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二代 眞葛香山(宮川香山) 黒釉紅葉之絵 茶碗 鵬雲斎箱 香斎極箱 [眞葛香山]

長かった夏も・・・ようやく終わりの様相です。

秋も昨年のようにずれ込むのでしょうか?


少し早いですが、秋深し・・・のお茶碗のご紹介です。


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二代 眞葛香山 黒釉紅葉之絵 茶碗

鵬雲斎箱 香斎極箱

大正時代 後期       1917~26年

幅 11.5㎝  高さ 7.8㎝



香山の茶碗は仁清意、乾山意、と江戸初期よりの京焼の伝統を受け継いだ眞葛長造の作風がしっかりと流れております。

その中でも『乾山意 黒釉』は仁清黒と呼ばれる手法を手びねりで製作し、元来固くなりがちな意匠をやわらかみと格調を両立させた香山オリジナルの作品で、香山の茶碗の代表的なものといえます。



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この手びねり感、そして絵付けの妙は・・・出来そうでなかなか出せない味わいです。

琳派風の紅葉で、どこかデフォルメされたような感じがよいのです。


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形状と絵付けのバランス感覚は香山の真骨頂でもあります。

茶碗という横にワイドに広がるキャンバスに紅葉の葉の魅力をいかんなく出すには・・・

敢えて、幹をカットし紅葉満開の部分にフォーカスを当てて意匠化しているのです。

手びねりであることで、前後にも立体感が生まれておりますので紅葉が生き生きと感じられます。



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反対側より。


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ぐるっと回りこんで。


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京都の真葛香斎家でもこの黒釉の写しに挑戦されております。

二代香山は古伊賀釉の復興にも尽力した縁から伊賀城の天井襖絵に12ケ月の茶碗図を遺しており、この紅葉の絵も見ることが出来ます。


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この作品は珍しく、粘土質の土を使用しております。

捻りやすい為でしょうか。


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この茶碗は、共箱でなく5代香斎の極めになります。

書付を取る際に、箱の蓋の裏表に共箱の筆がある香山ですので作り替えたのだと推察出来ます。

この頃は、代の特定までしない極め箱が多いです。二代で間違いなし、ですが。


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押し印と、書き銘にて乾山を意識した”香山”を。

鉢や、花瓶でも同様な遊び心を入れます。 印があるのでそれだけでいいやんか、と思いますがそこは香山。


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この、赤色・・・は和全色絵でもある朱色に近い”赤”です。

香山では大正後期~昭和初期の茶道具で使われた柔らかい色調の絵の具で、この色もなかなか、なのです。



以前にも同手を扱ったことがございますが、ちょっと格式のあるお茶席の懸釜で見事に活躍して頂きました。

この手の色絵は、様々な時代のものやランクのものにも併せて重宝することでしょう。







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初代 眞葛香山(都鳥)倣仁清意都鳥 香合 [眞葛香山]

『都鳥』香合です。

茶道具としては、大正時代の墨田川焼での都鳥香合が知られます。

東京の方では、町中・・・の河で親しまれる鳥であったようです。


今回ご紹介するのは同時期に、横浜で作られた香山の作品です。


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初代 眞葛香山 倣仁清意都鳥 香合

大正初期

幅 3.5㎝×5.3㎝  高さ 3.4㎝


さて、ミヤコドリ・・・実際はどのような鳥でしょうか?


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あれ?


似ても似つかない・・・しかもかわいいい、感じとはちと、違います。(^-^;

その謎を追ってみました。


伊勢物語の中では・・・・

「白き鳥の嘴と脚と赤き、しぎの大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。」

と都鳥のことを記されております。


その内容から・・・

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『ゆりかもめ』


どうやら、『ゆりかもめ』のことを『都鳥』と指していたようなのです。



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なるほど。


1965年(55年前)に東京都が、『都鳥=都の鳥』いうことから、ユリカモメが『東京都の鳥』に指定されていました。

お台場にも、モノレール、ありますね。


ややこしや。

それはともかく、香合としての都鳥はとても人気があります。


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ふっくら、愛らしく。

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ゆりかもめ、ですね~

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内側の作風は、長造からのお家芸である削り込みです。

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初代の香合では最終期にのみ使用された、変わり印です。

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共箱は眞葛窯から出た状態のままです。

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面白いのは、箱の底に『大正5年に赤穂の高仲氏が所蔵』ということが記されております。

