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【森香州 虫明焼釣瓶形 水指】 惺斎 箱 [茶道具]

『虫明焼』というのは不思議なやきものです。

華やかでもなく、かといって地味でもなく・・・そして、茶人様方では”好きじゃない”という人があまり居ないという。。。

数年前に、岡山の県博と京都の茶道資料館で開催された、展観にて茶陶としての古い虫明焼については、江戸後期~明治期にかけて、ほぼほぼ研究が完成形に近い形でまとまっております。

幕末期、岡山藩の筆頭家老であった伊木三猿斎が大茶人であり、藩窯であった虫明焼と三猿斎の庭窯的に数奇者茶道具の生産へとシフトしたことが、実質的な虫明焼のスタートとなります。


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初代清風与平を招聘したり、他地方から陶工を呼んで、自身の集めていた京焼の楽や長造の眞葛焼を元にした作品を作らせておりました。

しかし、やはり虫明焼の一大ブレイクポイントとといえば当時京都に滞在しておりました、初代 眞葛香山を明治元年に招聘したことでしょう。


香山の手により、京焼の伝統の雅味と、虫明焼の融合で後に伝説となる”月に雁水指”等の作品が生まれたのです。

先述の展観での、テーマであったのは京焼からの虫明焼への繋がり、です。

香山についての、あれやこれや・・・は当ブログで、しょっちゅう出てきてますので(笑)、略させて頂きますが・・・

香山が、生涯弟子というだけでなく人として面倒を見てかわいがった陶工が居ます。

それが、『森 香州』です。

香山の”香”の字を頂いております。

大変、苦難な人生を送られたようですが・・・技術のセンスのすばらしさは群を抜いております。

幕末期や明治1~3年の香山作品は、99%贋作が多く数も少ない為・・・

手に入りにくく、実質的に手に入れることが出来る、一番古くて良い虫明焼というのは、”香州”の作品になるのですが、これまた・・・やはり贋作問題に悩まされるほど、困った流通作品が多いのです。(^-^;

今回は、久々にスカッとした香州作品が手に入りました☆


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【森香州 虫明焼釣瓶形 水指】 惺斎 箱


幅 18.5㎝×20.4㎝ 高さ21.5㎝


明治末期~大正時代


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割蓋、の釣瓶形です。

この形状は、六代あたりの浄益による銅作品でも見られるものです。


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内側です。

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塗蓋には惺斎の割り書があります。


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書付箱です。通称、自動車判と云われるものです。


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良い土で、丁寧に仕上げられております。


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”むしあけ”印と、”香洲”印です。

むしあけ(本当はむしあげ、ですが・・・)印は外巻き形と呼ばれるものです。


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香州の特徴として、鉄釉の発色と絵付けの良さ、が挙げられております。

確かに、現代迄の全ての虫明焼の鉄釉絵付けの中でも、この作品はトップレベルといっても過言ではありません。


香州と香山との邂逅、そして自身の苦難の歴史を年表を基に辿ってみましょう。



1880(明治13)年の3月、 虫明焼・森角太郎窯(香洲の父)が倒産し、一家の責任を一身に背負った香洲が12月1日 、横浜の眞葛窯へ赴く。

香山が虫明に滞在していた際に、父子で師事した縁からです。



明治15年4月、 虫明へ帰り再興を計るが、明治19年春には再び経営難に陥り、経営を譲り渡し、自身は職長として従事。秋までに数度窯に火を入れるも好転せず、全てを手放して秋に父・弟・妻子を伴って再び横浜の眞葛窯へ行くことになりました。

この明治19年3月、伊木三猿斎が亡くなったことも要因であったのでしょう。

ここまでを、『第1次香洲窯』といいます。

それから8年間、横浜で香山の眞葛窯に従事します。

明治26年、岡山の酒津に於いて、渡辺祐吉氏が輸出用の作品を製作する窯を興すにあたって、香洲を呼び寄せ1年ほど手伝いますが、この窯も2,3年のものでありました。

明治28年、土地有力者の援助で、虫明焼再興の機運が高まり、合資会社を設立して『第2次香洲窯』がスタートします。

この時期は、同志もバックアップの有力者たちも趣味人であった為、環境にも恵まれ・・香洲自身も眞葛香山の元でかなりの技と感性などを身に着けた直後でもあったので、香洲作品の一番円熟期といえます。

優品のほとんどがこの時期です。

しかし、経営的な採算は決して良くなく・・・・明治32年には廃窯となります。


その後、香洲は漁業組合の理事や、村の名誉職をしながら農作業などもするといった自適生活を送ります。

ところが、またしても・・明治38年、地元有志による出資で窯を築くことになります。

虫明焼の奥義を会得している現存最高の陶工である香州をほっておかなかったのでしょう。

香州もまた、地元で名を高めた『虫明焼』が廃れることに耐えられなかったのです。

しかし、経営が道楽的で一向に企業としての体が整わなかったため、香洲は出資者と仲違いし、7年ほどした大正元年頃に一時廃窯となります。

ここまでが、『第3次香洲窯』です。


翌、大正2年4月22日、再び香山を頼って・・・横浜へ赴きます。

借金にも追われ・・家族にも無断での逃避行でもあったといいます。

丁度、香山が軽井沢にて『三笠焼』の復興と運営を頼まれた時期であり、6月に香洲も同行しその事業を手伝うことになります。

香山は最初だけで、軌道に乗った後は香洲に任せました。

11月の冬に一度横浜へ戻り、翌大正3年5月に再度、三笠焼を焼成。

そして大正3年の秋には虫明の地へと戻りました。


しかし、ここで終わりではありません。


高名な初代清風与平や、世界に名だたる香山が関係した、伊木三猿斎の庭窯で地元唯一のやきものの火を消してはならない、という備前の窯元を中心とし、虫明の地である邑久郡のひとたちを巻き込んで再び復活の狼煙を上げることになるのです。・・・『第4次香洲窯 会社窯』

大正7年から、一陶工として製作に励んでいた香洲ですが、大正10年12月13日・・・67歳でこの世を去ることになります。

常に戦い続けた人生でありましたが、その根底には自身の陶工としての”技”と”業”のせめぎあいがあったように思えます。

そして、生涯変わらなかったのは父からの想いと、虫明の地で初めて香山に師事したときからの虫明焼への愛であったのでしょう。

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虫明の地より、夕陽を臨んで。


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