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《古赤膚焼》【隅切四方 手塩皿】10枚×3組 [食の器]

シンプルながらも・・・嫌いな人が居ないという珍しいやきもののひとつに、赤膚焼というものがあります。

奈良絵を施されたものがイメージされますが、釉薬だけのものも人気があります。

やや赤みを帯びた器に乳白色の萩釉を掛けた、どこか寛永の京焼の繋がりを思わせるものです。

今回は、赤膚焼の約150年程前の作品の器です。


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古赤膚焼 隅切四方 手塩皿 幅7.8㎝ 高さ2.8㎝


やわらかい赤膚釉で、四隅をくにゅっと曲げてアクセントを付けたものです。

しかし底面はきちんと取られており、いろんな使い方が出来ますね。

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全然、使われてない状態で綺麗なまま伝世しております。


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10枚組 で3組ご用意ございます。 


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全部並べると壮観です。。。


赤膚焼は天明6年(1786)大和郡山藩主・柳沢保光の保護を受け、信楽の陶工である弥右衛門により4年間作陶されました。

そして、住吉屋により本格窯として、寛政元年(1789年)五条村赤膚山に藩窯の登り窯が作られ、京都の五条坂より陶工・丸屋治兵衛が呼ばれて焼成され、その功績から・・・保光から名字「井上」と「赤膚山」の窯号と「赤ハタ」の銅印を与えられ、赤膚焼が確立されました。
しかし、保光の没後は民窯に戻ってしまします。

赤膚焼で有名な奥田木白は、元は保光の周辺に集まった文化人たちのひとりでありましたが、陶工へと転身し、天保7年(1836年)西大寺奉納楽焼茶碗を製作。
嘉永3年(1850年)頃には名工として知られ、幕末期に赤膚焼の名前を広めました。
京焼の技術を取り入れ発展させ、現在へ繋がる赤膚焼の礎を確立しました。

赤膚焼は遠州七窯の一つであり、確固たる人気がありましたが・・・「東の窯」「中の窯」「西の窯」と呼ばれる3つの窯に分かれ、盛んになりましたが・・結局、3つとも明治の終わりまでには途絶してしまいました。
その後、昭和期に古瀬家が「中の窯」を復興させ、そこから再び赤膚焼が広がることとなります。

今回の作品は、中絶前の最後の時期の赤膚焼となります。

赤土・萩釉・「赤ハタ」勾玉印と3拍子揃った優品です。

お値打ち価格ですので、是非お問い合わせくださいませ☆

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※ご成約済みです。



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藤井香雲堂 JFK お問い合わせ先 


【メール】 fujii-01@xc4.so-net.ne.jp


【お電話】090-8578-5732


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