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【眞葛長造 模仁清 三つ葉蓋置】 [幕末京焼]

当店では『茶道具』、ではなく『茶道美術』・・・を意識した仕事を心がけており生業としております。

それは、お客様と同じコレクター目線で心の琴線に触れるかどうか?というのが最重要ポイントということになります。

そういうものは得てして・・・値が張ってしまいますので商いとしては利をあまり頂かないようにしております。

たとえ、単に手元を通り過ぎるだけになってでも・・・『どうしても手にしたい!』『ご紹介したい!』という気持ちが勝ってしまうのです。


前置きが長くなってしまいましたが。(^^;


そういう、作品のご紹介です。



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【眞葛長造 模仁清 三つ葉蓋置】


幅    5.9cm

高さ   4.4cm

製作年代 1830~1850年頃

箱    共箱



蓋置、ですので小さな作品です。

しかし、作行と存在感は大きなものです。


まずは、いつもの撮影にて画像をご覧くださいませ。


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眞葛長造 寛政9(1797)~万延元(1860)年

『長造釉』ともよばれる独自の釉薬は・・・土灰と長石に藁灰を加えたもので、窯による温度変化や、土の鉄分含有量により様々な雰囲気に変化します。


仁清のようなクリーム色から、ブルーがかった独自のものまで。

どちらにも共通するのは、『銹絵』(鉄絵)を使った絵付けがベースとなる釉薬と溶け合って見事に調和するという点です。

その融合が、独自の雅味を生み出しております。

この作品もまさに、その点では長造の蓋置では最高峰といっても過言では有りません。


また、意匠も独創的ですので・・ここからはちょっと撮影場所を変えて、ご覧いただきます。


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『三つ葉蓋置』といえば、『利休形七種蓋置』で知られる名前です。

大きな三つ葉と小さな三つ葉が、組み合わさったものです。


この作品はそういうものとは全く異なります。

むしろ、浄益であるような『一葉蓋置』に近いです。


しかし・・・『三つの葉』をこうも組合すのか?!という驚きがあるのです。


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アップしてみましょう。


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虫食いの穴まで!


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鉄絵の上から薄いブルーがかった釉薬が包み込んでます。


葉のひねり、も造形されております。


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こちらにも、虫食いが。

長造 模三つ葉蓋置(詳細) (7)-1.jpg


きちんと、押印部分は無釉になっているのです。

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ここに至っては、虫食いからの、葉の折曲がりと重なりまで!

長造 模三つ葉蓋置(詳細) (10)-1.jpg

さすがに、わずかな窯切れは生じます。


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長造 三つ葉蓋置 (4)-1.jpg

共箱です。

大切に伝えられてきた感がございます。



長造 三つ葉蓋置 (5)-1.jpg


この形状は、決してリアルに生まれる様子では有りません。

しかし、まるで『吹き寄せる落ち葉の風情』を『動画』のような躍動感をもって・・・このような小さな作品で表現しているのです。

長造が師事し、晩年期を支えた『青木木米』のもつ高貴さ、と文人墨客なものも内包している気が致します。

これは長造ならではのセンスであり、『仁清』から継承される京焼初期からの雅さであり、百花繚乱となりつつあった当時の京焼の発展の証でもあったのです。


※御成約済みです。


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【春斎耕甫 六兵衛焼 自作茶碗】 [幕末京焼]




