『吸江斎 月の字 住山揚甫 武蔵野之画』 惺斎箱 [茶道具]
岸和田では、9月の中旬に『岸和田祭り』・・・通称『だんじり祭り』があり、その辺りを境に一気に秋の気候になるのですが・・・ご存じの通り、今年はコロナ禍により、中止となりました。
知る限り、初めてのケースですが・・そりゃそうでしょう。ソーシャルディスタンスもへったくれもありませんから。(^-^;
気づいてるような気づいてないような‥感じで、日々の気温はやや下がり、少々の雨を挟んで秋の気配です。
と、書いてる最中に蚊に咬まれました(怒)
気を取り直して。。。。
今回は、当店では珍しく『お軸』のご紹介です。
吸江斎 月の字 住山揚甫 武蔵野之画
惺斎箱
嘉永元年
高さ180㎝ 幅31.5㎝
味わいのある茶味溢れるお軸です。
茶の道は 辿るに
つけて 武蔵野の
月の棲むなる
奥ぞ ゆかしき
表千家 10代 吸江斎 による『月』の字です。
吸江斎は、文政元年(1818)に生まれました。
9代の了々斎の嫡男が、文政6年に早世し、さらに了々斎もその2年後の文政8年に病死してしまい、表千家は後継問題に直面します。
そこで、了々斎の弟の子を千家に迎えることとなりました。
そして、翌年文政9年・・・大徳寺宙宝和尚より斎号を受け、なんと9歳で家元を継承することとなるのです。
『一口吸盡西江水』 いっくにきゅうじんす さいこうのみず
かつて、利休もこの語により悟りを開いたと伝わる言葉です。
西江の水を全て飲み尽くすことが出来たら、何人にも惑わされず独自の存在となる術を教えてやろうという問答からだそうです。
それは、出来そうにないことに全力をもって臨むこと、そしてすべての存在と同化して無となることが悟りへの道であるという意味に捉えられるのではにでしょうか。
この語から、吸江斎という名前がとられております。
この時、紀州徳川家10代の治宝公(一位様)は、了々斎から皆伝を受けており、自身でこれを預かり、吸江斎の成長を待ってそれを譲ろうと考えました。
そして、後見として住山揚甫を任じます。
吸江斎は10歳で保全・旦入と共に紀州に出仕しました。有名なお庭焼の時ですね。
その後、研鑽を積み続け・・・天保7年、吸江斎19歳のとき、結婚と、皆伝を一位様から授かるという2重の慶びの年となりました。
天保10年には利休250回忌も無事務め上げます。
さて、ここで吸江斎の後見となりました、2代住山揚甫についてご紹介いたしましょう。
祖父の初代楊甫の姉は表千家七世如心斎の妻。
表千家九世了々斎に師事し了々斎歿後、十世吸江斎の後見役を務めた。
紀州徳川家に仕え、鴻池家にも出入した。安政2年(1855)歿、74才。
吸江斎は幼年のときより、筆や茶道具の書付や好み物を遺しておりますが、揚甫による箱書ものも多数あります。
嘉永元年・・・吸江斎30歳、揚甫67歳の時。
2人は、江戸の紀州屋敷へと出仕致します。
紀尾井町、今でいう千代田区に紀州屋敷がありました。
その江戸へ出仕の際に合作で描いたのが、この作品です。
揚甫により、むさしのの薄の絵と歌の賛があります。
戌申年春 於東武南 筆 とあります。
1848年、嘉永元年 武蔵国の南にて ということです。
茶の道は 辿るに
つけて 武蔵野の
月の棲むなる
奥ぞ ゆかしき
茶の湯の道は、追えば追うほど・・・秋の名所である武蔵野の秋の景色にかかる月のように、どこまでいっても追いつかず、果てしなく奥の深いものである、という茶道の真理を説いてあることと、そして江戸の地より遠い京都への望郷の念を掛けて詠んだものと思われます。
この年、吸江斎は次男である一指斎の誕生を控えておりました。
惺斎の明治末~大正初頭の筆による箱になります。
外箱です。
時代による折れしわはございますが、お軸としての味わいには問題ございません。
吸江斎や揚甫の心境、それまでの道のり、言葉の真意などに想いを馳せつつ・・・季節のお道具としてお愉しみ頂ければ幸いです。
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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知る限り、初めてのケースですが・・そりゃそうでしょう。ソーシャルディスタンスもへったくれもありませんから。(^-^;
