められます。
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米を使って作られる『亥の子餅』にて、子孫繁栄を願い食される風習があります。
裏千家流の炉開きでは『善哉』が出される事がございます。
こちらも、亥の子餅と同じく・・・亥の月日が『陰』であるのに対し、陽のものである『小豆』を食べることで『陰陽和合』を期するのだそうです。
そして、祝いということで・・・炉開きの月にはおめでたい道具組をすることも多く見受けられます。
今回ご紹介の作品は、炉開きの茶事におすすめの香合でございます。
任土斎(九代) 弥兵衛
鶴香合
製作年代天保元(1830)~安政3(1856)年頃
幅 7.5cm
高さ 4.8cm
共箱、松尾宗古(6代)仰止斎 箱
所謂、『玉水焼』です。
玉水焼については、昨年に樂さんが研究した成果を発表され、展観と図録発行を行われましたことで近年知名度が下がっていたものが、再び脚光を浴びることになりました。
玉水焼(たまみずやき)は樂家四代一入の庶子・一元(1662?~1722)が山城国玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町玉水)において開いた楽焼窯です。
開窯は元禄年間と考えられており、一元 ⇒ 一空 ⇒ 任土斎 と、三代の初期玉水焼は、本家の樂家の血筋を受けており、また製作活動も『脇窯』・・というイメージというより、本樂と並立した存在であったような気が致します。
作品数は本樂程多くは有りませんが、各千家のその時代の家元による箱書き作品もあり、きちんとした立場で需要も多かったと見受けられるのです。
しかし、任土斎は子がおらず・・家としては三代目で中絶してしまいます。
その後、一元時代より製作を助けていた『伊縫家甚兵衛(楽翁)』が四代を継承し『玉水焼』は幕末期まで永らく続いていくのです。
樂家の紹介では『八代まで数えましたが明治に入って廃窯となりました』と記されますが、実際は幕末期の『九代目』が最後であったと思われます。
まずは、作品をご覧下さいませ。
やや、面をシャープにとって造形されております。
この手法はこの時期に見受けられる特徴のひとつであり・・『初代~二代頃の清水六兵衛』『仁阿弥道八』や、道八も参加した角倉家庭焼の『一方堂焼』にも同様の香合が存在します。
EVAの使徒にも居てそうです。(笑)
都鳥香合にも似た、作り方です。
全体の造形バランスも絶品です。
こちらは、松尾流六代目である宗古(仰止斎)の花押の朱書です。
はっきりとした印付です。
本樂の流れを汲んでおりますので、こういった印の作りにも堂々としたものを感じます。
現在では松尾流は大変小規模になってしまいましたが、この時期の興隆は大きく・・・当時の京焼の名家に好み物などの直接製作注文をしております。
松尾流、としての意義はさておき・・・私としては、それらの作品の製作年代判定や、その当時からあまり多岐に渡り・・作品が散逸せず、ワンオーナーに近い状態で出てくることに価値を感じております。
この作品もそうです。
共箱です。 左下の欠損部を縞柿にて補っているのも雅です。
仰止斎 箱
最近では、保全作品でも仰止斎 箱を扱いました。そちらも伝世数としては希少な保全の印と共箱の組み合わせに加え、仰止斎による最初からの箱であった為、『天保14(1843)~嘉永元(1848)年』の製作年代の特定が出来たのです。
この作品も同様に、上限と下限として天保元(1830)~安政3(1856)年となり、またそのことで資料不在による、時代認証の補強が可能となります。
【加筆部分】
この期間というと、玉水焼研究資料によりますと・・・
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
の2者が可能性として入ります。
しかしながら、玉水伊縫家に残された文献の家系図の読み解きによると・・・長次郎から計算して、九代は、四代『楽翁』もしくは五代『娯楽斎』が相当します。
ところが、『任土斎九代 弥兵衛』と記されているこの共箱からすると、『弥兵衛』となっておりますので六代『涼行斎』となるのです。