表千家を支える茶家として、『久田家』が有ります。


家祖となる、『久田実房』(宗栄 生々斎)という武人により始まった家で、いい伝えでは、千利休の妹である『宗円』を妻に持つとされます。

この『宗円』は利休より今に繋がる女点前の元となる『婦人点前』を授けられております。

二代は 宗利 受得斎(本間利兵衛)で、千宗旦の娘クレの夫であり、藤村庸軒の兄です。


その後、『四代 不及斎』の二人いる男子が分家し・・・・


次男 『宗悦 凉滴斎』が、『高倉 久田家』として久田半床庵を継承し、代々表千家と縁の深い茶家として、途中に中絶を挟むも、現代迄続いております。


長男 五代目『宗玄 厚比斎』は両替町へ移り『両替 久田家』を興し、主に東海地方に久田流を広めました。

こちらもまた、表千家との深い繋がりの中発展し、十一代では玄々斎の甥を迎えることになり裏千家との縁者ともなるのです。


少し時を前に戻して・・江戸後期頃の、両替久田家の八代目による手作り茶碗をご紹介致しましょう。



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【春斎耕甫 六兵衛焼 自作茶碗】


幅   11.8cm

高さ  11.5cm

高台径 5.1cm

製作年代 18世紀末(1771~1799年頃)



『春斎耕甫』の珍しいお茶碗です。


『耕甫』は、七代『宗参』の子の『友之助』の早世により両替久田家を継ぐために『筑田家』から『久田家』の養子として入りました。

1788年の『天明の大火』による両替町屋敷の焼失後、知多半島・大野村(常滑)の豪商である浜島伝右衛門氏の援助を受け再建します。

『耕甫』は本宅再建までの数年、浜島家に滞在しながら知多半島に久田流の点前を広めました。

道具数寄であったようで、同時期の茶器の箱書きも遺されているだけでなく、自身の手による・・・掛物、消息文、花入、茶碗、茶杓、薄器、蓋置等といった自作もの、好み物、が伝世しております。

手工に長じていたと伝わるのは、作品からも裏付けられます。


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手慣れた轆轤です。サイズも大きすぎず・・・程よく。


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『時しらぬ ふしの高根の 志ら雪も 閑須ミ尓き由類 春のあけぼの』


伊勢物語や新古今和歌集にある歌を元に自身で詠んだものでしょうか。


《時知らぬ富士の高嶺の白雪も》

季節を問わず雪が積もり覆われる富士山の高い峰も

《霞に消ゆる春の曙》

春の日の出前の霞により消え去ってゆく


『霞』がかることで覆われて消える白雪・・・と、春となり暖かくなることと日の出が差してさすがに冬以外でも雪が積もっている富士の峰も雪解けとなっていくこと、が感じられます。




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上から。


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反対側。


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高台脇に、『耕甫造 (花押)』とあります。

いい土味です。

一か所、畳付きに2.5mm程のホツレが有りますが、かなり古いもので永年に渡って大事にされてきております味わいが付いております。


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この作品は、『清水焼』です。


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高台内には『きよ水』印が押されております。


これは『初代 清水六兵衛』のものです。

春斎耕甫が、初代六兵衛の窯にて焼いたことが解ります。



初代 清水六兵衛 元文3(1738年)~ 寛政11(1799年)

摂津国東五百住村(現・高槻市)生。

幼名は古藤(ことう)栗太郎。寛延年間に京に出て清水焼の『海老屋清兵衛』に師事し、
明和8(1771)年に独立して五条坂の建仁寺町に窯を開き、名を『六兵衛』と改めました。

妙法院宮の御庭焼に黒楽茶碗を供して六目印を受け、天竜寺の桂洲和尚より六角内に清字の印を受ける。土焼風の抹茶器、置物などを製作。号は愚斎。


今では潁川以降、木米からの、保全・長造・仁阿弥といった京焼が中心に語られますが、それより少し前である初代六兵衛の存在は、五条坂系京焼において外せない先駆者であり、重鎮なのです。

そして、その師たる『海老屋清兵衛』は潁川の師でもあり、これこそ清水焼の祖ともいえる巨匠なのですが作品の伝世数の少なさもあり・・・まだまだ研究が進んでおりません。
同じく、弟子である六兵衛も初代に関してはまだまだこれからでしょう。

この『きよ水』印は、『海老屋清兵衛』が使用していた印を『六兵衛』へ授けたと云われております。

それは、正当な継承者であることに他なりません。

江戸前期までの京焼では『茶陶』の名工が存在しましたが、中期は空白ともいえます。

耕甫の時代には、未だ京焼では木米はもちろん、仁阿弥や永楽家ですらまだ時のステージには上がっておりません、六兵衛窯へ赴き作陶したのは自然なことであったことでしょう。


