【任土斎(九代)弥兵衛 鶴香合】 松尾宗古(6代)仰止斎 箱 ※追記 [幕末京焼]
【2023年1月16日 加筆 元記事は、2022年11月の分です。】
茶の湯の世界では・・・今月は『炉開き』
旧暦の十月(亥月)、『亥月の亥の子の祝い日』に茶室の炉を開きます。
新暦でいうと・・今月の11月6日がその日にあたります。
亥は子だくさん、であり・・そして亥は、中国の陰陽五行説で水の性質をもつことから火を防ぐと考えられ『火の用心』の意味も込められます。
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米を使って作られる『亥の子餅』にて、子孫繁栄を願い食される風習があります。
裏千家流の炉開きでは『善哉』が出される事がございます。
こちらも、亥の子餅と同じく・・・亥の月日が『陰』であるのに対し、陽のものである『小豆』を食べることで『陰陽和合』を期するのだそうです。
そして、祝いということで・・・炉開きの月にはおめでたい道具組をすることも多く見受けられます。
今回ご紹介の作品は、炉開きの茶事におすすめの香合でございます。
任土斎(九代) 弥兵衛
鶴香合
製作年代天保元(1830)~安政3(1856)年頃
幅 7.5cm
高さ 4.8cm
共箱、松尾宗古(6代)仰止斎 箱
所謂、『玉水焼』です。
玉水焼については、昨年に樂さんが研究した成果を発表され、展観と図録発行を行われましたことで近年知名度が下がっていたものが、再び脚光を浴びることになりました。
玉水焼(たまみずやき)は樂家四代一入の庶子・一元(1662?~1722)が山城国玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町玉水)において開いた楽焼窯です。
開窯は元禄年間と考えられており、一元 ⇒ 一空 ⇒ 任土斎 と、三代の初期玉水焼は、本家の樂家の血筋を受けており、また製作活動も『脇窯』・・というイメージというより、本樂と並立した存在であったような気が致します。
作品数は本樂程多くは有りませんが、各千家のその時代の家元による箱書き作品もあり、きちんとした立場で需要も多かったと見受けられるのです。
しかし、任土斎は子がおらず・・家としては三代目で中絶してしまいます。
その後、一元時代より製作を助けていた『伊縫家甚兵衛(楽翁)』が四代を継承し『玉水焼』は幕末期まで永らく続いていくのです。
樂家の紹介では『八代まで数えましたが明治に入って廃窯となりました』と記されますが、実際は幕末期の『九代目』が最後であったと思われます。
まずは、作品をご覧下さいませ。
やや、面をシャープにとって造形されております。
この手法はこの時期に見受けられる特徴のひとつであり・・『初代~二代頃の清水六兵衛』『仁阿弥道八』や、道八も参加した角倉家庭焼の『一方堂焼』にも同様の香合が存在します。
EVAの使徒にも居てそうです。(笑)
都鳥香合にも似た、作り方です。
全体の造形バランスも絶品です。
こちらは、松尾流六代目である宗古(仰止斎)の花押の朱書です。
はっきりとした印付です。
本樂の流れを汲んでおりますので、こういった印の作りにも堂々としたものを感じます。
現在では松尾流は大変小規模になってしまいましたが、この時期の興隆は大きく・・・当時の京焼の名家に好み物などの直接製作注文をしております。
松尾流、としての意義はさておき・・・私としては、それらの作品の製作年代判定や、その当時からあまり多岐に渡り・・作品が散逸せず、ワンオーナーに近い状態で出てくることに価値を感じております。
この作品もそうです。
共箱です。 左下の欠損部を縞柿にて補っているのも雅です。
仰止斎 箱
最近では、保全作品でも仰止斎 箱を扱いました。そちらも伝世数としては希少な保全の印と共箱の組み合わせに加え、仰止斎による最初からの箱であった為、『天保14(1843)~嘉永元(1848)年』の製作年代の特定が出来たのです。
この作品も同様に、上限と下限として天保元(1830)~安政3(1856)年となり、またそのことで資料不在による、時代認証の補強が可能となります。
【加筆部分】
この期間というと、玉水焼研究資料によりますと・・・
