【正意 茶入 一尾伊織箱 大倉好斎極め 惺斎 箱】 [茶道具]
茶入の謎・・・・尾張陶を研究するときに、いつも頭の片隅で疑問なのが・・・茶入です。
桃山以前の瀬戸のやきもの、でいわゆる古い茶陶・・・は、『茶入しか』無いんですよね。
桃山時代や江戸初期ですら、茶陶は瀬戸でなく、美濃ですし。
茶碗とか、水指とか、他のアイテムは無いんかい~と、不思議でならなかったわけです。
うちの師匠にことあるごとに愚痴ってるのですが、返ってくる答えは『それしか売れへんかったんやろ』
確かに。
まだ、和物茶碗として・・・長次郎も織部も志野も有りません。
遠州七窯も定められず、唐物至上主義の最中です。
そんな中、天下人を始め・・・力のあるもの、国をもつもの、が所持された唐物茶入は手に入ることがまず、不可能です。
そこで、『茶入』というアイテムへの需要が高まったこと、代用が無いものであったことが、国産化への流れを進めたのが真実といったところでしょうか。
加藤四郎左衛門 景正が安貞元年(1227年)!に唐の土を持ち帰り作ったのが『唐物』で(他のものでいう唐物と茶入れの唐物では定義が異なりますね)、和の土を使って始めたのが古瀬戸であるといわれます。
その古瀬戸の中でも分類が分かれており・・・・
唐物、古瀬戸(からもの、こせと・ふるせと) ⇒ 春慶 (初代 加藤四郎左衛門 景正)
真中古(まちゅうこ) ⇒ 藤四郎春慶 (二代 藤四郎 基道)
金華山(きんかざん) (三代 藤四郎 景国)
破風窯(はふがま) (四代 藤四郎 政連)
後窯(のちがま) 四代以降の時代での・・・利休窯、織部窯、正意、万右衛門、新兵衛、宗伯、吉 兵衛、茂右衛門、源十郎、鳴海窯などを指します。
さらにそれぞれの中で、『~手』と細分化されますが、そこは割愛します。(^-^;
後の時代のように、作者名で称されていたら、わかりやすいのに・・・と思うのは今の思考であって、当時は『作家もの』というのが主流でなかったため、唐物や高麗のような呼称をわざとつけたのでしょう。
・・・と、いうのと、なによりも・・・作者の特定自体が出来ない、という事情もあったのかと思います。
そこで、あとは誰が所有したか、伝来したか・・・で価値観が膨らんでいったのでしょう。
そもそもが、始祖であります景正という人物すら、実在かどうかという論もあります。
しかし、いずれにせよ・・・瀬戸の和物茶入れはどれも、造りも端正で佳くされており土も釉も完成度は高いものだといえます。
そして、桃山後期~江戸前期頃の後窯以降・・・から、江戸後期頃の作家性が全面に出る時代になるまでの『間』がこれまたポッカリ空いてしまうという『謎』。
茶入、が数多く存在したことで、需給が崩れたのか、町衆への普及から薄茶へのシフトが進んだのか、作れる陶工が居なくなったのか・・・はてさて。。。
・・・といったことは、さておきまして。
今回、お気に入りの茶入が手に入りました。
昨年末に目にする機会があって、そのときも欲しかったのですが・・・半年を経て、ご縁がありました☆
【正意 茶入】
幅 5.5㎝ (対角 6.4㎝) 高さ 9.3㎝ (摘みまで含むと10.3㎝)
桃山時代後期
一尾伊織 箱
大倉好斎極め
古筆了仲 加筆極め
時代 仕覆
惺斎 別箱 書付
点前 仕覆
眼鏡2重箱
右側へ回してみます。
重厚な造りの中、品があるのです。
時代の元仕覆です。
口造りです。
側面のアップです。
底面です。
いい、土です・・。
正意(しょうい)は、茶入の作者の名前となります。
山高信離(やまたか のぶつら)という、後に・・・徳川慶喜の弟である昭武がパリ万博に視察へ行った際に渋沢栄一らと随行し、維新後も万博へ派遣され帝国博物館の館長を務めた人物が記したという・・『大成陶誌』に記されてる文を見てみますと。
「正意 室町四條下ル町に住す、眼科医師堀氏。正意は泉州堺の人、京都に移り住ひて室町四條下ルに住す、利休同時代なり、飴釉にして頽れほんのりと現はるヽものあり、品格最もよし」
天正~寛永年間(1573-1644)の人で・・・
京都で眼科医を業としたが,尾張の瀬戸へ赴き茶入を製作した、とあります。
うちと同じ泉州の出身で!大好きな尾張!へとなると・・・これは私に真向きとしか思えません。(^-^;
