【溜塗老松茶器 西濱御殿之松を以て 吸江斎好み 五つの内】 [茶道具]
当店では大変珍しい、バリバリ(死語)の千家道具です。(^^;
今回は、紀州徳川家にも深いもので・・・私事ですが、母方の里が和歌山で、祖父が和歌山城の向かいにて、永年美術商を営んでおりました。
そんなことで、紀州に関するものであり、表千家ものであり、幕末期という組み合わせは親近感のあるものなので、稀に取り扱いたくなるのです。
それでは、ご紹介致します。
【溜塗老松茶器 西濱御殿之松を以て 吸江斎好み 五つの内】
天保13(1842)年
幅9.1cm 高さ5.8cm
表千家四代の『江岑』は、大徳寺の沢庵和尚、玉舟和尚の尽力により、紀州徳川家に出仕することになりました。それは初代藩主頼宜の頃のことです。
出仕の際、大脇差建水を献上されたそうです。
その後、二百十年余もの長きにわたり、表千家と紀州徳川家の関係が続いていくのです。
そして、ときは江戸時代後期に移ります。
表千家十代目である『吸江斎』は、文政元年(1818)に生まれました。
9代の了々斎の嫡男が、文政6年に早世し、さらに了々斎もその2年後の文政8年に病死してしまい、表千家は後継問題に直面します。
そこで、了々斎の弟の子を千家に迎えることとなりました。そして、翌年文政9年・・・大徳寺宙宝和尚より斎号を受け、なんと9歳で家元を継承することとなるのです。
紀州徳川家10代の治宝公(一位様)は、了々斎から皆伝を受けており、自身でこれを預かり、吸江斎の成長を待ってそれを譲ろうと考え、後見として住山揚甫を任じます。
吸江斎は10歳で保全・旦入と共に紀州に出仕しました。その後、研鑽を積み続け・・・
天保7年、吸江斎19歳のとき、結婚と、皆伝を一位様から授かります。
紀州徳川家との深いつながりの中生まれたのが、この作品なのです。
同時代の、尾張徳川家の御深井焼と併せてみました。
老松茶器、というものの本歌は『原叟好み』で、妙喜庵の松を以て数多く造られたことで有名です。
それに因んで、紀州徳川家の十代目『治宝(はるとみ)』公の隠居の場である『西濱御殿』の松を以て造られました。
治宝公は、文政6(1823)年の百姓一揆の責任を取って代を斉順(なりゆき)へ譲り隠居したのです。
和歌山城の南西に、お庭焼きで有名な『偕楽園』の側に位置します。
溜塗の中から・・・綺麗な松の木の目が美しく光ります。
古材とはいうもののの、厳選された木材にて『五つ』のみが製作されました。
仕覆は、後世のもので『石畳緞子』の長緒となっております。
覚々斎の本歌に倣っており、紫の紐です。
もちろん、同じく・・・薄茶にも濃茶にもお使い頂けるお道具です。
外箱は、いわゆる『紀州箱』と呼ばれるもので、紀州道具に添えられる当時からのものです。
『溜塗 老松 御茶器』
『五ツ之内』
『西濱御殿御庭 三秀之松ヲ以て 好之』
『宗左』
『壬寅』
壬寅は、天保13(1842)年のことで、吸江斎25歳であります。
先述の通り、吸江斎は若くして家元を継承しており、19歳の時には『皆伝』を受けております。
年齢こそまだ若いですがこの時には既に、家元としての円熟期に入っております。
激動の時代であり、若年からの苦労もあったのでしょう、42歳にして早世してしまうことになります。
それは、ほぼ江戸時代の終焉と同時期であり、千家の歴史がスタートした江戸時代から新しい時代へと向かう最後のバトンを見事に繋いだのです。
余談ですが・・・・
この作品は、平成24年6月号の『同門』(表千家 会報)の特集連載記事、『千家と紀州』にて掲載紹介された作品、『そのもの』になります。
※ご成約済みです。多数のお引き合い有難うございました!
