【十代 中川浄益父子 戯画 茶碗一双】 共箱 十一代極外箱 [茶道具]
【2021年12月27日 加筆修正】
お道具、の中には・・・商い、として、もしくは美術として、生まれたものでは無いものがございます。
それは、『作りたい』、『差し上げたい』という気持ちだけで、純粋なものであります。
今回は、そのようなモノで大事に遺された、珍しい作品のご紹介です。
【十代 中川浄益父子 戯画 茶碗一双】
十代作
幅 12.1cm 高さ 7.6cm 高台径 5.3cm
十一代作
幅 12.3cm 高さ 6.9cm 高台径 5.1cm
製作年代 昭和3(1928)年
状態 10代作の茶碗側面に共直し在り
共箱
十一代 極め外箱
『錺師(かざりし)』である、千家十職のひとり・・・『中川浄益』による絵付けのお茶碗という、大変珍しいものです。(^^;
しかも、親子でそれぞれ絵付けをされており、その名も『親子丼』。
では、作品を見てまいりましょう。
まずは、十代作から。
『火箸』と『環』が描かれております。
『昭和戌辰 贈 竹秋 安居軒 新居 水屋用』
『十世浄益』
お茶碗としては、大変端正な造りです。
「印」は「安」の文字を意匠化したものです。
十代浄益
本名を『淳三郎』号『紹心』
明治13(1880)年 ~ 昭和15(1940)年
九代の子で、早くから大阪の道具商のもとに修行に出される。父の死により家督を相続。
第一次世界大戦による軍需景気にのり負債を完済、中川家再建の基盤を作る。
次に、子である十一代の作を見てみましょう。
『金槌』と形成中とおぼしき『金属』の絵が描かれております。
『中川源吉 九つ』
9歳、ではなく・・・九つ、というところが、なんともかわいらしいです。
見比べてみると、釉調も先ほどのしゅっとした完成された色合いより、なんとなく子供らしい感じもします。
お茶碗の造りにも、特徴がみられますので・・・焼成された窯元の指導の元、絵付けだけでなく形成にも手を入れたことがうかがえます。
2重箱になっております。
十代の共箱により、詳細が記されております。
昭和3(1928)年の作であることが、分かります。
『竹秋』は旧暦での3月のことで、今では4月といことで春の時期です。
この頃は、昭和時代が始まり・・・ちょうど戦争もなく、世界恐慌の前年でもあり、平穏な時期でありました。
浄益家も、それまでの大変な時期を乗り越え、一段落しておりました。
なんとなく、この作品からもそのような時代の空気感・・とでもいうものが、伝わってくるような気が致します。
しかし、このお茶碗が生まれた11年後に・・・十代が亡くなり十一代が20歳にして、浄益家を継ぐことになります。
それは第2次世界大戦勃発の年であり、日本もその2年後に戦禍に突入していくという大変な時代背景でありました。
11代も大変な苦労をされ、なんとか千家と共に戦後復興と、茶道の発展に尽力することになります。
『十職の長』としてもながく努められておりました。
『十代父子 戯画 茶碗 一双』
御謙遜され、戯画とおっしゃられておりますが、親子の貴重な戯れ・・・の時であったことも感じられる文字です。
伝え聞くところによると・・・同じ、千家十職である黒田正玄の縁者にあたる、指物師『石井安居軒』の新しく出来た家への贈り物として、五条坂にて製作と絵付けをしたようです。
両作品に押し印された「安」は、この安居軒のことを指します。
浄益家は、元は『火箸』と『環』を作っていた金物師であったところ、千利休と出会い、『薬缶』の製作を依頼され、かの有名な『北野大茶会』にて使用され、その出来栄えにより引き立てられたのが始まりです。
それまでの中川家は、鎧や甲冑の製作を生業とする家でした。
そして、二代目より正式に千家出入りの金物師、錺師として続いていくのです。
その元となった、『火箸』と『環』を親であり、当主であった十代が描き、その子であり・・・ゆくゆくは家業を継承することになる、十一代が『槌』で、これから製作をしていこうという絵付けをしており、これは家業継承・子孫繁栄などを込めた、一双茶碗となっているのです。
『完成形』と『未完成形』、どちらも・・・対となることで、その意義も美しく感じます。
それは、『親』と『子』の関係でもあり、世の中に不変の理なのです。
~後日談~
その後の調査により、もう1組存在したとも思われていたこの作品ですが、どうやら1点ものであったことが判りました。
そして、安居軒からまた戻ってきて・・・浄益家にて永らく保管されていたものが、11代の時代に展観に貸し出されることになり、その際に破損が生じて、の修繕だったそうです。
そして、その際に外箱の自極めが作成され、譲り渡されたという事情のようです。
あと10年遅ければ、このような事情等も永遠に判らないままになってしまうところですが、なんとかここに遺すことが出来ました。
※売却済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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お道具、の中には・・・商い、として、もしくは美術として、生まれたものでは無いものがございます。
