【永楽保全 湖南焼染付山水絵 向付(一) 火入にも】 17代永楽善五郎極め箱 [永楽保全 Blue&White]
『永楽保全 Blue&White』
続けてご紹介致します☆
生涯をかけて、知識の探求とたゆまぬ努力を続けた・・・幕末京焼の名工のひとり、それが永樂保全です。
晩年は、息子である和全との不仲や財政難により、かなり苦労をし・・・江戸や滋賀、高槻と流浪の身でありましたが、それぞれの行く先で確実な足跡となる作品群を遺しています。
そんな中でも、評価されるのが『湖南焼』といえましょう。
嘉永3年10月、京都を離れ江戸行きを敢行しました。
江戸窯を築き、新たな地で心機一転、腕を奮うつもりであったようです。
しかし、三井家の援助は得られず・・・失意の中、嘉永4年6月、京へは戻らず滋賀県の大津の『長等山』、『三井寺下鹿関町』に仮寓し、再起を図ることにしたのです。
この時期に焼成されたものたちは、『於湖南』『長柄山焼』『三井御浜焼』といったものがあります。
『染付』が中心であり、また・・・保全の作陶活動の集大成ともいえるのです。
間に嘉永5年に大阪の摂州高槻城主、永井候の招聘により『高槻焼』を築窯し製作しましたが、これらもまた・・・染付のみであります。
嘉永4(1851)年~嘉永7(1854)年の3年間、ここに着目すべき点があると考えるのです。
【永楽保全 湖南焼染付山水絵 向付(一) 火入にも】
幅 8.8cm
高さ 7.8cm
製作年代 嘉永4(1851)~7(1854)年頃
箱 十七代善五郎 極め箱
これまた、先ほどご紹介いたしました・・・蓋置とは違い、すっきりした染付です。
この焼成具合は、まるで明治後期の香山並の染付です。
まだまだ、京焼に於いては「染付技術」は始まったばかりの中、仮寓の地に於いてこのレベルは目を見張るものがあります。
斜めに置くのが一番カッコ良いかもです。
元は、「向付」として生まれたのでしょう、見込み底にも絵付けがございます。
しかし、湖南焼では酒器等は多く見かけますが、懐石道具は珍しいかもしれません。
「於湖南 永楽造」
こちらも、17代の極め箱になります。
火入とされておりますが、元々の生まれから・・・「酒器」としても、おひとり用の「御向」としてお使い頂くのもお勧めします!
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
※当ブログはPC用サイトでの閲覧を推奨しております。
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【永楽保全 祥瑞輪誌歌有 蓋置】 十七代極め箱 [永楽保全 Blue&White]
2020年・・・『おもろいで!尾張陶 & 永樂保全 Blue and White』という企画を準備しておりました。
しかし、2月下旬より・・・例のコロナ蔓延により、お流れに。
前者は、2021年6月に名美アートフェアにて、一応の陽の目を見ましたが・・・名古屋でない場所での啓蒙が出来ずで、そちらはようやく本年、10月~11月に東京・京都・金沢にてその企画をご覧頂くことになります!
