【永楽和全 備前土 醤油差】 [幕末京焼]
嘉永6年頃・・・
保全の養子となっており、一時期、「善一郎家」として別家となるはずであった、西村宗三郎と和全が強力なタッグを組み、永楽家として初の本窯をもつことになりました。
宗三郎の所有する地に築いたとされますが、その際にそこは仁清の窯跡であったことが判明したといいます。
しかし、後世の研究者の説の中には、それを知っていてその地を選び、周囲へ広く宣伝する材料に利用する意図があったのだろうと有ります。
実際、保全の躍進伝説でも、自身による細やかな策謀と演出により、西村家(永楽)を出世させようと目論んでいた節が垣間見えるのです。
しかし、これらは全て・・・本当の実力あっての、ことであります。
仁清窯跡に築窯し、「御室窯」をスタートした和全ですが、この頃の作品は・・・やはりこの立地を考え、仁清・乾山を意識した作風のものも多く伝わります。
今回、ご紹介致しますのも仁清を強く意識されていることがうかがえるものです。
【永楽和全 備前土 醤油差】
幅 7.7cm×8.3cm
高さ 7.2cm
共箱
製作年代 慶応元(1865)年頃
なかなかの、洒落たデザインです。
備前の土を使い、そのことで素焼き部分の味わいが出ております。
推測ですが、京焼の土はまだまだ柔らかく、このようなシャープなデザインを実現するには備前の固い土が意図に合ってたということでしょう。
以前扱いました、同じく仁清を意識した手付き茶器の際にはデザインがラウンドフォルムであったので、またそれに合った土味でした。
御室窯は、嘉永5年に大内山に築窯され、翌嘉永6年に初窯だったようです。
慶応2(1866)年に大聖寺藩に招聘されるまで続きました。
旧蔵者は、この作品を替茶器として愉しまれていたようです。
この蓋、は当初からのものと推測されます。 造形・素材感から過去の茶器と共通するものを感じます。
酒器にも使えそうですね。
底部です。
共箱です。
和全書き、の箱です。
和全の箱書きは明治期にみられるのですが、名乗りだした時期は不明となっております。
北三井家の蔵品に年号が記された和全書きのもので、慶応元(1865)年の作品が現存しており、善五郎時代にも、和全を名乗っていた事例となっております。
この作品の箱は、その事例の筆に近似しており、作行きと合わせ見ることで、慶応元年頃と推定できます。
この色合い、釉薬の飛ばし方など・・・仁清信楽、に近いテイストですね☆
この御室窯は嘉永6年の仲秋に火が入りました。
その年は、永楽家が茶陶の名家として実質のスタートとなるきかっけとなった、偕楽園焼へ招聘した紀州徳川家の徳川治宝(とくがわはるとみ)公が亡くなられた年であり、そして明治期からの新時代をスタートさせた次代の永楽得全が生まれた年でもあるのです。
様々な意味で・・・永楽家の新たな幕開け、だったのです。
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
※当ブログはPC用サイトでの閲覧を推奨しております。
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保全の養子となっており、一時期、「善一郎家」として別家となるはずであった、西村宗三郎と和全が強力なタッグを組み、永楽家として初の本窯をもつことになりました。
宗三郎の所有する地に築いたとされますが、その際にそこは仁清の窯跡であったことが判明したといいます。
しかし、後世の研究者の説の中には、それを知っていてその地を選び、周囲へ広く宣伝する材料に利用する意図があったのだろうと有ります。
実際、保全の躍進伝説でも、自身による細やかな策謀と演出により、西村家(永楽)を出世させようと目論んでいた節が垣間見えるのです。
しかし、これらは全て・・・本当の実力あっての、ことであります。
仁清窯跡に築窯し、「御室窯」をスタートした和全ですが、この頃の作品は・・・やはりこの立地を考え、仁清・乾山を意識した作風のものも多く伝わります。
今回、ご紹介致しますのも仁清を強く意識されていることがうかがえるものです。
【永楽和全 備前土 醤油差】
幅 7.7cm×8.3cm
高さ 7.2cm
共箱
製作年代 慶応元(1865)年頃
なかなかの、洒落たデザインです。
備前の土を使い、そのことで素焼き部分の味わいが出ております。
推測ですが、京焼の土はまだまだ柔らかく、このようなシャープなデザインを実現するには備前の固い土が意図に合ってたということでしょう。
以前扱いました、同じく仁清を意識した手付き茶器の際にはデザインがラウンドフォルムであったので、またそれに合った土味でした。
御室窯は、嘉永5年に大内山に築窯され、翌嘉永6年に初窯だったようです。
慶応2(1866)年に大聖寺藩に招聘されるまで続きました。
旧蔵者は、この作品を替茶器として愉しまれていたようです。
この蓋、は当初からのものと推測されます。 造形・素材感から過去の茶器と共通するものを感じます。
酒器にも使えそうですね。
底部です。
共箱です。
和全書き、の箱です。
和全の箱書きは明治期にみられるのですが、名乗りだした時期は不明となっております。
北三井家の蔵品に年号が記された和全書きのもので、慶応元(1865)年の作品が現存しており、善五郎時代にも、和全を名乗っていた事例となっております。
この作品の箱は、その事例の筆に近似しており、作行きと合わせ見ることで、慶応元年頃と推定できます。
この色合い、釉薬の飛ばし方など・・・仁清信楽、に近いテイストですね☆
この御室窯は嘉永6年の仲秋に火が入りました。
その年は、永楽家が茶陶の名家として実質のスタートとなるきかっけとなった、偕楽園焼へ招聘した紀州徳川家の徳川治宝(とくがわはるとみ)公が亡くなられた年であり、そして明治期からの新時代をスタートさせた次代の永楽得全が生まれた年でもあるのです。
様々な意味で・・・永楽家の新たな幕開け、だったのです。
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2021-10-18 13:39
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