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【珠光青磁 了入補茶碗 楽了入箱】 [茶道具]

なかなか、愉しめるお茶碗のご紹介です。

希少度はかなり高いです。(^-^;




村田珠光が見出し、後世へと知らしめた道具として・・・有名なものに、『珠光青磁』というものがあります。

天文11(1542)~天正(1575)年までの34年間の茶会記に、23回も登場することも知られております。


珠光から利休に渡ったものは後に戦国武将の三好実休に現在の価格で5千万円で譲られたとか。
(この茶碗は、本能寺の変で焼失したようです)

さて、珠光青磁・・・この機会に研究して楽しんでみましょう。


『珠光茶碗』といっても、数が少ないせいかよく知られていない部分が多いと思います。


珠光茶碗というのは、唐物です。

官窯にて完全なる管理の元、多大なコストをかけて還元焼成された『青磁』に対し、そこまでの温度管理をせずに(出来ず?)酸化焼成にて作られております。

それは『雑器』として生まれたものであったからと推測されております。


様々な諸説がありますが、研究が進む中で・・・最初の茶会記に登場した鎌倉時代のものは、現在知られている『珠光青磁茶碗』とは手が異なるものであったということです。

珠光茶碗に対する詳細な記述、が今でいう珠光茶碗と合致しないということです。

茶会記での登場回数の多い中、それは同じもの、同手、が複数回登場したということではなく・・・珠光茶碗に憧れ、それに類するものを求めた当時の茶人により、新たに発掘されたものが今で知られる『珠光青磁茶碗』の殆どを指すものとなります。

さらに江戸中期頃以降に、博多遺跡群で出土したシリーズが、現在知られる各地で所有・展示されている珠光青磁なのです。

福建省の同安県にて発見された窯跡で類似したものが出土したことから、現在では『同安窯系青磁』として分類されます。


同安窯系青磁(珠光青磁)は南宋時代である12世紀~13世紀に造られたもので、その中でも12世紀前半~中頃のタイプ、それ以降12世紀後半~13世紀に入るタイプがあり、後期になると文様が簡素化されている傾向にあります。


今回、ご紹介するのはその後期の窯によるもの・・・を、”使った”作品です。


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【珠光青磁 了入補茶碗 楽了入箱】


幅 16㎝ 高さ 6.4㎝ 高台径 5.2㎝ 重量330g


樂了入 箱




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了入が、3分の2ほどを補っているのです!


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反対側より



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見事なものです。


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珠光青磁(同安窯系)では、褐色のオリーブ色から枇杷色のものまで発色が様々あります。

(個人的には、保全等が写していたこの作品のような綺麗な枇杷色が好きです。)


暗めの色調ですが、澄んだ発色です。うっすらと飴色も感じさせますね。


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欠落部分を、きちんと樂焼にて形成され、文様も再現されております。



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高台側にうつりましょう。


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珠光青磁の無釉の土も特徴的です。


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反対側です。


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筋が多数見られます。

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了入の隠居印が押されております。



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了入箱です。



今回のタイプの珠光青磁(同安窯系)は、確認される全種類の珠光青磁茶碗の4割にも及ぶといわれ、一番多く目にするものといわれます。

唐物の中でもこの珠光青磁茶碗というものは、他の唐物に遅れて評価され、秀吉時代以降に人気がかなり高まったとみられます。

しかし、手に入れようにも入手する術がございません。

江戸中期になると発掘により、完品やそうでないもの、も含めて多数出土することにより、茶人の間で流通することとなります。それでもまだまだ稀少なモノです。

江戸後期になり、京焼での製作技術が高まった頃には写し物の製作が行われるようになりました。

もちろん、それぞれの陶工の名に於いて、です。



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大正12年に東京美術倶楽部で開かれた、『某伯爵家売り立て』目録に掲載されております。


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実は、根津美術館に所蔵されております3つの珠光青磁茶碗のうち、1つがこのお茶碗と同様の3分の2を了入で補ったものとなっております。

おそらく同じときに造られたものでしょう。



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「和漢この境を紛らわす」

村田珠光によるの唐物と和物との親和が大事だという教えです。これは珠光青磁の取り立ての根本にあるといわれます。

その当時は、唐物偏重であった傾向から、貴族相手ではない『侘び茶』へと移行する中、道具の取り合わせの面からも珠光が考えたものではありますが、信長の後に・・・桃山陶器等の和物が登場し人気を博したことから、高く取引された『最後の唐物』となったのです。


そして、時を経て・・・江戸時代後期にも、別の意味で和漢がひとつになった作品が生まれたのです。



⇒多数の御問い合わせ有難うございました。

ご成約済み、となりました。





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参考文献 京都府埋蔵文化材論集
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