ゆく年~【初代 諏訪蘇山 河豚香盧盧】 [帝室技芸員]
本年最後の催事を無事終えて・・・
そこから大晦日迄の6日間、多数の書類作成や、1日半でフル大掃除、奥伊吹まで6年ぶり(!)の日帰りSKIに神戸へ角松敏生の恒例年末総決算ライブ・・・とフル活動でした。(^^;
全ての仕事も終えたのは本日夕方。
そこで、はたと・・・当ブログをほったらかしということに気付きました。
ちょうど、昨夜に『明治陶磁器』研究家でおられる『K』先生に河豚のコースをご馳走になりましたので、今年最後は『河豚』のご紹介を致しましょう☆
【初代 諏訪蘇山 河豚 香炉】
幅 27.5cm × 14cm
高さ 17cm
製作年代 大正6(1917)~大正11(1922)年
箱 共箱 帝室技芸員 印
大きな、大きな彫像作品です。
初代蘇山は、陶芸家としては『5名』しか認定されていない帝室技芸員の3番目となります。
今年は、京都の京セラ美術館に於いて、京都に関する帝室技芸員を勢ぞろいさせた展観が実現した年でありました。
『綺羅きらめく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業』
初代諏訪蘇山の初期作品で、珍しい陶器の彫像作品も多数展示されました。
また、没後100年ということで、初代蘇山の偉業を再発見すべく企画された展観もございました。
『初代 諏訪蘇山 没後百年記念展 ―初代蘇山の遺した石膏型を次代へ―』
青磁、のすばらしさを伝えると共に、型成型により成し得る造形力の魅力を、蘇山の余技作品なども併せて紹介されておりました。
学芸員さんに伺ったところでは、近年中に初代諏訪蘇山の展観のさらなる進化したバージョンも企画するということですので、楽しみです。
さて、ここで作品のご紹介に参ります前に。。。。
『帝室技芸員(ていしつぎげいいん)』というものをおさらいしておきましょう。
明治23年より昭和19年まで宮内省によって運営されていた、美術・工芸作家の顕彰制度です。
日本画家や西洋画家、彫刻家の他、金工や陶芸、漆芸といった諸工芸作家に加えて、陶工と写真家
なども認定されております。
制度発足の背景には、美術の奨励に加え、明治維新によって幕府や諸藩の庇護を失い、窮地に立たされた画家や工芸家を救い、優れた技術を保存する目的がありました。
『帝室技芸員』は当代における美術の、最高の栄誉と権威を示す制度でしたが戦後内閣府と宮内省の改変にともない消滅。
こうした顕彰行為は、後の文化勲章や重要無形文化財制度、日本芸術院会員への認定に引き継がれていきます。
定員は25名で、制度廃止まで計79名が認定されましたが、『陶芸家』ではわずか5名のみ。
三代 清風与平 明治26年(1893)認定
初代 眞葛香山 明治29年(1896)認定
初代 伊東陶山 大正6年(1917)認定
初代 諏訪蘇山 大正6年(1917)認定
板谷波山 昭和9年(1934)認定
中でも、初代諏訪蘇山は認定されてから5年後には亡くなられております。
置物?
