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【豆細工 升 一江銘】 [明治工芸]


今日は『節分』です!


節分、恵方巻、豆まき、鬼は外福は内・・・と、ワードだけが伝わる今日この頃ですが。。。

この機会に勉強してみましょう。



『節分』『せつぶん』(せちぶん、とも)


字の通り、節目、を表しております。


明治5年まで使用されておりました『太陰太陽暦』(旧暦)では月の満ち欠けを元にしており、さらに、二十四節気(にじゅうしせっき)というもので区切っておりました。


1年を春・夏・秋・冬の4つに分け、さらにそれぞれを6つに分けるというものです。


『節気(せっき)』と『中気(ちゅうき)』が交互にあります。

たとえば、春の辺りでみてみますと・・・



立春(りっしゅん) 1月の『節』 2月4日頃

雨水(うすい)  1月の『中』 2月19日頃

啓蟄(けいちつ)  2月の『節』 3月5日頃

春分(しゅんぶん) 2月の『中』 3月21日頃

清明(せいめい)  3月の『節』 4月5日頃

穀雨(こくう)  3月の『中』 4月20日頃




旧暦でのお正月(今年では1月22日)を元旦として、お祝いするのと共に・・・『二十四節季』の始まりである『立春』は、『季』の最初であることから、こちらも元旦として『新年』の最初と祝うこともあったのです。

そして『季』の『節』を『分ける』ということで・・・


『節・分』


として、『立春』の前日の『大晦日』という位置付け、ですね。



年の変わり目には、『邪気』が生じるということから、『鬼は外』という豆まきを行われるようになったのです。

今の、数字だけのカレンダーと違って、旧暦というのは何かしらと、意味がちゃんとあり、気候や風習とも密接に繋がった『日本的』なものなのです。


さて、『節分』の『豆まき』・・ということで、今日は『桝(ます)』をご紹介致しましょう!


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なんじゃこりゃ?ですね。(^^;


ミラーレス一眼レフのふつーのレンズでは写りません。

ので、スマートフォンさんに、活躍してもらいました~


『ズーム・イン!』(徳光和夫風にどうぞ)


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明治~大正頃の作品です。

『一江』という銘があり、『小西一江』さんかもしれません。

日本では、明治維新で優れた工人達が刀装具等の仕事からあぶれることとなり・・・腕を別の方面で活かすこととなりました。

それらは、輸出用の細工物等に転換し、大いに国内外で人気を博すことになるのです。

この作品も、ミニチュアでありますが、木目等もしっかり再現され、文字等もしっかり彫られております。

『造り手』の『気迫』みたいなものを感じますね。


元来、『ちっちゃいもん倶楽部』な私としましては・・・こういう物に、つい惹かれてしまいますもので。^_^;


同好の、士が現れますよう☆


今夜は、54個のお豆を食します。(食べれるかな・・)



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【Journal of FUJII KOUNDO】


当ブログは、『藤井香雲堂』の各種インフォメーションをお知らせするものです。

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当ブログにてスケジュールをご確認の上、上記より事前に『ご来訪のご連絡』を頂戴致したく存じます。

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【保土田 横浜薩摩焼 輪花皿】 [明治工芸]

当店で、ライフワークとしております『眞葛焼』ですが、それ以外にも、明治時代には・・・いわゆる『ハマ焼』(横浜焼)というものが、存在しました。

横浜という所は・・・元々、農業と漁業をほどほどに、している片田舎の地域でした。


『開港』、というイノベーションで、世界との扉を開くニッポンの入り口として一気に開花したのです。


幕末期に万博へと薩摩藩が出展したことによって『薩摩焼』というものが世界に認知され、人気を博したことにより多大な需要が生まれたのです。


『本』薩摩焼だけでなく、『京』薩摩焼や、『神戸薩摩』、『大阪薩摩』などといった他地方でも『薩摩手』が大量に製作されることになりました。


海外からは、いづれも・・金をふんだんに使用した豪華絢爛なジャパンメイドのやきものとして同じに見えたのかもしれませんが、実際には産地による従事陶工・画工による各地の特性が発揮され、コレクターには面白いバリエーションへと進化したという面もあったのです。