この辺は、北樂家十五代『直入』さんの研究でも指摘されております。
しかし、遺されております『涼行斎』の箱筆跡や、花押とは『九代弥兵衛』箱は異なります。
で、今回の『松尾宗古』と絡めてみますと・・・
作品に後に書付と直書きをされる例もありますことから、確定までは出来ませんが・・先述の保全香合のパターンや箱の感じから、同時代の書付と見れると推測します。
さらに、作品の造りや雰囲気は極めて幕末期の京焼のテイストに合致致します。
そこも含めると・・・
やはり、
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
のどちらかに絞れると思われます。
そして、ここからは推論です。
六代『涼行斎』の没したのは、安永7年6月です。
それから安永10年に”生まれた”、七代『浄閑斎』が後を継ぐまでの長い空白期間に、永楽でいうところの『妙全』なり『回全』のような未亡人や職人さんによる、窯の継承維持期間を『代』カウントした可能性が有ります。
故に家系図ではカウントされず、窯元としてはカウントされるということです。
そうなると、八代『照暁斎』、玉水焼の最後となる人が・・・九代と自身を認識し、箱書きされていてもおかしくないのです。
今のところ、これ以上の研究は進みようはありませんが、今回の作品と遺された家系史などと整合しうる結論はこの辺かというところです。
既に、『ご成約済み』の作品の紹介ではありますが、自身の備忘録の意味も含めて『追記』しておくことに致しました次第です☆
※ご成約済みです。
茶の湯の世界では・・・今月は『炉開き』
旧暦の十月(亥月)、『亥月の亥の子の祝い日』に茶室の炉を開きます。
新暦でいうと・・今月の11月6日がその日にあたります。
亥は子だくさん、であり・・そして亥は、中国の陰陽五行説で水の性質をもつことから火を防ぐと考えられ『火の用心』の意味も込められます。
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米を使って作られる『亥の子餅』にて、子孫繁栄を願い食される風習があります。
裏千家流の炉開きでは『善哉』が出される事がございます。
こちらも、亥の子餅と同じく・・・亥の月日が『陰』であるのに対し、陽のものである『小豆』を食べることで『陰陽和合』を期するのだそうです。
そして、祝いということで・・・炉開きの月にはおめでたい道具組をすることも多く見受けられます。
今回ご紹介の作品は、炉開きの茶事におすすめの香合でございます。
任土斎(九代) 弥兵衛
鶴香合
製作年代天保元(1830)~安政3(1856)年頃
幅 7.5cm
高さ 4.8cm
共箱、松尾宗古(6代)仰止斎 箱
所謂、『玉水焼』です。
玉水焼については、昨年に樂さんが研究した成果を発表され、展観と図録発行を行われましたことで近年知名度が下がっていたものが、再び脚光を浴びることになりました。
玉水焼(たまみずやき)は樂家四代一入の庶子・一元(1662?~1722)が山城国玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町玉水)において開いた楽焼窯です。
開窯は元禄年間と考えられており、一元 ⇒ 一空 ⇒ 任土斎 と、三代の初期玉水焼は、本家の樂家の血筋を受けており、また製作活動も『脇窯』・・というイメージというより、本樂と並立した存在であったような気が致します。
作品数は本樂程多くは有りませんが、各千家のその時代の家元による箱書き作品もあり、きちんとした立場で需要も多かったと見受けられるのです。
しかし、任土斎は子がおらず・・家としては三代目で中絶してしまいます。
その後、一元時代より製作を助けていた『伊縫家甚兵衛(楽翁)』が四代を継承し『玉水焼』は幕末期まで永らく続いていくのです。
樂家の紹介では『八代まで数えましたが明治に入って廃窯となりました』と記されますが、実際は幕末期の『九代目』が最後であったと思われます。
まずは、作品をご覧下さいませ。
やや、面をシャープにとって造形されております。
この手法はこの時期に見受けられる特徴のひとつであり・・『初代~二代頃の清水六兵衛』『仁阿弥道八』や、道八も参加した角倉家庭焼の『一方堂焼』にも同様の香合が存在します。