気づいてるような気づいてないような‥感じで、日々の気温はやや下がり、少々の雨を挟んで秋の気配です。
と、書いてる最中に蚊に咬まれました(怒)
気を取り直して。。。。
今回は、当店では珍しく『お軸』のご紹介です。
吸江斎 月の字 住山揚甫 武蔵野之画
惺斎箱
嘉永元年
高さ180㎝ 幅31.5㎝
味わいのある茶味溢れるお軸です。
茶の道は 辿るに
つけて 武蔵野の
月の棲むなる
奥ぞ ゆかしき
表千家 10代 吸江斎 による『月』の字です。
吸江斎は、文政元年(1818)に生まれました。
9代の了々斎の嫡男が、文政6年に早世し、さらに了々斎もその2年後の文政8年に病死してしまい、表千家は後継問題に直面します。
そこで、了々斎の弟の子を千家に迎えることとなりました。
そして、翌年文政9年・・・大徳寺宙宝和尚より斎号を受け、なんと9歳で家元を継承することとなるのです。
『一口吸盡西江水』 いっくにきゅうじんす さいこうのみず
かつて、利休もこの語により悟りを開いたと伝わる言葉です。
西江の水を全て飲み尽くすことが出来たら、何人にも惑わされず独自の存在となる術を教えてやろうという問答からだそうです。
それは、出来そうにないことに全力をもって臨むこと、そしてすべての存在と同化して無となることが悟りへの道であるという意味に捉えられるのではにでしょうか。
この語から、吸江斎という名前がとられております。
この時、紀州徳川家10代の治宝公(一位様)は、了々斎から皆伝を受けており、自身でこれを預かり、吸江斎の成長を待ってそれを譲ろうと考えました。
そして、後見として住山揚甫を任じます。
吸江斎は10歳で保全・旦入と共に紀州に出仕しました。有名なお庭焼の時ですね。
その後、研鑽を積み続け・・・天保7年、吸江斎19歳のとき、結婚と、皆伝を一位様から授かるという2重の慶びの年となりました。
天保10年には利休250回忌も無事務め上げます。
さて、ここで吸江斎の後見となりました、2代住山揚甫についてご紹介いたしましょう。
祖父の初代楊甫の姉は表千家七世如心斎の妻。
表千家九世了々斎に師事し了々斎歿後、十世吸江斎の後見役を務めた。
紀州徳川家に仕え、鴻池家にも出入した。安政2年(1855)歿、74才。
吸江斎は幼年のときより、筆や茶道具の書付や好み物を遺しておりますが、揚甫による箱書ものも多数あります。
嘉永元年・・・吸江斎30歳、揚甫67歳の時。
2人は、江戸の紀州屋敷へと出仕致します。
紀尾井町、今でいう千代田区に紀州屋敷がありました。
その江戸へ出仕の際に合作で描いたのが、この作品です。
揚甫により、むさしのの薄の絵と歌の賛があります。
戌申年春 於東武南 筆 とあります。
1848年、嘉永元年 武蔵国の南にて ということです。
茶の道は 辿るに
つけて 武蔵野の
月の棲むなる
奥ぞ ゆかしき
茶の湯の道は、追えば追うほど・・・秋の名所である武蔵野の秋の景色にかかる月のように、どこまでいっても追いつかず、果てしなく奥の深いものである、という茶道の真理を説いてあることと、そして江戸の地より遠い京都への望郷の念を掛けて詠んだものと思われます。
この年、吸江斎は次男である一指斎の誕生を控えておりました。
惺斎の明治末~大正初頭の筆による箱になります。
外箱です。
時代による折れしわはございますが、お軸としての味わいには問題ございません。
吸江斎や揚甫の心境、それまでの道のり、言葉の真意などに想いを馳せつつ・・・季節のお道具としてお愉しみ頂ければ幸いです。
※ご成約済みです。
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TEL 090-8578-5732
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2020-09-18 11:24
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