大正5年は・・・初代香山、虎之助の亡くなられた年です。



8年前に初めてお墓参りしたときの写真が出てきました。

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それはそれは、大きく立派な墓石でした。

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横浜を見下ろす高台に、そびえたつそのお墓の中には、父 長造と兄 長平のお骨も納められていたのです。


お墓に、香山さんに想いを伝えているその時・・・

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一羽の鳥が舞い降りたのでした・・。



※ご成約済みです。

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初代 眞葛香山(宮川香山) 安南写蜻蛉画 茶碗 [眞葛香山]

少し前に、古安南茶碗のご紹介を致しましたが・・・今回は、『写し』モノのご紹介です。

ベトナム地方より16世紀~渡来したやきものを、総称して”安南焼”と呼ばれております。

近年、色々と研究が進んでおります高麗茶盌に比べて、まだまだ不明な部分が多いのが安南焼です。

元は見立て品と云われますが、茶陶としての作為の見られる作品もあることから、途中からは注文品であることも指摘されております。

さて、今回の作品は眞葛香山です。


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初代 眞葛香山(宮川香山) 安南写蜻蛉画 茶碗


大正時代 初期

幅12.1~12.6㎝ 高さ 6.8㎝ 高台径 4.6㎝



明治も終わりに入ってくると・・・煎茶から抹茶へと、流行が変わっていきます。

高浮き彫り⇒釉下彩 と変遷し、世界の流れに乗ってきました香山ですが、今度は国内需要へと主軸をシフトしていきました。

父、長造から元々は伝世している古陶磁の写し、に長けていた眞葛窯ですので、茶陶はお手の物です。

しかし、初代香山は・・・どうしても、自身のもつ感性が作品に出てしまうのでしょうか。

”写し”といえでも、”オリジナル”です。(笑)

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反対側より。

安南の蜻蛉、は有名な手です。

それはやや三角の小ぶりのものが知られます。


このお茶碗は、いたって通常のサイズのお茶碗です。

高さも安南の馬上杯のような高さでもありません。いたってまじめな茶碗形です。

逆側への”ひねくれ”を感じます。

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見込みです。

安南の法則に沿ってます。

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高台側です。

赤土の感じも然り。


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共箱 甲側です。

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裏側です。 帝室技芸員 印が押されております。


初代宮川香山は、明治29年(1896年)6月30日に帝室技芸員に任命されました。

このタイプは、三越呉服店等での展観に出されたものであることが多い作品であります。

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故に、箱の造りも丁寧です。


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釉調は、本歌に対して清涼感のある感じで、絵付けのユニークさは初代らしい感じで愛らしいです。

手取り、もよく愉しめるお茶碗です。


なにより、初代香山の茶碗というのは二代以降に比して、かなり少ないのです☆



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眞葛香山(宮川香山)二代作 【乾山意牽牛花 四方鉢】 [眞葛香山]

緊急事態宣言が、ようやく全国解除になりました。

自粛期間中に・・・季節は春から初夏へ移り変わり、ひきこもりからいきなり外出となった私たちと同じように気候もいきなり、で体調を崩しがちです。

皆様、熱中症対策はくれぐれも。(^^;

6月~8月使いの香山作品の御紹介です。


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二代 眞葛香山 乾山意牽牛花 四方鉢

サイズ 幅 18.5㎝ 口径 16㎝ 高さ 8.3㎝



牽牛花・・・・けんぎゅうか。


アサガオのことを指すコトバです。


その昔、朝顔の種は生薬として重宝されておりました。

高価なものだったらしく、中国では生活にとって一番大事とされる”牛”と交換されていたそうです。

牛を牽いて薬をもらいにいったことから、アサガオの種は牽牛子(けにごし、けんごし)と呼ばれ、ひいては、朝顔の花を牽牛花と呼ぶようになったというとで。

初代や2代の香山が活きていた時代は、まだまだ文人的な趣向が重んじられておりましたので、ネーミングも意匠の取り方も、味わいがあり・・・受け取る側の教養も求められます。(苦労してます)


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口は四方ですが、下部は丸となっており、轆轤による形成からの歪みと、箆削りの仕上げで、なかなかの見所です。

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反対側より。

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乾山の意識した書き銘と、鉢以上の大きさの物に使用される押し印の瓢箪大印です。