EVAの使徒にも居てそうです。(笑)
都鳥香合にも似た、作り方です。
全体の造形バランスも絶品です。
こちらは、松尾流六代目である宗古(仰止斎)の花押の朱書です。
はっきりとした印付です。
本樂の流れを汲んでおりますので、こういった印の作りにも堂々としたものを感じます。
現在では松尾流は大変小規模になってしまいましたが、この時期の興隆は大きく・・・当時の京焼の名家に好み物などの直接製作注文をしております。
松尾流、としての意義はさておき・・・私としては、それらの作品の製作年代判定や、その当時からあまり多岐に渡り・・作品が散逸せず、ワンオーナーに近い状態で出てくることに価値を感じております。
この作品もそうです。
共箱です。 左下の欠損部を縞柿にて補っているのも雅です。
仰止斎 箱
最近では、保全作品でも仰止斎 箱を扱いました。そちらも伝世数としては希少な保全の印と共箱の組み合わせに加え、仰止斎による最初からの箱であった為、『天保14(1843)~嘉永元(1848)年』の製作年代の特定が出来たのです。
この作品も同様に、上限と下限として天保元(1830)~安政3(1856)年となり、またそのことで資料不在による、時代認証の補強が可能となります。
【加筆部分】
この期間というと、玉水焼研究資料によりますと・・・
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
の2者が可能性として入ります。
しかしながら、玉水伊縫家に残された文献の家系図の読み解きによると・・・長次郎から計算して、九代は、四代『楽翁』もしくは五代『娯楽斎』が相当します。
ところが、『任土斎九代 弥兵衛』と記されているこの共箱からすると、『弥兵衛』となっておりますので六代『涼行斎』となるのです。
この辺は、北樂家十五代『直入』さんの研究でも指摘されております。
しかし、遺されております『涼行斎』の箱筆跡や、花押とは『九代弥兵衛』箱は異なります。
で、今回の『松尾宗古』と絡めてみますと・・・
作品に後に書付と直書きをされる例もありますことから、確定までは出来ませんが・・先述の保全香合のパターンや箱の感じから、同時代の書付と見れると推測します。
さらに、作品の造りや雰囲気は極めて幕末期の京焼のテイストに合致致します。
そこも含めると・・・
やはり、
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
のどちらかに絞れると思われます。
そして、ここからは推論です。
六代『涼行斎』の没したのは、安永7年6月です。
それから安永10年に”生まれた”、七代『浄閑斎』が後を継ぐまでの長い空白期間に、永楽でいうところの『妙全』なり『回全』のような未亡人や職人さんによる、窯の継承維持期間を『代』カウントした可能性が有ります。
故に家系図ではカウントされず、窯元としてはカウントされるということです。
そうなると、八代『照暁斎』、玉水焼の最後となる人が・・・九代と自身を認識し、箱書きされていてもおかしくないのです。
今のところ、これ以上の研究は進みようはありませんが、今回の作品と遺された家系史などと整合しうる結論はこの辺かというところです。
既に、『ご成約済み』の作品の紹介ではありますが、自身の備忘録の意味も含めて『追記』しておくことに致しました次第です☆
※ご成約済みです。
【永楽保全 染付鶯鳥 酒飲】 [幕末京焼]
続きまして、保全の酒呑をもう一点ご紹介致します。
こちらは、永楽善五郎展などでもお馴染みの・・・代表的な作品となります。
【永楽保全 染付鶯鳥 酒飲】
幅 8.1×7.4cm
高さ 4.2cm
高台径 2.2cm
製作年代 弘化4(1847)~嘉永7(1854)年頃
共箱
保全の晩年の境遇は決して良いものでは有りませんでした。
弘化4年に佐野長寛の次男であります『善次郎』を養子に迎え、天保14(1843)年より使用する『善一郎』を別ラインとして立ち上げようとしたことによる諍いが、子『和全』との間に生じ・・・
河濱焼、江戸行き、湖南焼、高槻焼、長等山焼、三井御濱焼など点々とすることになるのです。
