SSブログ
WEB BASE(商品紹介) ブログトップ
前の10件 | 次の10件

狩野永岳 富士峰図 大綱和尚賛 狩野永信極箱 [WEB BASE(商品紹介)]

ちょっと、珍しいお軸のご紹介です。

DSC07679.JPG

狩野永岳 富士峰図 大綱和尚賛 狩野永信極箱


大綱宗彦 (だいこう そうげん)

安永元年(1772)~安政7年(1860)

大徳寺435世。大徳寺塔頭黄梅院第14世住職

裏千家十一代玄々斎宗室・表千家十代吸江斎宗左・武者小路千家七代以心斎宗守と親交が深く、また永楽保全の参禅の師です。

和歌、茶の湯を能くし、書画に優れました。

さて、作品に戻ります。

DSC07680.JPG


雄大な富士の絵が描かれております。

幕末の画家であります、狩野永岳の筆になります。

少し、略歴を引用してみましょう。

父は京狩野の絵師・影山洞玉(後の狩野永章)、弟は狩野永泰で、その子が冷泉為恭。早くに才能を見いだされ京狩野8代・狩野永俊の養子となり、文化13年(1816年)永俊が没すると27歳で家督を継いだ。

初代・狩野山楽の末裔であることを誇りとし、箱書きや落款に「山楽九世孫」としたためている。山楽や二代・山雪の画を熱心に学び、特に30代までは桃山時代の巨木表現に範を取った復古的画風を基本とした。

その上で、当時京都で人気を博していた四条派の画風を積極的にとり入れている。この他にも江戸中期に来日した沈南蘋の流れを汲む長崎派や、谷文晁によって広まった北宗画や文人画、宗達・光琳の装飾的な琳派、甥にあたる冷泉為恭から復古大和絵を直接学んだ。このように様々な画風を貪欲に吸収し自家薬籠中の物とした。

京狩野家は代々九条家と関係が深く、永岳33歳の時、画を好む九条尚忠の家来となった。嘉永6年(1853年)、尚忠が左大臣の公務で江戸に下ったとき、これに同行し富士山を実見し「富士百幅」を描いている。

DSC07682.JPG

この作品も、まさに大和絵調の富士山です!



永岳の代になって京狩野は紀州徳川家と彦根井伊家の御用絵師も務めるようになった。井伊家の菩堤寺である清凉寺に伝わる井伊直弼の肖像画は永岳が画いたとされる。

57歳にして禁裏(朝廷)御絵師御次席となってから落款に「金門画史」・「金門画院第一史」と記すこともあった。66歳のとき禁裏の安政度造営が行われ多くの障壁画の制作にあたっている。
臨済宗妙心寺には永岳の作品が多く残り、とりわけ隣華院客殿障壁画は永岳の代表作といえる。同じく臨済宗大徳寺にも頂相など多数の作品が残されている。東本願寺にも大障壁画を手掛けたがのちに焼失した。本願寺を通じて地方の別院にも永岳の作品が多数見られる。

この他にも永岳は多くパトロンをもち、京都はいうに及ばず長浜や飛騨高山にも足を伸ばし、富商や富農の求めに応じて絵を画いた。

禁裏の御用絵師とはいえ、永岳が家督を継いだ頃の京狩野派は、土佐派や鶴沢派の後塵を拝し不遇な立場にあった。なおかつ江戸後期には伝統的な画派は勢力を弱め、特色を持った新興の画派が台頭していた。永岳は生き残りを掛け京狩野の伝統を革新させ、特色を打ち出すことに成功する。長寿であったことも幸いして京都画壇では重鎮として扱われた。慶応3年(1867)歿、78才。

門弟に同じく養子で岡山に多くの作品が残る狩野永朝や、長野祐親などがいる。そのほかに岩国吉川家御用絵師の佐藤丹治、土佐藩の河田小龍、京焼の永楽保全なども永岳に画を習ったという。


このように、大綱和尚も永岳も、共に永楽保全と親交があったことが解ります。

では、肝心の大綱和尚の歌を・・・

DSC07681.JPG


月花も 及ばぬ物は 阿津万路に(東路に)