それは、『作りたい』、『差し上げたい』という気持ちだけで、純粋なものであります。
今回は、そのようなモノで大事に遺された、珍しい作品のご紹介です。
【十代 中川浄益父子 戯画 茶碗一双】
十代作
幅 12.1cm 高さ 7.6cm 高台径 5.3cm
十一代作
幅 12.3cm 高さ 6.9cm 高台径 5.1cm
製作年代 昭和3(1928)年
状態 10代作の茶碗側面に共直し在り
共箱
十一代 極め外箱
『錺師(かざりし)』である、千家十職のひとり・・・『中川浄益』による絵付けのお茶碗という、大変珍しいものです。(^^;
しかも、親子でそれぞれ絵付けをされており、その名も『親子丼』。
では、作品を見てまいりましょう。
まずは、十代作から。
『火箸』と『環』が描かれております。
『昭和戌辰 贈 竹秋 安居軒 新居 水屋用』
『十世浄益』
お茶碗としては、大変端正な造りです。
「印」は「安」の文字を意匠化したものです。
十代浄益
本名を『淳三郎』号『紹心』
明治13(1880)年 ~ 昭和15(1940)年
九代の子で、早くから大阪の道具商のもとに修行に出される。父の死により家督を相続。
第一次世界大戦による軍需景気にのり負債を完済、中川家再建の基盤を作る。
次に、子である十一代の作を見てみましょう。
『金槌』と形成中とおぼしき『金属』の絵が描かれております。
『中川源吉 九つ』
9歳、ではなく・・・九つ、というところが、なんともかわいらしいです。
見比べてみると、釉調も先ほどのしゅっとした完成された色合いより、なんとなく子供らしい感じもします。
お茶碗の造りにも、特徴がみられますので・・・焼成された窯元の指導の元、絵付けだけでなく形成にも手を入れたことがうかがえます。
2重箱になっております。
十代の共箱により、詳細が記されております。
昭和3(1928)年の作であることが、分かります。
『竹秋』は旧暦での3月のことで、今では4月といことで春の時期です。
この頃は、昭和時代が始まり・・・ちょうど戦争もなく、世界恐慌の前年でもあり、平穏な時期でありました。
浄益家も、それまでの大変な時期を乗り越え、一段落しておりました。
なんとなく、この作品からもそのような時代の空気感・・とでもいうものが、伝わってくるような気が致します。
しかし、このお茶碗が生まれた11年後に・・・十代が亡くなり十一代が20歳にして、浄益家を継ぐことになります。
それは第2次世界大戦勃発の年であり、日本もその2年後に戦禍に突入していくという大変な時代背景でありました。
11代も大変な苦労をされ、なんとか千家と共に戦後復興と、茶道の発展に尽力することになります。
『十職の長』としてもながく努められておりました。
『十代父子 戯画 茶碗 一双』
御謙遜され、戯画とおっしゃられておりますが、親子の貴重な戯れ・・・の時であったことも感じられる文字です。
伝え聞くところによると・・・同じ、千家十職である黒田正玄の縁者にあたる、指物師『石井安居軒』の新しく出来た家への贈り物として、五条坂にて製作と絵付けをしたようです。
両作品に押し印された「安」は、この安居軒のことを指します。
浄益家は、元は『火箸』と『環』を作っていた金物師であったところ、千利休と出会い、『薬缶』の製作を依頼され、かの有名な『北野大茶会』にて使用され、その出来栄えにより引き立てられたのが始まりです。
それまでの中川家は、鎧や甲冑の製作を生業とする家でした。
そして、二代目より正式に千家出入りの金物師、錺師として続いていくのです。
その元となった、『火箸』と『環』を親であり、当主であった十代が描き、その子であり・・・ゆくゆくは家業を継承することになる、十一代が『槌』で、これから製作をしていこうという絵付けをしており、これは家業継承・子孫繁栄などを込めた、一双茶碗となっているのです。
『完成形』と『未完成形』、どちらも・・・対となることで、その意義も美しく感じます。
それは、『親』と『子』の関係でもあり、世の中に不変の理なのです。
~後日談~
その後の調査により、もう1組存在したとも思われていたこの作品ですが、どうやら1点ものであったことが判りました。
そして、安居軒からまた戻ってきて・・・浄益家にて永らく保管されていたものが、11代の時代に展観に貸し出されることになり、その際に破損が生じて、の修繕だったそうです。
そして、その際に外箱の自極めが作成され、譲り渡されたという事情のようです。
あと10年遅ければ、このような事情等も永遠に判らないままになってしまうところですが、なんとかここに遺すことが出来ました。
※売却済みです。
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2021-12-27 22:35
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