しかし、それらは全て保全の『力量』を認めていた各人とのご縁のものであり、保全自身の制作意欲や技術は亡くなるまで衰えることは無かったのです。
そんな、保全の晩年期といえば・・『染付』に尽きると言っても過言では有りません。
古染付の意匠に倣った、『鶯鳥』です。
本体は、『梅』を意匠化しており・・・
かわいい、白磁の鶯が添えられます。
本体の染付に対して、白磁とすることにより・・・本来は彩色されていない、鶯の彩りを観る者に感じさせるのです。
手びねりによる形成で、味わい深い風合いとなっております。
保全の小印となっており、このタイプは数は多く有りません。
共箱となります。紐も当時のものが現存しております。
彫像作品として、楽しむのも良し☆盃としても良し☆
なのです。
※売却済みです。
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こちらは、永楽善五郎展などでもお馴染みの・・・代表的な作品となります。
【永楽保全 染付鶯鳥 酒飲】
幅 8.1×7.4cm
高さ 4.2cm
高台径 2.2cm
製作年代 弘化4(1847)~嘉永7(1854)年頃
共箱
保全の晩年の境遇は決して良いものでは有りませんでした。
弘化4年に佐野長寛の次男であります『善次郎』を養子に迎え、天保14(1843)年より使用する『善一郎』を別ラインとして立ち上げようとしたことによる諍いが、子『和全』との間に生じ・・・
河濱焼、江戸行き、湖南焼、高槻焼、長等山焼、三井御濱焼など点々とすることになるのです。
しかし、それらは全て保全の『力量』を認めていた各人とのご縁のものであり、保全自身の制作意欲や技術は亡くなるまで衰えることは無かったのです。
そんな、保全の晩年期といえば・・『染付』に尽きると言っても過言では有りません。
古染付の意匠に倣った、『鶯鳥』です。
本体は、『梅』を意匠化しており・・・
かわいい、白磁の鶯が添えられます。
本体の染付に対して、白磁とすることにより・・・本来は彩色されていない、鶯の彩りを観る者に感じさせるのです。
手びねりによる形成で、味わい深い風合いとなっております。
保全の小印となっており、このタイプは数は多く有りません。
共箱となります。紐も当時のものが現存しております。
彫像作品として、楽しむのも良し☆盃としても良し☆
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【永樂保全(善五郎) 祥瑞写沓形 酒飲】而全極め箱 [幕末京焼]
お正月には、おおいにお酒が進んだ御仁も多かったと存じます。
また、茶道界に於きましても・・・1月から2月にかけては『初釜』『初稽古』などでの『酒飯席』で盃を酌み交わすシーンも増えますね。
そちらでは、『引盃』が主役ですが。。
幕末京焼コレクターズアイテム、としても人気の高い『酒盃』と呼ばれる作品をご紹介して参りましょう。
【永樂保全(善五郎) 祥瑞写沓形 酒飲】
幅 5.8cm
高さ 4.3cm
高台径 3.2cm
製作年代 文政10(1827)~天保14(1843)年頃
箱 17代永楽而全極め箱
文政年間に入り、『土風炉師』であった『西村家』の製作バリエーションの拡大を図った『了全』と『保全』は茶陶製作の為の釉薬研究や登り窯焼成を始めます。
文政7年頃には『交趾』や『青磁』の製作が可能となったようで、その技術力を見込まれたのでしょう、文政10(1827)年には『吸江斎』や『旦入』『仁阿弥』らの紀州徳川藩主『徳川治宝』の御庭焼の拡大に同行することになるのです。
以降、『交趾』作品の『永樂保全』として知られるようになるのですが、その次に手掛けたのが『染付磁器』であります。
当時、『仁阿弥道八』により京焼における染付磁器の完成が実現し、京染付の世界がスタートし始めたころでありました。
ぐるっと見回してまいりましょう。
松竹梅、や人馬、碁打ち人物、漁夫、山水・・・といった、唐国の古染付で見られる意匠が取り込まれております。
一か所を窪ませて、やや『沓形』にしてあるのも祥瑞等の踏襲です。
永楽初期のやや軟質磁器の雰囲気により、染付といっても固く・冷たい感じになってないのもこの作品の魅力なのです!