いえ、香炉なのです。
サイズとしては・・・結構、リアル河豚に近いかもしれません。
昨夜、お料理屋さんの生け簀(いけす)にて泳いでるお姿を見たばかりなのです。(^^♪
なんとも、愛らしいお顔です。
この、口から煙を出します。
左右の鰭からも煙が出ます。
合計、3か所から香りを発するのです。
生き生きした、動きを感じさせる造形なのです。
上からも見事な発色と生々しさ。
こんな感じで開きます。
印は底部にございます。
共箱です。
初代諏訪蘇山は、遅咲き?という人生を歩まれております。
当初は、加賀藩いて武芸を学び、軍務に従事。
明治6(1873)年、任田屋徳次に陶芸を学び、明治8(1875)年に上京し工部省教師フェノロサ邸隣に住んで美術工芸を学び、また大学校教師ゴットフリード・ワグネルに化学を学んだ。
日本にとっては、釉下彩の父ですね。
明治9(1876)年 大井村に工場を設立し、橋本雅邦、久保田米僊等を招いて陶像、石膏像の製作、模型の捻造を行いました。
この頃の仕事は、後の蘇山の根幹となる『造形力』の基となるのです。
明治11(1878)年、福井県坂井港で製陶の改良に携わり、明治13(1880)年には石川県江沼郡九谷陶器会社で陶芸を教える傍らに『陶像置物』を考案し明治17(1884)年1月帰京。
ここまでだけでも、あちこちに行っておりますが、まだまだとどまるところを知らず・・・
坂井、高岡、九谷陶器会社、金沢区立工業学校、山内伊右衛門工場など北陸地方各地で陶器、煉瓦の製造、指導を行っており、指導者としてのキャリアを重ねておりましたが、この時期の行動は全て・・
『蝋型』の研究と『造形』の実現に向かう物なのです。
その後、腕を見込まれ、明治33(1900)年に『錦光山』に招聘され、職長として務めることになります。
大いに尽力しましたが、時代の流れに翻弄された『錦光山宗兵衛』は、輸出等への展開もするですが廃業へと追い込まれることになりました。
それは、歴史と確固たる技術力があっても、新たな世の中の嗜好や、技術の進化に適応していかないと生きていけないという時代の到来でした。
そして、明治40(1907)年五条坂に満を持して独立したのです。
それは56歳になる年であり、当時としてはかなりの高齢でのソロデビューであります。
しかし、そこからのスピードはそれまでの遅れを取り戻そうかのようにさらに精力的です。
七官青磁、交趾釉、白高麗、漆黒釉等、多岐に渡る様式を研究し、大正2(1913)年には鳥の子青磁を考案します。
大正3(1914)~4(1915)年、李王職の依頼により朝鮮に渡り、高麗古窯旧跡を調査と窯の再建を指導し焼成に成功。
大正6(1917)年、宮内省により帝室技芸員に選ばれることになったのです。
青磁の蘇山、で知られますが・・・その魅力を構成する中の大きなファクターは、『造形力』です。
蘇山のキャリアの多くを占める、型形成や立体物の製作のチャレンジがそれを実現しているのです。
初代諏訪蘇山の魅力が詰まった、希少な造形作品なのです!
※ご成約済みです。
今年も、残り少なくなって参りました・・・
本年は、皆様方には大変お世話になりました。また、当ブログをご覧頂きております方々にも感謝の極みでございます。
来年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。
皆様、良いお年をお迎えくださいませ!
そこから大晦日迄の6日間、多数の書類作成や、1日半でフル大掃除、奥伊吹まで6年ぶり(!)の日帰りSKIに神戸へ角松敏生の恒例年末総決算ライブ・・・とフル活動でした。(^^;
全ての仕事も終えたのは本日夕方。
そこで、はたと・・・当ブログをほったらかしということに気付きました。
ちょうど、昨夜に『明治陶磁器』研究家でおられる『K』先生に河豚のコースをご馳走になりましたので、今年最後は『河豚』のご紹介を致しましょう☆
【初代 諏訪蘇山 河豚 香炉】
幅 27.5cm × 14cm
高さ 17cm
製作年代 大正6(1917)~大正11(1922)年
箱 共箱 帝室技芸員 印
大きな、大きな彫像作品です。
初代蘇山は、陶芸家としては『5名』しか認定されていない帝室技芸員の3番目となります。
今年は、京都の京セラ美術館に於いて、京都に関する帝室技芸員を勢ぞろいさせた展観が実現した年でありました。
『綺羅きらめく京の明治美術ー世界が驚いた帝室技芸員の神業』
初代諏訪蘇山の初期作品で、珍しい陶器の彫像作品も多数展示されました。
また、没後100年ということで、初代蘇山の偉業を再発見すべく企画された展観もございました。
『初代 諏訪蘇山 没後百年記念展 ―初代蘇山の遺した石膏型を次代へ―』
青磁、のすばらしさを伝えると共に、型成型により成し得る造形力の魅力を、蘇山の余技作品なども併せて紹介されておりました。
学芸員さんに伺ったところでは、近年中に初代諏訪蘇山の展観のさらなる進化したバージョンも企画するということですので、楽しみです。
さて、ここで作品のご紹介に参ります前に。。。。
『帝室技芸員(ていしつぎげいいん)』というものをおさらいしておきましょう。
明治23年より昭和19年まで宮内省によって運営されていた、美術・工芸作家の顕彰制度です。
日本画家や西洋画家、彫刻家の他、金工や陶芸、漆芸といった諸工芸作家に加えて、陶工と写真家
なども認定されております。
制度発足の背景には、美術の奨励に加え、明治維新によって幕府や諸藩の庇護を失い、窮地に立たされた画家や工芸家を救い、優れた技術を保存する目的がありました。
『帝室技芸員』は当代における美術の、最高の栄誉と権威を示す制度でしたが戦後内閣府と宮内省の改変にともない消滅。
こうした顕彰行為は、後の文化勲章や重要無形文化財制度、日本芸術院会員への認定に引き継がれていきます。
定員は25名で、制度廃止まで計79名が認定されましたが、『陶芸家』ではわずか5名のみ。
三代 清風与平 明治26年(1893)認定
初代 眞葛香山 明治29年(1896)認定
初代 伊東陶山 大正6年(1917)認定
初代 諏訪蘇山 大正6年(1917)認定
板谷波山 昭和9年(1934)認定
中でも、初代諏訪蘇山は認定されてから5年後には亡くなられております。
置物?