  阿おくも(仰ぐも)高き婦し(富士)の白ゆき




これは、大綱和尚自身による歌です。



永岳も大綱も京都より遥か遠くの江戸へ旅した(東路)体験を各々表現した合作です。

今と違って、京都から江戸というのは行けそうでなかなか行けない遠い地です。また、西の都人にとって富士山を実際に見る機会は人生に一度有るか無いかという出来事です。

現代人にとっても富士山は知っているようで、飛行機や自動車・新幹線から見ることはあっても、実際に登ることは一生にあるかないかというのは変わりません。

このお軸は、人生における光陰矢の如しの儚い時の流れ、そして忘れへぬ想い出や機会を大切にすることを観る人に問いかけているともいえるでしょう。

DSC07683.JPG

DSC07684.JPG

箱は狩野永岳の養子であり、10代を継承した永信による極めになります。


※売却済みです。

井上東也 唐津茶碗 [WEB BASE(商品紹介)]

先日の入荷リストへのお問い合わせが御座いましたので、画像をご紹介致します。

井上東也 唐津茶碗です。

DSC07692.JPG

幅 13㎝ 高さ 7.3㎝

DSC07693.JPG


DSC07694.JPG

当店では、普段取り扱うことが無い作家さんかもしれませんね。(^^;

しかしながら、唐津焼作家としては近年人気が高く、太郎右衛門や重利よりも一般的に高評価の向きがございます。

DSC07691.JPG


個展でお求めのお客様からの出物です。


九代白井半七 絵変り銘々皿 10枚組 [WEB BASE(商品紹介)]

半七作品のご紹介です。

定番で人気の絵変り銘々皿です。5枚づつの画像でご覧くださいませ。


DSC07561.JPG

DSC07562.JPG

上から。

DSC07564.JPG

裏面です。


DSC07565.JPG

DSC07566.JPG

上からです。

DSC07567.JPG

裏面です。

ほぼ未使用の出物です。お客様よりお預かり致しました!

※ご成約済です。


9代半七  1928(昭和3)年~1987(昭和62)年

8代の様式を受け継ぎ、より洗練された作風に昇華させる。

1980(昭和55)年に兵庫県三田市大原に移窯しました。

吉兆の湯木貞一氏と親交が深く、食の器などを多く製作。

四代清水六兵衛 萬暦升水指 碌々斎書付 即中斎甲書 [WEB BASE(商品紹介)]

先日ご紹介致しました香州のお茶碗に続き、表流お道具の良い作品が現在揃っております。

少しづつご紹介致します。



DSC07378-1.jpg

四代清水六兵衛 萬暦升水指 碌々斎書付 即中斎甲書


これは大変珍しいです。

碌々斎時代には、京焼として六兵衛にも書付道具の製作発注をしていました。

その中でも希少な作品です。



DSC07380-1.jpg


四代六兵衛の作品でもここまでのレベルの磁器作品はなかなか見受けられません。


DSC07381-1.jpg

「萬暦桝鉢」というのは、口縁に塗った鉄釉(口紅という)や文様の描き方より、明時代末期から清時代初期にかけて中国景徳鎮の民窯で焼成した五彩(赤絵)磁器のことです。。

日本では南京赤絵とも称されます。

17世紀の中国による茶道具の中でも上に位置するもので、近代になってからは国内では三浦竹泉や九谷の矢口永寿による写し作品がよくあります。


DSC07376-1.jpg


明治維新(1868)による社会の大きな変革の波は、茶の湯の世界にも及びました。

一部の武士と、上流の町人によって支持されていた茶の湯でしたが、徳川幕府の終わりとともに紀州徳川家への出仕も終わり、また一般の人々の茶道に対する興味も薄れ、茶の湯は衰退の道をたどったのです。
こうした状況のなか、11代碌々斎(1837-1910)は家元としての古格を保ちながら、茶の湯の復興に力を注ぎました。

やがて数寄者と呼ばれる政、財、官界の要人ら、新たな茶の湯の庇護者が登場し、茶の湯文化は活力を取り戻します。

DSC07385-1.jpg

塗蓋は飛来一閑製です。

DSC07377-1.jpg

箱書の甲には即中斎の書付が足されております。

DSC07379-1.jpg


過去に松下幸之助コレクションの萬暦赤絵の公開時に、世相をうまく紹介した文章がございましたので引用してみましょう。


「萬暦赤絵」とは、日本では安土桃山時代から江戸時代初期にあたる、中国明時代後期・萬暦年間(1573~1619)に世界的名窯である・景徳鎮の官窯で制作された赤絵磁器のことをいいます。