後者の方は、せっかくの優品が揃ったタイミングでしたが、在庫を一度解散してしまいまして。(;^_^
その後、ほそぼそと・・・仕入れてはお譲りして、を繰り返しております。
そんな、『永楽保全 Blue & White』な逸品のご紹介です。
【永楽保全 祥瑞輪誌歌有 蓋置】
幅 5.6cm
高さ 5.3cm
製作年代 天保年間末期(1843年頃)
箱 十七代極め箱
江戸時代後期、京焼が再び脚光を浴びる新時代に突入しました。
あらたな工人、あらたな技術が生まれ、初期京焼を踏襲しつつ・・当時の時代性も反映させながら、新しい魅力を含んだ作品が大いにもてはやされたのです。
『青木木米』や『仁阿弥道八』が、『芸術家』的であったのに対して、永楽保全は『工芸家』的でありました。
しかし、『超一流』の『工芸家』なのです。
保全の生い立ちを紐解いて参りましょう。
京都西陣の織屋、「沢井宗海」の子として生まれ。(これは確かではなく一説として)その後、「黄梅院」へ預けられ「大綱和尚」の喝食となりました。
その後、西村家(※この頃は永楽姓ではない)の十代である「了全」に子が居なかったことから大綱和尚へ相談したところ、養子縁組となったということです。
文化3~4年頃であり、保全が12,3歳の頃です。(保全37,8歳)
しかし、それは単なる縁組でなく保全の類まれなる才能を見込んでということでありました。
幼少時より、大綱和尚より「禅学」「禅道」を指導され、書道は「松波流」、画は「狩野永岳」に学びます。他にも和歌を「香川景樹」、さらには「舎密究理」(現在の科学)を医家の新宮涼庭、シーボルトの門下の日野鼎斎に学び、「蘭学」を広瀬玄恭に教えを受けておりました。
これらのことからも分かりますように、永楽保全は当時の文化人の第1級の様々な人たちからの薫陶を受け、今の大学院卒以上の博士級の学識を持っておりました。
陶技は、深草の「人形屋市右衛門」「土器研究師 山梅」の元で研究し、義父である「了全」からの教えを受けました。
保全の研究熱心さと向上心は尋常でなく、西村家の元代々専業とされていた、「土風呂師」から脱却し「陶芸師」を目指すことへも繋がります。
その後の歴史をこの調子で語ると・・・長くなりますので。(^^;
作品をご覧いただきます。
保全の代表作のひとつに、『祥瑞写し』がございます。
明るく、かっちりした…その後の永樂スタイル的なものもありますが、こちらはより唐物風の味わい深い作行きです。
これは『碁打ち図』でしょうか。
呉須の発色もよく。
『詩紋』
舟に人物ですが、中国の図柄からすると、『漁夫』図でしょう。
『人馬』図です。
内側には、『瓔珞紋様』が施されております。
押印にて『河濱支流』印と、書き銘にて『大日本天保年 永楽保全製之』とあります。
さて、ここで面白い点が。
これまでも、何度かご紹介しております内容ですが・・・・保全の製作時期区分は以下の3期に分けられます。
『善五郎』時代 文政10(1827)~天保14(1843)年
『善一郎』時代 天保14(1843)~嘉永元(1848)年
『保全』時代 嘉永元(1848)~嘉永7(1854)年
『善一郎』から『保全』(やすたけ)と記すようになったのが『嘉永元年』といわれます。
そして、上記の通り、『善一郎』時代は天保14(1843)年~嘉永元(1848)です。
ん?と思われた方、いらっしゃいますね。
『天保年』に『保全』なのです。
永楽保全や和全のパトロンとして支えた三井家の優品の多くが収まっている、三井記念美術館によると所蔵品から、『弘化4年ころから保全の箱書がある』とされております。
弘化4年は1847年です。
この作品の存在から・・・遅くとも、天保14(1843)年には『保全』を名乗っていたことが判ります。
しかし。
17代永楽善五郎(而全)の極め箱なのです。
文書などでは、保全という名前は号としての保全より以前から使っていたと云われます。
この作品は『やすたけ』という意味で印とは別に署名されたのかもしれませんが、この作品に共箱が存在していたのならば・・・・面白い資料となったでしょう。
しかし、この作品自体も貴重なものであることは間違いありません。
作品の上がりからも、製作年代的には『善一郎』時代のクオリティです。
今、保全作品の染付の優品が3点御座いますので、徐々にご紹介いたしたいと思います。
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しかし、2月下旬より・・・例のコロナ蔓延により、お流れに。
前者は、2021年6月に名美アートフェアにて、一応の陽の目を見ましたが・・・名古屋でない場所での啓蒙が出来ずで、そちらはようやく本年、10月~11月に東京・京都・金沢にてその企画をご覧頂くことになります!
