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【奥田木白 赤膚焼人形手写 茶碗】 惺斎 箱 [国焼(地方窯)]

奈良の中心地より・・・やや『南』へ下ったところに『大和郡山』という地があります。

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かつては、『郡山藩』と呼ばれ・・・お城も存在します。


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郡山城は1580年に筒井順慶の築城による、大和でもっとも大規模な城郭です。

豊臣家、水野家、松平家、本多家、柳澤家の居城となりました。

(現在では天守閣は無いのですが、城郭は現存します)

城主であった、『羽柴秀長』が常滑から陶工『与九郎』を呼び寄せて始まった、奈良市の五条町『赤膚山』でのやきものがありました。


『赤膚焼』(あかはだやき)です。


『遠州七窯』として数えられていることで知られます。

しかし遠州存命時代には茶陶は無かったようです。では何故七窯に数えられているのでしょう?


小堀遠州は、実は『郡山』の地にゆかりがあるのです。


天正13(1585)年、『豊臣秀長』が大和郡山城に移封されると、遠州の父『正次』が家老となり、『政一』(後の遠州)も一緒に大和郡山に移り住み、幼少期を過ごすことになったのです。

『豊臣秀長』は『千利休』に師事し、また『山上宗二』を招くなど・・・この地は『京都』『堺』『南都(奈良)』と並び、茶の湯が盛んになったといいます。


小姓だった政一は秀吉への給仕を務め、利休や黒田如水、長政父子との邂逅の中・・・やがて、古田織部に茶の湯を学ぶことになるのです。


『徳川家康』に仕えた後の活躍は知られる通りです。


窯の実際の稼働は遠州没後のことのようでもあり、幕末期の書物には『遠州印』とよばれるものが記載されて『9つ』作品があったと記されておりますがさだかではありません。


『遠州七窯』は江戸後期頃の文献にて初めて名が登場する、実は後世の名称なのです。


しかし、遠州好みに合致する諸国国焼きの窯のひとつとして・・江戸後期から現代に至るまで認識されている雅味な窯であることには違いないのです。

その、『赤膚焼』の魅力が最大限開いたのが『奥田木白』時代なのです。

今回は、その木白作品をご紹介致します。



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【奥田木白 赤膚焼人形手写 茶碗】


幅   13.5cm

高さ  7.8cm

高台径 5.2cm

重量  317g

製作年代 江戸後期

箱    惺斎書付



『青磁人形手』とよばれるタイプのお茶碗です。


青磁?と思われる方も多いでしょうが・・・土灰を主とする『青磁釉』を『酸化炎』で焼成するとこのような色に発色するようです。

『還元炎』で焼成すると知られる緑色の青磁となります。



唐物では『米色青磁』と称され、日本では醤油のような赤茶色であることから『醤手』(ひしおで)とも云われます。

『侘び茶』がもてはやされた日本では、このような発色の茶碗は人気が高かったようです。


ぐるっと見回してみましょう。


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外には『檜垣紋様』が、味わい深い『箆使い』にて刻まれております。


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フォルムも、背が高すぎず・・・低すぎず、茶碗としては最高のバランスです。


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見込み側も美しいものです。

底に『窯切れ』はございますが、漏れなどもちろんございませんし使用になんら問題は有りません。



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『人形手』と呼ばれる所以は、内側に『人物』のような絵が入ってることからです。


口縁内側分の『雷文帯』と呼ばれる『押印』による文様があります。

こちらも、人形手のお約束事項です。


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木白研究者の弁として文献にて拝見した、興味深い記述が有ります。


木白作品は大量生産ではなく1点1点を丁寧に手作りされるものである。故に手間と神経を使う作業ではあるが・・・土が乾ききる前、まだ少し柔らかい間に削りを入れることで・・力強さから自然と土が微妙な収縮をすることで生まれる、柔らかな木白独自の箆削りが生まれる、と。


なるほど!

この作品を見るときに感じる、なんとも言えない・・高貴さと、暖かみの調和はそこにあったのかと、膝を打った次第です。


『奥田木白』は『大和郡山藩』の御用小間商人であり陶工でもありました。


天保7(1836)年より郡山藩医『青木木兎』の指導を受け楽焼を始め、天保10(1839)年には稗田村(えだむら)と呼ばれる地で『瓦窯』を設け、本格的な作陶に入りました。


『模物類、瀬戸、松本萩、唐津、高取、青磁人形手、御本半使、南蛮并樂焼(なんばんならびにらくやき)』という・・・いわゆる『諸国国焼き写し処』という看板を掲げ、製作並びに赤膚焼の販売所を行っていたのです。

その堂々とした看板からも、自身の腕っぷしの自身がうかがえますが・・実際に、日本各地からの需要が多く依頼されるほどの評判であったようです。

轆轤師として『山口縫造』の名が記されており、また絵付け物は絵師とのコラボレーションも多く遺されております。

実際の茶陶における『赤膚焼の祖』というべき存在なのです。

明治4(1871)年に没する迄の35年間に多種多様の作品を日本中に広めました。



・・・っと、箱書のことを忘れておりました。(^^;

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表千家家元、惺斎宗匠の大正時代の箱になります。


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『国焼』、本当に良いものですね~さいなら、さいなら、さいなら・・・

(そんな、映画紹介番組がありましたのを、ふと何十年かぶりに思い出しました[あせあせ(飛び散る汗)]


※御成約済みです。

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