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
の2者が可能性として入ります。
しかしながら、玉水伊縫家に残された文献の家系図の読み解きによると・・・長次郎から計算して、九代は、四代『楽翁』もしくは五代『娯楽斎』が相当します。
ところが、『任土斎九代 弥兵衛』と記されているこの共箱からすると、『弥兵衛』となっておりますので六代『涼行斎』となるのです。
この辺は、北樂家十五代『直入』さんの研究でも指摘されております。
しかし、遺されております『涼行斎』の箱筆跡や、花押とは『九代弥兵衛』箱は異なります。
で、今回の『松尾宗古』と絡めてみますと・・・
作品に後に書付と直書きをされる例もありますことから、確定までは出来ませんが・・先述の保全香合のパターンや箱の感じから、同時代の書付と見れると推測します。
さらに、作品の造りや雰囲気は極めて幕末期の京焼のテイストに合致致します。
そこも含めると・・・
やはり、
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
のどちらかに絞れると思われます。
そして、ここからは推論です。
六代『涼行斎』の没したのは、安永7年6月です。
それから安永10年に”生まれた”、七代『浄閑斎』が後を継ぐまでの長い空白期間に、永楽でいうところの『妙全』なり『回全』のような未亡人や職人さんによる、窯の継承維持期間を『代』カウントした可能性が有ります。
故に家系図ではカウントされず、窯元としてはカウントされるということです。
そうなると、八代『照暁斎』、玉水焼の最後となる人が・・・九代と自身を認識し、箱書きされていてもおかしくないのです。
今のところ、これ以上の研究は進みようはありませんが、今回の作品と遺された家系史などと整合しうる結論はこの辺かというところです。
既に、『ご成約済み』の作品の紹介ではありますが、自身の備忘録の意味も含めて『追記』しておくことに致しました次第です☆
※ご成約済みです。
茶の湯の世界では・・・今月は『炉開き』
旧暦の十月(亥月)、『亥月の亥の子の祝い日』に茶室の炉を開きます。
新暦でいうと・・今月の11月6日がその日にあたります。
亥は子だくさん、であり・・そして亥は、中国の陰陽五行説で水の性質をもつことから火を防ぐと考えられ『火の用心』の意味も込められます。
大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米を使って作られる『亥の子餅』にて、子孫繁栄を願い食される風習があります。
裏千家流の炉開きでは『善哉』が出される事がございます。
こちらも、亥の子餅と同じく・・・亥の月日が『陰』であるのに対し、陽のものである『小豆』を食べることで『陰陽和合』を期するのだそうです。
そして、祝いということで・・・炉開きの月にはおめでたい道具組をすることも多く見受けられます。
今回ご紹介の作品は、炉開きの茶事におすすめの香合でございます。
任土斎(九代) 弥兵衛
鶴香合
製作年代天保元(1830)~安政3(1856)年頃
幅 7.5cm
高さ 4.8cm
共箱、松尾宗古(6代)仰止斎 箱
所謂、『玉水焼』です。
玉水焼については、昨年に樂さんが研究した成果を発表され、展観と図録発行を行われましたことで近年知名度が下がっていたものが、再び脚光を浴びることになりました。
玉水焼(たまみずやき)は樂家四代一入の庶子・一元(1662?~1722)が山城国玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町玉水)において開いた楽焼窯です。
開窯は元禄年間と考えられており、一元 ⇒ 一空 ⇒ 任土斎 と、三代の初期玉水焼は、本家の樂家の血筋を受けており、また製作活動も『脇窯』・・というイメージというより、本樂と並立した存在であったような気が致します。
作品数は本樂程多くは有りませんが、各千家のその時代の家元による箱書き作品もあり、きちんとした立場で需要も多かったと見受けられるのです。
しかし、任土斎は子がおらず・・家としては三代目で中絶してしまいます。