正意には、達磨のようなフォルムから名付けられた・・・初祖から六祖、というものや、面壁、岡辺、千草などが中興名物で有名であります。
それらは、伝来等により珍重され、当世まで伝えられております。
この在野の茶入は、以下の次第になります。
眼鏡の外箱です。
元の箱です。
開けてみましょう。
一尾伊織 の箱です。
江戸時代前期の旗本・茶人です。
細川忠興(三斎)家臣の津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始しました。
元禄2年(1689年)、91歳で没す。 当時としては大変な長命ですね。
こちらは、箱の蓋裏にある極めです。
大倉好斎により、1853年に書かれたものです。
古筆鑑定家で京都の人です。紀州徳川家に仕えており、法橋に叙せられる。
文久2年(1863)に没す。
古筆 了仲の極め状もあります。
明暦2(1656)年~元文元(1736)年 古筆鑑定家
表千家の箱書の受取状も添います。
惺斎の前期の箱書です。
大正初頭です。
こちらは、箱書の際に新調された点前用の仕覆です。
面白い造りですね。挽屋の代わりでしょう。
正意は、いわゆる・・・門外漢から、茶入の世界に入ったからか、形状に面白味のあるものが多いのが特徴といわれます。
この作品も、丁寧な轆轤から、四方へと形成する・・・いわゆる『型』からの『変化』を意図しながらも、あくまで使いやすさと風格とを併せ持つことに成功しております。
高さも男性の手のひらの高さとほぼ同じに合わせており・・・袱紗による点前も非常になじみやすく、かつ飾り映えもするのです。
痛みも無く伝世しております。
元の仕覆の文様は、ちと難解ではありますが・・そこは達磨等をモチーフにした正意作茶入もあることから、なにか紐解けるヒントがあるのかもしれません。
今回は、いつもと少し違った趣向で・・・尾張陶をご紹介してみました☆
※ご成約済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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桃山以前の瀬戸のやきもの、でいわゆる古い茶陶・・・は、『茶入しか』無いんですよね。
桃山時代や江戸初期ですら、茶陶は瀬戸でなく、美濃ですし。
茶碗とか、水指とか、他のアイテムは無いんかい~と、不思議でならなかったわけです。
うちの師匠にことあるごとに愚痴ってるのですが、返ってくる答えは『それしか売れへんかったんやろ』
確かに。
まだ、和物茶碗として・・・長次郎も織部も志野も有りません。
遠州七窯も定められず、唐物至上主義の最中です。
そんな中、天下人を始め・・・力のあるもの、国をもつもの、が所持された唐物茶入は手に入ることがまず、不可能です。
そこで、『茶入』というアイテムへの需要が高まったこと、代用が無いものであったことが、国産化への流れを進めたのが真実といったところでしょうか。
加藤四郎左衛門 景正が安貞元年(1227年)!に唐の土を持ち帰り作ったのが『唐物』で(他のものでいう唐物と茶入れの唐物では定義が異なりますね)、和の土を使って始めたのが古瀬戸であるといわれます。
その古瀬戸の中でも分類が分かれており・・・・
唐物、古瀬戸(からもの、こせと・ふるせと) ⇒ 春慶 (初代 加藤四郎左衛門 景正)
真中古(まちゅうこ) ⇒ 藤四郎春慶 (二代 藤四郎 基道)
金華山(きんかざん) (三代 藤四郎 景国)
破風窯(はふがま) (四代 藤四郎 政連)
後窯(のちがま) 四代以降の時代での・・・利休窯、織部窯、正意、万右衛門、新兵衛、宗伯、吉 兵衛、茂右衛門、源十郎、鳴海窯などを指します。
さらにそれぞれの中で、『~手』と細分化されますが、そこは割愛します。(^-^;
後の時代のように、作者名で称されていたら、わかりやすいのに・・・と思うのは今の思考であって、当時は『作家もの』というのが主流でなかったため、唐物や高麗のような呼称をわざとつけたのでしょう。
・・・と、いうのと、なによりも・・・作者の特定自体が出来ない、という事情もあったのかと思います。
そこで、あとは誰が所有したか、伝来したか・・・で価値観が膨らんでいったのでしょう。