後者の方は、せっかくの優品が揃ったタイミングでしたが、在庫を一度解散してしまいまして。(;^_^
その後、ほそぼそと・・・仕入れてはお譲りして、を繰り返しております。
そんな、『永楽保全 Blue & White』な逸品のご紹介です。
【永楽保全 祥瑞輪誌歌有 蓋置】
幅 5.6cm
高さ 5.3cm
製作年代 天保年間末期(1843年頃)
箱 十七代極め箱
江戸時代後期、京焼が再び脚光を浴びる新時代に突入しました。
あらたな工人、あらたな技術が生まれ、初期京焼を踏襲しつつ・・当時の時代性も反映させながら、新しい魅力を含んだ作品が大いにもてはやされたのです。
『青木木米』や『仁阿弥道八』が、『芸術家』的であったのに対して、永楽保全は『工芸家』的でありました。
しかし、『超一流』の『工芸家』なのです。
保全の生い立ちを紐解いて参りましょう。
京都西陣の織屋、「沢井宗海」の子として生まれ。(これは確かではなく一説として)その後、「黄梅院」へ預けられ「大綱和尚」の喝食となりました。
その後、西村家(※この頃は永楽姓ではない)の十代である「了全」に子が居なかったことから大綱和尚へ相談したところ、養子縁組となったということです。
文化3~4年頃であり、保全が12,3歳の頃です。(保全37,8歳)
しかし、それは単なる縁組でなく保全の類まれなる才能を見込んでということでありました。
幼少時より、大綱和尚より「禅学」「禅道」を指導され、書道は「松波流」、画は「狩野永岳」に学びます。他にも和歌を「香川景樹」、さらには「舎密究理」(現在の科学)を医家の新宮涼庭、シーボルトの門下の日野鼎斎に学び、「蘭学」を広瀬玄恭に教えを受けておりました。
これらのことからも分かりますように、永楽保全は当時の文化人の第1級の様々な人たちからの薫陶を受け、今の大学院卒以上の博士級の学識を持っておりました。
陶技は、深草の「人形屋市右衛門」「土器研究師 山梅」の元で研究し、義父である「了全」からの教えを受けました。
保全の研究熱心さと向上心は尋常でなく、西村家の元代々専業とされていた、「土風呂師」から脱却し「陶芸師」を目指すことへも繋がります。
その後の歴史をこの調子で語ると・・・長くなりますので。(^^;
作品をご覧いただきます。
保全の代表作のひとつに、『祥瑞写し』がございます。
明るく、かっちりした…その後の永樂スタイル的なものもありますが、こちらはより唐物風の味わい深い作行きです。
これは『碁打ち図』でしょうか。
呉須の発色もよく。
『詩紋』
舟に人物ですが、中国の図柄からすると、『漁夫』図でしょう。
『人馬』図です。
内側には、『瓔珞紋様』が施されております。
押印にて『河濱支流』印と、書き銘にて『大日本天保年 永楽保全製之』とあります。
さて、ここで面白い点が。
これまでも、何度かご紹介しております内容ですが・・・・保全の製作時期区分は以下の3期に分けられます。
『善五郎』時代 文政10(1827)~天保14(1843)年
『善一郎』時代 天保14(1843)~嘉永元(1848)年
『保全』時代 嘉永元(1848)~嘉永7(1854)年
『善一郎』から『保全』(やすたけ)と記すようになったのが『嘉永元年』といわれます。
そして、上記の通り、『善一郎』時代は天保14(1843)年~嘉永元(1848)です。
ん?と思われた方、いらっしゃいますね。
『天保年』に『保全』なのです。
永楽保全や和全のパトロンとして支えた三井家の優品の多くが収まっている、三井記念美術館によると所蔵品から、『弘化4年ころから保全の箱書がある』とされております。
弘化4年は1847年です。
この作品の存在から・・・遅くとも、天保14(1843)年には『保全』を名乗っていたことが判ります。
しかし。
17代永楽善五郎(而全)の極め箱なのです。
文書などでは、保全という名前は号としての保全より以前から使っていたと云われます。
この作品は『やすたけ』という意味で印とは別に署名されたのかもしれませんが、この作品に共箱が存在していたのならば・・・・面白い資料となったでしょう。
しかし、この作品自体も貴重なものであることは間違いありません。
作品の上がりからも、製作年代的には『善一郎』時代のクオリティです。
今、保全作品の染付の優品が3点御座いますので、徐々にご紹介いたしたいと思います。
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【永楽保全(善一郎) 染付竪唄香合】共箱 即全極め外箱 [永楽保全 Blue&White]
香合の、ご紹介が続きます☆