内側には『河濱支流』印が押印されております。
これは『大江竜珉』和尚に祐筆してもらった字を印に興したもので、保全の『策』によるものです。
以降、受け継がれてて『優品』『逸品』に押印される傾向があります。
底には書き銘があります。
17代永楽善五郎で、隠居後名『而全』の極め箱となります。
この作品は、作品や銘等から保全の『善五郎』時代と分析出来ますので、製作年代は『文政10(1827)~天保14(1843)年頃』となりますが、さらに言い伝えなどによる磁器焼成の年代も合わせると・・・天保12(1841)~14(1843)年とまで絞り込んでも良いかもしれません。
この時代の酒盃としては珍しく、『盃』形状ではなく『ぐい呑』形状であるところも嬉しい点なのです!
※ご成約済みです。
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また、茶道界に於きましても・・・1月から2月にかけては『初釜』『初稽古』などでの『酒飯席』で盃を酌み交わすシーンも増えますね。
そちらでは、『引盃』が主役ですが。。
幕末京焼コレクターズアイテム、としても人気の高い『酒盃』と呼ばれる作品をご紹介して参りましょう。
【永樂保全(善五郎) 祥瑞写沓形 酒飲】
幅 5.8cm
高さ 4.3cm
高台径 3.2cm
製作年代 文政10(1827)~天保14(1843)年頃
箱 17代永楽而全極め箱
文政年間に入り、『土風炉師』であった『西村家』の製作バリエーションの拡大を図った『了全』と『保全』は茶陶製作の為の釉薬研究や登り窯焼成を始めます。
文政7年頃には『交趾』や『青磁』の製作が可能となったようで、その技術力を見込まれたのでしょう、文政10(1827)年には『吸江斎』や『旦入』『仁阿弥』らの紀州徳川藩主『徳川治宝』の御庭焼の拡大に同行することになるのです。
以降、『交趾』作品の『永樂保全』として知られるようになるのですが、その次に手掛けたのが『染付磁器』であります。
当時、『仁阿弥道八』により京焼における染付磁器の完成が実現し、京染付の世界がスタートし始めたころでありました。
ぐるっと見回してまいりましょう。
松竹梅、や人馬、碁打ち人物、漁夫、山水・・・といった、唐国の古染付で見られる意匠が取り込まれております。
一か所を窪ませて、やや『沓形』にしてあるのも祥瑞等の踏襲です。
永楽初期のやや軟質磁器の雰囲気により、染付といっても固く・冷たい感じになってないのもこの作品の魅力なのです!
内側には『河濱支流』印が押印されております。
これは『大江竜珉』和尚に祐筆してもらった字を印に興したもので、保全の『策』によるものです。
以降、受け継がれてて『優品』『逸品』に押印される傾向があります。
底には書き銘があります。
17代永楽善五郎で、隠居後名『而全』の極め箱となります。
この作品は、作品や銘等から保全の『善五郎』時代と分析出来ますので、製作年代は『文政10(1827)~天保14(1843)年頃』となりますが、さらに言い伝えなどによる磁器焼成の年代も合わせると・・・天保12(1841)~14(1843)年とまで絞り込んでも良いかもしれません。
この時代の酒盃としては珍しく、『盃』形状ではなく『ぐい呑』形状であるところも嬉しい点なのです!
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【永楽和全 染付雲堂手 茶碗】 透月斎箱 而全極め箱 [幕末京焼]
今年初のご紹介です☆
【永楽和全 染付雲堂手 茶碗】
幅 10.8cm
高さ 7.9cm
高台径 5cm
製作年代 幕末~明治初期頃
箱 十一代 藪内透月斎(竹窓紹智)箱 (1865~1942年)
永樂而全極め箱
眼鏡収納外箱 添
京都国立博物館に所蔵されております、永樂保全作の有名な古染付写しの作品があります。
おそらく本歌は『香炉』であったものをお茶碗に見立てたものですが、保全はそれをきちんとした『茶碗』として作りました。
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=19818
『祥瑞』と違って、ざっくり?とした絵付けが魅力のものです。
やや、薄いブルーがかった生地色なので、こういう絵付けが合います。
『雲堂手』とよばれるだけあって、『雲』と『御堂』の絵付けです。
このお茶碗は先述のように、和全の父である保全の写しなのですが、元の鴻池所蔵のものには理由があるのです。
「利休紀三井寺の香炉を茶碗に用ゆるより始まる」
万治(1658~61)年間より前から大阪の豪商せあった『鴻池家』に所蔵されておりました『紀三井寺』と呼ばれる古染付の有名な香炉が有ります。
地肌・藍色・模様の三拍子が揃った逸品といわれ、利休の手にあったものが徳川家康に入り、一時津田小平次の元を経て・・・再び徳川の所有となったようです。
元和・寛永(1615-44)年間の茶会記にその名が度々記されており世に知られるようになりました。
おそらく、鴻池家に入った後にそれを写すように保全に依頼して製作させてものと推測できます。
内側は本歌が香炉の名残であったことから『無釉』とされます。
轆轤目がきれいに渦巻きます。
内側側面に『河濱支流』印が押印され、特別作品であったことがうかがえます。
高台側です。
『永楽』印もあります。
いい『土見せ』です!