そもそもが、始祖であります景正という人物すら、実在かどうかという論もあります。
しかし、いずれにせよ・・・瀬戸の和物茶入れはどれも、造りも端正で佳くされており土も釉も完成度は高いものだといえます。
そして、桃山後期~江戸前期頃の後窯以降・・・から、江戸後期頃の作家性が全面に出る時代になるまでの『間』がこれまたポッカリ空いてしまうという『謎』。
茶入、が数多く存在したことで、需給が崩れたのか、町衆への普及から薄茶へのシフトが進んだのか、作れる陶工が居なくなったのか・・・はてさて。。。
・・・といったことは、さておきまして。
今回、お気に入りの茶入が手に入りました。
昨年末に目にする機会があって、そのときも欲しかったのですが・・・半年を経て、ご縁がありました☆
【正意 茶入】
幅 5.5㎝ (対角 6.4㎝) 高さ 9.3㎝ (摘みまで含むと10.3㎝)
桃山時代後期
一尾伊織 箱
大倉好斎極め
古筆了仲 加筆極め
時代 仕覆
惺斎 別箱 書付
点前 仕覆
眼鏡2重箱
右側へ回してみます。
重厚な造りの中、品があるのです。
時代の元仕覆です。
口造りです。
側面のアップです。
底面です。
いい、土です・・。
正意(しょうい)は、茶入の作者の名前となります。
山高信離(やまたか のぶつら)という、後に・・・徳川慶喜の弟である昭武がパリ万博に視察へ行った際に渋沢栄一らと随行し、維新後も万博へ派遣され帝国博物館の館長を務めた人物が記したという・・『大成陶誌』に記されてる文を見てみますと。
「正意 室町四條下ル町に住す、眼科医師堀氏。正意は泉州堺の人、京都に移り住ひて室町四條下ルに住す、利休同時代なり、飴釉にして頽れほんのりと現はるヽものあり、品格最もよし」
天正~寛永年間(1573-1644)の人で・・・
京都で眼科医を業としたが,尾張の瀬戸へ赴き茶入を製作した、とあります。
うちと同じ泉州の出身で!大好きな尾張!へとなると・・・これは私に真向きとしか思えません。(^-^;
正意には、達磨のようなフォルムから名付けられた・・・初祖から六祖、というものや、面壁、岡辺、千草などが中興名物で有名であります。
それらは、伝来等により珍重され、当世まで伝えられております。
この在野の茶入は、以下の次第になります。
眼鏡の外箱です。
元の箱です。
開けてみましょう。
一尾伊織 の箱です。
江戸時代前期の旗本・茶人です。
細川忠興(三斎)家臣の津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始しました。
元禄2年(1689年)、91歳で没す。 当時としては大変な長命ですね。
こちらは、箱の蓋裏にある極めです。
大倉好斎により、1853年に書かれたものです。
古筆鑑定家で京都の人です。紀州徳川家に仕えており、法橋に叙せられる。
文久2年(1863)に没す。
古筆 了仲の極め状もあります。
明暦2(1656)年~元文元(1736)年 古筆鑑定家
表千家の箱書の受取状も添います。
惺斎の前期の箱書です。
大正初頭です。
こちらは、箱書の際に新調された点前用の仕覆です。
面白い造りですね。挽屋の代わりでしょう。
正意は、いわゆる・・・門外漢から、茶入の世界に入ったからか、形状に面白味のあるものが多いのが特徴といわれます。
この作品も、丁寧な轆轤から、四方へと形成する・・・いわゆる『型』からの『変化』を意図しながらも、あくまで使いやすさと風格とを併せ持つことに成功しております。
高さも男性の手のひらの高さとほぼ同じに合わせており・・・袱紗による点前も非常になじみやすく、かつ飾り映えもするのです。
痛みも無く伝世しております。
元の仕覆の文様は、ちと難解ではありますが・・そこは達磨等をモチーフにした正意作茶入もあることから、なにか紐解けるヒントがあるのかもしれません。
今回は、いつもと少し違った趣向で・・・尾張陶をご紹介してみました☆
※ご成約済みです。
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2021-06-10 15:37
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