「染付」というものは、白い素地に酸化コバルト(呉須)を含む顔料で絵付けを行い、透明な上釉を掛けて還元焼成をして作られる磁器のことです。
もともとは染織用語から派生した言葉で、染め物が室町時代にはじめて中国から輸入されたときに、見かけが藍色の麻布に似ていることから日本で染付と呼ばれるようになりました。
中国では青花(華)・釉裏青と呼ばれます。
江戸後期の京焼では、奥田潁川が磁器に赤絵を施す作品を完成させましたが、染付はまだ技術がありませんでした。
瀬戸の磁祖といわれる、加藤民吉が染付の焼成技術を完成させてから遅れること5年、仁阿弥道八によって京焼で染付のやきものが為されました。
(↓ 当方ブログでのご紹介 ご参照下さいませ。)
https://koundo.blog.ss-blog.jp/2020-01-18
文化9(1812)年頃のことです。
そして、文化14(1817)年・・・紀州徳川家よりお庭焼へ招聘された際の功により「永楽」「河濱支流」の印を授かった永楽保全は、いよいよ野々村仁清の窯跡の地にて御室窯を築窯し、自身のブランドによる製作をスタートしました。
その頃から既に、染付作品を自在に製作しておりました保全が、自身の歴の中でも一番の熟成期ともいわれる・・・「善一郎」時代に製作した香合のご紹介です。
【永楽保全(善一郎) 染付竪唄香合】
共箱 即全極め外箱
幅 3.8㎝
高さ 4.2㎝
時代 天保14(1843)~弘化4(1847)年頃
型物香合 番付 【西三段 三位】
竪唄(たつばい)といいます。
唄貝を立てた形のことで、横唄香合とはまた違った趣があります。
染付と、吹き墨による絵付けで、これは向付での栄螺にも見られる組み合わせで、貝の意匠の際にどことなく・・・海を連想させる趣向なのかもしれません。
シンプルですが、かわいらしさもあり。
印は、この小さな造形的な香合に巧いこと・・・「河濱支流」印を押してます。
この印は特別作に使用されるケースが多いですね。
善一郎共箱
天保14(1843)年から弘化4(1847)年のわずかな間が善一郎時代です。
三井家の庇護も深い頃です。
鷹司家から、「陶鈞軒」の号と印を賜ったのもこの頃です。
即全(十六代)による外箱極めです。
有名な、型ですが案外出物は少ないのです。
※御売約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
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「染付」というものは、白い素地に酸化コバルト(呉須)を含む顔料で絵付けを行い、透明な上釉を掛けて還元焼成をして作られる磁器のことです。
もともとは染織用語から派生した言葉で、染め物が室町時代にはじめて中国から輸入されたときに、見かけが藍色の麻布に似ていることから日本で染付と呼ばれるようになりました。
中国では青花(華)・釉裏青と呼ばれます。
江戸後期の京焼では、奥田潁川が磁器に赤絵を施す作品を完成させましたが、染付はまだ技術がありませんでした。
瀬戸の磁祖といわれる、加藤民吉が染付の焼成技術を完成させてから遅れること5年、仁阿弥道八によって京焼で染付のやきものが為されました。
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文化9(1812)年頃のことです。
そして、文化14(1817)年・・・紀州徳川家よりお庭焼へ招聘された際の功により「永楽」「河濱支流」の印を授かった永楽保全は、いよいよ野々村仁清の窯跡の地にて御室窯を築窯し、自身のブランドによる製作をスタートしました。
その頃から既に、染付作品を自在に製作しておりました保全が、自身の歴の中でも一番の熟成期ともいわれる・・・「善一郎」時代に製作した香合のご紹介です。
【永楽保全(善一郎) 染付竪唄香合】
共箱 即全極め外箱
幅 3.8㎝
高さ 4.2㎝
時代 天保14(1843)~弘化4(1847)年頃
型物香合 番付 【西三段 三位】
竪唄(たつばい)といいます。
唄貝を立てた形のことで、横唄香合とはまた違った趣があります。
染付と、吹き墨による絵付けで、これは向付での栄螺にも見られる組み合わせで、貝の意匠の際にどことなく・・・海を連想させる趣向なのかもしれません。
シンプルですが、かわいらしさもあり。
印は、この小さな造形的な香合に巧いこと・・・「河濱支流」印を押してます。
この印は特別作に使用されるケースが多いですね。
善一郎共箱
天保14(1843)年から弘化4(1847)年のわずかな間が善一郎時代です。
