【三代井上良斎 曙釉瑞鳥 水指】 即中斎 箱 [茶道具]
初代眞葛香山の高浮彫りは、有名ですが・・・
同じ明治時代に、高浮き彫りを製作し輸出していた陶工のひとりに『初代 井上良斎』という人がいます。
関東の田邊コレクションにも数多く所蔵されており、巡回展などで香山と共に展観されたりもしていますのでご覧になられた方も多いことでしょう。
元は、尾張藩の瀬戸の陶工でした。犬山の川本治兵衛の窯を経て・・・江戸へ移り、四谷,下谷で製陶。
さらに、慶応2年には島田惣兵衛と共に,浅草橋場町に開窯。輸出陶器などを製作します。
当時、興隆を誇った墨田川焼のひとつです。
ちょっと、当時の海外向けのゴテっとした意匠が中心です。
没年が不明なのですが、後継ぎとなる子になかなか恵まれなかった(もしくは育たなかった)ようで・・
尾張藩の御用窯であった川本治兵衛の2代目の子を養子として迎え、2代目井上良斎を継承させました。
2代目も輸出陶器ならびに国内向けへの転換期に活躍し、明治10年第1回内国勧業博への出品作が受賞します。
しかし、横浜へ移った明治38年に61歳で早世してしまいます。
このとき、初代良斎が60歳の時に生まれていた子が17歳で家業を継承することになるのです。
しかし、まだまだ若年でありましたので、眞葛香山と板谷波山に師事し研鑽を重ねました。
時代は釉下彩をはじめとする・・・新時代の釉薬発色。
良斎は父(初代)や義兄(2代)とは異なる新しい『神奈川焼』を模索し・・・青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を完成させました。
その、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれ、表千家の即中斎との親交にの元・・モダンな茶陶の書付物を多数遺すことになるのです。
【三代井上良斎 曙釉瑞鳥 水指】 即中斎 箱
幅 16.3㎝ 高さ 12.5㎝ (塗蓋摘みまで13.8㎝)
曙釉、という良斎独自のほんわりした色合いです。
小ぶりなやさしい丸みがかった造形と併せてなんともいえない雰囲気に仕上がっております。
内側は白っぽい上がりになってます。
このことからも、外の発色はおそらく・・窯変をコントロールすることでの発色なのでしょう。
師事しました二代香山は、窯変というのはたまたま窯の変化で起きたモノを窯変と呼ぶ輩が多いと嘆いておりました。
狙い通りの発色の窯変の技法確立について、香山や波山から指導を受けたのでしょう。
この端正な形状形成も、技術力を感じさせます。
塗蓋は即中斎の割り書があります。
書付です。
共箱です。
意匠として、『瑞鳥』が表面に一匹
裏面に2匹、箆削りにて描かれております。
『瑞鳥』はめでたいことが起こる前兆の鳥といわれます。
白鳩、もしくは白雀をイメージして描かれたのかと思います。
書付をされた、即中斎は太平洋戦争直前に襲名し、戦中戦後と茶道を守るのに大変苦労された家元です。平和への想いも強かったことでしょう。
また、横浜の地も大変な戦災でした。
良斎と即中斎の互いの想いが込められたこの水指は、ほんのりした曙釉が日の出を表し、そこへめでたい事を知らせる瑞鳥があることで・・・お使いになるお席の客人への心配りとなることでしょう。
お値頃・・・作品です。
三代目井上 良斎(1888年9月4日~ 1971年2月6日)
明治初年、東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より17歳で家業の陶磁器製造所を継ぎ作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。
大正3年横浜高島町に移窯。
昭和3年帝展初入選。
翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。
昭和18年文展無鑑査。
戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、1953年第1回横浜文化賞
同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。
同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。
同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。
同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年9月4日 - 1971年2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上良太郎。
明治初年東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より17歳で家業の陶磁器製造所を継ぎ作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を示し、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれた。大正3年横浜高島町に移窯。昭和3年帝展初入選。翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。昭和18年文展無鑑査。戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、1953年第1回横浜文化賞
同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。