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共箱です。


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《時知らぬ富士の高嶺の白雪も霞に消ゆる春の曙》


変わらないこと、が変化すること、時の移ろい、が込められている気が致します。


それはまるで、これから始まる京焼イノベーションのあけぼの、をも感じさせるのです。




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【永楽保全(長等山) 染付竹輪 蓋置】 即中斎箱 即全外箱 [幕末京焼]

今回は、大変希少な保全作品をご紹介致します。

しかし、その作品が生まれるに至る迄の・・・保全の晩年は決して楽なものではなかったのです。


時は『嘉永2年』、『西村文書』と呼ばれる資料に記されている一文を発端に保全の生活に激変が起こります。

『酉年春、奈良風呂屋十二世。永楽善五郎回全・・・』


保全の親友である、佐野長寛の次男である『宗三郎』を養子に迎えたことに端を発する事件です。

天保14(1843)年~嘉永元年(1848)年までの『善一郎』を名乗る時代、その『善一郎家』を別家として創設するためであったということですが、その時点では問題になっておらず、嘉永2年に善五郎家に加えたことが問題であったと思われます。

和全との確執は決定的となり、保全が江戸へ遁走することとなるのです。


嘉永3年10月、三井家を頼って江戸へ下りますが、願いむなしく・・・三井家からも見放されたようです。これは本家である善五郎を立ててのことと思われますが、保全に関する文献等も廃棄されたといいます。おそらく、和全の怒りは相当なものだったのでしょう。


嘉永4年6月に、江戸より戻るも京都へは入らず、三井寺の辺りに仮寓し再起を図ります。

摂州高槻城主、永井候から『高槻焼』なる御庭焼の相談を受け築窯することになりました。


しかし、保全自身の状況もさることながら、永井家よりの資本注入の少なさに起因するところもあり、『土』も二級品であったといいます。

それゆえに、窯疵が多発するのです。

このやきものは軌道にのることなく、嘉永5年頃には頓挫したようです。

翌、嘉永6年に鷹司家からの注文品を湖南で焼いたりしましたので、再び湖南へ拠点を戻したことがうかがえます。

そして最晩年となる・・・・嘉永7年(1855年・安政元年)。

保全最後のワークとなる、『三井御濱焼』『長等山焼』が生まれました。


円満院宮の名前を借りることで、御用窯としてかろうじて自身のプライドを保つことを図ったようです。

しかし、永年・・新たな京焼・千家御用窯として名を高めることを成した保全の技量は晩年といえども衰えることなく、発揮されたのです!


今回は、その最後の最後の窯の作品です。



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永楽保全(長等山) 染付竹輪 蓋置


幅    4cm

高さ   5cm

製作年代 嘉永7(1854)年

箱    共箱 即全極め箱 即中斎書付



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完璧な、染付発色にて焼成されております。


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『竹節』の形状を模してあり・・・


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上部も同様に竹節風に形成してます。


『輪』の蓋置は多数ありますが、このようなものは希少です。

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下部から。


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『長等山 陶鈞軒保全置造』


長等山焼銘の作品は、保全の中でもかなり珍重されるもので、『三井家』に3点存在する他では『台鉢』等数点を流通上で見た程度です。


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極め外箱

眼鏡になっております。


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共箱です。


もうひとつは新箱により、書付用となっております。

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即中斎箱です。




晩年の保全は『染付』の探求に徹した節があり(もしくは多種製作が困難だったのかも)、晩年少し前の『河濱焼』は御本風の土ものでありましたが、『湖南』としてそこはひとくくりにするのではなく・・・保全晩年の『染付焼期』として『高槻焼』『湖南焼(長等山焼)』を一時代として保全研究するのも大事なのかもしれません。



この度、この時期の保全の心境・・・というか、状況を感じとりたく現地へ赴いてみました!

