【奥田木白 珠光青磁写 茶碗(鉢)】 [国焼茶陶【江戸後期】]
さて・・・7月の特別ご紹介『平茶碗 3碗』のラストです。
こちらもまた、希少な作品なのです!
【奥田木白 珠光青磁写 茶碗(鉢)】
幅 15.7cm
高さ 6cm
高台径 5.3cm
製作年代 幕末期
様々な時代と幅広い陣容を構える・・・京焼に比して、大阪や奈良は意外と江戸期のやきものは目立つところが無いのが事実です。
そんな中、奈良の地に於いてスターダムにのし上がった名工といえば、この人につきると思います。
『奥田木白』 寛政11(1799)~明治4(1871)年
元は、質商・荒物屋を営みつつ・・茶道や俳諧を嗜む風流人であったようです。
天保6(1835)年より郡山藩の藩医であった『青木木兎』の指導を受けて『樂焼』を始めたのが最初ので、その頃の名は『冠山』でした。
その後、天保10(1839)年に大和群郡山の瓦窯にて作陶を本格的に製作開始。
翌年の天保11(1840)年より、赤膚焼(中ノ窯)『伊之助』に焼成を、轆轤師として『山口縫造』を招き、自身は形成と絵付けデザインに大いに注力し、一気に人気を博したのです。
なんといっても・・・掲げられていた木白の看板が、その神髄を語っております。
『諸国国焼写し処』
『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并(並びに楽焼類)』
そうなのです、様々な写しを得意としていたのです。
その需要が日本各地より寄せられ、様々な要望に応えていたのですが、ここにはやはり・・京焼もそうですが、その時代背景というものが存在すると思います。
高麗や唐物などは入手困難ですし、和物ですら江戸初期~中期のもの古いものはもちろん、今焼きとしてのものなどですら、今のような流通経路や紹介方法が無いもので、入手することが叶わないということです。
町衆に迄広まった『茶の湯』ですが、指標とされていた先人たちの古の『茶会記』を見て、取り合わせや道具の存在を知り、憧れ・所望するとなったときに、必要となるのが『うつしもの』ということです。
では、まずは作品のご紹介を。
このフォルム、口造りには木白ならではの特徴が見られます。
『珠光青磁』の特徴である紋様がきちんと。
このへらでの流れる紋様、刻み、なんとなく木白の人間性、というものが現れ居る様です。
木白、作品にはどこか『やさしさ』を感じるフォルムや特徴、が内包されている気がするのです。
土質も大変良いもので、焼き上がりもしっかりした感じです。
印付もよく、『赤膚山 ◎印 木白』
余談ですが、『木白』の号は元々、商いをしていたときの屋号が『柏屋』であったことから、『柏』を分解して付けた名前であったとか。
『珠光青磁』というものについて、過去のJFKでもご紹介しました内容を引用してご紹介致します。
村田珠光が見出し、後世へと知らしめた道具として・・・有名なものに、『珠光青磁』というものがあります。
天文11(1542)~天正(1575)年までの34年間の茶会記に、23回も登場することも知られております。
珠光から利休に渡ったものは後に戦国武将の三好実休に現在の価格で5千万円で譲られたとか。
(この茶碗は、本能寺の変で焼失したようです)
さて、珠光青磁・・・この機会に研究して楽しんでみましょう。
『珠光茶碗』といっても、数が少ないせいかよく知られていない部分が多いと思います。
珠光茶碗というのは、唐物です。
官窯にて完全なる管理の元、多大なコストをかけて還元焼成された『青磁』に対し、そこまでの温度管理をせずに(出来ず?)酸化焼成にて作られております。
それは『雑器』として生まれたものであったからと推測されております。
様々な諸説がありますが、研究が進む中で・・・最初の茶会記に登場した鎌倉時代のものは、現在知られている『珠光青磁茶碗』とは手が異なるものであったということです。
珠光茶碗に対する詳細な記述、が今でいう珠光茶碗と合致しないということです。
茶会記での登場回数の多い中、それは同じもの、同手、が複数回登場したということではなく・・・珠光茶碗に憧れ、それに類するものを求めた当時の茶人により、新たに発掘されたものが今で知られる『珠光青磁茶碗』の殆どを指すものとなります。