三井家の庇護も深い頃です。
鷹司家から、「陶鈞軒」の号と印を賜ったのもこの頃です。
即全(十六代)による外箱極めです。
有名な、型ですが案外出物は少ないのです。
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【永楽保全 高槻焼 瓢形捻祥瑞 酒次】 [永楽保全 Blue&White]
久々にシリーズモノのつづき、です。
【永楽保全 Blue&White】
紀州徳川家の御庭焼「偕楽園」に招聘され、その功により「永楽」の名を賜った幕末京焼の名工保全を紹介します。
保全は大綱和尚の世話で了全の養子となり文化14年(1817)に11代善五郎を継承。
三井家や鴻池家との交流で名品に触れる機会を得て、あらゆる写しを高いレベルで作り抜いた希代の名工です。
常に新たな知識を求め、探求しつづけた姿勢と努力は確実に作品から感じ取ることが出来ます。
善五郎襲名直後に既に完成の域にあったのが、染付・祥瑞作品です。
幕末京焼では、仁阿弥から始まった染付焼成技術ですが、保全もわずかに遅れることすぐに追従しております。
その後の保全につきましては・・当ブログにてご紹介しておりますが、時代を30年飛ばします。
嘉永元(1848)年、保全は家督継承について・・和全との不仲により京都を離れることになりました。
その後、江戸行きや、琵琶湖での湖南焼を経て、摂津高槻城主の永井侯に招聘され製作したのが高槻焼です。
嘉永5(1852)年頃のことです。
【永楽保全 高槻焼 瓢形捻祥瑞 酒次】
胴径 7.6㎝ 高さ 16㎝
嘉永5年頃
共箱 17代極め外箱
全体的に”捻り”の意匠です。
これは絵付けだけでなく、盛り上げて捻りを表現されております。
瓢箪形、というよりやさしい繭のような形状です。
祥瑞を意識した丁寧な絵付けと形成です。
銘部分です。
窯内でのひっつきがあります。
高槻焼は半年ほどだけの、短期間の稼働だったようです。
近年、『高槻市真上町』という場所で、窯跡とおぼしき発見されたようです。
肥前系の小型登窯の円窯であったとの推測がされており、染付磁器が焼成出来るという裏付けがされてました。
一時、同時期に湖南焼もあったことから、共通窯として別の場所から焼いた作品を持ち込んだのではとも思っておりましたが、これで納得、です。
(左)外箱 (右)共箱 です。
外箱は、17代永楽善五郎の極めです。
共箱 (甲)
共箱 (裏)
共箱 側面部分 蔵の貼紙です。
保全は、紀州徳川家のご縁から始まり・・・その技術力を見込んだ、様々な有力者の方々とのご縁で、晩年にいたるまで精力的な製作活動を続けました。
その中でも最晩年にあたる『湖南焼』や『高槻焼』では染付のみの製作で、それまで高麗写しの土ものや、色絵・交趾など自在に使いこなせた保全の境地が、染付作品であったことがうかがえます。
そこには千家流としての陶工としての役目を果たし終えた後の、注文主である各有力者の豊富な資金・熟した技術・積み上げられたセンスにより、自由に作り上げられた独自の世界があるのです。
※ご成約済みです。
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【永楽保全 Blue&White】
紀州徳川家の御庭焼「偕楽園」に招聘され、その功により「永楽」の名を賜った幕末京焼の名工保全を紹介します。
保全は大綱和尚の世話で了全の養子となり文化14年(1817)に11代善五郎を継承。
三井家や鴻池家との交流で名品に触れる機会を得て、あらゆる写しを高いレベルで作り抜いた希代の名工です。
常に新たな知識を求め、探求しつづけた姿勢と努力は確実に作品から感じ取ることが出来ます。
善五郎襲名直後に既に完成の域にあったのが、染付・祥瑞作品です。
幕末京焼では、仁阿弥から始まった染付焼成技術ですが、保全もわずかに遅れることすぐに追従しております。
その後の保全につきましては・・当ブログにてご紹介しておりますが、時代を30年飛ばします。
嘉永元(1848)年、保全は家督継承について・・和全との不仲により京都を離れることになりました。
その後、江戸行きや、琵琶湖での湖南焼を経て、摂津高槻城主の永井侯に招聘され製作したのが高槻焼です。
嘉永5(1852)年頃のことです。
【永楽保全 高槻焼 瓢形捻祥瑞 酒次】
胴径 7.6㎝ 高さ 16㎝
嘉永5年頃
共箱 17代極め外箱
全体的に”捻り”の意匠です。
これは絵付けだけでなく、盛り上げて捻りを表現されております。
瓢箪形、というよりやさしい繭のような形状です。
祥瑞を意識した丁寧な絵付けと形成です。