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『三井寺(園城寺)』

来週位から桜が綺麗なことでしょう。

弁慶の引き摺り釣鐘などでも有名です。


この傍に、有りました!


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『三井寺円満院門跡』


御濱御殿内、で焼いていたといいますが門跡前、とも。

ここの門跡は面白い造りで、有名な蕎麦屋さんがくっついております。というか門の一部になってます(笑)


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『開運そば』

良い出汁で、お値段もほどほど。故に常に人気だそうです。

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『開運そば定食』




三井寺の中からも、山を背に琵琶湖が臨め・・・なんといいますか、心安らかな感じでした。

周りも静かな地であり、保全の最後の数年の暮らしが少しだけ感じれたのです。


嘉永7(1854)年の夏期(5~7月?)に開窯した『三井御濱焼』ですが・・・


同年9月18日、大津の地にて病気にて保全が亡くなり、わずかな間で幕を閉じました。


この末期の際に和全とは和睦となったそうですが、保全にとっては心残りなことも多かったと思われます。。。


諍いの元となった、『宗三郎』は『和全』の開窯を大いに支え・・・明治に入るまでの永楽家の苦境を共にし和全の偉業を成し遂げました。


のちに、『宗三郎家』を興したあとも永楽家の手伝いを続け明治9年没します。が後に『得全』がその功績を讃え、『13代回全』として永楽家は正式に『宗三郎』に代を授けることと致しました。



ここにきて、保全と和全の仲はあの世にて再び円満な親子の縁が結ばれることとなったことでしょう。

それは、明治16(1883)年のことでした。


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※御成約済みです。


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【眞葛長造 仁清写眞葛窯 手鉢】 [幕末京焼]

先日、名古屋出張の際に足を延ばして・・・東京へトンボ帰りで行ってきました☆

目的はこちら。


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『頭から離れない』なかなか、うまいキャッチコピーです。(笑)


実は、展示中の作品のうち結構な数が昨年に市場に出る機会があって、なんとか入手したいと昨年前半は木米木米木米~と研究をしていたので(結果収穫は僅かでしたが)、別の意味で?『頭から離れなかった』私です。


というのもあり、是非この展観は実見しておきたかったのです。


これまで、写真でしか見れなかったものや初見のもの、本当にボリューム溢れる展示内容でした。


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涼盧を超拡大にしたもの。 拡大しても破綻しないディティール。裏面の文字刻印も緻密なのです。


展観は、3月26日(日)迄でございます。


さて・・・『木米』といえば『江戸後期の京焼三大名工』として数えられます。

『木米』『仁阿弥』『保全』

古い文献になると、これが『潁川』『木米』『仁阿弥』となることもあります。

こちらは師事系統でのつながりもあります。


私自身は、常日頃・・・『茶陶』という観点と『幕末』ということから括りで、『仁阿弥』『長造』『保全』を三大名工と申しあげております。

やはり、木米さんはこれら3名に対しては時期は重複するものの、半歩先であったという感が否めないという気がするのです。



仁阿弥道八 (1783~1855) 

眞葛長造  (1797~1860) 

永楽保全  (1795~1854)


それぞれの作品や歴史等は、ちょくちょくJFKでもご紹介致しておりますね。


この3名に共通するのは、先代迄とは圧倒的に異なりある意味『初代』といっても良い技術革新と新たな窯の創造であったことが挙げられます。

しかし、『長造』につきましてはアカデミックな場や、書籍で触れられる機会が少なく・・・

一部の茶人さん方や、美術商の間でのみ人気の工人でありました。

図録等で取り上げられるようになってまだ30年程であり、単独展観ですら平成12年の茶道資料館での『茶の湯の京焼~眞葛長造~』が初のことでした。

これには、眞葛窯がおそらくはほぼ単独での稼働に近い規模であり、作品数が限られていたこと、そして千家ありきでの制作活動でなかったことが要因でしょう。

茶道具がメインでありながら、書付や好み物といった類等は意識せず己の美意識でのみ探求し続けたのが『眞葛長造』なのです。



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【眞葛長造 仁清写眞葛窯 手鉢】


幅    20.6cm×18.3

高さ   21cm

製作年代 江戸時代後期 (1850年頃)