土、も良いですね。 しっかりと精製されてます。

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大正時代後期の作品です。

しかし、この箱書きと作品は初代時代晩年からの重複・継続となり、二代の関与が大きかった技法でもあります。

香山の乾山釉は本当に良く・・・飽きが来ません。


朝顔、牽牛花・・・は、もうひとつ繋げられるものがございます。


七夕、です。

彦星と織姫が年に一度だけ、天の川を渡って1日だけ会えるお話。

中国の物語から由来するのですが、”彦星”は牛を飼う若者=牽牛から取られております。

旧暦では七夕は8月、となり朝顔の時節ともぴったり、なのです。


色んな趣向で楽しめそうです。


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5つ、盛りが出来るように底面がフラットに広くとられておりましたが、3つだけ盛ってみました☆

朝顔をイメージするような色合いのお菓子も良かったのですが、まだ自粛解除後は生菓子も店頭に豊富ではなく・・・たねやさんのよもぎ饅頭にしてみました。


5つ盛り用として6つ買ってきましたので早速食べちゃいましょう~




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【眞葛香山(宮川香山 真葛香山)2代 赤絵魚文 酒器揃】 香斎極箱(徳利2 盃5) [眞葛香山]

まぼろしの(?)大美特別展 出品予定作品を、以前にザっとご覧いただきましたがそろそろ詳細もご紹介して参りましょう。

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眞葛香山(宮川香山 真葛香山)2代 赤絵魚文 酒器揃

昭和時代 初期頃(1926~1940年)

香斎極箱

徳利2本 盃5個 セット



中国陶磁器の研究に長けていた香山は、初代の頃より赤絵磁器の製作も多数手がけておりました。

古赤絵の再現というよりも、香山式での鮮やかな発色と伸びやかな筆のタッチで、

形状に合わせて活き活きと絵付けを施してあるのが特徴です。

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徳利は近代ではあまり見ない、“蓋”付で燗には勿論のこと保管に際しても中に埃が入らないのも便利です。

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盃も小品ながら、それぞれが見応えのある出来栄えです。

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魚文が緻密に描かれております。

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呉須赤絵の定番の模様ですね。

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銘はそれぞれ御座います。

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徳利2本と盃5個をセット京都真葛6代目の極め箱を作成したもので、2組ご用意したうちの残り1組です。

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大変状態の良い作品です。

元は当時眞葛窯へ発注された注文品で、箱無しで伝世しておりましたので上記の組み合わせにて、

このような商品は他ではございません。クオリティとお値打ち感がかなり高いと思います。



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二代 宮川香山

MAKUZU KOZAN Ⅱ

1859(安政6年)~1940(昭和15年)


初代と共に作品を製作。

初代香山の長兄(長平)の子である。それが故に年齢差は17歳しかなく、その技術力は初代より確実に継承されている。

海外へのマクズウェアの紹介と、加えて国内へのフィードバックに努め、眞葛の名声を揺ぎ無いものにした。

初代没後は、自身の新たな感性も取り入れ時代の変遷に対応し、焼けない物は無いと言われる。

途絶えていた古伊賀釉の復活、千家の茶陶作製等も行い、板谷波山と共に関東陶芸界の重鎮であった。








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【初代 眞葛香山 (宮川香山 真葛香山)】倣青華元様七賢人画 水指 鵬雲斎 箱 [眞葛香山]

当店で所有しております、香山作品の中で・・・展示会等で茶人様方からどの地方でも、年代を問わず高評価を頂戴しております作品です。

常々、時間が無い物で・・・意匠のきちんとした整理・ご紹介がなかなか出来ずにおりましたが、このCOVID19モードの中で、ようやくご説明さしあげられる機会が☆



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初代 眞葛香山 (宮川香山 真葛香山) 倣青華元様七賢人画 水指                      共箱・香斎極め外箱・鵬雲斎大宗匠 箱

明治37~45年頃  (1904~1912年)


幅 17㎝  高さ 16.6㎝  口径(内)13.8㎝



初代香山の珍しい水指です。当時は抹茶が衰退しており、二代に比して茶道具が少ないという事情もあります。

時代背景から文人趣味が反映されており、共箱・書付は七賢人となっておりますが、中国で有名な八仙人を描いております。

八仙は道教の仙人のなかでも代表的な存在であり、中華社会のいかなる階層の人にも受け入れられ、信仰は厚いものです。

日本における七福神のようなもので、掛け軸や陶磁器に描かれるめでたい絵の題材になるなど様々な芸術のモチーフとなっています。

昔は日本では七賢人と八仙人は同義として混同されておりました。


さて、その意匠のご紹介を参りましょう☆

『 』内は人物を表すもの、と神通力を発揮するとされる所持アイテムです。


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藍 采和(らん さいか) 『貧』 『花籠』

字は養素。暗八仙は花籠。少年や青年、女性といったさまざまな説がある。唐の人。

いつも破れた藍色の長衫に三寸幅ほどの黒い木の皮を腰帯代わりに巻いており、腰には墨で汚れた板をぶら下げている。片足には穴の空いた靴を履き、もう片足は素足であった。

夏は上着の下に綿入れを重ね、猛暑の中遊びまわっても汗をかかない。冬には服を脱いで単衣になり雪の中を遊びまわるが吐く息は全く白くならず、雪の中で寝ても体から湯気が出ていたという。

