【加藤幹山(伝七) 青花 酒呑】 [幕末京焼]
モノ、の流れというのは・・・時流や、タイミングがございます。
特に、当方のようなマニアックな商店では、その辺の見極めが特に重要になってきます。
また、出た時に買えばええやん・・・が通じないものもあるからなのです。
それが故に、苦しむこともあるのですが~(^^;
で、どうやら・・・幕末京染付のご縁が深まりそうな、予感がありますもので・・・ご紹介を今のうちに進めておきたいと思います。
【加藤幹山(伝七) 青花 酒呑】
幅 5.9cm
高さ 6.8cm
共箱
製作年代 文久3(1863)年~幕末頃
京焼での磁器は、『奥田潁川』が天明年間(1781~89)、焼成に成功しましたのが最初です。
しかし、『白磁』や『赤絵』のみで、『染付』は弟子のひとりであった『仁阿弥道八』が初めて完成させたのです。
天保年間(1830~1843)に『塩野熊吉郎』が有田より持ち帰りし技術により、『仁阿弥道八』が文化9(1812)年に染付磁器の焼成に成功しました。
これにより、五条坂を中心に『京焼染付』の黄金期がスタートするのです。
続くところ・・・『初代清風与平』が文政10(1827)年頃より、他にも熊吉郎の子である『宮田亀寿』や『和気亀亭』等と染付磁器の陶工が現れ活躍するのですが・・・
この、『磁器』というものを京都に先駆けて成功させていた『瀬戸染付』の地である瀬戸からのご縁の工人がひとり。
『加藤幹山』
のちに、『幹山伝七』という名で世に知られる名工です。
『馬上杯』形で、洋酒用の舶来品からのイメージも感じさせます。
染付の発色も、形状も抜群です。
他の部分もアップで見てまいりましょう。
上から。
このように、途中で絵付けの区切りがあるのは、どうしても絵付けの筆が入る部分までしか描けなかったからです。
『幹山』銘
『加藤幹山』は、瀬戸の出身で、湖東焼にも参画し染付磁器の確かな技術をもつ名工です。
湖東焼は、三代六兵衛や幹山などを招聘し、彦根藩窯として磁器焼成を行ったお庭窯です。
文久3(1863)年に彦根から京都に戻り、製作を開始し・・・明治からは海外の万博向けの作品にも展開しました。
その頃には『幹山伝七』と名を変えて活躍されております。
共箱です。
明治以降の、海外を意識したものと違い・・・この頃の純粋な、『染付作品』たちに、とても親近感を覚えます。
永楽保全や和全、ともまた違う・・・五条坂の京染付には、独時の風合いがあり・・・同時代で切磋琢磨した染付のセンスの差を楽しむのが、愉しいのです。
文政4(1821)~明治23(1890)年
尾張(愛知県)瀬戸生まれ。
加藤孝兵衛の3男で幼名,繁次郎といいます(のち孝兵衛を襲名)
彦根藩の招きにより,安政4(1857)~文久2(1862)年湖東焼で作陶を行う。
同年京都東山に移り,慶応年間(1865~68)清水に丸窯を築き,磁器製造を始める。
文久3年,幹山松雲亭と号し,明治に入り,幹山伝七を名乗った。
明治5(1872)年京都府から「職業出精ノ者」として表彰,同8年,京都府勧業場御用掛に任命される。
国内の博覧会をはじめ,パリ,シドニー,アムステルダムの万国博覧会でも幾多の賞を受ける。
明治3年ごろから指導を受けたワグナーの影響により,西洋絵具の試用,石炭窯による磁器焼成など京焼に新しい動きをもたらした。
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Journal of FUJII KOUNDO 《問い合わせ先》
藤井香雲堂
TEL 090-8578-5732
MAIL fujii-01@xc4.so-net.ne.jp
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特に、当方のようなマニアックな商店では、その辺の見極めが特に重要になってきます。
また、出た時に買えばええやん・・・が通じないものもあるからなのです。
それが故に、苦しむこともあるのですが~(^^;
で、どうやら・・・幕末京染付のご縁が深まりそうな、予感がありますもので・・・ご紹介を今のうちに進めておきたいと思います。
【加藤幹山(伝七) 青花 酒呑】
幅 5.9cm
高さ 6.8cm
共箱
製作年代 文久3(1863)年~幕末頃
京焼での磁器は、『奥田潁川』が天明年間(1781~89)、焼成に成功しましたのが最初です。
しかし、『白磁』や『赤絵』のみで、『染付』は弟子のひとりであった『仁阿弥道八』が初めて完成させたのです。
天保年間(1830~1843)に『塩野熊吉郎』が有田より持ち帰りし技術により、『仁阿弥道八』が文化9(1812)年に染付磁器の焼成に成功しました。
これにより、五条坂を中心に『京焼染付』の黄金期がスタートするのです。
続くところ・・・『初代清風与平』が文政10(1827)年頃より、他にも熊吉郎の子である『宮田亀寿』や『和気亀亭』等と染付磁器の陶工が現れ活躍するのですが・・・
この、『磁器』というものを京都に先駆けて成功させていた『瀬戸染付』の地である瀬戸からのご縁の工人がひとり。
『加藤幹山』
のちに、『幹山伝七』という名で世に知られる名工です。
『馬上杯』形で、洋酒用の舶来品からのイメージも感じさせます。
染付の発色も、形状も抜群です。
他の部分もアップで見てまいりましょう。
上から。
このように、途中で絵付けの区切りがあるのは、どうしても絵付けの筆が入る部分までしか描けなかったからです。
『幹山』銘
『加藤幹山』は、瀬戸の出身で、湖東焼にも参画し染付磁器の確かな技術をもつ名工です。
湖東焼は、三代六兵衛や幹山などを招聘し、彦根藩窯として磁器焼成を行ったお庭窯です。
文久3(1863)年に彦根から京都に戻り、製作を開始し・・・明治からは海外の万博向けの作品にも展開しました。
その頃には『幹山伝七』と名を変えて活躍されております。
共箱です。
明治以降の、海外を意識したものと違い・・・この頃の純粋な、『染付作品』たちに、とても親近感を覚えます。
永楽保全や和全、ともまた違う・・・五条坂の京染付には、独時の風合いがあり・・・同時代で切磋琢磨した染付のセンスの差を楽しむのが、愉しいのです。
文政4(1821)~明治23(1890)年
尾張(愛知県)瀬戸生まれ。
加藤孝兵衛の3男で幼名,繁次郎といいます(のち孝兵衛を襲名)
彦根藩の招きにより,安政4(1857)~文久2(1862)年湖東焼で作陶を行う。
同年京都東山に移り,慶応年間(1865~68)清水に丸窯を築き,磁器製造を始める。
文久3年,幹山松雲亭と号し,明治に入り,幹山伝七を名乗った。
明治5(1872)年京都府から「職業出精ノ者」として表彰,同8年,京都府勧業場御用掛に任命される。
国内の博覧会をはじめ,パリ,シドニー,アムステルダムの万国博覧会でも幾多の賞を受ける。
明治3年ごろから指導を受けたワグナーの影響により,西洋絵具の試用,石炭窯による磁器焼成など京焼に新しい動きをもたらした。
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2022-03-18 14:58
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