なかなかの造形で、見た目より軽やかに・・・そして、手にしっくりと馴染む感じが驚くほどです☆
元箱は、藪内家十一代家元のものになります。
透月斎の箱のものは、佳品が多いことでも知られます。
『翠雲台蔵品』
先代の永楽善五郎さんであります『而全』の極め箱も新たに造られており、表千家流・裏千家流の方にもお使い安いように仕立てられております。
『紀三井寺』は中心に人物も描かれておりますので、中興名物の雲堂手茶碗である『面影』と呼ばれるものを写したという説もございます。
共箱がありませんので、製作年代を追うのは難しいところですが・・保全作品の写しであることと、晩年の作風からも鑑みて、幕末から明治に代わる辺りまでの作品と思われます。
大変珍しいものですよ☆
※売却済みです。
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【Journal of FUJII KOUNDO】
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【永楽和全 染付雲堂手 茶碗】
幅 10.8cm
高さ 7.9cm
高台径 5cm
製作年代 幕末~明治初期頃
箱 十一代 藪内透月斎(竹窓紹智)箱 (1865~1942年)
永樂而全極め箱
眼鏡収納外箱 添
京都国立博物館に所蔵されております、永樂保全作の有名な古染付写しの作品があります。
おそらく本歌は『香炉』であったものをお茶碗に見立てたものですが、保全はそれをきちんとした『茶碗』として作りました。
https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=19818
『祥瑞』と違って、ざっくり?とした絵付けが魅力のものです。
やや、薄いブルーがかった生地色なので、こういう絵付けが合います。
『雲堂手』とよばれるだけあって、『雲』と『御堂』の絵付けです。
このお茶碗は先述のように、和全の父である保全の写しなのですが、元の鴻池所蔵のものには理由があるのです。
「利休紀三井寺の香炉を茶碗に用ゆるより始まる」
万治(1658~61)年間より前から大阪の豪商せあった『鴻池家』に所蔵されておりました『紀三井寺』と呼ばれる古染付の有名な香炉が有ります。
地肌・藍色・模様の三拍子が揃った逸品といわれ、利休の手にあったものが徳川家康に入り、一時津田小平次の元を経て・・・再び徳川の所有となったようです。
元和・寛永(1615-44)年間の茶会記にその名が度々記されており世に知られるようになりました。
おそらく、鴻池家に入った後にそれを写すように保全に依頼して製作させてものと推測できます。
内側は本歌が香炉の名残であったことから『無釉』とされます。
轆轤目がきれいに渦巻きます。
内側側面に『河濱支流』印が押印され、特別作品であったことがうかがえます。
高台側です。
『永楽』印もあります。
いい『土見せ』です!
なかなかの造形で、見た目より軽やかに・・・そして、手にしっくりと馴染む感じが驚くほどです☆
元箱は、藪内家十一代家元のものになります。
透月斎の箱のものは、佳品が多いことでも知られます。
『翠雲台蔵品』
先代の永楽善五郎さんであります『而全』の極め箱も新たに造られており、表千家流・裏千家流の方にもお使い安いように仕立てられております。
『紀三井寺』は中心に人物も描かれておりますので、中興名物の雲堂手茶碗である『面影』と呼ばれるものを写したという説もございます。
共箱がありませんので、製作年代を追うのは難しいところですが・・保全作品の写しであることと、晩年の作風からも鑑みて、幕末から明治に代わる辺りまでの作品と思われます。
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