さかのぼって隆慶年間(1567~72)や嘉靖年間(1522~66)のものも同様の特徴をもつことから「萬暦赤絵」と呼ばれています。

萬暦年製のものは、赤、緑、そして青の鮮やかな色彩による文様の密度の高さが特徴的です。
また、その重厚で暖かく柔らかな雰囲気が日本人の心を捉えました。

茶の湯が始まった室町時代には、中国から宋代以降のやきものが入ってきていましたが、茶人たちが好んだのは「萬暦赤絵」を始めとする柔らかなやきものでした。そして明治時代になると「萬暦赤絵」が再評価されます。

とくに白樺派の同人たちはことのほか愛好し、たとえば志賀直哉は小説『万暦赤絵』を書き、梅原龍三郎は「萬暦赤絵」の花瓶をモチーフとして繰り返し描きました。また茶の湯を嗜む政財界人も「萬暦赤絵」を好んで所有しました。

このような時代背景の明治時代に特別にこのような茶道具が製作されたことがうかがえます。


永樂即全 青交趾菓子皿(土器皿) 十枚 [WEB BASE(商品紹介)]

次回も、交趾作品をご紹介致します、と申し上げておきながら・・・・日が空きました。(^^;


DSC07548.JPG

永樂即全 青交趾菓子皿(土器皿) 十枚

お料理屋さんにも、茶人さんにも人気の定番作品です。


DSC07549.JPG


各色の交趾で作品が存在しますが、これからの季節には爽やかでピッタリの『青交趾』です。


DSC07550.JPG


菓子皿ですが、大きさが充分ですのでお料理用にも重宝致します。


DSC07551.JPG


土器皿というのは、轆轤を使わずに手ひねりで形成していく皿のことです。


この揺らぎのある形状が、盛りつけられる食材とのなんともいえない調和を生み出します。

十枚揃うのも嬉しいところであります!

※御売約済み


十六代 永楽善五郎(即全)

1917年(大正6)~1998年(平成10)

昭和9年、千家十職 永楽家の十六代善五郎を襲名。

永年に渡り、千家十職の茶碗師として活躍しました。 食の器では妙全に次いで作品が多く存在致します。


森香州 虫明焼茄子瓜ノ画平茶碗 惺斎書付 [WEB BASE(商品紹介)]

1年半ぶりに香州作品が入りました。


DSC07352-1.jpg


森香州 虫明焼茄子瓜ノ画平茶碗 惺斎書付


この茶碗は香州の代表的な作品のひとつです。

虫明焼の伝説となっている、12か月茶碗の一つに入っております。

虫明特有の色合いに鉄絵で茄子と瓜が描かれております。

12ヵ月茶碗を香州が研究の為に借り受けた際、1碗を割ってしまい・・・香州が製作して補ったという話が遺されております。

なんてことを、と思いましたが、その際にきちんとデザインや形状・サイズ等を遺したので、幻の本歌を見ることが出来ない後世の虫明作家方が”写し”を制作して現在に知られることになったのは素晴らしいことです。

DSC07353-1.jpg


DSC07354-1.jpg


香州の”むしあけ”印です。 


DSC07351-1.jpg

惺斎の書付があります。


香州はその名前からもわかりますように、近代虫明の祖であります香山の愛弟子でありました。

その技術力の高さと裏腹に、経営面では不器用だったようで・・・かなり苦難の人生を送られたようです。

何度か横浜の眞葛窯へ身を寄せていました。

軽井沢の三笠焼には香山の命を受けて職長として赴いたりもしております。

昨年の岡山県立美術館での初代香山没後100年展観に於きましては、香州作品も優品が多数展示されておりました。

作品は、近年では出物がかなり少なくなり、地元の虫明焼愛好家の間はもちろん、茶人の中でも評価が高まりつつあります。



森香州

1855-1921

伊木氏より父が窯を譲り受け、明治元年に初代眞葛香山に師事、その後何度も窯の再興を繰り返し明治32年に廃
窯となるが、虫明焼特有の味を出した有名な作品を数多く生み出した虫明焼中興の祖である。
香山の信任も厚く、香の字を受け継ぐ。




永楽妙全 黄交趾梅形向付 十客 [WEB BASE(商品紹介)]

永楽家の交趾作品のご紹介です。

交趾写しは事実上の永楽の初代であります了全から存在します。

保全辺りの色合いがなかなか秀逸なのですが、今回ご紹介致します妙全の黄交趾もなかなかそれに迫る色合いです。

DSC07552.JPG

永楽妙全 黄交趾梅形向付 十客


DSC07553.JPG

並ぶと壮観ですね。

DSC07556.JPG


梅の形状を盛り付ける食材の邪魔をしない程度に意匠化されております。

DSC07557.JPG


側面から。

DSC07558.JPG


上面から。


DSC07559.JPG


DSC07560.JPG

下方から。


共箱 無傷完品です。 大正時代の作品です。

※御売約済み


次回も永楽の交趾写し作品のご紹介になります。








加藤周兵衛 新瀬戸染付 鉢 [WEB BASE(商品紹介)]