『宮川香山』の『眞葛窯』は、薩摩手からの脱却と早期から図り・・・『高浮き彫り』や、『釉下彩』といったものにシフトしたのですが、今回ご紹介する作品は、明治後期に独自の進化を果たした『横浜焼』なのです。



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【保土田 横浜薩摩焼 輪花皿】


幅    19.5cm

高さ    4cm

製作年代 明治20年~30年代

箱    無地箱



とても、緻密に描かれた作品です。


輪花形に形成された、皿に安定した上質な生地と施釉。


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『扇』を中心に、『団扇』、『千鳥』、『雪輪』、『巻物』、『貝』、『葉』の窓に・・・それぞれ、人物風景図が描かれております。


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輪花の内側には、祥瑞文様が施され・・・合間の余白には、びっしりと、『桜』と『蝶』に金描が。



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銘『保土田造』


横浜の『保土田商店』の『保土田太吉』が、明治22年頃から製作を始めた横浜焼で、素地は薩摩から取り寄せていたものを横浜で絵付けした作品です。

明治30年頃から、海外へも輸出されるようになったようです。


この作品も、里帰り品となります。



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絵のストーリーは、じっくり見ながらあれやこれや、と思いを巡らせて楽しめるのです☆


※ご成約済みです。



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【春井恒眠 笙蒔絵 香合】 [明治工芸]

※内容追記致しました。 (9月22日23時)



HARUI KOUMIN

はるい、こうみん・・・です。


こみん、ちゃいまんねん。


また、昭和後期~平成期に鵬雲斎の箱書きのある作品でみられる「恒眠」と書かれた作品群とも違います。(こちらは昭和期に二代長寛を自称された、書付モノ対応に道具屋主導で活躍された茶道具漆工のようなものと思われます)


「春井恒眠」は明治後期~大正期に活躍した近代漆工です。


大阪~京都、大阪へ戻り、そして兵庫へと移り住む中で、それぞれの風土のもつ気風を取り込み、丁寧な作品を制作されておりました。


まずは、作品をご覧いただきましょう☆



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【春井恒眠 笙蒔絵 香合】


幅     7cm

高さ   2.8cm

製作年代 大正期

共箱



「笙」の意匠を表面に蒔絵で描かれております。


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恒眠の得意とする、高蒔絵による重厚な蒔絵を、おとなしめの形状とデザインで圧迫感を与えずさらっと表現しております。


これは、これでもか!という存在感を求められす硯箱等の作品と違い、茶道具としての「用」を意識された風合いと思われます。

この、「引き」の美学は実力と品性を持った職人にしかなしえない加減です。



「笙」は雅楽で用いられる楽器です。

日本には奈良時代ごろに雅楽とともに伝わってきたとされます。


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その形状から、翼を立てて休んでいる「鳳凰」に見立てられ、鳳笙(ほうしょう)とも呼ばれております。


粋な発想ですね。


散らされております、花びらが笙の周りを彩ります。

画像ではわかりにくいですが、これは「朱金」と「高蒔絵」を合わせて描かれております。


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「蓮弁蘭」とも思ったのですが・・・・


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「蓮の花」の方が近い気が致します。


この、笙・・・鳳凰と、蓮弁が合わさる意匠は、古染付等、中国の古い焼き物でも取り合わされておりますのは蒔絵の意匠としてはなかなか珍しく、粋な取り合わせですね。


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上部と下部

底部が棗のような形状と、内側だけ梨子地にしているのも見えないところへのお洒落を感じます。

へっこんでますので、擦れによる痛みが生じないようになっているのです。



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内側はシックな梨子地です。

標準的なものより、細かく蒔かれております。




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共箱(甲)


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共箱(裏)



春井恒眠は、明治2年に大阪で生まれました。

浪華画学校で絵画を学び、明治21年より京都の「池田合名会社」の工人となります。

この池田合名会社というのは、外国人向けの美術館(兼、販売所も兼ねておりました)を運営していた美術商で、池田清助さんという方は京都美術倶楽部の初代社長もされております。

そこで、グローバルな視野での美術品を取り扱うのに合わせて、自身の眼に適う工人を雇い入れておりました。


余談ですが。。。。初代香山の伝説的な、世界中のあらゆるやきものの名品の写しを混在させた大花瓶一対を、万国博覧会での騒動の際に、現地に赴いておりました二代香山が作品をぶち割って解決したというエピソードがございます。

