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六代 大樋長左衛門 菊形中皿 二十枚 [新入荷]

さらに、さらに珍しい大樋焼の食器です。

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六代 大樋長左衛門 菊形中皿 二十枚

六代は五代に倣った作風で、穏やかさの中にある雅、が特徴です。

文政12年(1829)に生れ、安政3年(1856)に28才という若さにて没してしまいました。

五代の製作を助け、襲名後のわずか短い期間にしっかりと優品を遺しました。

五代、六代の時代には大樋焼は加賀藩の御用製作品も多く手掛け、注文に応じつつもそこに自身の創意や技術を盛り込むことで、時代を超えたモダンさが垣間見える作品があります。

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この頃に完成した、白の釉薬を乾山風の実現に早速活かしております。

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共箱も現存しております。

なんと、状態良好で二十客揃っております。 この数からも注文製作品でったことが伺えます。

※ご成約済み

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お問い合わせ先  藤井香雲堂 藤井和久

メール fujii-01@xc4.so-net.ne.jp

直通電話 090-8578-5732

まで、どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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五代 大樋長左衛門 柚味噌皿 五客   九代極め箱 [新入荷]

3月に続いて・・・珍しい、五代大樋の、しかも稀少な向付が入りました!

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五代は、先日のブログでもご紹介しました通り・・・大樋焼の中興の祖ともいわれ、玄々斎との親交も深く・・・初代写しで有名な亀の洲香合を三十五個製作したのも五代大樋です。

その出来栄えに、玄々斎より三本の茶杓を戴いたそうです。

五代大樋長左衛門は寛政11年(1799)に生れ、文政7年(1824)に四代の隠居に伴い襲名。

以後、茶道の隆盛期に金沢の地にて茶道具の名品を製作しました。

大樋焼窯元によりますと、「造形手腕は複眼的に対象を捉え、豊かな創意と多種多様な技法により幅広い作風を遺す」とあります。

約30年間、茶道界・数奇者さんの中で活躍し、安政3年(1856)58才で没しました。

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この作品は、”柚味噌皿”と呼ばれる向付で、オリジナルは楽家四代目である、一入の作になります。

楽では、その後了入や旦入で造られましたが、それ以降は寄せ向付の中に入るものとしてあるのみ。

大樋の幕末期の作品で、飴釉で再現した柚味噌皿・・・かなりの希少作品です。

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高台にすこしだけソゲがあります。

他は綺麗なものです。

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九代の極め箱となります。

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楽の赤楽の柚味噌皿と併せてお使いになっても面白いでしょう。

もちろん、お茶事にこの作品だけでおもてなししてみて下さい!


※ご成約済です。


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お問い合わせ先  藤井香雲堂 藤井和久

メール fujii-01@xc4.so-net.ne.jp

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御深井焼 黒織部 茶碗  祖母懐印 [新入荷]

続きまして、もう1点・・・祖母懐茶碗をご紹介致します。

こちらは、黒織部になります。

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御深井焼 黒織部 茶碗  祖母懐印  19世紀



尾張藩士や陶工による、幕末の尾張国焼では、筒茶碗というのは・・・まぁ、よく見られる形状ではありますが、こと織部焼におきましては、平たい沓茶碗がほとんどになります。

瀬戸黒、はまた別としまして。

そういう点で、いったい稀少なその黒織部の筒茶碗を、いったい徳川家のどのお茶碗を手本としたのでしょうか・・・稀に、御深井焼や、九朗、春岱作品でも写されております。

しかし、伝世している黒織部の筒茶碗というのは、大阪の戸田商店蔵の菊文以外ではあまり見受けられないものです。

そういう意味でも、幕末の尾張焼の黒織部茶碗というのは、また愛玩しがいのある作品となります。

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反対側より。

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祖母懐の土にのみ、発生するといわれる特徴として・・・”こぶ”が産まれる事があります。

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瘤が膨らむ・・・・懐が膨らむ、七福神、などと縁起のよい証ともされ、祖母懐焼の中でも特に珍重されたそうです。

このお茶碗の旧蔵であった、太閤庵秀吉という方はその辺を事細かに・・・書状として遺されておりました。お名前からもかなり思い入れの深い方と推察されます。(^^;

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高台回り。

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こちらも、昨日ご紹介の祖母懐印と同じものです。

尾張徳川家に遺された印です。

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生け花の志野流家元 蜂谷宗意(明治14年3月没)の箱書があります。


銘は”臘雪”(ろうせつ) 