マニアックな、瀬戸染付作品が入りました。

幕末明治の瀬戸染付といえば、加藤五助や川本半助がすぐ浮かびますが、まだまだ名工が隠れております。

今日は、そんな『加藤周兵衛』という陶工の作品をご紹介致しましょう。


DSC07568.JPG


作品は明治期ですが、この頃にはすっかり瀬戸染付(初期の民吉頃のと区別する為、新瀬戸染付といいます)も技術が進化と安定しています。

DSC07570.JPG

手慣れた感じですね。


加藤周兵衛

嘉永5年に分家し、白雲堂と号し、染付焼に転業しました。

明治初年に、瀬戸窯元取締役になり、明治5年にオーストラリア大博覧会に出品。

青花磁製造方取締役や愛知県観行委員などを命じられ、業界を代表する一人として活躍しました。

明治33年没


DSC07571.JPG

底の書き銘は『白雲堂』です。


上品な仕上がりが目に付きまして、今回の入荷となりました。

こういう作品なのに、お安いのです。。。

※ご成約済

永楽妙全 祥瑞赤絵中皿 二十枚 [WEB BASE(商品紹介)]

金沢美術倶楽部で開催されました、正札会”若筍会”へご来場頂きました皆様、誠に有難うございました!

この度もよいご縁を頂戴致しました。

全体としても近年最高出来高だったようで、なんとも盛況でございました。

次は11月に金美特別展がございます。こちらはブース催事ですのでまた別の面白さが御座いますので、是非その節も宜しくお願い申し上げます。



さて、金沢出張から戻りまして、1・2日は仕事に追われ・・・なんとかやっつけることが出来まして

3〜5日は0泊3日という弾丸宮崎旅行へ行って参りました。

夕方からフェリーで出て、朝に到着し、その日の夕方にフェリーで帰る、というやつです。

時化もあり、船酔いというものに初めて悩まされつつも、なんとかプチ家族旅行してまいりました。

さて、気を引き締めなおして・・明日から仕事スタート!です。


では、商品紹介から。


永楽妙全 祥瑞赤絵中皿 二十枚


DSC07085.JPG


本歌も古赤絵で、このような形状と意匠があります。

六角の角ごとに少し輪花のような切込みが意匠を単調さから解き放っております。

DSC07086.JPG


側面で絞込みを入れ、手が入るようにし、お皿を取りやすく工夫してあります。

DSC07087.JPG

幅は14cmです。


なんと、この作品は”20枚組”です。 以前同じモノの10枚組は扱ったことございますが、20枚とうのはなかなか出会えません。

なのに、お値段としてはほぼ同じ位でのご提供になります!

お料理、デザート、主菓子など様々な用途が出来ます。


【二十枚無傷 共箱 大正時代】





永樂妙全(えいらくみょうぜん、1852年 - 1927年10月1日)

千家十職。焼物師。永楽家十四代。得全の妻悠。

夫の得全の死後、次代の正全と共に家業を守る。

三井高棟翁より「妙全」を賜わる。

歴代の中でも一番食器を制作した代で、注文品なども多く・・・10客揃いや20客揃いのお料理屋さんなどに使える永楽作品は妙全のみと云えます。


初代井高帰山 面取茶入 [WEB BASE(商品紹介)]

今回ご紹介致しますのは、当店では初の取り扱い作家です。

初代井高帰山 面取茶入


DSC06988.JPG


とはいえ、井高帰山・・・実は前から非常に馴染み深い名前だったりします。

初代帰山は初代宮川香山の愛弟子であり、香山の命で軽井沢ホテルでの山本家の御庭窯として知られる『三笠窯』を任されていたという経歴があります。


m_DSC00036-7d5e0.jpg


井高帰山(いだかきざん 1881 ( 明治14 )~ 1967 ( 昭和42 )87歳没)


井高は、香山の「秘蔵弟子」の一人でした。

井高は兵庫県の出身で、明治32年、淡路島の津名郡立陶器学校を卒業、兵庫県出石陶磁器試験所で技師をしていましたが、真っ白な白高麗をやくことができる腕をもっており、明治36年8月頃、香山に引き抜かれる形で門人になったと言われています。