町へ出ては、長さ三尺余りの大きな拍板(拍子木)でリズムを取りながら「踏歌」という新体詩を歌い、酔えば踊り、老若男女はみな彼の後をついてまわって面白がっていた。
彼の歌をよく聞くと、思いつくままに口から出まかせを歌っているようだが、実は仙道の教えが込められていた。しかし、誰一人それに気づく者はいなかった。

彼の踊りに対して銭が投げられると、縄で縛って持っていく時もあればそのまま放っておく時もあり、持って帰ってもそのまま乞食にやったり、酒屋で一杯やったりと、あまり気にすることはなかった。
彼は神出鬼没で、現れたと思いきや、すぐまた不意にいなくなってしまう。度々天下を周遊しており、いつまで経っても年をとることはなかった。同じ八仙の李鉄拐と逢い、道を論じ合うこともあったという。

ある日、采和が城の堀端にある酒屋で飲んでいると、天から笙の音が聞こえてきた。笙の音とともに舞い降りてきた白鶴に乗って急いで見に行こうとしたが、その際、彼は長衫や靴、帯、拍板などを振り落してしまった。それらは彼の姿が雲間に消えると同時に消え失せたという。


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張 果(ちょう か)『老』 『魚鼓(楽器の一種)』



敬称を込めて、「張果老」と呼ばれる。唐の玄宗時期に宮廷に招かれ、様々な方術を見せた。天宝年間に尸解(死んで肉体から解脱し、仙人になる)したといわれる。正史にも名を連ね、多くの伝承を残している。

恒州の条山にこもり、近隣には数百歳と自称していた。白い驢馬に乗り、一日に数千里を移動した。休むときに驢馬を紙のように折り畳んで箱にしまい、乗る時には水を吹きかけて驢馬に変えたという。
則天武后に招かれて山を降りた時に死に、死体は腐敗してしまった。しかし後日、生き返っているところを発見された。
開元22年(734年)、玄宗は通事舎人・裴晤を使わして張果を迎えようとしたが、また死んでしまった。裴晤が死体に向かって玄宗の意を伝えると、死んでいた張果は息を吹き返した。玄宗は改めて中書舎人・徐嶠を送り、張果は朝廷に出仕することになった。

張果は、玄宗に老いていることを問われ、白髪を抜き、歯をたたき割った。すぐに黒髪、白い歯が生えてきたという。また、玄宗が妹の玉真公主を自分に嫁がせようとしているのを予言したこと、酒樽を童子に変えたことなどさまざまな法術を行った。

食事は酒と丸薬だけしかとらず、法術について問われると、いつもでたらめな回答をしたと言われる。師夜光や邢和璞という法術を行うものたちにも、正体を見定めることはできなかった。

玄宗は高力士に相談し、本当の仙人か見定めるため、張果に毒酒を飲ませた。
張果は「うまい酒ではない」といい、毒で焦げた歯をたたき落とし、膏薬を歯茎に貼って眠った。目を覚ました時には歯は生えそろっていたという。そのため、玄宗は真の仙人と認め、銀青光禄大夫と通玄先生の号を与えた。

玄宗は道士の葉法善に張果の正体を問うた。葉法善は「正体を話すと、言った瞬間に殺されるので、その後で張果に命乞いを行って欲しい」と約束をとりつけた上で、張果の正体が渾沌が生まれた時に現れた白蝙蝠の精であると話した。言い終わると、葉法善は体中の穴から血を流して死んだ。玄宗は張果に冠を脱ぎ、裸足になって命乞いをした。張果が葉法善の顔に水を吹きかけるとすぐに蘇生したという。
張果は恒州に帰ることを願ったため、詔により許された。天宝元年(742年)、玄宗は再び召し出したが、張果は急死してしまった。葬儀の後、棺桶を開くと死体は消えており、尸解仙になったと噂された。玄宗はこれを機に神仙を信じるようになったと言われる。


