【市江鳳造 織部 組重 七十九翁】
道具屋、というか美術商というのは、ある意味セレクトショップみたいなものです。
(もちろん、総合的に扱ったり、自身の好みより売れ筋を優先するスタイルもあります)
近年では・・・自身のこだわりに合致したもだけを仕入れるように心がけてはおりますが、稀に・・「ご縁」で「手に入ってしまう」というものがございます。
そういうものの中で、少し時間を置いてみて俯瞰してみると・・別の見え方がしてきて、面白く思えるモノ、というのがあるのです。
今回、ご紹介するのは・・・まさにそういう類のもので、1か月間・・・眺めているうちに「かわいく」なってきた作品です。
【市江鳳造 織部 組重 七十九翁作】
幅 15.6cm×12cm
高さ 14.3cm
製作年代 弘化3(1846)年
共箱
市江鳳造、当店でもたまに入るものですが・・・どうしてもお茶碗、だけでした。
というのは、元が茶道具の価値観をベースに見てしまうと、尾張陶磁器の中でもそういう面に合ったモノを選びがちになってしまいます。
しかし、本当の面白さというのは、もっと文人的、趣味的であったりするのです。
この作品は「組重」、というものです。
このように展開致します。
まず、市江鳳造についてのご説明から。
尾張藩士である、鳳造は若年の頃から作陶を好み、仕事の傍らで平澤九朗に学びます。
明和5(1768)年生まれ、なので九朗より・・・4歳程年齢は上になるのですが、尾張藩士でありながら雅味あふれる作陶を行っている姿は、学ぶべきものは多かったと思われます。
どちらかというと、陶工職人気質というより、文人的な品と雅味あふれる作風に富んでおり、製作された茶道具や雑器は、「鳳造焼」として愛玩されたといいます。
嘉永年間には、初代不二見焼となる、村瀬美香を指導し「尾張藩士焼」的な流れを後進へと繋ぎました。
さて、今回の作品に戻りましょう。
「組重」というのは本来は、塗物で江戸期によくあったアイテムに近いものです。
提げていって、出先で愉しむ為の菓子などを入れる器ですね。
現代的にいうと、ランチボックスというかピクニックギアというか。
それを、鳳造は「やきもの」として作り上げました。
下段には鉄絵にて「松」を描いており、上段には「山間名月」という文字の彫りと「梨棗(りそう)」瓢箪小印があります。
斜めから見ると、達磨のようですね。
上段は「江上清風」の文字彫りと、「梨」の丸印が押されております。
下段にはこちらも鉄絵でより大きな「松」の絵と、同じく鉄絵にて「梨棗」の書き銘が。
蓋を開けてみましょう。
一段目は、仕切りがあります。小さいほうには金平糖なども入りそうです。
一段目の裏側には、「弘化丙午」と」彫られてます。
これは、弘化3年 1846年のことです。
よっつの足がありますが、これにより上段だけでの使用も可能となっております。
この足は、下段との合わせ爪の用途にもなっております。
下段の内側です。窯切れがありますが一応・・漆で押さえられております。
底部です。
「七十九翁 鳳造 (梨棗)瓢箪印 推敲(すいこう)両作也」
とあります。こちらは箱書きにもあるものと関連します。
内底の窯切れ部分がこちらで見えますね。
次に箱に参ります。
さすがに、やきものを手提げ出来ませんので、箱に手提げがあります。
少々イタミが。。。
先ほどの底部のものとほぼ同じです。
「梨棗園 推敲亭鳳棲 両作也 八十翁鳳造」
作品が七十九翁でしたので、焼いた後の箱書きですね。
さて・・・ここから、謎解きです。
こういう文人的な、楽しみ(苦しみ)を求められるのも幕末のやきものに付き物なのです。(-_-;)
【江上清風】
【山間名月】
宋の詩人である蘇軾(そしょく)の「赤壁の賦(ふ)」の一節に以下のものがございます。
惟江上之清風 (ただ江上の清風と)
与山間之名月 (山間の名月とは)
耳得之而為声 (耳これを得て声を為し)
目遇之而成色 (目これにあいて色を成す)
取之無禁 (これを取れども禁ずるなく)
用之不尽 (これを用うれども尽きず)
是造物者之無尽蔵也 (これ造物者の無尽蔵なり)
赤壁は、三国志でも有名な地です。
そこで蘇軾(そしょく)が舟遊びをしたときの歌の中の一節です。
その歌の始まりは以下のような感じです。。。。