銘部分です。
窯内でのひっつきがあります。
高槻焼は半年ほどだけの、短期間の稼働だったようです。
近年、『高槻市真上町』という場所で、窯跡とおぼしき発見されたようです。
肥前系の小型登窯の円窯であったとの推測がされており、染付磁器が焼成出来るという裏付けがされてました。
一時、同時期に湖南焼もあったことから、共通窯として別の場所から焼いた作品を持ち込んだのではとも思っておりましたが、これで納得、です。
(左)外箱 (右)共箱 です。
外箱は、17代永楽善五郎の極めです。
共箱 (甲)
共箱 (裏)
共箱 側面部分 蔵の貼紙です。
保全は、紀州徳川家のご縁から始まり・・・その技術力を見込んだ、様々な有力者の方々とのご縁で、晩年にいたるまで精力的な製作活動を続けました。
その中でも最晩年にあたる『湖南焼』や『高槻焼』では染付のみの製作で、それまで高麗写しの土ものや、色絵・交趾など自在に使いこなせた保全の境地が、染付作品であったことがうかがえます。
そこには千家流としての陶工としての役目を果たし終えた後の、注文主である各有力者の豊富な資金・熟した技術・積み上げられたセンスにより、自由に作り上げられた独自の世界があるのです。
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③永楽保全 染付 酢猪口 [永楽保全 Blue&White]
当店では、力を入れてご紹介を続けております、『幕末名工』たち。
それぞれ個性のある工人が切磋琢磨に、技術を高め合った黄金時代、それが江戸後期の京焼であります。
その中でも茶陶として一際、名を馳せておりましたのが永楽保全です。
過日、保全研究家のお客様より・・・貴重な資料類を多数頂戴し、新しく知ることなどもあって面白く読み進めているところです。
このシリーズ、『永楽保全 Blue&White』の中でも織り込めたら・・と思います。
永楽保全 染付 酢猪口
幅 7.4㎝(片口部分7.6㎝) 高さ9.1㎝
製作年代:弘化4年(1847年)~嘉永7年(1854年)頃
その中で1847~1850年まで狭めてもよいかとも推測致します。
この作品は酢猪口と呼ばれる、江戸後期に見られる作品です。
もっと小さい物もありますが、酢を入れ、注ぐ為の容器であったようです。
『酢』は、人類最古の製造調味料といわれ高貴なものでありました。
江戸時代になってから、庶民にも普及し独自の器が生れたのです。
(酢は、大量に使いものではありませんので調整しやすい器が求められたのでしょう)
現代では、そのまま”焼酎カップ”として、または”徳利”として楽しめるほどよい大きさです。
共箱
保全は、若い頃より非常に勤勉な研究家であり、常に技術を研鑚し続けました。
幼年より大綱和尚から禅学と禅道の指導を受け、陶技は父(義父)である了全より仕込まれ、書道は松波流を習い、画は狩野永岳に従い、和歌は香川景樹に学び、舎密究理(科学化学)は医家、新宮涼庭、日野鼎斎(シーボルトの門人)、蘭学は廣瀬玄恭などについております。
その時代の文化人の第1級人物たちを師としており、現代の大学院卒業生以上の学識・知見があったといえます。
その上、苦労をしておりましたので、精力的な政治営業力を以て・・・高い技術力を、きちんろ世に知らしめる努力をも怠りませんでした。
(晩年、その精力的な性格により足元をすくわれることとなりますが)
保全作品のもつ、文化的な匂い・・・それはその出自や人生、文人たちとの交友によるものが作用しているのは間違いないのだと思います。
その手業だけではない何かが作品に篭もることがあるのです。
先日の盃と共に。
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藤井香雲堂 JFK お問い合わせ先
【メール】 fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
【お電話】090-8578-5732
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※過去のご紹介作品を新たなご紹介記事にて掲載致しました。
それぞれ個性のある工人が切磋琢磨に、技術を高め合った黄金時代、それが江戸後期の京焼であります。
その中でも茶陶として一際、名を馳せておりましたのが永楽保全です。
過日、保全研究家のお客様より・・・貴重な資料類を多数頂戴し、新しく知ることなどもあって面白く読み進めているところです。
このシリーズ、『永楽保全 Blue&White』の中でも織り込めたら・・と思います。
