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御深井焼 瀬戸釉 水指 近左真塗蓋添 [おもろいで!幕末尾張陶]

お茶碗が続きましたので、水指に参りましょう。

その前に・・・御深井焼について、少し詳しくご説明申し上げたく思います。


御深井焼(おふけやき)

徳川御三家の筆頭である、尾張徳川家の御庭焼。濫堀を禁じられ、城に秘蔵されていた祖母懐の土を使った。

初代義直が御庭焼として名古屋城御深井丸に寛永年間(1622~1644)に開窯した。

次の光友の時代は前期の最盛期で、尾張では御深井焼以外にも横須賀御殿で、江戸では戸山御殿でそれぞれ新たに御庭焼が始められた。

その後八代宗勝まで断続的に続けられたが、九代宗睦の代で緊縮財政の為一時中断。

十代斉朝の文政年間(1818~1829)頃に新製染付焼の加藤唐左衛門により再興された。

茶の湯に熱心だった十二代斉荘公時代に最盛期を迎える。

斉荘は裏千家11代玄々斎に茶事を学び、伝来の名品や贈答用の御庭焼への箱書をさせて重用した。

これは玄々斎が三河奥殿藩主松平家から裏千家へ養子入りしており、尾張藩家老の渡辺規綱は実兄であること、斉荘が藩主に就任したとき(天保10年1839)規綱の長男寧綱が家老になっている事とは無縁ではないと思われる。
 
この頃には名古屋城内では御深井焼以外に楽焼の萩山焼、その東側では東山焼が新たに始められ。江戸藩邸では戸山焼の復興と、加えて楽々園焼も始められた。

斉荘没後は、江戸藩邸のやきものは廃窯になり、御深井焼・萩山焼も断続的に焼成されるのみで、明治4年に廃窯となる。
 

前期御深井焼では藩主及び、藩の献上品・贈答品・城内調度品などが制作され、後期御深井焼 ではそれに加えて、藩主自らの手造りや家臣への下賜品が作られるようになる。
 
出仕したのは、前期は瀬戸の御窯屋三人衆である加藤唐三郎・仁兵衛・太兵衛家と御焼物師 加藤新右衛門・三右衛門家で、義直が美濃より招聘し瀬戸の再建の為に擁護した家である。
後期御深井焼ではこれらの加藤家と新たに新製染付焼の加藤唐左衛門・川本半介らが参加し、尾張藩士で陶芸を得意とした平澤九朗や正木惣三郎、加藤春岱なども加わった。


先日よりご紹介を続けておりますのは、後期御深井焼の中でも最盛期の作品です。

それでは、水指のご紹介です。

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口径11.5㎝ 胴径13.5㎝ 高さ16.8㎝


見事な水指です。

瀬戸釉の発色もよく、この色合いと手慣れた感じは・・九朗の関与を感じさせます。

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土も良い物を使っており、印付きも抜群です。

”賞賜”印も併印され、尾張徳川家十二代斉荘公が家臣に賜る為の作品で製作されたものの中でもかなりの上手にあたります。


塗蓋が伝世しておりませんでしたので、この度・・・コストをかけて六代川端近左さんに特注いたしました。




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