仁阿弥道八 三島 茶碗 [幕末京焼]
仁阿弥道八は天明3年(1783)初代高橋道八の次男として誕生しました。
本名を光時といい、文化元年(1804)の父の死のあと若くして窯を継いで二代高橋道八となりましす。
京都粟田口焼の老舗「雲林院宝山」家に師事して陶法を学び、その後奥田頴川にも入門したそうです。兄弟子には青木木米がいます。
この江戸後期は、江戸初期の仁清・乾山以来の興隆期であり、保全・長造など・・・名工の佳品が多数生れました。
初代道八については、作品ならびに共箱の検証が充分なされておらず、まだまだ不明な点も多くあります。
私の見たところ・・・二代の初期作品と初代の晩年作品とが判別出来てないように思います。
いくつかの類例から判断しましたが、今後の新しい研究結果が待たれるところです。
さて、前置きが長くなりましたが。
二代高橋道八・・・通称”仁阿弥道八”の若い時期の作品の御紹介です。
仁阿弥道八 三島 茶碗
1800年代前半と推定されます。
三島とは、李朝時代の高麗茶碗が本歌です。
灰色の素地(きじ)に細かい文様を縄状に型押しし、その部分に白土を象眼したのち透明な釉をかけて焼いたもの。
この文様を三島暦の仮名に見立てての名称で、暦手ともいいます。
なかなか、見事な描きっぷりです。
側面より。
仁阿弥の浅い茶碗は、刷毛目が多いのですがこの三島手は珍しいです。
盃、ではたまに見ます。
印もあります。
梅雨がいよいよ始まります。
しとしとと・・・降る雨。
この暦手の文様のように思えます。
口径 14.3~14.8cm 高さ5.7cm 高台 5cm
共箱になります。
本名を光時といい、文化元年(1804)の父の死のあと若くして窯を継いで二代高橋道八となりましす。
京都粟田口焼の老舗「雲林院宝山」家に師事して陶法を学び、その後奥田頴川にも入門したそうです。兄弟子には青木木米がいます。
この江戸後期は、江戸初期の仁清・乾山以来の興隆期であり、保全・長造など・・・名工の佳品が多数生れました。
初代道八については、作品ならびに共箱の検証が充分なされておらず、まだまだ不明な点も多くあります。
私の見たところ・・・二代の初期作品と初代の晩年作品とが判別出来てないように思います。
いくつかの類例から判断しましたが、今後の新しい研究結果が待たれるところです。
さて、前置きが長くなりましたが。
二代高橋道八・・・通称”仁阿弥道八”の若い時期の作品の御紹介です。
仁阿弥道八 三島 茶碗
1800年代前半と推定されます。
三島とは、李朝時代の高麗茶碗が本歌です。
灰色の素地(きじ)に細かい文様を縄状に型押しし、その部分に白土を象眼したのち透明な釉をかけて焼いたもの。
この文様を三島暦の仮名に見立てての名称で、暦手ともいいます。
なかなか、見事な描きっぷりです。
側面より。
仁阿弥の浅い茶碗は、刷毛目が多いのですがこの三島手は珍しいです。
盃、ではたまに見ます。
印もあります。
梅雨がいよいよ始まります。
しとしとと・・・降る雨。
この暦手の文様のように思えます。
口径 14.3~14.8cm 高さ5.7cm 高台 5cm
共箱になります。
2019-06-13 15:33
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