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【吉田屋窯 九谷 手塩皿】 10枚 [食の器]

今回ご紹介致します作品は・・・吉田屋窯の手塩皿です。

1824年〜1831年のわずか7年間のみ稼働していた窯で、再興九谷焼の中ではトップの座に君臨するものです。

その中でも、かなり洒落ていてグッとくる小品でしたもので、手に入れることに致しました。

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【吉田屋窯 九谷 手塩皿】 10枚

文政9(1926)年~天保2(1831)年頃



古九谷窯が1710年頃に廃窯してから、約100年後・・・九谷焼の再興を目指して『春日山窯』『若杉窯』『民山窯』などが興されましたが、様々な事情によりいづれも発展せず、陶工も安定することなくクオリティも保つことが出来ないでいました。

そんな中、藩窯としてスタートした春日山窯で青木木米の助手を勤めていた肥前出身の本多貞吉の養子である本多清兵衛やその門人の粟生屋源右衛門は本当の意味での古九谷焼を再興すべく画策しておりましたところ・・・運命の出会いがありました。


加賀大聖寺の豊田伝右衛門(吉田屋)です。


では、作品をご覧いただきましょう。

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幅7.3㎝ 高さ1.5㎝


伝右衛門はかねてより、九谷焼の再興を望んでいた文化人で、そのセンスは素晴らしいものがあったといいます。

そこに、実力を備えた若い陶工たちがちょうど同じ志を元にし、大量生産窯から離れていた時期であったことで奇跡の出会いが叶い・・・

ここに、大聖寺藩認可の『再興九谷焼 吉田屋窯』が誕生するのです。


九谷の逸品の様相を継承しつつも、独自の画風を併せ持った吉田屋窯は、時代の寵児となり・・

ここに『九谷焼』の名は見事に復活を果たすのです。

(そして同時に過去の九谷焼のことを『古九谷焼』と称されることとなるのです)


吉田屋窯は総勢20名を揃える一大窯であり、その中でも轆轤は信楽出身3名 京焼出身2名 加賀1名なのに対して色絵付けの3名・・・粟生屋源右衛門・鍋屋丈助・越中屋幸助はすべて加賀の職人で統一されております。

ここには、吉田屋のこだわりがあると推察されます。

九谷焼の肝となる、絵の具の調合・絵付けの技やセンス・焼成技術の部分は生粋の加賀職人によることでテイストとしても、その意義としても九谷焼再興には外せないファクターであったでありましょう。


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敢えて製作事情的には不利な九谷村で、文政7(1824)年春に復活の狼煙を挙げた九谷焼(吉田屋窯)でしたが・・軌道に乗ったのち、より条件の良い山代の地へ文政9(1926)年に場所を移します。

その頃には大阪や京都にも吉田屋の名声は届いており、様々な求めに対してあらゆるアイテムの優品が届けられるようになります。

文人である頼 山陽(らい さんよう)も高く評しておりました吉田屋九谷焼は、同じ型でも意匠を変え、古九谷焼の意鉢をよく継承しつつも斬新であり、と高評価を欲しいままにしましたが・・・

伝右衛門から5代である息子へ継承された吉田屋窯は、その高コストから吉田屋自身の経営をも圧迫し、後継ぎの6代が高効率化を図るものの・・うまくいかず、天保2年(1831)にわずか7年間の歴史に幕を下ろすことになるのです。

九谷焼の歴史における、中興の祖としての吉田屋の名は今もなお人の心をとらえて離しません。


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小そげ、はありますが概ね状態は良好で、吉田屋窯の手塩皿としては類を見ない優品であります。

古九谷の青手を再現した吉田屋窯の青手「青九谷」を生み出した窯であり、青黒ずんだ素地に落ち着いた絵の具を厚く盛り上げる吉田屋窯様式は、古九谷に対して一層深みを感じさせながらも、絵付けの彩色や発色の良さで艶やかさも兼ね備えるのが特徴です。





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