【古萬古焼 萩写 数茶碗】 [茶道具]
これは、なかなかのレア・アイテムです。
しかも、今の世相にぴったりのお道具ですので、是非お勧めしたいです☆
【古萬古焼 萩写 数茶碗】
幅 10.6cm~10.9cm
高さ 5.1cm~5.3cm
高台径 4.2cm~4.7cm
制作年代 江戸時代後期
箱 伝世箱
萬古焼は、古くは江戸中期の『沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)』ににより始められたやきものです。
桑名の豪商に生まれ、幼少より覚々斎原叟や千如心斎に茶道を学んだ文化人でした。
あまりの人気により江戸にも招かれ・・・別邸と窯を築いたそうです。
弄山亡き後、萬古は衰退し・・・森有節による復興を待つことになります。
有節以降は、急須や造形細工物など、貿易ものを多く製作するようになりましたが、江戸期の萬古焼はいたって京焼を基にした茶陶が中心であったのは、弄山が茶人であったことによるものでしょう。
今回の作品、興味深い点が多々、有るのですが・・・まずは、作品自体を見てまいりたいと思います。
一見、高取焼?にも見えますが、むしろ『萩』なのです。
かっちりした造り込みです。
釉薬も丁寧にかけられております。
数茶碗で10客揃いなのです。
10客完品です。
この、お茶碗・・・実は、私は過去に数度見覚えが有ります。
単体で。
三代だったか、四代の新兵衛として極めのついたお茶碗で、これに近似したものがあったのです。
しかし、一説で・・・これは『萩ではない』という見方もされており、では正体は一体?というのが10年以上前に思っておりました。
今回、中部地方の出物として入手したこの作品。
『萬古焼』! 『萩写し』!
伝世箱、に『年号』!も記されております。
『文政元(1818)年にこれを求む』とあります。
弄山が没したのは安永6(1777年)で、有節の窯が稼働し始めるのが天保年間ですので、その間のことになります。
余談となりますが、松阪の『射和(いざわ)萬古』は安政3(1856)年より7年間のみの稼働でした。
弄山は、プロデューサーとして窯の経営をしてたようで、職人は別に存在したといいます。
弄山存命中の製作品、もしくは文政元年頃に職人が製作したものと思われます。
分類としては、『古萬古焼』となります。
少し後の、赤膚焼の奥田木白もそうですが、江戸後期は『諸国の国焼の写し』の需要が高く、そのうち・・『萩焼』の写しが特に多く見受けられます。
おそらくその時期に、手に入りにくかったのでしょう。
この作品も、小ぶりの数茶碗で、使いよいのですが・・・
コロナ禍で加速した、『各服点』の濃茶様式にぴったりなのです。
薄茶用や、旧来の濃茶茶碗は数あれど・・・案外探しても見つからない、のがこのようなタイプです。
見た目よりやや軽く、重ねることも出来使い勝手も抜群なのです。
時代有り、作行きの味わい有り、の数茶碗であらゆる客人を愉しませること間違いなし、です☆
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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【古萬古焼 萩写 数茶碗】
幅 10.6cm~10.9cm
高さ 5.1cm~5.3cm
高台径 4.2cm~4.7cm
制作年代 江戸時代後期
箱 伝世箱
萬古焼は、古くは江戸中期の『沼波 弄山(ぬなみ ろうざん)』ににより始められたやきものです。
桑名の豪商に生まれ、幼少より覚々斎原叟や千如心斎に茶道を学んだ文化人でした。
あまりの人気により江戸にも招かれ・・・別邸と窯を築いたそうです。
弄山亡き後、萬古は衰退し・・・森有節による復興を待つことになります。
有節以降は、急須や造形細工物など、貿易ものを多く製作するようになりましたが、江戸期の萬古焼はいたって京焼を基にした茶陶が中心であったのは、弄山が茶人であったことによるものでしょう。
今回の作品、興味深い点が多々、有るのですが・・・まずは、作品自体を見てまいりたいと思います。
一見、高取焼?にも見えますが、むしろ『萩』なのです。
かっちりした造り込みです。
釉薬も丁寧にかけられております。
数茶碗で10客揃いなのです。
10客完品です。
この、お茶碗・・・実は、私は過去に数度見覚えが有ります。
単体で。
三代だったか、四代の新兵衛として極めのついたお茶碗で、これに近似したものがあったのです。
しかし、一説で・・・これは『萩ではない』という見方もされており、では正体は一体?というのが10年以上前に思っておりました。
今回、中部地方の出物として入手したこの作品。
『萬古焼』! 『萩写し』!
伝世箱、に『年号』!も記されております。
『文政元(1818)年にこれを求む』とあります。
弄山が没したのは安永6(1777年)で、有節の窯が稼働し始めるのが天保年間ですので、その間のことになります。
余談となりますが、松阪の『射和(いざわ)萬古』は安政3(1856)年より7年間のみの稼働でした。
弄山は、プロデューサーとして窯の経営をしてたようで、職人は別に存在したといいます。
弄山存命中の製作品、もしくは文政元年頃に職人が製作したものと思われます。
分類としては、『古萬古焼』となります。
少し後の、赤膚焼の奥田木白もそうですが、江戸後期は『諸国の国焼の写し』の需要が高く、そのうち・・『萩焼』の写しが特に多く見受けられます。
おそらくその時期に、手に入りにくかったのでしょう。
この作品も、小ぶりの数茶碗で、使いよいのですが・・・
コロナ禍で加速した、『各服点』の濃茶様式にぴったりなのです。
薄茶用や、旧来の濃茶茶碗は数あれど・・・案外探しても見つからない、のがこのようなタイプです。
見た目よりやや軽く、重ねることも出来使い勝手も抜群なのです。
時代有り、作行きの味わい有り、の数茶碗であらゆる客人を愉しませること間違いなし、です☆
※ご成約済みです。
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藤井香雲堂
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2022-08-27 16:30
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