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【十三代永楽善五郎(回全) 於大内山造之 御室焼水指】 [幕末京焼]

『まぼろしの永楽善五郎』


一部のやきもの愛好家、国焼にご興味の深い茶人さん・・・で無ければ、存在すら知られることのない、永楽の代が存在いたします。


『13代 回全』


『11代』の『保全』、『12代』の『和全』、『14代』の『得全』は茶会等でも、よく見かけますし、美術館等での展観にも登場致しますが、『13代』の『回全』は・・・永楽家の関わる歴代展でしか、紹介されることはまず、有りません。


『家系の史実』、としては茶道や美術の書籍等では歴代に記されておりますが、作品としての分類認知は、先々代の『16代 即全』さんの後期から、極め箱書きなどは『17代 而全』さん頃・・・平成時代からしか行われておりませんので、一般的にはまだまだ認知度が低いのは致し方ないのです。


当ブログでも、度々登場します回全・・・本名『西村宗三郎』、今回はその軌跡も含めてご紹介して参りましょう。




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【十三代永楽善五郎(回全) 於大内山造之 御室焼水指】


幅     14.8cm

高さ    19cm

口径    12cm

製作年代  嘉永6(1853)~慶応2(1866)年頃

共箱



この作品は、宗三郎の代表的な作品として、知られる『仁清』手の水指です。


和全が宗三郎と共同でスタートした、『御室窯』は永楽家悲願であった、自製の本窯を持つことが叶った一大事業でありました。


宗三郎の所有する、仁阿寺の裏側の地に構えたその窯は、かの京焼の祖ともいうべき『野々村仁清』の窯跡の地でありました。


築窯の際に陶片が出土したことから判明したと言われておりますが、おそらくは事前にそのことを知ったうえで、正当な京焼の伝道者としてのアピールを狙っての、嘉永5(1852)年開窯だとも推測されます。


そして、御室初窯となった翌、嘉永6(1853)年から『和全』の『善五郎』時代の製作がスタート
するのです。

その、宣伝内容に負けない、とても上品で雅味溢れる・・・仁清作品を意識した初期作品群が多数伝世しております。


この作品も、陶土から、釉調、口造りに至るまで仁清のテイストがいかんなく発揮されつつ、永楽家としての手練れの技術が存分に発揮されております。



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とても、丁寧に形成されております。

釉薬の下は、縄簾のような景色付けもうかがえます。

野々村仁清の色絵ではないものに、モノクロームの作品群が存在します。

それらは、逆に仁清の得意とする『轆轤』の技術力、フォルムのデザイン性をより克明に印象付けるもので、本作品も同様のものであります。




永楽によるこのプロジェクトは、幕末期にはすっかり衰退しておりました『御室焼』の復興、も意図されておりました。

この作品に使用される2種の釉薬は、それぞれが単色としても作品がある伝統の釉調です。


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ザっと掛け分ける、その大胆かつ、繊細な作業は窯変も相まって、そても味わいが深いものになっております。


初期の京焼から、『写し物』の伝統があり、野々村仁清作品にも『高取焼』の写しや近似するものも確認されております。

その際にも、これに似た釉薬を使用し、形状を高取焼に合わせることで、写しものを自在に生み出せたようです。




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蓋上から。

摘みの花状も絶妙な大きさと、厚みでお点前の用も考えられております。


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この、口造りは仁清作品で特徴的なものとして知られる手法です。


このわずかな、手の加えによりフォルムの引き締めと、華やかさの表現が両立されるのです。


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印、は『河濱支流』で、もちろん永楽家のものです。


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蓋裏側です。




宗三郎は、幼名を『佐野善治郎』といい、天保5(1834)年に京都の伝説的な塗師である『佐野長寛』の次男として生まれました。

長寛と親友であった『保全』が、養子として迎え、和全に家督を譲った後に、善五郎とは別ラインの『善一郎』家を立てようとしたのです。

このことが、和全との不仲を招くことになり・・・その軋轢は、亡くなる直前まで続いたといわれます。

しかし、この『養子』というのは、いわゆる養子というより『客分』としての待遇であり、保全の意図したことは本家に反することであったのか、単に制約から離れて自由な作陶をしたかったものなのかは、不明ですが・・・。


