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【三代 清水六兵衛 古清水色絵七宝 散蓮華】20客 [幕末京焼]

清水家において、”中興の名工”と称されるのが三代六兵衛です。


六兵衛家は初代没後・・・二代が再興するのにかなりの苦労をされ、軌道に乗った後・・・

二代が天保9(1838)年に六一と号し隠居してから、万延元年(1860)年に没するまでの間、六兵衛家は二代と三代の両輪にて新たなチャレンジをする時期でありました。


江戸期の六兵衛が、他の京焼に先駆けて挑戦しようとしたのが”食器”です。

旧態然とした食器のやきもの、ではなく・・・あくまで京焼であることはもちろん、他のものに対して高級志向を目指していたのが推測されております。

二代後期~三代の前期までは、京焼に於いて磁器製作がスタートしたころでしたが、六兵衛家ではひとまず磁器には手を出さずに・・・初代からの陶器による茶陶製作を中心にしつつ、新時代の食器への模索をスタートします。

それは、煎茶や抹茶における文人たちとの邂逅による、共作・合作にはじまり・・書画のテイストをやきものへと持ち込むアイディアへと進化していくものでした。


今回、ご紹介の”食の器”も大変洒落たものです。


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【三代 清水六兵衛 古清水色絵七宝 散蓮華】


 20客(!)揃


幅  11.3㎝×7.3㎝ (各)

高さ 2.5㎝~4.3㎝ (各)

(もちろん、各客によるばらつきがございます。)


製作年代 天保9(1838)~幕末頃


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アップしてみましょう。


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いわゆる、蓮華よりサイズが大きく、また底面を平たく大きめにとってることからも、これは”盛るための器”として造られたことがうかがえます。


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印です。


三代六兵衛は、天保9年に三代を襲名、父に作陶を学び、同時に南画家の小田海僊に絵を学んだ。

嘉永元(1848)年に、五条坂に丸屋嘉兵衛より登窯を買い取り清水家は窯元となった。

禁裏御所内への用命や彦根藩主・井伊直弼に“湖東焼”へ招聘され、また一橋家、京都所司代などからの注文も受けた。

文人、画家との交流が深く、伝統的な京焼の技法・意匠に加えてモダンな新様式を合わせる「六兵衞様」とも呼ばれるスタイルを確立した。

この作品は江戸後期に人気の有った蓮華を洒落た“器”としイマジネーションした逸品です。七宝紋の配置も秀逸です。


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共箱になります。


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過去の数度における六兵衛展でも、このような作品は発見・紹介されておらず、客数・状態共にかなりのレアな逸品と思います☆


※ご成約済みです。


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TEL 090-8578-5732

MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp

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幕末から明治維新への時代の変化の中で、モダンさを取り入れた京焼の窯元として六兵衛家が確立したのは三代の功績なのです。











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