その破片全てを買い取った、のもこの池田清助さんと聞いており・・・私としては、その行方を知りたいところなのですが、もはや廃業されて久しく・・・


話が逸れました。(^^;


春井恒眠はその後、大正3年に「藤田男爵」所有の須磨にある山に寓居し、製作を続けていたそうです。


スイスのジュネーブにある、「極東芸術美術館」・・・バウアーコレクションにも多数の春井恒眠作品が所蔵されております。


これは、バウアーコレクションの形成に尽力した富田熊作という方がいらっしゃったことによります。

この方は、商社によりロンドンへ派遣され、そのまま山中商会のロンドン支店で勤めることになり美術品への造詣を深めました。1915年~1921年に現地で東洋の陶磁器の評価を高めた立役者となり、多大な影響を与えたといわれます。

帰国後に京都に居を構えておりましたところ、バウアー夫妻が日本旅行へ来られた際にイギリス美術商に頼まれて案内を手伝ったことからバウアーの絶大な信頼を得、その後の東洋コレクション形成の助力を為したそうです。

この富田熊作さんが、最初に勤めていた商社というのが・・・・先ほどの、池田合名会社だったのです!


直接、春井恒眠の仕事・技術を見知っていた富田さんは世に出回っていた、春井恒眠作品を集めてバウアーさんに収めていったのです。


日本では、蒔絵マニアでしか知られてない春井恒眠が、かの地の世界的に有名なコレクションの中で世界中の人々に作品を紹介され続けておりますのは、この数奇なご縁によるものですが、なによりもそのセンスと技術が確かなものであったことからこそ、縁を引き寄せたのは違いないのです。


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初代 諏訪蘇山 青貝 盆  (薮内透月斎極め箱) [明治工芸]

初代諏訪蘇山の、珍しい余技作品です。

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初代 諏訪蘇山 青貝 盆  薮内透月斎極め箱


初代蘇山は加賀藩で武芸を学び、軍務に携わった後、1873年(明治6年)任田屋徳次に陶芸を学び、また日本での釉下彩の神ともいえますゴットフリートワグネルから化学を学びました。
1876年(明治9年)大井村に工場を設立しました。

坂井、高岡、九谷陶器会社、金沢区立工業学校、山内伊右衛門工場など北陸地方各地で陶器、煉瓦の製造、指導を行う。

1900年(明治33年)京都市の錦光山宗兵衛工場に務めた後、1907年(明治40年)五条坂に独立した。56歳のときでかなりの遅咲きともいえますね。

1914年(大正3年)李氏朝鮮で高麗窯再建に携わり、1917年(大正6年)宮内省帝室技芸員に選ばれた。

陶芸界では5人しか居ない帝室技芸員のひとりであります。

1922年(大正11年)に没しました。

蘇山としては実質、15年間の活動期間でありましたが・・・青磁の優品を数多く製作。

その中で、余技作品として彫漆作品や、やきものと漆器の合わせ技、唐物写しの青貝作品も遺しております。

数は少ないものの、そのレベルの高さから見る人の心を掴み、その技術力は現在まで広く知られております。


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意匠、サイズといい・・茶道具としての用を満たしている珍しい作品です。

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銘も螺鈿で入れております。

メリメリとした風合いも唐物風に写し切っております。

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箱は当時の薮内家の極め箱です。

明治後期~大正初期の当時、青磁釉というのはかなりの技術力が必要で、また社会的にも青磁の評価が高く・・・現代の陶芸界での青磁の評価とは比較にならない程のものでした。

その中で抜きんでていた初代蘇山ですが、そこに安穏とせず、もしくは自己センスの研鑚を常に高める為か・・・漆工芸の作品をもはや”余技”などと言わせないレベルに実現させていたことは、凄いことなのです。

明治26年、大病から蘇生して生還したことが”蘇山”の号の由来と伝わります。

元より、一定の評価は手堅くある初代諏訪蘇山ですが、今一度・・・過去の名声も再び蘇生されるべき作家のひとりと思います。



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