永楽保全 染付 酢猪口
幅 7.4㎝(片口部分7.6㎝) 高さ9.1㎝
製作年代:弘化4年(1847年)~嘉永7年(1854年)頃
その中で1847~1850年まで狭めてもよいかとも推測致します。
この作品は酢猪口と呼ばれる、江戸後期に見られる作品です。
もっと小さい物もありますが、酢を入れ、注ぐ為の容器であったようです。
『酢』は、人類最古の製造調味料といわれ高貴なものでありました。
江戸時代になってから、庶民にも普及し独自の器が生れたのです。
(酢は、大量に使いものではありませんので調整しやすい器が求められたのでしょう)
現代では、そのまま”焼酎カップ”として、または”徳利”として楽しめるほどよい大きさです。
共箱
保全は、若い頃より非常に勤勉な研究家であり、常に技術を研鑚し続けました。
幼年より大綱和尚から禅学と禅道の指導を受け、陶技は父(義父)である了全より仕込まれ、書道は松波流を習い、画は狩野永岳に従い、和歌は香川景樹に学び、舎密究理(科学化学)は医家、新宮涼庭、日野鼎斎(シーボルトの門人)、蘭学は廣瀬玄恭などについております。
その時代の文化人の第1級人物たちを師としており、現代の大学院卒業生以上の学識・知見があったといえます。
その上、苦労をしておりましたので、精力的な政治営業力を以て・・・高い技術力を、きちんろ世に知らしめる努力をも怠りませんでした。
(晩年、その精力的な性格により足元をすくわれることとなりますが)
保全作品のもつ、文化的な匂い・・・それはその出自や人生、文人たちとの交友によるものが作用しているのは間違いないのだと思います。
その手業だけではない何かが作品に篭もることがあるのです。
先日の盃と共に。
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藤井香雲堂 JFK お問い合わせ先
【メール】 fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
【お電話】090-8578-5732
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※過去のご紹介作品を新たなご紹介記事にて掲載致しました。
【永楽保全 Blue&White】② 永楽保全 祥瑞腰捻 酒飲 [永楽保全 Blue&White]
現在、オンライン業務中のベースですが・・・・
エア展示会? として、【永楽保全 Blue&White】を無観客開催中です。(^^;
こちらの方で、徐々にご紹介していきます。
【永楽保全 Blue&White】
紀州徳川家の御庭焼「偕楽園」に招聘され、その功により「永楽」の名を賜った幕末京焼の名工保全を紹介します。
保全は大綱和尚の世話で了全の養子となり文化14年(1817)に11代善五郎を継承。
三井家や鴻池家との交流で名品に触れる機会を得て、あらゆる写しを高いレベルで作り抜いた希代の名工です。
常に新たな知識を求め、探求しつづけた姿勢と努力は確実に作品から感じ取ることが出来ます。
善五郎襲名直後に既に完成の域にあった染付・祥瑞作品ですが・・・
初期と晩年期の双方を併せてご覧下さい。
永楽保全 祥瑞腰捻 酒飲
径 6cm 高さ 4cm
染付銘 大日本永楽造
”保全”箱
製作年代 弘化4(1847)~嘉永7(1854)頃
晩年の保全が再び回帰し、熱意をみせたのが染付・祥瑞です。
その技術の成熟ぶりがこの形状と呉須のレベルからうかがえます。
内側は澄んだ白に綺麗な発色の呉須で、”柘榴”が描かれております。
画像では判りにくいですが・・・よく目を凝らすと、繊細な轆轤目がうっすらと見えます。
口縁は輪花口です。
ぐるっと一周してみましょう。
胴締めで、下部は腰捻となっており、非常に凝っている造りです。
腰捻部分は、8面に捻じられており、全ての面が異なる意匠となってます。
福寿、漁夫、宝尽し、碁打ち、花に流水、釣人、唐草、人馬
江戸期は、まだまだ杯形でのお酒の楽しみ方が主流でしたので、現代向けでもあるぐい飲み形の優品はなかなか出てきません。
高台内に2重枠、”大日本 永楽造”
保全らしい、伸び伸びした筆書きです。
形状と発色、申し分なし、です。
古染付、が桃山陶器を意識した、厚手の、轆轤形成でないものを生み出しているのに対し、祥瑞は薄手で上品な作行が特徴です。
形式化と、描き込まれた紋様、丁寧な造り・・・その祥瑞の真髄を見事なまでに写し切った保全の佳品となります。
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