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【永楽保全(長等山) 染付竹輪 蓋置】 即中斎箱 即全外箱 [幕末京焼]

今回は、大変希少な保全作品をご紹介致します。

しかし、その作品が生まれるに至る迄の・・・保全の晩年は決して楽なものではなかったのです。


時は『嘉永2年』、『西村文書』と呼ばれる資料に記されている一文を発端に保全の生活に激変が起こります。

『酉年春、奈良風呂屋十二世。永楽善五郎回全・・・』


保全の親友である、佐野長寛の次男である『宗三郎』を養子に迎えたことに端を発する事件です。

天保14(1843)年~嘉永元年(1848)年までの『善一郎』を名乗る時代、その『善一郎家』を別家として創設するためであったということですが、その時点では問題になっておらず、嘉永2年に善五郎家に加えたことが問題であったと思われます。

和全との確執は決定的となり、保全が江戸へ遁走することとなるのです。


嘉永3年10月、三井家を頼って江戸へ下りますが、願いむなしく・・・三井家からも見放されたようです。これは本家である善五郎を立ててのことと思われますが、保全に関する文献等も廃棄されたといいます。おそらく、和全の怒りは相当なものだったのでしょう。


嘉永4年6月に、江戸より戻るも京都へは入らず、三井寺の辺りに仮寓し再起を図ります。

摂州高槻城主、永井候から『高槻焼』なる御庭焼の相談を受け築窯することになりました。


しかし、保全自身の状況もさることながら、永井家よりの資本注入の少なさに起因するところもあり、『土』も二級品であったといいます。

それゆえに、窯疵が多発するのです。

このやきものは軌道にのることなく、嘉永5年頃には頓挫したようです。

翌、嘉永6年に鷹司家からの注文品を湖南で焼いたりしましたので、再び湖南へ拠点を戻したことがうかがえます。

そして最晩年となる・・・・嘉永7年(1855年・安政元年)。

保全最後のワークとなる、『三井御濱焼』『長等山焼』が生まれました。


円満院宮の名前を借りることで、御用窯としてかろうじて自身のプライドを保つことを図ったようです。

しかし、永年・・新たな京焼・千家御用窯として名を高めることを成した保全の技量は晩年といえども衰えることなく、発揮されたのです!


今回は、その最後の最後の窯の作品です。



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永楽保全(長等山) 染付竹輪 蓋置


幅    4cm

高さ   5cm

製作年代 嘉永7(1854)年

箱    共箱 即全極め箱 即中斎書付



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完璧な、染付発色にて焼成されております。


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『竹節』の形状を模してあり・・・


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上部も同様に竹節風に形成してます。


『輪』の蓋置は多数ありますが、このようなものは希少です。

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下部から。


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『長等山 陶鈞軒保全置造』


長等山焼銘の作品は、保全の中でもかなり珍重されるもので、『三井家』に3点存在する他では『台鉢』等数点を流通上で見た程度です。


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極め外箱

眼鏡になっております。


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共箱です。


もうひとつは新箱により、書付用となっております。

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即中斎箱です。




晩年の保全は『染付』の探求に徹した節があり(もしくは多種製作が困難だったのかも)、晩年少し前の『河濱焼』は御本風の土ものでありましたが、『湖南』としてそこはひとくくりにするのではなく・・・保全晩年の『染付焼期』として『高槻焼』『湖南焼(長等山焼)』を一時代として保全研究するのも大事なのかもしれません。



この度、この時期の保全の心境・・・というか、状況を感じとりたく現地へ赴いてみました!

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『三井寺(園城寺)』

来週位から桜が綺麗なことでしょう。

弁慶の引き摺り釣鐘などでも有名です。


この傍に、有りました!


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『三井寺円満院門跡』


御濱御殿内、で焼いていたといいますが門跡前、とも。

ここの門跡は面白い造りで、有名な蕎麦屋さんがくっついております。というか門の一部になってます(笑)


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『開運そば』

良い出汁で、お値段もほどほど。故に常に人気だそうです。

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『開運そば定食』




三井寺の中からも、山を背に琵琶湖が臨め・・・なんといいますか、心安らかな感じでした。

周りも静かな地であり、保全の最後の数年の暮らしが少しだけ感じれたのです。


嘉永7(1854)年の夏期(5~7月?)に開窯した『三井御濱焼』ですが・・・


同年9月18日、大津の地にて病気にて保全が亡くなり、わずかな間で幕を閉じました。


この末期の際に和全とは和睦となったそうですが、保全にとっては心残りなことも多かったと思われます。。。


諍いの元となった、『宗三郎』は『和全』の開窯を大いに支え・・・明治に入るまでの永楽家の苦境を共にし和全の偉業を成し遂げました。


のちに、『宗三郎家』を興したあとも永楽家の手伝いを続け明治9年没します。が後に『得全』がその功績を讃え、『13代回全』として永楽家は正式に『宗三郎』に代を授けることと致しました。



ここにきて、保全と和全の仲はあの世にて再び円満な親子の縁が結ばれることとなったことでしょう。

それは、明治16(1883)年のことでした。


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※御成約済みです。


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