1082年の秋、7月16日、私は客人とともに舟を浮かべて赤壁の辺りで遊びました。
すがすがしい風がゆっくりと吹いてきましたが、水面には波がたっていません。
酒をあげて客人に勧め、「名月」の詩を唱えて、「窈窕」の詩を歌いました。
しばらくして、次が東の山の上に出て、射手座と山羊座の間を動いていきます。
きらきらと光る露が川面に広がり、水面の輝きは(水平線の彼方で)天と接しています。
一艘の舟が(川の流れの)ゆく所に従って、果てしなく広々としたその先まで進んでいきます。
(その様は)どこまでも限りなく続く大空で風に乗ってとどまるところを知らないかのようであり、ふ
わふわと浮かんで世俗のことを忘れてただ一人で、羽が映えて天に登って仙人になったかのように感じられます。
さて、ここまで来ますと・・・この組重の形状が、まるで「舟」のようにも感じてくるものです。
このような歌を詠みたくなるような、舟が似合うロケーション・・・市江鳳造が、このとき居たであろうと推察出来るヒントがあります。
「推敲亭」
原叟が作ったとされる、桑名にある草庵です。
「推敲亭鳳棲」
とありますので、滞在したであろうとも思えます。
桑名となれば、昨年・・・初めて桑名を訪れた時の風景を、ふと、思い出したのです。
桑名には、きれいな松原が続く木曽川に面した風景があるのです。
下段の3面に松原が続くように描かれているのです☆
やわらかい織部釉が、まるでこのやさしい風景の緑とも相まって見える気がするのです。
この作品が生まれた江戸時代というのは、国内ですら自由に行き来することもままならない時代です。
このように、かの地に思いを馳せて・・・普段居る、場所などでいかに楽しむ、というのはまるで今のコロナ禍の楽しみ方に通じるヒントかもしれません。
※売却済みです。
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Journal of FUJII KOUNDO 《お問い合わせ先》
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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(もちろん、総合的に扱ったり、自身の好みより売れ筋を優先するスタイルもあります)
近年では・・・自身のこだわりに合致したもだけを仕入れるように心がけてはおりますが、稀に・・「ご縁」で「手に入ってしまう」というものがございます。
そういうものの中で、少し時間を置いてみて俯瞰してみると・・別の見え方がしてきて、面白く思えるモノ、というのがあるのです。
今回、ご紹介するのは・・・まさにそういう類のもので、1か月間・・・眺めているうちに「かわいく」なってきた作品です。
【市江鳳造 織部 組重 七十九翁作】
幅 15.6cm×12cm
高さ 14.3cm
製作年代 弘化3(1846)年
共箱
市江鳳造、当店でもたまに入るものですが・・・どうしてもお茶碗、だけでした。
というのは、元が茶道具の価値観をベースに見てしまうと、尾張陶磁器の中でもそういう面に合ったモノを選びがちになってしまいます。
しかし、本当の面白さというのは、もっと文人的、趣味的であったりするのです。
この作品は「組重」、というものです。
このように展開致します。
まず、市江鳳造についてのご説明から。
尾張藩士である、鳳造は若年の頃から作陶を好み、仕事の傍らで平澤九朗に学びます。
明和5(1768)年生まれ、なので九朗より・・・4歳程年齢は上になるのですが、尾張藩士でありながら雅味あふれる作陶を行っている姿は、学ぶべきものは多かったと思われます。
どちらかというと、陶工職人気質というより、文人的な品と雅味あふれる作風に富んでおり、製作された茶道具や雑器は、「鳳造焼」として愛玩されたといいます。
嘉永年間には、初代不二見焼となる、村瀬美香を指導し「尾張藩士焼」的な流れを後進へと繋ぎました。
さて、今回の作品に戻りましょう。
「組重」というのは本来は、塗物で江戸期によくあったアイテムに近いものです。
提げていって、出先で愉しむ為の菓子などを入れる器ですね。
現代的にいうと、ランチボックスというかピクニックギアというか。