さらに江戸中期頃以降に、博多遺跡群で出土したシリーズが、現在知られる各地で所有・展示されている珠光青磁なのです。
福建省の同安県にて発見された窯跡で類似したものが出土したことから、現在では『同安窯系青磁』として分類されます。
同安窯系青磁(珠光青磁)は南宋時代である12世紀~13世紀に造られたもので、その中でも12世紀前半~中頃のタイプ、それ以降12世紀後半~13世紀に入るタイプがあり、後期になると文様が簡素化されている傾向にあります。
やや緑色が強いものや、このように黄色みがかったもの、等があるようです。
京焼などでも写されている『珠光青磁』が、この黄色味のあるものばかりということから・・・おそらく関西圏内で見ることが出来た『同安窯系青磁』(珠光青磁)がこのタイプが多かった、もしくは個体としては同じもの、であったのかもしれません。
奈良のコレクターの元で長年所蔵されていた作品です。
共箱もきちんと。
作品名に、『鉢』となっておりますが後年複数伝世した際の覆い紙には『茶碗』として愛用されてきた歴史が刻まれております。
全く、お茶碗として問題なくお使い頂けます!
『うつしもの』・・・それは『コピー』でも、ましてや『美術品』でもありません。
当時の『用に迫られ』生まれた、まさしく『お道具』として各地で生まれしものです。
今のような美術館や資料が無い中、また製法のレシピも学校も無く・・・様々な陶工が、熱意と創意工夫で生み出したもので、『写し』の過程に於いて自身の『美意識』『解釈』が混入し、そこに『独自の技』が合わさることで、他には無い独自の作品に仕上がります。
そこに、江戸時代の『うつしもの』の面白さ、があるのです!
※御成約済みです。
平茶碗、のご紹介は以上となりますが、木白につきましては ⇒ つづきます。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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こちらもまた、希少な作品なのです!
【奥田木白 珠光青磁写 茶碗(鉢)】
幅 15.7cm
高さ 6cm
高台径 5.3cm
製作年代 幕末期
様々な時代と幅広い陣容を構える・・・京焼に比して、大阪や奈良は意外と江戸期のやきものは目立つところが無いのが事実です。
そんな中、奈良の地に於いてスターダムにのし上がった名工といえば、この人につきると思います。
『奥田木白』 寛政11(1799)~明治4(1871)年
元は、質商・荒物屋を営みつつ・・茶道や俳諧を嗜む風流人であったようです。
天保6(1835)年より郡山藩の藩医であった『青木木兎』の指導を受けて『樂焼』を始めたのが最初ので、その頃の名は『冠山』でした。
その後、天保10(1839)年に大和群郡山の瓦窯にて作陶を本格的に製作開始。
翌年の天保11(1840)年より、赤膚焼(中ノ窯)『伊之助』に焼成を、轆轤師として『山口縫造』を招き、自身は形成と絵付けデザインに大いに注力し、一気に人気を博したのです。
なんといっても・・・掲げられていた木白の看板が、その神髄を語っております。
『諸国国焼写し処』
『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并(並びに楽焼類)』
そうなのです、様々な写しを得意としていたのです。
その需要が日本各地より寄せられ、様々な要望に応えていたのですが、ここにはやはり・・京焼もそうですが、その時代背景というものが存在すると思います。
高麗や唐物などは入手困難ですし、和物ですら江戸初期~中期のもの古いものはもちろん、今焼きとしてのものなどですら、今のような流通経路や紹介方法が無いもので、入手することが叶わないということです。
町衆に迄広まった『茶の湯』ですが、指標とされていた先人たちの古の『茶会記』を見て、取り合わせや道具の存在を知り、憧れ・所望するとなったときに、必要となるのが『うつしもの』ということです。
では、まずは作品のご紹介を。
このフォルム、口造りには木白ならではの特徴が見られます。
『珠光青磁』の特徴である紋様がきちんと。
このへらでの流れる紋様、刻み、なんとなく木白の人間性、というものが現れ居る様です。