共箱 当代極め添え書き




長造作品の中では、一番大きい部類に入ります。


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轆轤にて形成した鉢をに『繭形』に変形させ、さらに2か所窪ませた部分を『手付』の付け根としております。


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長造の技法の基幹を為す、『藁灰釉』と『銹絵』の魅力が発揮されております。

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造詣のバランス感覚が絶妙です。

『模仁清』でなく『仁清写』と記されており、野々村仁清のテイストにかなり寄せつつ自身の特徴を込めております。

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『壺々紋』を透かしによる意匠にて、3つを1組として配置し、双方2か所に施されております。


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造りはしっかりしており、あやうさを感じさせません。


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お菓子器としては、3~5つはいけそうです。

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珍しく、大判の眞葛印です。


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底部周りを箆にて篠木処理がされております。


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共箱です。


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当代の香斎さんの極めが側面に記されております。


長造 刷毛目手付鉢 (4)-1.jpg

長造の茶陶は、あくまで『用に足る』ことを意識されており、見た目の派手さや技法だけを全面に出すような造りではなく、使いやすく・・また、使ったときにこそ良さが発揮するような意図が感じられることが多くございます。

『藁灰釉』のクリーム色ともやや青みも感じる優しい色調に、『銹絵』の侘びのある絵付け、そしてその上からも掛けられる釉薬によるにじみや濃淡による変化で、仁清の根本の美しさに迫るものがあります。


茶道資料館の文献にて、『長造の作陶は決して表面的な加飾を特色とするものではなく、作為を一歩ひかえ、繊細な細工で内包させているのである。その作品を仔細に見てゆくと、そこには長造の作品に対する極めて濃厚なこだわりがあり、そうしたこだわりが繊細な作品に存在感をもたせているのであろう。』と評されておりますのは、至って同感することろであるのです!


当店は、2023年の6月『名美アートフェア』と10月『東美アートフェア』にて、この辺を含んだ幕末国焼茶陶の特集を行う予定でございます。

作品もそれに向けて随時ご紹介して参りたいと思います。


※ご成約済みです。



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【仁阿弥道八 赤百合 鉢】 [幕末京焼]

『振り返れば、奴がいる』


某、90年代のドラマでは有りませんが・・・そういうのって有るのです。

私の場合・・・俳優さんで言いますと、『織田裕二』や『トム・クルーズ』がそれにあたります。


ファン、と明言してるわけでは無いのですが・・・気づくと、出演作品はほとんど観ていたりします。


同じように(?)、自身では意識せずとも、気づけば良く取り扱っているアイテム、というものが御座います。


『鉢』


それも、ちいさめ~中くらいのもの。


なんででしょう?


以前でしたら、『五つ盛れない』とか『三つでもギリギリ』・・などとお客様から言われ続けておりましたものですが、コロナ禍で時代が変わりました。


『正客用の一個盛り』上等☆


『待合でのお飾り用』にも上等☆☆


『懐石の預け鉢』に上等☆☆☆


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こんな感じですね。(先日お邪魔致しました、お茶事でのスナップです☆)




大きな鉢は好きじゃないんです。

なんと申しましょうか・・・デザイン造形物、として間延びがするのですね。

時代の要、が合いました。有難うございます☆



さて、序盤が長くなりましたが・・・中くらいサイズの鉢のご紹介です。



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【仁阿弥道八 赤百合 鉢】


幅    20cm

高さ   8cm

製作年代 文政9(1826)~天保13(1842)年頃

共箱


『百合』は、五月~八月に開花する花です。


赤、ピンク、オレンジ、黄、白、緑、茶、複色・・と様々な色が有りますが、白いのが一番イメージしやすいでしょうか?