いずれにせよ、宗三郎は何も意図することはなく、ひたすら腕をみがくことと、永楽家に尽力することに徹しており、和全とか20歳差でしたがその初期から影として支え続けたのです。

慶応2(1866)~明治3(1870)年の九谷へ活躍の場を移し続けた和全の活動には、宗三郎ももちろん同行しております。



さて、作品に話を戻しますと。。。


そのような、人生でありましたので『本人作』としての伝世は公式には無いものの、箱書きから『特定』出来るものが存在します。

もちろん、これまでは『永楽善五郎 和全作』として世に出されて、認識されておりました。


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『於大内山造之』

御室の仁阿寺の地は、別名『大内山』といいます。


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こちらが、共箱となります。


和全の筆による共箱作品の中にも、もちろん『宗三郎』の手が多く入ったものが有るとは思いますが、それは職人の関与と同じ解釈で、和全作品で良いのです。

しかし、ほんのわずかでも・・宗三郎が、最後に責任を持って『共箱』を記して世に出した和全永楽工房作品は、宗三郎の軌跡、として遺していきたいものです。



西村宗三郎は明治維新後の晩年には、三井家の庇護の元・・・大阪へと住まいを写し、自宅に絵付け用の窯をもち、引き続き永楽家の活動を支えていたと伝わります。


そして、明治9(1876)年、42歳の人生に幕を下ろすのです。


明治16(1883)年、永楽家への生涯にわたる貢献を懸賞し、『十二代永楽和全』と、その子『十三代永楽得全』は、亡くなった宗三郎に『回全』の追号を贈り・・・『永楽家十三代』として歴史に名を刻むことになったのです。



※ご成約済みです。



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【永楽保全(善一郎) 画高麗写 鉢】 [幕末京焼]

『善一郎』時代は、永楽保全円熟期といわれます。三期に分類される内の中期、です。


それは、天保14(1843)年~嘉永元年(1848)のわずかの時期でした。


嘉永元年の『天保の改革』により規制があった為、実質的な制作は、弘化2(1845)~弘化4(1847)年の三年間程であったとの研究がなされております。


その後、江戸行きを挟んで・・・河濱焼なども行い、高槻焼や湖南焼も含む、保全時代となるのです。

今回、ご紹介致しますのは、『善一郎』時代の最終期の貴重な作品です。


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【永楽保全(善一郎) 画高麗写 鉢】


幅     16.4cm

高さ     7.8cm

製作年代 弘化4(1847)年

共箱  為書き添




高麗等、古い渡来ものの写しに長けていた保全ですが、これもまた・・・『巧い』としかいいようのない作品です。


周りをぐるっと、見てまいりましょう。


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絵高麗の、鉄絵のやわらかい感じが、見事に再現されております。


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もちろん、ベースとなるクリームの色調の具合もありますが、おそらくは上釉の加減、ひいては・・・形状のわずかな曲面や反り加減など様々な要素からくる総合的なモノかと思います。


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内側もどうぞ。


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正客用として、または預け鉢としても。


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印影もしっかりしており、土も安定のクオリティです。



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内側、の口の下あたりに、わずか数ミリの貫入がありますが、気にならない程度です。


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甲書きに、併記されておりますのは・・・


『丁未之春 祐良遊帝京此陶其帰 遺也』


弘化4年、『祐良』が京都に遊びに行った帰りに、この作品を遣わした、という旨です。


さて・・・この『祐良』、という人物はどなたでしょうか?