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曹国舅(そう こっきゅう)『貴』 『玉板(玉製の板)』



名は佾(いつ)、字は景休(けいきゅう)。北宋建国の元勲曹彬の五男の曹玘の子。

仁宗の皇后(曹皇后)の弟であるため、国舅(天子の外戚の呼称)と呼ばれる。暗八仙は雲陽板(カスタネットに似た楽器)。

『神仙通鑑』によると、彼は弟の曹景植が姉の権力を笠に着て悪事を働くのを見かねて、山中に隠遁し修行をし始めた。それを見た呂洞賓と漢鍾離がやってきて、「何の修行をしているのか」と訊かれ、道の修行だと言った。

「では、その道はどこにあるのか」と笑いながら訊かれると、黙って天を指した。「その天はどこにあるのか」と畳み掛けられると、自分の心を指した。

すると、二人は大いに笑って、「心はすなわち天、天はすなわち道である。お前は既に道が何であるかを知っている」と言い、彼に還真の秘旨を授け、神仙の仲間に加えたという。


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(左側)韓湘子(かん しょうし)『少』 『笛』


名は湘、字は清夫といい、「子」は男子の尊称。

唐代の文豪・韓愈の甥の韓老成(韓愈の次兄の韓介の実子で、韓愈の長兄の韓会の養子)の子であり、子供の頃から韓愈に養われていた。

韓愈の子弟たちが学問に励む一方、彼は酒ばかり呑みぶらぶらしている放蕩者だった。

二十歳の頃、突然行方不明になったかと思うと、しばらくしてぼろを身につけて帰ってきた。
韓愈が学問をするようにすすめると、「私が学んでいることはあなたのものとは違います」と言い、草の花をすぐに咲かせることができる、と言った。

彼が盆に土を盛り、牡丹を植えると、彼が言ったとおりすぐに花が咲いた。
よく見ると、花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」と書いてあった。意味を尋ねると、月日が経てばわかるという。

その年(819年)、憲宗の怒りに触れた韓愈は潮州へ流され、その途中大雪に遭うが、そこに韓湘子が現れ、以前自分が咲かせた花びらに書かれていた一句が的中したのだと言う。

韓愈が地名を尋ねてみると、そこははたして藍関だった。そこで韓愈はその句に語句を付け足して、詩にして韓湘子に贈った。
やがて宿場に着くと、韓湘子は韓愈に一粒の薬を渡し、「瘴気の立ち込める地方では健康を保ちにくいでしょう。これを一粒飲めば、瘴気を防ぐことができます」と言い、しばらくして去っていった。その後、韓湘子の言ったことはすべて的中したという。





(右側)何仙姑(か せんこ) 『女』 『蓮の花』


名は瓊で、「仙姑」とは女仙という意味である。八仙中唯一の女仙。暗八仙は荷花(蓮の花)。各種伝説には仙女、道姑(どうこ・女道士)、巫女の3つの姿で描かれている。

『東遊記』によると、彼女は唐代の武則天の時に、広州増城県にある雲母渓にいた何素(『仙仏奇踪』等、他の文献では何秦とも)の娘で、生まれたときには六本の髪の毛が生えていたという。
十四、五歳のとき、夢に神人が現れて、「雲母の粉を食べなさい。そうすれば身体が軽くなって、不死となるだろう」と言われた。
明け方、目が覚めると、「神人は私を騙すはずがない」と思った。そして、言われたとおり雲母の粉を食べてみると、確かに身体が軽くなった。そこで母親はすぐに彼女に婿を取らせようとしたが、彼女は結婚しないと固く誓い、結局彼女に結婚を強いることはできなかった。

ある日、渓谷で李鉄拐と藍采和に出会い、仙人になる秘訣を教わった。それからというもの、いつも山谷を行き来し、その姿はまるで飛んでいるかのようだった。
毎日朝に家を出ては暮れに戻ってきて、山で採れる果物を持って帰り、母に渡した。
母親はどうしたのかと訊くと、「ただ名山の仙境へ行き、女仙と道について論じ合っているだけです」と言った。
しばらくすると、しゃべり方がおかしくなった。武則天はこのことを訊いて、使いの者を送り宮中に召し出そうとしたが、その途中で忽然と姿を消した。武則天は臣下に国中を捜させたが、結局見つけることはできなかった。景龍年間に、李鉄拐が彼女を引き連れ、白昼昇天し去っていった。