赤百合、も綺麗のですヨ。


赤百合③.jpg

鮮やか、です。



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『三つ盛り』いけますね。


通常は、陶器にせよ磁器にせよ・・・目的とする『色彩』に応じて彩色を必要と致します。

逆に色を付けずに思い起こさせる・・という物も有りますが。


この作品は、『赤樂』という技法自体で『赤百合』を連想させます。


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仁阿弥道八、作品では『乾山写』や『彫造作品』が代表的のように捉えられておりますが、実は『樂』が一番『力量』が見える・・という研究者もいらっしゃるほどで、確かに、全てとはいいませんが見どころのある作品もたくさん存在するのです。

『本樂』ではないのに、釉薬も形状も負けず劣らず、なのは如何に?といったところで。


この作品でもそうですが、釉薬は宗入~了入辺りに通じるものがあるのです。


そして、この造形の生命力あふれる感じは、さすが仁阿弥、といったところでしょうか。


仁阿弥 赤百合鉢 (5)-1.jpg


『6枚』花びら、があるように思われておりますが、実は違います。


外側にある3枚は『がく』(外花被)で『つぼみ』の時に花を守るものです。

内側の3枚が本来の『花びら』(内花被)なのです。

きちんと、造形されております。


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印は、『法螺貝』道八印となります。

鉢ではよく使用されておりますが、技法別でいうと『樂焼』ではめずらしいところです。


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共箱です。

印は『瓢箪小 仁阿弥』印となります。


といったところから、製作年代は『文政9(1826)~天保13(1842)年頃』と推定出来ます。


赤百合③.jpg


仁阿弥が活躍した、幕末期に実は日本で『百合』が人気でした。

そして、かの有名なドイツ医師の『シーボルト』がヨーロッパへ日本の百合を持ち帰ります。

その後、日本の百合の美しさは評価を高め、同じ目方の『銀』と交換されたとか。

そして日本商館では百合の球根の輸出が始まり明治辺りまで盛んに交易されていたようです。


世界にある百合の原種は約100種類、その内の15種が日本産が占めているのです。


仁阿弥 赤百合鉢 (1)-1.jpg


飾るだけでも、良い作品かと思います☆

※売却済みです。

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【任土斎(九代)弥兵衛 鶴香合】 松尾宗古(6代)仰止斎 箱 ※追記 [幕末京焼]

【2023年1月16日 加筆  元記事は、2022年11月の分です。】


茶の湯の世界では・・・今月は『炉開き』

旧暦の十月(亥月)、『亥月の亥の子の祝い日』に茶室の炉を開きます。

新暦でいうと・・今月の11月6日がその日にあたります。

亥は子だくさん、であり・・そして亥は、中国の陰陽五行説で水の性質をもつことから火を防ぐと考えられ『火の用心』の意味も込められます。

大豆、小豆、大角豆、胡麻、栗、柿、糖の七種の粉と新米を使って作られる『亥の子餅』にて、子孫繁栄を願い食される風習があります。

裏千家流の炉開きでは『善哉』が出される事がございます。

こちらも、亥の子餅と同じく・・・亥の月日が『陰』であるのに対し、陽のものである『小豆』を食べることで『陰陽和合』を期するのだそうです。


そして、祝いということで・・・炉開きの月にはおめでたい道具組をすることも多く見受けられます。


今回ご紹介の作品は、炉開きの茶事におすすめの香合でございます。


九代任土斎 鶴香合 (4)-1.JPG


任土斎(九代) 弥兵衛

鶴香合

製作年代天保元(1830)~安政3(1856)年頃

幅  7.5cm 

高さ 4.8cm

共箱、松尾宗古(6代)仰止斎 箱



所謂、『玉水焼』です。


玉水焼については、昨年に樂さんが研究した成果を発表され、展観と図録発行を行われましたことで近年知名度が下がっていたものが、再び脚光を浴びることになりました。


玉水焼(たまみずやき)は樂家四代一入の庶子・一元(1662?~1722)が山城国玉水村(現在の京都府綴喜郡井手町玉水)において開いた楽焼窯です。

開窯は元禄年間と考えられており、一元 ⇒ 一空 ⇒ 任土斎 と、三代の初期玉水焼は、本家の樂家の血筋を受けており、また製作活動も『脇窯』・・というイメージというより、本樂と並立した存在であったような気が致します。