『伊藤祐良』、別の名を『いとう呉服店』の13代目、伊藤次郎左衛門なのです。


文政10年に死去した先代の後を継ぎ、13代を継承しましたが、その時はまだ6歳・・・。

(12代の孫であった為、歳が離れておりました。)


尾張藩の御用でもあった大店ですが、代替りした頃は、当主もまだ幼く、さらに複数の大火により多大
な損害を被り大変な時期で、そんな苦境を乗り越えられたのは、『いとう呉服店』には5代目の時に定められた『別家衆』制度という番頭制度があったからです。

元締支配人などの重職が一定期間で交替し、合議することで一人に権限が集中するのを避けながら、組織としての強さを維持するものであったようです。


天保5年に13歳となった祐良は、次郎左衛門を名乗るようになり、その後店の発展に力を尽くすように
なりました。藩からも『呉服所名目・苗字帯刀』が許されるなど、本業は順調に発展しておりました。

しかし、上の方でも登場しました・・・老中水野忠邦による倹約令『天保の改革』(1841~1845年)により商いは大打撃を受けました。

そんな中、藩に対する上納もきっちり、続け・・・20年弱をかけ大発展を迎えることになるのです。

『いとう呉服店』は後に、『松阪屋』へとつながります。


さて、嘉永4年は一番厳しい時期を乗り越え、なんとか復調が進んだ頃です。

祐良も、ほんのひととき・・・京の都で心を休める旅に出たのでしょう。


その際に、手にすることになったのがこの作品なのです。



『寛斎清玩』とありますのが、おそらく『森寛斎』のことです。

森寛斎は1848年から京に赴いておりますので、財界人・文化人として祐良や保全との邂逅があったのでしょう。



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そんな、歴史の一コマ・・・からタイムスリップしてきた、作品なのです。





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【永楽保全 交趾写アコタ 香合】妙全極め箱 惺斎箱 [幕末京焼]

『カタモノコウゴウ』


よく耳にする、コトバです。


香合の、カタログというか・・・順位表みたいなもの、に記載されている型で香合のことを指します。

(型と使用して造られている為、複数、ないし多数の個体が存在します)


といっても、その歴史はそんなに古くはありません。


『形物香合相撲番付表』


というもので、安政2年(1855)に数奇者様方や道具屋が主導して作成されたそうです。


階層や世代を超えて人気のあった『相撲』の番付表に着想を得た、お遊びようなものですが、そのラインナップの深さと物量はすごいもので・・・・

インターネットどころか、電話も無い時代によくまとめたものです。(^^;


染付(85種)

交趾(64種)

青磁(29種)

祥瑞(19種)

呉須(16種)

宋胡禄(2種)

・・・合わせて、『215種』の唐物の香合が東西に分けて記載されております。

さらに、

行司 塗物香合(3種)

頭取 和物(7種)

勧進元 (3種)

差添  (2種)

があり、総合計で230種!にものぼり、まださらに世話人の部としても、加えられております。


ちょっとの『手』替わりでも別種としてきちんと分類されております。



今回、ご紹介致します香合は、そのうち・・・・



三段目 十七位 交趾 中阿こた(中の阿古陀)


を保全さんが写した作品です。



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【永楽保全 交趾写アコタ 香合】


幅  5.3cm

高さ 3.8cm

時代 文政10(1827)~天保(1843)年頃

箱 妙全極め箱  惺斎箱



平たく丸い阿古陀瓜を象ったもので、香炉を見立てたようなサイズの『大』に対して、『中』と名うって分類されますが、感覚的には『小』というのが的確かもしれません。

番付頭註に「惣黄」とありますが、『身萌黄、蓋黄』『身萌黄、蓋白檀』の2種が主に伝世しているものです。


今回の香合は、後者の方ですね。



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蓋は『白檀塗』というもので、金箔を貼った上に透明度のある朱漆を施して透かす、塗物でよく見られる技法です。