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
※当ブログはPC用サイトでの閲覧を推奨しております。
スマートフォンでご覧頂く場合もPC用表示をご選択下さい。
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今回は、紀州徳川家にも深いもので・・・私事ですが、母方の里が和歌山で、祖父が和歌山城の向かいにて、永年美術商を営んでおりました。
そんなことで、紀州に関するものであり、表千家ものであり、幕末期という組み合わせは親近感のあるものなので、稀に取り扱いたくなるのです。
それでは、ご紹介致します。
【溜塗老松茶器 西濱御殿之松を以て 吸江斎好み 五つの内】
天保13(1842)年
幅9.1cm 高さ5.8cm
表千家四代の『江岑』は、大徳寺の沢庵和尚、玉舟和尚の尽力により、紀州徳川家に出仕することになりました。それは初代藩主頼宜の頃のことです。
出仕の際、大脇差建水を献上されたそうです。
その後、二百十年余もの長きにわたり、表千家と紀州徳川家の関係が続いていくのです。
そして、ときは江戸時代後期に移ります。
表千家十代目である『吸江斎』は、文政元年(1818)に生まれました。
9代の了々斎の嫡男が、文政6年に早世し、さらに了々斎もその2年後の文政8年に病死してしまい、表千家は後継問題に直面します。
そこで、了々斎の弟の子を千家に迎えることとなりました。そして、翌年文政9年・・・大徳寺宙宝和尚より斎号を受け、なんと9歳で家元を継承することとなるのです。
紀州徳川家10代の治宝公(一位様)は、了々斎から皆伝を受けており、自身でこれを預かり、吸江斎の成長を待ってそれを譲ろうと考え、後見として住山揚甫を任じます。
吸江斎は10歳で保全・旦入と共に紀州に出仕しました。その後、研鑽を積み続け・・・
天保7年、吸江斎19歳のとき、結婚と、皆伝を一位様から授かります。
紀州徳川家との深いつながりの中生まれたのが、この作品なのです。
同時代の、尾張徳川家の御深井焼と併せてみました。
老松茶器、というものの本歌は『原叟好み』で、妙喜庵の松を以て数多く造られたことで有名です。
それに因んで、紀州徳川家の十代目『治宝(はるとみ)』公の隠居の場である『西濱御殿』の松を以て造られました。
治宝公は、文政6(1823)年の百姓一揆の責任を取って代を斉順(なりゆき)へ譲り隠居したのです。
和歌山城の南西に、お庭焼きで有名な『偕楽園』の側に位置します。
溜塗の中から・・・綺麗な松の木の目が美しく光ります。
古材とはいうもののの、厳選された木材にて『五つ』のみが製作されました。
仕覆は、後世のもので『石畳緞子』の長緒となっております。
覚々斎の本歌に倣っており、紫の紐です。
もちろん、同じく・・・薄茶にも濃茶にもお使い頂けるお道具です。
外箱は、いわゆる『紀州箱』と呼ばれるもので、紀州道具に添えられる当時からのものです。
『溜塗 老松 御茶器』
『五ツ之内』
『西濱御殿御庭 三秀之松ヲ以て 好之』
『宗左』
『壬寅』
壬寅は、天保13(1842)年のことで、吸江斎25歳であります。
先述の通り、吸江斎は若くして家元を継承しており、19歳の時には『皆伝』を受けております。
年齢こそまだ若いですがこの時には既に、家元としての円熟期に入っております。
激動の時代であり、若年からの苦労もあったのでしょう、42歳にして早世してしまうことになります。
それは、ほぼ江戸時代の終焉と同時期であり、千家の歴史がスタートした江戸時代から新しい時代へと向かう最後のバトンを見事に繋いだのです。
余談ですが・・・・
この作品は、平成24年6月号の『同門』(表千家 会報)の特集連載記事、『千家と紀州』にて掲載紹介された作品、『そのもの』になります。
※ご成約済みです。多数のお引き合い有難うございました!
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2021-12-15 14:47
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