陰暦12月の雪のことを指します。


当店では、過去に御深井焼の黒織部茶碗が1点、加藤春岱の黒織部茶碗が1点、平澤九朗の黒織部茶碗が2点・・・ほど扱いましたが、祖母懐印のものは売り物としてはやっと手に入れることが出来ました。

少し、値は張りますがそれだけのモノでございます。

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御深井焼 瀬戸 沓形茶碗 祖母懐 印 [新入荷]

久しぶりに、祖母懐のお茶碗が入りました。

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御深井焼 瀬戸 沓形茶碗 祖母懐印

御深井焼(おふけやき)

尾張 徳川家の御庭焼として名古屋城御深井丸に17世紀前期に開窯し断続的に明治4年まで続く。

濫堀を禁じられ、城に秘蔵されていた祖母懐の土を使った。

赤津の陶工尾張藩士など単独陶工として技に秀でた者が従事し、藩窯として優品を遺す。

とくに茶の湯に熱心だった十二代斉荘公時代に最盛期を迎えました。

祖母懐の土自体は、さかのぼれば・・・藤四郎の時代から文献に見えるようです。

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反対側より。

織部に類する作行が多い、祖母懐印の御深井焼の中でも珍しい種類のお茶碗です。

尾張茶陶では、重めのものが多いのですがこのお茶碗は普通のお茶碗の重さでもあり、形状も併せてお使い易い出来栄えです。

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沓形で、側面は箆削りにより、凛々しい造形です。

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祖母懐は、大変貴重な作品であったことから贋作や、後世の写しものも多く混入しておりますが、使われていた印類は、尾張徳川家に遺されており、現在でも名古屋の徳川美術館に現存しております。

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サイズは幅9~10.8㎝ 高さ7.7㎝です。

この作品は、太閤庵という庵号の国焼コレクターの旧蔵品で大切に保管されておりましたものの一つです。


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お問い合わせ先  藤井香雲堂 藤井和久

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6月のベース営業日のおしらせです。 [BASE215]

6月 ベース215 営業日のお知らせ

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眞葛長造 模仁清入舟向付 (江戸時代19世紀前半)




       企画展示 “幕末期の国焼”


江戸後期のお茶碗や水指、向付等、25点をご紹介致します。

珍しいモノばかりです。

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14(木)・15(金)

22(金)・23(土)

26(火)・27(水)


※初日は12時より、最終日は16時迄



準備不足と、6月後半からの怒涛のスケジュールに備えて・・・今月前半は休養させて頂きます。(^^;
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須田青華 雨傘文手鉢 [新入荷]

十翔会も無事終了致しまして・・・からの、またしても金沢出張行ってました。

1ケ月の間に3度も金沢に出張という、これまでも、多分これからも無い経験です。(^^;

そして、明けて本日。

ちょこちょこと、溜まってる仕事をこなしておりましたところ。。。急に胃のあたりに激痛が!

息もできない位までひどくなり、救急車を呼ぶことに。(これまた、人生初。)

先ほどまで病院でした。

胆嚢が詰まってて発作が起きてたとか・・・救急から検査に行く途中で、詰まりがうまく取れたようで痛みが治まりましたが、来週は外科で検診です。( ;∀;)

涙雨・・・

それは、置いておいて、6月は梅雨の時期です。

そんな6月にぴったりの鉢のご紹介です。

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須田青華 雨傘文手鉢

四代さんの未使用作品です。

須田青華といえば、魯山人が浮かびます。

山代温泉の「吉野屋」の主人・吉野治郎の別荘に滞在していた魯山人が依頼された仕事の一つが、須田青華窯の木の看板です。

1915(大正4)年の11月に魯山人より届いた「青華窯」の篆刻看板を須田青華は大変喜び、その御礼として窯元で魯山人へ手ほどきすることになるのです。

書はお手のものである魯山人も、上絵付けには苦労したそうですが、その後の素晴らしい磁器作品の数々から、見事に物にされたことが伺えます。

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側面より。

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須田青華の青華、は染付を現す青華から由来しているだけあって、染付技術は抜群です。

この作品は、特に魯山人のテイストも感じさせる絵付けです。

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雨傘がさりげなく、上品に描かれております。

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菓子器にも、懐石にも楽しい器です。


3代・青華の子が現在の4代・須田青華です。本名は千二郎、1940(昭和15)年生

金沢美術工芸大学の洋画家を卒業後に二代と三代に作陶を学びました。

1981(昭和56)年、3代・青華の没後、4代を襲名。

地元の土を使い、蹴轆轤で形作ったものを、磁器では珍しいといわれる松薪の登り窯で焼くという古九谷発祥時の工法を、現在も守り続けています。




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