同じ明治時代に、高浮き彫りを製作し輸出していた陶工のひとりに『初代 井上良斎』という人がいます。
関東の田邊コレクションにも数多く所蔵されており、巡回展などで香山と共に展観されたりもしていますのでご覧になられた方も多いことでしょう。
元は、尾張藩の瀬戸の陶工でした。犬山の川本治兵衛の窯を経て・・・江戸へ移り、四谷,下谷で製陶。
さらに、慶応2年には島田惣兵衛と共に,浅草橋場町に開窯。輸出陶器などを製作します。
当時、興隆を誇った墨田川焼のひとつです。
ちょっと、当時の海外向けのゴテっとした意匠が中心です。
没年が不明なのですが、後継ぎとなる子になかなか恵まれなかった(もしくは育たなかった)ようで・・
尾張藩の御用窯であった川本治兵衛の2代目の子を養子として迎え、2代目井上良斎を継承させました。
2代目も輸出陶器ならびに国内向けへの転換期に活躍し、明治10年第1回内国勧業博への出品作が受賞します。
しかし、横浜へ移った明治38年に61歳で早世してしまいます。
このとき、初代良斎が60歳の時に生まれていた子が17歳で家業を継承することになるのです。
しかし、まだまだ若年でありましたので、眞葛香山と板谷波山に師事し研鑽を重ねました。
時代は釉下彩をはじめとする・・・新時代の釉薬発色。
良斎は父(初代)や義兄(2代)とは異なる新しい『神奈川焼』を模索し・・・青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を完成させました。
その、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれ、表千家の即中斎との親交にの元・・モダンな茶陶の書付物を多数遺すことになるのです。
【三代井上良斎 曙釉瑞鳥 水指】 即中斎 箱
幅 16.3㎝ 高さ 12.5㎝ (塗蓋摘みまで13.8㎝)
曙釉、という良斎独自のほんわりした色合いです。
小ぶりなやさしい丸みがかった造形と併せてなんともいえない雰囲気に仕上がっております。
内側は白っぽい上がりになってます。
このことからも、外の発色はおそらく・・窯変をコントロールすることでの発色なのでしょう。
師事しました二代香山は、窯変というのはたまたま窯の変化で起きたモノを窯変と呼ぶ輩が多いと嘆いておりました。
狙い通りの発色の窯変の技法確立について、香山や波山から指導を受けたのでしょう。
この端正な形状形成も、技術力を感じさせます。
塗蓋は即中斎の割り書があります。
書付です。
共箱です。
意匠として、『瑞鳥』が表面に一匹
裏面に2匹、箆削りにて描かれております。
『瑞鳥』はめでたいことが起こる前兆の鳥といわれます。
白鳩、もしくは白雀をイメージして描かれたのかと思います。
書付をされた、即中斎は太平洋戦争直前に襲名し、戦中戦後と茶道を守るのに大変苦労された家元です。平和への想いも強かったことでしょう。
また、横浜の地も大変な戦災でした。
良斎と即中斎の互いの想いが込められたこの水指は、ほんのりした曙釉が日の出を表し、そこへめでたい事を知らせる瑞鳥があることで・・・お使いになるお席の客人への心配りとなることでしょう。
お値頃・・・作品です。
三代目井上 良斎(1888年9月4日~ 1971年2月6日)
明治初年、東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より17歳で家業の陶磁器製造所を継ぎ作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。
大正3年横浜高島町に移窯。
昭和3年帝展初入選。
翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。
昭和18年文展無鑑査。
戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、1953年第1回横浜文化賞
同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。
同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。
同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。
同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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代目井上 良斎(いのうえ りょうさい、1888年9月4日 - 1971年2月6日)は、日本の陶工、日本芸術院会員。本名は井上良太郎。
明治初年東京隅田川べりに窯を築いた陶工良斎の業を嗣いで、錦城中学校卒業の頃、明治38年より17歳で家業の陶磁器製造所を継ぎ作陶に従事、その三代目となる。板谷波山に師事して研鑽多年。青・白磁・緑釉の壺、皿など独自の発色を示し、温厚な人柄そのままに気品の高い風格ある作調で愛好家に親しまれた。大正3年横浜高島町に移窯。昭和3年帝展初入選。翌4年三越本店にて個人展開催、以来約20回を数える。昭和18年文展無鑑査。戦後は日展に所属して同26年には日展依嘱、1953年第1回横浜文化賞
同28年から審査員を5回歴任、同33年評議員となる。同34年出品の「丸紋平皿」で芸術院賞を受賞。同41年日展理事、同年日本芸術院会員となる。同42年春勲三等瑞宝章を授与される。同年より社団法人現代工芸美術協会の副会長をつとめた。
2021-02-02 11:01
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