伝加藤民吉作 尾張焼 雀香合 了々斎書付 住山江甫甲書 [新入荷]
非常に希少な作品のご紹介です。
瀬戸染付磁器の最初期のもので、享和年間に製作されました瑠璃雀香合です。
尾張印の後世の写しもの、民吉作と伝わるが実際はそうでないものが多く伝世しております。
享和年間は民吉作としては初期になりますので、この新瀬戸焼が民吉自製かどうかは今後の研究にもよりますが、尾張藩による染付磁器最初期の貴重な資料であることは間違いありません。
フォルムも型物香合での瑠璃雀よりダイナミックに、愛嬌あっぷりです。
まだまだ発展途上の時代の染付技術ですが、なかなかどうして・・・いい瑠璃釉かと思います。
造形もさることながら、サイズも大き目です。
享和年製 の染付銘になります。 1801年~1803年になります。
こちらは尾張印です。 大正期に横井米禽が民吉の写しを製作した際にはこの印も写して作られておりました。
了々斎(表千家9代 文政8年(1825)歿、51才)の箱書きです。
甲書きは住山江甫。後に表千家10代吸江斎の後見人になりました住山揚甫の養父です。
名古屋の豪商でありました、山内飽霜軒旧蔵です。
昭和10年2月に飽霜軒の所蔵品の売り立てが行われました。
作品、箱書がその時代当初に出来たままの状態で伝世しており、作品の美術的価値はもとより歴史資料的な価値の高さがうかがえます。
このような作品が一生に一度出会えるかどうか、と思いましたので是が非でもと手に入れました。
磁祖 加藤民吉
瀬戸の大松窯も窯元加藤吉左衛門の二男として生まれた加藤民吉は、「一子相伝制(長男のみに陶業を継がせる)」という釜屋仲間の取り決めのために、家業の窯業を継げずにいました。そのため、父吉左衛門とともに、名古屋の熱田において新田開発に従事していたところを、尾張藩熱田奉公津金文左衛門の目に留まり、彼の研究していた南京焼きと呼ばれる焼き物の研究を手伝う事になりました。この南京焼きこそ、いわゆる染付磁器のことだったのです。そして享和元年(1801)9月、ついに盃、小皿、箸立て、などの小品ではあるものの染付磁器の製造に成功しました。しかし素地や釉薬など、まだ問題点は多く、肥前のような磁器はやくことができませんでした。このため、享和4年(1804)民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立ちました。九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられています。やがて、丸窯や柞灰などの技法を習得した民吉は、文化4年(1807)瀬戸に戻ってきました。有田に遅れること役20年、こうして民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していきました。民吉の死後、文政9年8月、生前の業績を尊敬して、2代目民吉が、民吉の御霊を「丸窯神」と名づけて追祀している。明治になると、祭礼の執行が民吉家から神祠周辺の西谷部落に引き継がれ「窯神」といえば、磁祖民吉を祭った神社であると考えられるようになった。更に大正5年(1916)からは、今日の瀬戸の繁栄をもたらした民吉の近代窯業の先駆者とあがめ、その営業をたたえると主に、郷土の発展を祈願し、町を上げての祭礼になってきた。昭和39年には、市民の力で登り窯をかたどった社殿が再建された。境内には、磁祖の銅像、瀬戸染付け焼きの大功労者熱田奉公津金文左衛門の顕彰碑がある。
日本最古の産業スパイ?ともいえるドラマチックな民吉の物語は様々な脚色も経て・・・小説やドラマ、舞台などで数多く披露されております。
瀬戸染付磁器の最初期のもので、享和年間に製作されました瑠璃雀香合です。
尾張印の後世の写しもの、民吉作と伝わるが実際はそうでないものが多く伝世しております。
享和年間は民吉作としては初期になりますので、この新瀬戸焼が民吉自製かどうかは今後の研究にもよりますが、尾張藩による染付磁器最初期の貴重な資料であることは間違いありません。
フォルムも型物香合での瑠璃雀よりダイナミックに、愛嬌あっぷりです。
まだまだ発展途上の時代の染付技術ですが、なかなかどうして・・・いい瑠璃釉かと思います。
造形もさることながら、サイズも大き目です。
享和年製 の染付銘になります。 1801年~1803年になります。
こちらは尾張印です。 大正期に横井米禽が民吉の写しを製作した際にはこの印も写して作られておりました。
了々斎(表千家9代 文政8年(1825)歿、51才)の箱書きです。
甲書きは住山江甫。後に表千家10代吸江斎の後見人になりました住山揚甫の養父です。
名古屋の豪商でありました、山内飽霜軒旧蔵です。
昭和10年2月に飽霜軒の所蔵品の売り立てが行われました。
作品、箱書がその時代当初に出来たままの状態で伝世しており、作品の美術的価値はもとより歴史資料的な価値の高さがうかがえます。
このような作品が一生に一度出会えるかどうか、と思いましたので是が非でもと手に入れました。
磁祖 加藤民吉
瀬戸の大松窯も窯元加藤吉左衛門の二男として生まれた加藤民吉は、「一子相伝制(長男のみに陶業を継がせる)」という釜屋仲間の取り決めのために、家業の窯業を継げずにいました。そのため、父吉左衛門とともに、名古屋の熱田において新田開発に従事していたところを、尾張藩熱田奉公津金文左衛門の目に留まり、彼の研究していた南京焼きと呼ばれる焼き物の研究を手伝う事になりました。この南京焼きこそ、いわゆる染付磁器のことだったのです。そして享和元年(1801)9月、ついに盃、小皿、箸立て、などの小品ではあるものの染付磁器の製造に成功しました。しかし素地や釉薬など、まだ問題点は多く、肥前のような磁器はやくことができませんでした。このため、享和4年(1804)民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚(愛知郡菱野村出身)を頼って、一人九州へ旅立ちました。九州に着いてからは、苦労と努力を重ねたと伝えられています。やがて、丸窯や柞灰などの技法を習得した民吉は、文化4年(1807)瀬戸に戻ってきました。有田に遅れること役20年、こうして民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していきました。民吉の死後、文政9年8月、生前の業績を尊敬して、2代目民吉が、民吉の御霊を「丸窯神」と名づけて追祀している。明治になると、祭礼の執行が民吉家から神祠周辺の西谷部落に引き継がれ「窯神」といえば、磁祖民吉を祭った神社であると考えられるようになった。更に大正5年(1916)からは、今日の瀬戸の繁栄をもたらした民吉の近代窯業の先駆者とあがめ、その営業をたたえると主に、郷土の発展を祈願し、町を上げての祭礼になってきた。昭和39年には、市民の力で登り窯をかたどった社殿が再建された。境内には、磁祖の銅像、瀬戸染付け焼きの大功労者熱田奉公津金文左衛門の顕彰碑がある。
日本最古の産業スパイ?ともいえるドラマチックな民吉の物語は様々な脚色も経て・・・小説やドラマ、舞台などで数多く披露されております。
2016-11-08 14:11
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コメント(2)
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この作品とても興味ありますがおいくらくらいなのでしょうか。
by ぶん (2016-11-12 08:21)
この度はお問い合わせ有難うございます。
メールにてお返事させていただきますね。
by fujii-01 (2016-11-12 11:47)