それを、鳳造は「やきもの」として作り上げました。
下段には鉄絵にて「松」を描いており、上段には「山間名月」という文字の彫りと「梨棗(りそう)」瓢箪小印があります。
斜めから見ると、達磨のようですね。
上段は「江上清風」の文字彫りと、「梨」の丸印が押されております。
下段にはこちらも鉄絵でより大きな「松」の絵と、同じく鉄絵にて「梨棗」の書き銘が。
蓋を開けてみましょう。
一段目は、仕切りがあります。小さいほうには金平糖なども入りそうです。
一段目の裏側には、「弘化丙午」と」彫られてます。
これは、弘化3年 1846年のことです。
よっつの足がありますが、これにより上段だけでの使用も可能となっております。
この足は、下段との合わせ爪の用途にもなっております。
下段の内側です。窯切れがありますが一応・・漆で押さえられております。
底部です。
「七十九翁 鳳造 (梨棗)瓢箪印 推敲(すいこう)両作也」
とあります。こちらは箱書きにもあるものと関連します。
内底の窯切れ部分がこちらで見えますね。
次に箱に参ります。
さすがに、やきものを手提げ出来ませんので、箱に手提げがあります。
少々イタミが。。。
先ほどの底部のものとほぼ同じです。
「梨棗園 推敲亭鳳棲 両作也 八十翁鳳造」
作品が七十九翁でしたので、焼いた後の箱書きですね。
さて・・・ここから、謎解きです。
こういう文人的な、楽しみ(苦しみ)を求められるのも幕末のやきものに付き物なのです。(-_-;)
【江上清風】
【山間名月】
宋の詩人である蘇軾(そしょく)の「赤壁の賦(ふ)」の一節に以下のものがございます。
惟江上之清風 (ただ江上の清風と)
与山間之名月 (山間の名月とは)
耳得之而為声 (耳これを得て声を為し)
目遇之而成色 (目これにあいて色を成す)
取之無禁 (これを取れども禁ずるなく)
用之不尽 (これを用うれども尽きず)
是造物者之無尽蔵也 (これ造物者の無尽蔵なり)
赤壁は、三国志でも有名な地です。
そこで蘇軾(そしょく)が舟遊びをしたときの歌の中の一節です。
その歌の始まりは以下のような感じです。。。。
1082年の秋、7月16日、私は客人とともに舟を浮かべて赤壁の辺りで遊びました。
すがすがしい風がゆっくりと吹いてきましたが、水面には波がたっていません。
酒をあげて客人に勧め、「名月」の詩を唱えて、「窈窕」の詩を歌いました。
しばらくして、次が東の山の上に出て、射手座と山羊座の間を動いていきます。
きらきらと光る露が川面に広がり、水面の輝きは(水平線の彼方で)天と接しています。
一艘の舟が(川の流れの)ゆく所に従って、果てしなく広々としたその先まで進んでいきます。
(その様は)どこまでも限りなく続く大空で風に乗ってとどまるところを知らないかのようであり、ふ
わふわと浮かんで世俗のことを忘れてただ一人で、羽が映えて天に登って仙人になったかのように感じられます。
さて、ここまで来ますと・・・この組重の形状が、まるで「舟」のようにも感じてくるものです。
このような歌を詠みたくなるような、舟が似合うロケーション・・・市江鳳造が、このとき居たであろうと推察出来るヒントがあります。
「推敲亭」
原叟が作ったとされる、桑名にある草庵です。
「推敲亭鳳棲」
とありますので、滞在したであろうとも思えます。
桑名となれば、昨年・・・初めて桑名を訪れた時の風景を、ふと、思い出したのです。
桑名には、きれいな松原が続く木曽川に面した風景があるのです。
下段の3面に松原が続くように描かれているのです☆
やわらかい織部釉が、まるでこのやさしい風景の緑とも相まって見える気がするのです。
この作品が生まれた江戸時代というのは、国内ですら自由に行き来することもままならない時代です。
このように、かの地に思いを馳せて・・・普段居る、場所などでいかに楽しむ、というのはまるで今のコロナ禍の楽しみ方に通じるヒントかもしれません。
※売却済みです。
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2021-08-10 16:07
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