作品数は本樂程多くは有りませんが、各千家のその時代の家元による箱書き作品もあり、きちんとした立場で需要も多かったと見受けられるのです。

しかし、任土斎は子がおらず・・家としては三代目で中絶してしまいます。


その後、一元時代より製作を助けていた『伊縫家甚兵衛(楽翁)』が四代を継承し『玉水焼』は幕末期まで永らく続いていくのです。

樂家の紹介では『八代まで数えましたが明治に入って廃窯となりました』と記されますが、実際は幕末期の『九代目』が最後であったと思われます。


まずは、作品をご覧下さいませ。


九代任土斎 鶴香合 (4)-1.JPG


やや、面をシャープにとって造形されております。


この手法はこの時期に見受けられる特徴のひとつであり・・『初代~二代頃の清水六兵衛』『仁阿弥道八』や、道八も参加した角倉家庭焼の『一方堂焼』にも同様の香合が存在します。


九代任土斎 鶴香合 (5)-1.JPG

EVAの使徒にも居てそうです。(笑)


九代任土斎 鶴香合 (6)-1.JPG


都鳥香合にも似た、作り方です。

九代任土斎 鶴香合 (7)-1.JPG


全体の造形バランスも絶品です。


九代任土斎 鶴香合 (8)-1.JPG


こちらは、松尾流六代目である宗古(仰止斎)の花押の朱書です。 


九代任土斎 鶴香合 (9)-1.JPG


はっきりとした印付です。

本樂の流れを汲んでおりますので、こういった印の作りにも堂々としたものを感じます。


現在では松尾流は大変小規模になってしまいましたが、この時期の興隆は大きく・・・当時の京焼の名家に好み物などの直接製作注文をしております。

松尾流、としての意義はさておき・・・私としては、それらの作品の製作年代判定や、その当時からあまり多岐に渡り・・作品が散逸せず、ワンオーナーに近い状態で出てくることに価値を感じております。

この作品もそうです。


九代任土斎 鶴香合 (1)-1.JPG


九代任土斎 鶴香合 (2)-1.JPG


共箱です。 左下の欠損部を縞柿にて補っているのも雅です。


九代任土斎 鶴香合 (3)-1.JPG


仰止斎 箱


最近では、保全作品でも仰止斎 箱を扱いました。そちらも伝世数としては希少な保全の印と共箱の組み合わせに加え、仰止斎による最初からの箱であった為、『天保14(1843)~嘉永元(1848)年』の製作年代の特定が出来たのです。


この作品も同様に、上限と下限として天保元(1830)~安政3(1856)年となり、またそのことで資料不在による、時代認証の補強が可能となります。


【加筆部分】

この期間というと、玉水焼研究資料によりますと・・・


七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年

八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年 

の2者が可能性として入ります。


しかしながら、玉水伊縫家に残された文献の家系図の読み解きによると・・・長次郎から計算して、九代は、四代『楽翁』もしくは五代『娯楽斎』が相当します。

ところが、『任土斎九代 弥兵衛』と記されているこの共箱からすると、『弥兵衛』となっておりますので六代『涼行斎』となるのです。

この辺は、北樂家十五代『直入』さんの研究でも指摘されております。

しかし、遺されております『涼行斎』の箱筆跡や、花押とは『九代弥兵衛』箱は異なります。


で、今回の『松尾宗古』と絡めてみますと・・・

作品に後に書付と直書きをされる例もありますことから、確定までは出来ませんが・・先述の保全香合のパターンや箱の感じから、同時代の書付と見れると推測します。


さらに、作品の造りや雰囲気は極めて幕末期の京焼のテイストに合致致します。


そこも含めると・・・


やはり、

七代『浄閑斎』 安永10(1781)~天保8(1837)年

八代『照暁斎』 文化7(1810)~明治12(1879)年 

のどちらかに絞れると思われます。

そして、ここからは推論です。

六代『涼行斎』の没したのは、安永7年6月です。

それから安永10年に”生まれた”、七代『浄閑斎』が後を継ぐまでの長い空白期間に、永楽でいうところの『妙全』なり『回全』のような未亡人や職人さんによる、窯の継承維持期間を『代』カウントした可能性が有ります。