天宝9年に、麻姑と一緒に五色の雲の中に立っているのが見られた。
また、大暦年間中、ある人が広州の小さい石楼で彼女に会っているのを刺史の高皇が目撃し、それを朝廷に奏上したという。
また、北宋の仁宗の時、永州零陵県に生まれ、十三歳の時お供と共に山に入って茶を採っていた際、お供を失い迷っていたところ、呂洞賓に出会い、仙桃を与えられ仙人となったという説、また、武則天の時代に豆腐屋の娘である何秀姑が仙人になったという説などもある。


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李鉄拐(り てっかい) 『賤』 『葫蘆(瓢箪)』


名は玄、凝陽、洪水、岳など諸説ある。 鉄拐とは、彼の幼名であるとする説や、足が不自由で鉄の杖をついていたためという説がある。

絵ではボロボロの服を着て足の不自由な物乞いの姿をしていることが多いが、もとはがっしりとした体格の道士であった。
二十歳の頃から仙道を志すようになり、ある日、太上老君に崋山で逢うことになり、魂を遊離させ、逢いに行くことにした。そこで、彼が帰ってくるまでの七日間の間、魂の抜けた身体を見守るよう弟子に言いつけ、もし七日経っても帰ってこなければ身体を焼くように言った。
しかし、六日目に弟子の母が危篤との知らせを受けて、弟子は鉄拐の身体を焼き、母の元に行ってしまった。鉄拐が戻ってきてみると、自分の身体は既に焼かれていた。
彼は近くに足の不自由な物乞いの死体を見つけ、その身体を借りて蘇った。

兵法三十六計の一つ、借屍還魂は、この逸話をもとにした計略である。 また、西王母に師事して東華教主となり、漢鍾離を得道させたという説もある。
ほかにも岳寿という小役人が李屠という者の体を借りて李鉄拐になったという話もある。

鄭州奉行所の都孔目(裁判官)である岳寿は、悪の限りを尽くし、私腹を肥やして地獄に落ちてしまったが、生前、一つだけいいことをしていたことから呂洞賓に地獄から助け出された。
しかし、死体は既に焼かれており、仕方なく死んだばかりの鄭州東城門内の肉屋である李屠の息子の小李屠に乗り移ったところ、小李屠は足が悪かったところから、杖をつくようになった。

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(左側) 漢鍾離(かんしょうり) 『富』 『芭蕉扇』

鍾離 権(しょうり けん)のこと。姓を鍾離といい、名は権である。字は寂道。号は雲房先生。正陽真人とも呼ばれる。 漢鍾離(かんしょうり)は別名で、これは「漢の人、鍾離権」の意味である。

もとは漢に仕えており、左諌議大夫になったが、漢が滅んだ後は西晋に仕えて将軍になった。
しかしある戦いで敗れ、終南山に逃げ込むも、道に迷ってしまう。山中をさまよい歩いていると、東華帝君に出逢い、長生真訣・赤符玉篆金科霊文・金丹火候青龍剣法を授かったという。

しかし、実際は五代の人であり、「天下都散漢(天下一の暇人)鍾離(鍾離権)」と自称していたのが、「漢の人、鍾離権」になってしまったという説もある。

その姿は頭に二つのあげまきを結い、太った腹を晒したものとして描かれる。暗八仙は芭蕉扇であり、死者の魂をよみがえらせることができるという。






(右側) 呂 洞賓(りょ どうひん) 『男』 『剣』

名は嵒(巌、巖、岩とも書く。もとの名は煜)といい、洞賓は字である。号は純陽子。純陽真人とも呼び、或いは単に呂祖(りょそ)とも呼ばれる。

民間信仰の対象となり人々に敬愛されたことから、13世紀に元の武宗から「純陽演正警化孚佑帝君」の称号を贈られ、正式な神仙となった。以後の王朝からも神と公認され、道教での普遍的な称号は孚佑帝君と称される。
蒲州永楽県(現在の山西省運城市芮城県)の人。
祖父は唐の礼部侍郎の呂渭。父は海州刺史の呂譲。
師は鍾離権であり、終南山で秘法(飛剣を飛ばし魔を退治する「天遁剣法」、また雷雨を操る「雷法」)を授かり、道士となったとされる。その姿は背に剣を負った書生で、青年あるいは中年男性として描かれる。
科挙受験者であり、教養のある出自であることから優れた詩歌を幾つも残したという伝承があり、現代にも呂洞賓作と名乗る修行書や詩歌作品が多数残されているが、宋風の特徴を持つ作品が多く、他の作者がその人気に肖って仮託したものと考えられる。

