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伝 加藤民吉 染付宝獅子絵細水指 [商品]

かなりの希少作品のご紹介です。

瀬戸の磁祖と云われる加藤民吉作品です。

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伝 加藤民吉 染付宝獅子絵細水指   江戸時代中期


加藤民吉は明和9年(1772)生、文政7年(1842)没の陶工です。


瀬戸焼の染付磁器を創成した人物として名が知られており、地元瀬戸の救世主として磁祖と呼ばれております。

瀬戸の大松窯の窯元・加藤吉左衛門の二男として生まれた加藤民吉は、「一子相伝制」という窯屋仲間の取り決めのために、家業の窯業を継げずにいました。

そのため、父・吉左衛門と共に、名古屋の熱田において新田開発に従事していた折、瀬戸焼の未来の為に”南京焼”と呼ばれる染付の研究をしていた尾張藩 熱田奉行 津金文左衛門の目に留まり、手伝うことになりました。

そして享和元年(1801)9月、ついに盃、小皿、箸立など小品ではあるものの染付磁器の製造に成功しましたが、素地や釉薬などまだ問題点は多く、当時隆盛を誇っていた肥前のような磁器は焼くことが出来ませんでした。

そこで、密命を帯び・・・享和4年(1804)民吉は、天草東向寺(曹洞宗)の天中和尚を頼って、一人九州へ潜入。

天中和尚は、高浜村という今の天草町の庄屋で高浜焼7代目の上田宣珍(うえだ・よしうず)を民吉に紹介しました。

民吉は宣珍の下で製磁技術を学びますが、門外不出の色絵の配合法までは教えてもらえず、いったん島を去りましたが、諦めずに、再び来島した民吉の熱意に動かされた宣珍は、配合処方を書いて民吉に与えたと伝わっています。

ここからは、後世の創作なども織り交ぜとなりますが・・・地元の女性を妻に娶り、信用を得たことも要因だったとか?

・・・・民吉は、文化4年(1807)瀬戸に技術を持ち帰ることに成功しました。

有田に遅れること約200年。こうして民吉の帰郷によって伝えられた肥前磁器の製造法のおかげで、瀬戸の染付磁器は急速に進歩し、発展していくこととなります。

余談ですが…後に有田に遺した妻子が瀬戸へ民吉を追ってきたが、民吉には地元に妻子が居るのを知り河に身を投げたとか…

現在80回を越える、民吉を讃える「せともの祭」では毎年雨が降るのは、その呪いのせい、とかまことしやかに伝わるそうな。(^-^;


作品に戻りましょう。

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裏側

当時の黎明期の染付が、またいい味わいを出しております。

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口はやや、ハート形に。

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蓋もおしゃれに添えられてます。

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元は花入として産まれたものでしょう。そのデザインは現代にも通じるモダンさがあります。

水指として見立てられ、大事に伝世しております。

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口径9.5~12.5cm 高20cm


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※ご成約済です。

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