その後、一元時代より製作を助けていた『伊縫家甚兵衛(楽翁)』が四代を継承し『玉水焼』は幕末期まで永らく続いていくのです。
樂家の紹介では『八代まで数えましたが明治に入って廃窯となりました』と記されますが、実際は幕末期の『九代目』が最後であったと思われます。
まずは、作品をご覧下さいませ。
やや、面をシャープにとって造形されております。
この手法はこの時期に見受けられる特徴のひとつであり・・『初代~二代頃の清水六兵衛』『仁阿弥道八』や、道八も参加した角倉家庭焼の『一方堂焼』にも同様の香合が存在します。
EVAの使徒にも居てそうです。(笑)
都鳥香合にも似た、作り方です。
全体の造形バランスも絶品です。
こちらは、松尾流六代目である宗古(仰止斎)の花押の朱書です。
はっきりとした印付です。
本樂の流れを汲んでおりますので、こういった印の作りにも堂々としたものを感じます。
現在では松尾流は大変小規模になってしまいましたが、この時期の興隆は大きく・・・当時の京焼の名家に好み物などの直接製作注文をしております。
松尾流、としての意義はさておき・・・私としては、それらの作品の製作年代判定や、その当時からあまり多岐に渡り・・作品が散逸せず、ワンオーナーに近い状態で出てくることに価値を感じております。
この作品もそうです。
共箱です。 左下の欠損部を縞柿にて補っているのも雅です。
仰止斎 箱
最近では、保全作品でも仰止斎 箱を扱いました。そちらも伝世数としては希少な保全の印と共箱の組み合わせに加え、仰止斎による最初からの箱であった為、『天保14(1843)~嘉永元(1848)年』の製作年代の特定が出来たのです。
この作品も同様に、上限と下限として天保元(1830)~安政3(1856)年となり、またそのことで資料不在による、時代認証の補強が可能となります。
【加筆部分】
この期間というと、玉水焼研究資料によりますと・・・
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
の2者が可能性として入ります。
しかしながら、玉水伊縫家に残された文献の家系図の読み解きによると・・・長次郎から計算して、九代は、四代『楽翁』もしくは五代『娯楽斎』が相当します。
ところが、『任土斎九代 弥兵衛』と記されているこの共箱からすると、『弥兵衛』となっておりますので六代『涼行斎』となるのです。
この辺は、北樂家十五代『直入』さんの研究でも指摘されております。
しかし、遺されております『涼行斎』の箱筆跡や、花押とは『九代弥兵衛』箱は異なります。
で、今回の『松尾宗古』と絡めてみますと・・・
作品に後に書付と直書きをされる例もありますことから、確定までは出来ませんが・・先述の保全香合のパターンや箱の感じから、同時代の書付と見れると推測します。
さらに、作品の造りや雰囲気は極めて幕末期の京焼のテイストに合致致します。
そこも含めると・・・
やはり、
七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年
八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年
のどちらかに絞れると思われます。
そして、ここからは推論です。
六代『涼行斎』の没したのは、安永7年6月です。
それから安永10年に”生まれた”、七代『浄閑斎』が後を継ぐまでの長い空白期間に、永楽でいうところの『妙全』なり『回全』のような未亡人や職人さんによる、窯の継承維持期間を『代』カウントした可能性が有ります。
故に家系図ではカウントされず、窯元としてはカウントされるということです。
そうなると、八代『照暁斎』、玉水焼の最後となる人が・・・九代と自身を認識し、箱書きされていてもおかしくないのです。
今のところ、これ以上の研究は進みようはありませんが、今回の作品と遺された家系史などと整合しうる結論はこの辺かというところです。
既に、『ご成約済み』の作品の紹介ではありますが、自身の備忘録の意味も含めて『追記』しておくことに致しました次第です☆
※ご成約済みです。
2023-01-16 15:23
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