生まれながらに金形木質・鶴頂亀骨・左眉の角に黒子があるなどの異形だった、母親が一羽の白鳥が室内に入る夢を見たあとに出生した、などの異常誕生譚がある。
幼い頃から聡明で、一日に万言を記したという。身長8尺2寸、好んで華陽巾を被り、黄色の襴衫を着て、黒い板をぶら下げていた。20歳になっても妻を娶ろうとはしなかった。

出世を目指し、科挙を二回受けたが、落第してしまう。長安の酒場にて、雲房と名乗る一人の道士(鍾離権)に出逢い、修行の誘いを受けるが、出世の夢が捨て切れず、これを断った。

鍾離権が黄粱を炊いている間、呂洞賓はうたた寝をし、夢を見る。科挙に及第、出世し、良家の娘と結婚し、たくさんの子供をもうけた。そうして40年が過ぎるが、ある時重罪に問われてしまい、家財を没収され、家族は離れ離れとなり、左遷されてしまう。
そこで目が覚めるが、まだ黄粱は炊けていなかった。俗世の儚さを悟り、鍾離権に弟子入りを求めると、十の試練を課されることとなる。これを見事こなした呂洞賓は、晴れて鍾離権の弟子となり、しばし修行した後、仙人となった。



・・・・・・・・・八人分・・・です。(^^;

それでは、画題となった8人に登場して頂きましょう☆

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水指の六面に、1人づつ4面、2人づつ2面、で合計8人です。


”面”ごとに窓の中に丁寧な人物像が描かれ、周りは異なる意匠にて見る人を楽しませてくれる趣向となっております。


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マクズブルーと相まって興味深い作品に仕上がっています。絵柄ごとに盛り上がる形状と枠組でアクセントを付けつつも全体的なデザインとしても一体感を持って完成させているセンスも秀逸です。

共箱に加えて、京都真葛の五代香斎による極め外箱がつき、さらに裏千家の先代家元であります、鵬雲斎大宗匠による箱書がございます。


塗り蓋も上質なものが添っておりますが、なんと替え蓋もございます。

そちらに替えましたのがこちら。

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また、印象が変わりますね。


なかなか、初代の水指で良い物は稀少でございます。



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二代 眞葛香山(宮川香山 真葛香山)仁清意陣幕画 水指 [眞葛香山]

香山の珍しい水指です。

他の茶陶作家さんの作品でもあまり見受けられない意匠です。

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二代 眞葛香山 仁清意陣幕画 水指

幅 17㎝ 高さ 22㎝(摘みまで23.5㎝)


昭和時代 初期  (1926~40年頃)


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この幕の柱を客付に持っていくと面白いですね。

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この輪花口は、寛永時代の野々村仁清の水指や鉢にみられた手法です。

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印銘


二代香山の時代には茶道が再び興隆し茶道具も多く作られるようになります。

まずは表千家との交流から始まりましたが、香山はあくまで自身のセンスのもの、

長造の伝統に沿うものしか作りませんでした。故に珍しい意匠のものが多くみられます。

”陣幕“は陣地を形成するための幕でありましたが、江戸時代からは武家社会における

神聖な用具として、庶民においても邪気を払う結界としての意味合いとされました。

堂々とした造形にダイナミックな絵付けで趣き深い作品に仕上がっております。


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大きいようで、オーソドックスな茶碗・棗と合わせてみるとそうでもありません。

むしろ、陣幕の感じを表現するのにこのサイズでないと意匠映えしないのです。

春のお花見、秋の紅葉狩り、その他・・・文化的な趣向にもお使い頂けます。

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二代 宮川香山
MAKUZU KOZAN Ⅱ
 1859(安政6年)~1940(昭和15年)


初代と共に作品を製作。

初代香山の長兄(長平)の子である。

それが故に年齢差は17歳しかなく、その技術力は初代より確実に継承されている。

海外へのマクズウェアの紹介と、加えて国内へのフィードバックに努め、

眞葛の名声を揺ぎ無いものにした。

初代没後は、自身の新たな感性も取り入れ時代の変遷に対応し、焼けない物は無いと言われる。

途絶えていた古伊賀釉の復活、千家の茶陶作製等も行い、

板谷波山と共に関東陶芸界の重鎮であった。







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二代 眞葛香山 青磁釉漁夫観雲 香炉 [眞葛香山]

