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【黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼】 [尾張陶磁器]

赤津焼とは瀬戸焼の中でも赤津地区で焼かれる伝統的な釉薬を使った陶器の事です。


徳川幕府が開き、江戸時代には名古屋城を中心とした尾張徳川藩が出来ました。

この尾張藩への陶器の供給源や御用窯などを目的として、徳川幕府により美濃から陶工が呼び戻され瀬

戸村、赤津村、下品野村に窯を開きます。この後、赤津焼は尾張藩の御用窯と高級茶器から日常品までを作っていくことになります。

瀬戸黒、黄瀬戸など・・・桃山陶器の有名どころの名前に瀬戸と入っているのも、元は瀬戸が中心であった為にそこで作られていたと考えられていたのです。

しかし、粗製乱造を防ぎ、それぞれの家業を守るため、藩の命により・・・瀬戸では、一家の長男、ただ一人しか陶家をもつことが許されず、それが故に広がりもなく閉塞していくことになります。

その中、新たに”本業”と別に”新製”瀬戸が生まれるのは江戸も後期、それも磁器製造によって新たな時代を迎えることになるのですが、それはまた別の話としまして・・・



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黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼

幅  11㎝

高さ 7.8㎝

時代 幕末~明治期


大きさ、がお茶碗として優等生な黒織部はなかなかありません。

このお茶碗は、赤津陶工の製作による特徴を備え、土も釉も良い作品です。


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見込み。

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高台径 5.3㎝


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反対側は、七宝文が描かれております。


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伝世の箱には、祖母懐茶碗、となっておりますが、普通に春岱~春仙辺りの作の赤津焼でしょう。

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高台脇、のおそらく印のあたりが削られております。

、ので、作者は特定出来ませんが、お茶碗としてはいたって良いモノでしたので、扱うことにいたしました。


瀬戸、といえば・・・このような話があります。

陶(トウ・すえ)と言う字は中国では窯の事を指します。

瀬戸は「すえ(陶)のところ(所)」が「すえと」になり「せと」に繋がったといわれております。


瀬戸の赤津焼も、今では多数の窯が稼働しておりますが、幕末から明治への変革期には大変な状況にあったようです。

藩の御用であったため、藩が無くなってしまうという事態にはどうしていけばよいのか?

その頃に完成していた『新製瀬戸焼』である『染付磁器』は、いち早く・・・輸出用として、また国内向けの西洋風磁器作品へと変革と海外への万博などに打って出て成功を収めるのですが、このような伝統的な日本の茶陶の作品は、日が差すことのない時代を耐え忍びつつ・・・伝統の技法を守り抜くのに力を注いでいたのでしょう。

そういう、時代背景の中の、作品なのです。




BASE215 10月の特集  ~ちょっと、お茶碗展~


⑤【黒織部 茶碗  瀬戸赤津焼】


※ご成約済み

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