木白、作品にはどこか『やさしさ』を感じるフォルムや特徴、が内包されている気がするのです。
土質も大変良いもので、焼き上がりもしっかりした感じです。
印付もよく、『赤膚山 ◎印 木白』
余談ですが、『木白』の号は元々、商いをしていたときの屋号が『柏屋』であったことから、『柏』を分解して付けた名前であったとか。
『珠光青磁』というものについて、過去のJFKでもご紹介しました内容を引用してご紹介致します。
村田珠光が見出し、後世へと知らしめた道具として・・・有名なものに、『珠光青磁』というものがあります。
天文11(1542)~天正(1575)年までの34年間の茶会記に、23回も登場することも知られております。
珠光から利休に渡ったものは後に戦国武将の三好実休に現在の価格で5千万円で譲られたとか。
(この茶碗は、本能寺の変で焼失したようです)
さて、珠光青磁・・・この機会に研究して楽しんでみましょう。
『珠光茶碗』といっても、数が少ないせいかよく知られていない部分が多いと思います。
珠光茶碗というのは、唐物です。
官窯にて完全なる管理の元、多大なコストをかけて還元焼成された『青磁』に対し、そこまでの温度管理をせずに(出来ず?)酸化焼成にて作られております。
それは『雑器』として生まれたものであったからと推測されております。
様々な諸説がありますが、研究が進む中で・・・最初の茶会記に登場した鎌倉時代のものは、現在知られている『珠光青磁茶碗』とは手が異なるものであったということです。
珠光茶碗に対する詳細な記述、が今でいう珠光茶碗と合致しないということです。
茶会記での登場回数の多い中、それは同じもの、同手、が複数回登場したということではなく・・・珠光茶碗に憧れ、それに類するものを求めた当時の茶人により、新たに発掘されたものが今で知られる『珠光青磁茶碗』の殆どを指すものとなります。
さらに江戸中期頃以降に、博多遺跡群で出土したシリーズが、現在知られる各地で所有・展示されている珠光青磁なのです。
福建省の同安県にて発見された窯跡で類似したものが出土したことから、現在では『同安窯系青磁』として分類されます。
同安窯系青磁(珠光青磁)は南宋時代である12世紀~13世紀に造られたもので、その中でも12世紀前半~中頃のタイプ、それ以降12世紀後半~13世紀に入るタイプがあり、後期になると文様が簡素化されている傾向にあります。
やや緑色が強いものや、このように黄色みがかったもの、等があるようです。
京焼などでも写されている『珠光青磁』が、この黄色味のあるものばかりということから・・・おそらく関西圏内で見ることが出来た『同安窯系青磁』(珠光青磁)がこのタイプが多かった、もしくは個体としては同じもの、であったのかもしれません。
奈良のコレクターの元で長年所蔵されていた作品です。
共箱もきちんと。
作品名に、『鉢』となっておりますが後年複数伝世した際の覆い紙には『茶碗』として愛用されてきた歴史が刻まれております。
全く、お茶碗として問題なくお使い頂けます!
『うつしもの』・・・それは『コピー』でも、ましてや『美術品』でもありません。
当時の『用に迫られ』生まれた、まさしく『お道具』として各地で生まれしものです。
今のような美術館や資料が無い中、また製法のレシピも学校も無く・・・様々な陶工が、熱意と創意工夫で生み出したもので、『写し』の過程に於いて自身の『美意識』『解釈』が混入し、そこに『独自の技』が合わさることで、他には無い独自の作品に仕上がります。
そこに、江戸時代の『うつしもの』の面白さ、があるのです!
※御成約済みです。
平茶碗、のご紹介は以上となりますが、木白につきましては ⇒ つづきます。
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藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
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2023-07-27 13:50
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