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徳利トクトク、お得得?~十三代中里太郎右衛門 唐津三島徳利、和田桐山 金襴手瓢形捻 酒瓶 [食器]

トクトク・・・と鳴ることから、とかどうとか?の語源節のある”徳利”の優品のご紹介です。

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出来栄えの秀逸な作品です。

お銚子、徳利・・・・今では同じ意として使われる言葉ですが、元は”銚子”といわれる鉄や塗り物で注ぐものや、”瓶子”という大き目で口の狭い壷によりお酒を供されておりました。

その後、陶磁器の製作技術が進み・・・大量に作れるようになったことから、江戸後期になって”徳利”が普及し始めます。

江戸期には酢や醤油の入れ物にも使われていたようです。

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十三代中里太郎右衛門 唐津三島徳利

大正12年5月31日生まれ。12代中里太郎右衛門の長男。

弟に中里重利,中里隆。昭和26年陶彫「牛」で日展初入選,33年叩(たた)き壺「牛」で同特選。

古唐津を研究し,叩きの技法を基本に独自の作風をきずく。
44年唐津焼中里家13代をつぐ。
59年「叩き唐津手付瓶」で芸術院賞。平成12年日本工匠会(日工会)会長。

14年太郎右衛門の名を長男忠寛にゆずり,庵号の逢庵(ほうあん)を名のった。
19年芸術院会員。平成21年3月12日死去。85歳。

この雨漏り手のような味わい、なかなか見られる作品ではありません。

形状、重さ、も絶妙な出来栄えです。

※ご成約済です。


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和田桐山 金襴手瓢形捻 酒瓶


明治34年、尼崎藩主に外科医として仕えた和田信景の孫である和田九十郎正隆が数寄者窯として西宮大社村に開窯しました。

兵庫県庁勤務時代に淡路島に陶器学校を建設しようとしたほどの陶芸好きで、県庁を辞めて陶芸一筋の道を歩みました。

明治43年、その二男である正兄(マサエ)が尼崎市東桜木町に移窯しました。

兵庫県武庫群精道村に御庭焼の築窯にも正兄が関わり、これが打出焼の発祥となりました。

その昔、藤原道真が船から見えるこの美しさに感動して立ち寄り、{ここは殊のほかのよき浦なり}{松は琴柱の並びたるが如し}と賛美したのが琴の浦の地名の由来です。

天正10年、本能寺の変を聞き、毛利攻めから駆けつけた羽柴秀吉{後の豊臣秀吉}が明智光秀の伏兵を逃れるために身を隠したと言い伝えが残る広徳寺が近くにあります。

九十朗正隆が、豊臣家の家紋である桐にちなみ陶号を桐山、琴の浦の地名から窯名を琴浦窯と称しました。

(和田桐山さん公式紹介より)

初代は大正期に活躍しました。豪商や茶人の注文による豪奢かつ上品な作品が多く遺されており、特に桐山金襴手は、その質の高さは群を抜いております。


どちらも、お酒を愉しむだけでなく、ちょっと一輪を挿しても楽しそうです。
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