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本歌に倣ってか・・蓋部分は、やや軟質な土で作られており、半陶半磁のようです。

粘土質な為、焼成時の窯切れがあったのか、その部分は当時に埋められた形跡があります。


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『萌黄』と伝わるものですが、近代茶道具での呼び方は『青』交趾となり、現代的な見方では『緑』です。

『交趾焼』は中国南部で明代に焼かれた『軟質陶器』で緑、黄、紫などの色を主調とする鉛釉で彩られたものです。

交趾のいう呼び方は現在のベトナム南部のことで、日本への貿易船にて運ばれ伝わったことから、交趾焼と呼ばれるようになったようです。


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これは、『碁笥底(ごけぞこ)』というものです。

囲碁でつかう碁石(ごいし)の入れ物の名称で、底がこのような内側を彫り込んだ形状であるので、陶磁器でも同様の呼び方をするようになりました。



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大正時代の永楽妙全の極め箱になります。

書付を取る際に作成されたもので、箱は表千家にゆかりの深い指物師『小兵衛』によるものです。


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惺斎宗匠の箱書きです。


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当時の千家の受け取り状が残っております。




『阿古陀香合』は『阿古陀瓜』に似た形状であることから付いた名称です。


保全作品では伝世数が少なく、珍しいものです。


保全の初期(実質的に代行していた了全の末期頃)は、『永楽家』の興隆が始まった時代です。

この時の、肝となるのは『交趾』です。

それまで、土風呂師として代を重ねておりました『西村家』が『永楽家』としてスタートできたのは、紀州徳川家のお庭焼である『偕楽園焼』に招聘され、そこで完成させた交趾釉によるところが大きかったと思われます。

永楽独自の強みとして、紫・浅黄・青・黄の各色を自在にこなせるようになったのです。


この作品は、作行きから保全の初期である『善五郎』時代のものと推測されます。

後代の和全が、本来のベトナム風の『かせた』青交趾の色調を再現したのに対して、この頃はより綺麗で澄んだ発色が『見せ所』であったのです。


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実物の良さ・・・を写真ではお伝えしきれなかった気がしますが・・・。(-_-)



200年弱の時を経てなお、綺麗な美しさを伝えてくれる、見どころの多い作品なのです。



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【樂 旦入 赤筒 茶碗】 銘「庵の友」 共箱 直入極 鵬雲斎箱 [幕末京焼]



『樂茶碗』、は茶会の花形として・・・はや400年近く君臨しております。



もちろん、それ以前からの唐物中心の武家茶や、現代まで少数ながらも堅調な『寂び道具』における高麗モノや桃山和物を中心とした『花形茶碗』というものはございますが、大勢に於いてはそこまでのお道具を手にすることも難しいもので。。。。


主茶碗を『樂』とし、2碗にて『高麗』の比較的時代の下るモノを併せるか、幕末期~近代の和物を持ってくるか、というところでしょう。



その形式、がスタンダードとなり・・・逆にそれが『法則』のように呪縛としてのしかかった結果、


古い樂 > 新しい樂 > 大樋焼 > 吉向や道年、長楽  という序列で、まるで流通硬貨のように使われてきたのです。



しかし、戦後茶道の形式的な流行が、作法や行儀見習いとしての稽古を中心とした結果、そして世代の代替りが進んだこともあり・・・現在では、すっかりお道具の価値観が『変化』してしまいました。



『道具』は使ってこそ、その価値観が維持されるものであり、使わない道具はただの塊になってしまいます。

そこで、結局のところ・・・問われるのは、『モノ』としての価値、『美術』としての価値となります。




それは、近代茶道の形式的な拡大の中で、確実に残り続けた『錆び道具の茶』と同じく、道具としての本質、茶人様としての本質、が問われ続けることなのでしょう。


コロナ禍において、さらにそのことがはっきりとしてきた感じですが、決して悪いことでは無いように思えるのです。



と、序説が長くなってしまいいましたが・・・そんなわけで、『茶道美術』としてご紹介したい『樂』茶碗シリーズ、昨年からちょこちょこ手に入れるようにしておりますが、今年の第1弾です☆



