永楽和全 蔦絵様茶碗 [WEB BASE(商品紹介)]
御室窯時代は仁清を意識した作風での佳品が産まれました。
和全の色絵作品は貴重な出物です。
近年永楽作品のかっちりした絵付けと対局な、はんなりした絵付けです。
裏面です。 轆轤の綺麗な挽きが見て取れます。
見込みから。
高台回り。
印
共箱で、『津多絵様 茶碗』となっております。
蔦絵様、ということです。
幕末期の絵付け茶碗はなかなか得られないもので、色絵和全作品はかなりの高値で安定しておりますが・・・なんとか、ギリギリの線で手に入りました。(^^;
永楽和全
幕末-明治時代の陶工。
文政6年(1823)生~明治29年(1896)5月6日死去。74歳。
明治4年に永楽性に改正したのも和全による。
第1期
嘉永5年(1852)、野々村仁清ゆかりの御室仁和寺門前仁清窯跡に登り窯をひらいた。この土地は義弟宗三郎の所有地で、和全の作陶にはこの義弟の協力が大きかったと言われる。この時期を御室窯時代という。
第2期
慶応2年(1866)から明治3年(1870)、加賀の山代に五年間滞在して近代九谷の発展に尽力し、この時期を九谷窯時代と呼ぶ。
第3期
明治5年、三河の豪商鈴木氏の求めで岡崎に移り、甲山で窯を開いた。明治維新によって時代が変わり、西洋的な金襴手と色絵の懐石製高級食器(コーヒー碗やスープ皿)や赤絵染付も手がけ、神社仏閣での献茶や大寄せ茶会の為の華やかな茶道具も作り出し、永楽家の様式を確立した。この時期を岡崎窯時代と呼ぶ。
第4期
明治15年(1882)、高台寺の菊渓川のほとりに居を構え、作陶。菊谷窯時代と呼ぶ。この時期の作品は粗い胎土に薄く透明釉をかけて簡略な絵付けをした民芸風の雅味のあるものが多い。また、菊谷の繭印が使用され、特に菊谷焼と呼ばれている。
和全の色絵作品は貴重な出物です。
近年永楽作品のかっちりした絵付けと対局な、はんなりした絵付けです。
裏面です。 轆轤の綺麗な挽きが見て取れます。
見込みから。
高台回り。
印
共箱で、『津多絵様 茶碗』となっております。
蔦絵様、ということです。
幕末期の絵付け茶碗はなかなか得られないもので、色絵和全作品はかなりの高値で安定しておりますが・・・なんとか、ギリギリの線で手に入りました。(^^;
永楽和全
幕末-明治時代の陶工。
文政6年(1823)生~明治29年(1896)5月6日死去。74歳。
明治4年に永楽性に改正したのも和全による。
第1期
嘉永5年(1852)、野々村仁清ゆかりの御室仁和寺門前仁清窯跡に登り窯をひらいた。この土地は義弟宗三郎の所有地で、和全の作陶にはこの義弟の協力が大きかったと言われる。この時期を御室窯時代という。
第2期
慶応2年(1866)から明治3年(1870)、加賀の山代に五年間滞在して近代九谷の発展に尽力し、この時期を九谷窯時代と呼ぶ。
第3期
明治5年、三河の豪商鈴木氏の求めで岡崎に移り、甲山で窯を開いた。明治維新によって時代が変わり、西洋的な金襴手と色絵の懐石製高級食器(コーヒー碗やスープ皿)や赤絵染付も手がけ、神社仏閣での献茶や大寄せ茶会の為の華やかな茶道具も作り出し、永楽家の様式を確立した。この時期を岡崎窯時代と呼ぶ。
第4期
明治15年(1882)、高台寺の菊渓川のほとりに居を構え、作陶。菊谷窯時代と呼ぶ。この時期の作品は粗い胎土に薄く透明釉をかけて簡略な絵付けをした民芸風の雅味のあるものが多い。また、菊谷の繭印が使用され、特に菊谷焼と呼ばれている。
2017-06-28 17:45
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