平澤九朗 唐津写千鳥絵 香合 星崎の土を以て [おもろいで!幕末尾張陶]
只今、BASE215では『御深井焼 特集』を展示中です。
御深井焼は、元は江戸前期に珍元賓が始め、長らく中断した後に知止斎(尾張徳川家 12代 斉荘公)が再興し明治初期まで続いた、尾張徳川家の御庭焼です。
この辺につきましては、ベースでの特集展示後に当ブログにて、引き続きご紹介致します。
その、御深井焼にも招聘された幕末尾張藩士の名工として知られる・・・・平澤九朗の逸品作です。
『平澤九朗 唐津写千鳥絵 香合 星崎の土を以て』
九朗の中でもかなりレアアイテムになります、唐津です。 これまで文献や伝世においても数点しか存在が確認されておりません。
そして、それらの全てが共通の特徴があります。
星崎の土を以て となっております。
内側に、星崎の土と彫られております。
『星崎』・・・これは、松尾芭蕉が千鳥の歌を詠んだ地でありまして(石碑もあります)、その地の土を使って唐津写しを製作し、鉄絵にて千鳥を描いているのが特徴です。
「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」
この芭蕉の歌を共箱に書いております。
こちらが、その千鳥塚とよばれる石碑です。
1687年に名古屋(鳴海)の宿に着いた芭蕉が44歳の時に詠んだ歌だそうです。
星崎という場所は鳴海の西北にあります。
興味深い話がありまして・・星崎の地名の由来は、637年頃、この地に星が降ったことによると言われております。
星とはいわゆる隕石のことで、星崎には「星宮社」という星にちなんだ神社がございます。
その後の1632年(1670年説あり)、星宮社の南の南野村に隕石が落ちたという記録もあります。
某ヒットアニメーション映画を連想いたしますね。(^^;
しかし、この芭蕉の句は・・・この史実にも関係するようにも読め、大変神秘的なものです。
そして、芭蕉のみならず・・・150年後に九朗も何か魅せられたのでしょうか。
蓋裏
底部
『く』の銘があります。
唐津については、九朗の活躍した時代には途絶しており、唐津焼が入手できない時代でもありました。そこからおそらく唐津写しを所望され、さらに尾張藩士の遊び心を込めて数点のみ焼いた作品でありましょう。
平澤九朗が六十六才の時の作品です。
1838年(天保9年)頃ですね。
希少かつ、出来栄えの良さから・・少し、値が張ってしまいますが一生の内に何度も見るものではありません。
当店は3年前にお茶碗のご縁がありましたが、そちらもなかなかの作品でした。
もう手元には御座いませんが、写真がございますのでご覧頂きましょう。
かなり愛玩され使い込まれておりました。
こちらの香合も良いご縁があると嬉しく思います。
平澤九朗
安永元年~天保11年(1772~1840)
尾張藩士で屋敷内に窯を築き本格的に作陶する。
その作品は評価が高く当時より九朗焼として珍重された。
その技術・センスにより御深井焼にも招聘される。
文化11年に病のために家督を息子の平澤陶斎に譲る。その後、次男の二代目まで九朗焼は続いた。
尾張の余技作家の中では最も有名であり、春岱、秋二と共に三大名工として、茶席にても珍重されております。
御深井焼は、元は江戸前期に珍元賓が始め、長らく中断した後に知止斎(尾張徳川家 12代 斉荘公)が再興し明治初期まで続いた、尾張徳川家の御庭焼です。
この辺につきましては、ベースでの特集展示後に当ブログにて、引き続きご紹介致します。
その、御深井焼にも招聘された幕末尾張藩士の名工として知られる・・・・平澤九朗の逸品作です。
『平澤九朗 唐津写千鳥絵 香合 星崎の土を以て』
九朗の中でもかなりレアアイテムになります、唐津です。 これまで文献や伝世においても数点しか存在が確認されておりません。
そして、それらの全てが共通の特徴があります。
星崎の土を以て となっております。
内側に、星崎の土と彫られております。
『星崎』・・・これは、松尾芭蕉が千鳥の歌を詠んだ地でありまして(石碑もあります)、その地の土を使って唐津写しを製作し、鉄絵にて千鳥を描いているのが特徴です。
「星崎の 闇を見よとや 啼く千鳥」
この芭蕉の歌を共箱に書いております。
こちらが、その千鳥塚とよばれる石碑です。
1687年に名古屋(鳴海)の宿に着いた芭蕉が44歳の時に詠んだ歌だそうです。
星崎という場所は鳴海の西北にあります。
興味深い話がありまして・・星崎の地名の由来は、637年頃、この地に星が降ったことによると言われております。
星とはいわゆる隕石のことで、星崎には「星宮社」という星にちなんだ神社がございます。
その後の1632年(1670年説あり)、星宮社の南の南野村に隕石が落ちたという記録もあります。
某ヒットアニメーション映画を連想いたしますね。(^^;
しかし、この芭蕉の句は・・・この史実にも関係するようにも読め、大変神秘的なものです。
そして、芭蕉のみならず・・・150年後に九朗も何か魅せられたのでしょうか。
蓋裏
底部
『く』の銘があります。
唐津については、九朗の活躍した時代には途絶しており、唐津焼が入手できない時代でもありました。そこからおそらく唐津写しを所望され、さらに尾張藩士の遊び心を込めて数点のみ焼いた作品でありましょう。
平澤九朗が六十六才の時の作品です。
1838年(天保9年)頃ですね。
希少かつ、出来栄えの良さから・・少し、値が張ってしまいますが一生の内に何度も見るものではありません。
当店は3年前にお茶碗のご縁がありましたが、そちらもなかなかの作品でした。
もう手元には御座いませんが、写真がございますのでご覧頂きましょう。
かなり愛玩され使い込まれておりました。
こちらの香合も良いご縁があると嬉しく思います。
平澤九朗
安永元年~天保11年(1772~1840)
尾張藩士で屋敷内に窯を築き本格的に作陶する。
その作品は評価が高く当時より九朗焼として珍重された。
その技術・センスにより御深井焼にも招聘される。
文化11年に病のために家督を息子の平澤陶斎に譲る。その後、次男の二代目まで九朗焼は続いた。
尾張の余技作家の中では最も有名であり、春岱、秋二と共に三大名工として、茶席にても珍重されております。
2019-05-15 08:48
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