その後、香山から香の字を取って井高高渓と名乗ります。

では、話を戻しましょう。


帰山の初代作品はかなり伝世品は珍しく、中でも茶陶となるとなかなか見つかりません。


DSC06988.JPG


面取りを使ってモダンな意匠に仕上げてます。


DSC06989.JPG

小さ目でありますが、口径は大きく茶杓の入りもスムースです。

DSC06990.JPG

上質な仕覆と共箱が添います。

愉しめそうな作品です。

では、帰山の経歴をご紹介しましょう。



1903(明治36)年8月、出石陶磁器試験所を辞し、工学細木松之介(京大教授)、友田安清の紹介により横浜市の真葛焼改良法を研究。白磁の法を横浜に伝えると共に、窯元宮川香山より、染付、青磁、その他を修行。白高麗を「加賀の白魚」と称賛された。
11月より、真葛で受賞作品などを制作 明治38年まで。

1905(明治38)年5月、宮川香山の紹介をもって、浅間の信州軽井沢製造所(三笠焼窯元)に聘される。

1914(大正3)年4月、マット釉の研究を始める。白盛りの法を真葛の坂田氏より聞く。

   (大正5年 初代香山没)

1920(大正9)年  この頃より帰山と号す。以後、二代宮川香山らとの関係の東陶会をのぞき、美          術団体とは関係をもたず、制作と個展発表とに集中した活動を行う。

1921(大正10)年 軽井沢三笠ホテルに於いて、三笠焼の再興を引き受け、同時に浅間焼と改名。

1927(昭和2)年 この年、板谷波山、二代香山、沼田一雅を顧問に東京、巻頭在住の陶芸作家を中         心にした「東陶会」の結成に参加。

   (昭和16年 二代香山没)

   (昭和20年 三代香山没)

1959(昭和34)年 7月7日 真葛宮川智之助逝去のため葬儀に参列 (注 智之助は三代香山の弟               で、四代を名乗り真葛窯の復興に努めていた) 



二代帰山は、初代帰山について次のように語っています。

「青磁・染付等の研究の成果が一応得られたのは、三笠焼で香山の指導を得てからと言う事か。

この頃になると自力の青磁制作となる。

香山から得た青磁は、幸せな事に中国の青磁として一番貴ばれる北宋風だった。

帰山が金沢から上京したのはこうしたものが自由に造りたかったからだと思う。」


井高帰山の息子、二代帰山は次のように語っています。

「父帰山は、(中略)次のようなことは話していた。香山翁は芸術上のことのほか、仕事や日常の規律のようなものには到って厳しく、徒弟たちは翁をあだ名して「もーりん(巡査のこと)」とか「ジャンジャン」とかの呼称を口にした。「ほーれ「もーりん」が来なはった。」などと告げ合った。翁は、仕事が思うに任せなかったり、督励をしたりするとき、下げた両手を握って尻を叩きながら、注意やら励ましやらを、京都弁でちょっと押し出すような調子でして巡ったそうである。一方徒弟の可愛がりかたは無類で、親許、親類をはなれ故郷を遠く隔てた者たちには、時には親に時には神仏に見えた事もあるだろう。割合と待遇も良く、決してよそに気を反らせるようにしなかった。」
(二代井高帰山 「香山先生のことなど」 読売新聞社 宮川香山展 図録 )

また、インタビューで「初代帰山さんから、真葛香山のお人柄とかお聞きになっていますか。」と尋ねられた際、次のようにも語っています。

「 四六時中聞かされました。特に香山先生が言われたことは、何か焼きものを頼まれたときに「これは俺の所ではできない」というものがあってはいけない。 辰砂(しんしゃ)でも、青磁でも染付でも、下絵の色入のようなものでも、信楽、丹波、備前、九谷、例えば色絵のものとかを注文してきても最高のものをつくりなさい。

(中略)大手のスーパーでも、つぶれないようにするにはニーズを考えますね。ニーズがなければいけない、と香山先生は言われる。今の時代に ぴったりしている。だからすべてやる。しかも、一流のものに仕上げなければいけない。そういうことを言われたそうです。 」
(有隣 第403号より)


香山との深い繋がり、そして素晴らしい技術を会得していた初代帰山。

私にとっても非常に親しみ深い作家さんであるわけです。(^.^)


御値頃な価格です。









前の10件 | 次の10件 WEB BASE(商品紹介) ブログトップ