いえ、香炉なのです。
サイズとしては・・・結構、リアル河豚に近いかもしれません。
昨夜、お料理屋さんの生け簀(いけす)にて泳いでるお姿を見たばかりなのです。(^^♪
なんとも、愛らしいお顔です。
この、口から煙を出します。
左右の鰭からも煙が出ます。
合計、3か所から香りを発するのです。
生き生きした、動きを感じさせる造形なのです。
上からも見事な発色と生々しさ。
こんな感じで開きます。
印は底部にございます。
共箱です。
初代諏訪蘇山は、遅咲き?という人生を歩まれております。
当初は、加賀藩いて武芸を学び、軍務に従事。
明治6(1873)年、任田屋徳次に陶芸を学び、明治8(1875)年に上京し工部省教師フェノロサ邸隣に住んで美術工芸を学び、また大学校教師ゴットフリード・ワグネルに化学を学んだ。
日本にとっては、釉下彩の父ですね。
明治9(1876)年 大井村に工場を設立し、橋本雅邦、久保田米僊等を招いて陶像、石膏像の製作、模型の捻造を行いました。
この頃の仕事は、後の蘇山の根幹となる『造形力』の基となるのです。
明治11(1878)年、福井県坂井港で製陶の改良に携わり、明治13(1880)年には石川県江沼郡九谷陶器会社で陶芸を教える傍らに『陶像置物』を考案し明治17(1884)年1月帰京。
ここまでだけでも、あちこちに行っておりますが、まだまだとどまるところを知らず・・・
坂井、高岡、九谷陶器会社、金沢区立工業学校、山内伊右衛門工場など北陸地方各地で陶器、煉瓦の製造、指導を行っており、指導者としてのキャリアを重ねておりましたが、この時期の行動は全て・・
『蝋型』の研究と『造形』の実現に向かう物なのです。
その後、腕を見込まれ、明治33(1900)年に『錦光山』に招聘され、職長として務めることになります。
大いに尽力しましたが、時代の流れに翻弄された『錦光山宗兵衛』は、輸出等への展開もするですが廃業へと追い込まれることになりました。
それは、歴史と確固たる技術力があっても、新たな世の中の嗜好や、技術の進化に適応していかないと生きていけないという時代の到来でした。
そして、明治40(1907)年五条坂に満を持して独立したのです。
それは56歳になる年であり、当時としてはかなりの高齢でのソロデビューであります。
しかし、そこからのスピードはそれまでの遅れを取り戻そうかのようにさらに精力的です。
七官青磁、交趾釉、白高麗、漆黒釉等、多岐に渡る様式を研究し、大正2(1913)年には鳥の子青磁を考案します。
大正3(1914)~4(1915)年、李王職の依頼により朝鮮に渡り、高麗古窯旧跡を調査と窯の再建を指導し焼成に成功。
大正6(1917)年、宮内省により帝室技芸員に選ばれることになったのです。
青磁の蘇山、で知られますが・・・その魅力を構成する中の大きなファクターは、『造形力』です。
蘇山のキャリアの多くを占める、型形成や立体物の製作のチャレンジがそれを実現しているのです。
初代諏訪蘇山の魅力が詰まった、希少な造形作品なのです!
※ご成約済みです。
今年も、残り少なくなって参りました・・・
本年は、皆様方には大変お世話になりました。また、当ブログをご覧頂きております方々にも感謝の極みでございます。
来年もどうぞ、宜しくお願い申し上げます。
皆様、良いお年をお迎えくださいませ!
2022-12-31 22:32
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