様々な釉薬の研究をし、自在にこなしておりました初代香山ですが、納得出来る青磁釉を完成させたのは明治も末頃のことでした。

大正5年に初代が没して、二代へ継承されたあとの眞葛窯ではさらに青磁は洗練されていき、中国のやきものの写しであった青磁とは違う上品な世界を構築していきます。

今回、青磁釉と造形作品とが融合した優品をご紹介致します。

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二代 宮川香山(眞葛香山) 青磁釉漁夫観雲 香炉

大正時代後期

幅24cm×8.3cm 高さ 10.5cm


この、なんともいえないまったりした雰囲気。。

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漁夫が、なんともいえない表情で空に浮かぶ雲をのんびり眺めている様です。

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編み込んだ屋根(を模している)から布の暖簾のようなものを開けて身を乗り出しております。

一応、香炉ですから、こちらの穴からお香の香りが漂います。

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後ろ側より。

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火舎の裏側に窯切れが一ヶ所ございます。

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顔と笠の部分を無釉とすることで、アクセントをつける効果をもたせながら、ディティールを細やかに再現するという双方を両立させております。

サイズも大きめで、なかなか飾り映えのする作品です[ぴかぴか(新しい)]

吉兆庵美術館にも同手作品が所蔵されております。


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『香山式3~MAKUZU BAR』 [眞葛香山]

香山式 KOZAN STYLE Ⅲ  【 MAKUZU BAR 】

眞葛香山(宮川香山)を様々な切り口でご紹介致します当店の企画「香山式」、
今回は・・・『用の美』

器という形態を基に、使う事を考えられた形状の中で、香山がいかにバリエーションや技法を盛り込んでマクズウェアを遺してきたのか。

数万円台~百万円台と価格帯もワイドに、バー・スタイルでお届け致します。
是非、ご高覧下さいませ。


                             藤井香雲堂


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二代眞葛香山(宮川香山) 青磁漢式鳥 香炉 [眞葛香山]

うだるような暑さが、毎日続いております・・・

ベースも、ドアを開けているとビルのガレージ(全開)と隣り合わせなので、もはやエアコンも効力がなく・・・室温30度です。

当分、ドアは閉めないと室内なのに熱中症になりそうです。(^^;

今回の企画展・・・”磁器 色々。”の中から・・涼し気のある愛嬌たっぷりの作品をご紹介致します。

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二代眞葛香山(宮川香山) 青磁漢式鳥 香炉

昭和初頭 頃


初代の晩年に完成した眞葛窯の青磁ですが、澄んだ色合いでどの作品も上品で安定した発色クオリティです。

中国の紀元前~紀元後頃の漢時代、に”薫炉”と呼ばれる香炉が人気を博したらしいです。


くんろ【薫炉】

香草をいぶして衣服を保護したり,室内に香気をただよわす香炉。

中国の戦国・漢代に発達し,銅製や陶製のものがある。

高坏形の身に塁々とそびえる山岳をかたどった蓋をつけ,蓋の個所にあけた透孔から煙を出す博山炉が代表的である。

ほかに,鼎形や盤に柄がつく形のものがある。

いずれも篝(かご)と承盤をともない,ときには移動用の銅篝をともなうものもある。

南北朝時代にも漢式の薫炉が残り,仏具にもとりいれられた。南朝では青磁の薫炉が発達し,博山炉系のもののほか,蓋と身を一体につくり凸字形の透孔を多数あけたものもある。



香山は特に初代は中国の古陶磁器の研究に長けており、様々な作品を目にしていたといいます。

今でこそ、美術館というものや図鑑、インターネットがあり誰でも目にすることが叶いますが、明治期や大正期なんていうのは、有力な豪商や茶人の所蔵品でしか本物をみることはなかったと思われます。

この作品も、香山のラインナップの中では有名なもののひとつで、初代時代から二代の初期にかけて製作されておりました。

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丸みのある愛嬌のあるフォルムですが、銅製の香爐から由来するシャープな部分や、浮盛り文様によりぴしっと締められてております。

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元は、口から香を焚いた煙が漂うようになっております。

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初代時代は唐木による台が眞葛窯にて製作され付随する作品もありましたが、この時期になるとある程度サイズの見込める花瓶の台以外ではあまり見かけなくなります。

二代が襲名し展観を行った大正7年頃は第1次世界大戦後の不況に転じた頃であり、また大正12年には関東大震災もありました。

眞葛窯といえど、様々なラインナップを維持するのは大変なことであったと思います。

このような青磁の作品は、優雅な明治・大正ロマン時期の邸宅の飾物として人気でしたが、世相が変わるこの時期以降・・・通常の香炉や、獅子形の置物へと製作が変わっていきます。

初代の作風を継続した最終期作品といっても良い作品です。

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お値段、も程々で☆

※ご成約済

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