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【樂 旦入 赤筒 茶碗】 


幅    9.8cm

高さ   9.8cm

高台径  4.9cm


製作年代 弘化2(1845)~嘉永7(1854)頃


共箱、直入極箱 鵬雲斎箱 銘 『庵の友』



旧暦12月18日『大寒』(新暦1月20日)も終わり・・・新春を迎えておりますが、まだまだ寒い中で、これから春へと向かっていくスタートラインです。

旧暦の1月に(新暦2月)で筒茶碗を使うことが多いのは、ちょうど寒さのピークである山の辺りで、冷めにくい形状を求めたことからなのでしょう。



『筒茶碗』というと、縦長のイメージですが、寸法をご覧頂きますとお分かりのように・・・


縦横・・・『同寸』なのです。


見た目のマジックですね~


もちろん、この直径ではお点前上では筒のお点前のように、茶巾は指先で摘まんで見込みを拭かないといけません。


個人的には筒茶碗、好きなのです。


幕末尾張陶で、馴染みのある形状ということもあるのでしょうが、それよりも『カッコよさ』を感じるのです。


光悦茶碗でも多いように、『造形』美がとても現れる形状だと思うのです。


その点、造形については光るところのある名工、旦入の仕事を見てまいりましょう。



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『正面』は『窯変』による黒緑色が全面に広がり・・・黒茶碗でなくても、格調を感じさせます。


右側辺りに、縦の『箆掻き』の線が4本あり、これから始まる造形のドラマのプロローグとなっております。

下部には、『赤い斑点』が数か所飛んでおり、まるでこれから咲き始める『梅』を予感させます。


酸化と還元による変化による発色なのです。


やや、『くびれて』いるのですがこれも旦入の特徴のひとつであります。


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少し右側へ回ってみましょう。


箆は、どんどん大胆になり・・・くびれの中心となる辺りの、箆削りはまるで光悦のような芸術的な一撃を放っております。

このくびれ部分、正面でお茶碗を手にする際、右手におそろしくフィットするようになっておりまして・・・その絶妙さは驚かされます。


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さらに、右に回していきます。


薄い刷毛のような白化粧が、まだまだ寒く吹きつける風のように、うっすらと。


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正面にもどっていくにつけ、その白い刷毛はどんどんと穏やかな感じになっていき・・・暖かな春の訪れへと向かう様を現しているかのようです。


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内側も、底は赤色、側面は黒緑の窯変と白刷毛が渦巻いております。


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高台周りの形状です。


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旦入時代の、良い土です。 得入が用意して寝かせていたものです。

隠居印、が箆削りから成るスカート状の先端に続くように押印されております。


旦入の晩年の10年間の内の作となります。


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外箱です。眼鏡タイプになります。

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共箱、と直入極め箱の2つになります。


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共箱


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直入極め箱


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鵬雲斎大宗匠による、書付です、


『庵の友』


末永く、寄り添って頂けたら、と思うのです。



箆の名手であった、父了入よりさらに進化させた『旦入の箆』の技が時に軽妙に、時に大胆に・・・存分に発揮された作品です。


旦入は、これまでの樂茶碗の伝統に、織部や唐津などの桃山陶の形状や色彩感覚、そして高麗茶碗のもつ用の美、素朴な侘びさ等も合わせた、新たな作風を完成させました。

それは、政治的には逼塞していった江戸時代後期では、逆に京焼においては、『進化と開放』へと向かっていく頃でったという、時代背景の元に実現した、その時ならではの才能開花であったのでしょう。


『お道具』として、も活かしてもらうのはもちろん、持っていて見るだけでも愉しい、『茶道美術』なのです。




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