故に家系図ではカウントされず、窯元としてはカウントされるということです。

そうなると、八代『照暁斎』、玉水焼の最後となる人が・・・九代と自身を認識し、箱書きされていてもおかしくないのです。

今のところ、これ以上の研究は進みようはありませんが、今回の作品と遺された家系史などと整合しうる結論はこの辺かというところです。


既に、『ご成約済み』の作品の紹介ではありますが、自身の備忘録の意味も含めて『追記』しておくことに致しました次第です☆


※ご成約済みです。
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【永楽保全 染付鶯鳥 酒飲】 [幕末京焼]

続きまして、保全の酒呑をもう一点ご紹介致します。


こちらは、永楽善五郎展などでもお馴染みの・・・代表的な作品となります。


保全 鶯鳥盃 (5)-1.JPG

【永楽保全 染付鶯鳥 酒飲】


幅    8.1×7.4cm

高さ   4.2cm

高台径  2.2cm

製作年代 弘化4(1847)~嘉永7(1854)年頃

共箱


保全の晩年の境遇は決して良いものでは有りませんでした。

弘化4年に佐野長寛の次男であります『善次郎』を養子に迎え、天保14(1843)年より使用する『善一郎』を別ラインとして立ち上げようとしたことによる諍いが、子『和全』との間に生じ・・・

河濱焼、江戸行き、湖南焼、高槻焼、長等山焼、三井御濱焼など点々とすることになるのです。

しかし、それらは全て保全の『力量』を認めていた各人とのご縁のものであり、保全自身の制作意欲や技術は亡くなるまで衰えることは無かったのです。


そんな、保全の晩年期といえば・・『染付』に尽きると言っても過言では有りません。


保全 鶯鳥盃 (5)-1.JPG

古染付の意匠に倣った、『鶯鳥』です。


保全 鶯鳥盃 (7)-1.JPG


本体は、『梅』を意匠化しており・・・


保全 鶯鳥盃 (6)-1.JPG


かわいい、白磁の鶯が添えられます。


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本体の染付に対して、白磁とすることにより・・・本来は彩色されていない、鶯の彩りを観る者に感じさせるのです。

保全 鶯鳥盃 (4)-1.JPG

手びねりによる形成で、味わい深い風合いとなっております。


保全 鶯鳥盃 (8)-1.JPG


保全の小印となっており、このタイプは数は多く有りません。

保全 鶯鳥盃 (3)-1.JPG

保全 鶯鳥盃 (1)-1.JPG


共箱となります。紐も当時のものが現存しております。


保全 鶯鳥盃 (7)-1.JPG

彫像作品として、楽しむのも良し☆盃としても良し☆

なのです。

※売却済みです。


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【永樂保全(善五郎) 祥瑞写沓形 酒飲】而全極め箱 [幕末京焼]

お正月には、おおいにお酒が進んだ御仁も多かったと存じます。

また、茶道界に於きましても・・・1月から2月にかけては『初釜』『初稽古』などでの『酒飯席』で盃を酌み交わすシーンも増えますね。

そちらでは、『引盃』が主役ですが。。

幕末京焼コレクターズアイテム、としても人気の高い『酒盃』と呼ばれる作品をご紹介して参りましょう。


保全 沓形酒飲 (4)-1.jpg


【永樂保全(善五郎) 祥瑞写沓形 酒飲】


幅    5.8cm

高さ   4.3cm

高台径  3.2cm

製作年代 文政10(1827)~天保14(1843)年頃

箱    17代永楽而全極め箱




文政年間に入り、『土風炉師』であった『西村家』の製作バリエーションの拡大を図った『了全』と『保全』は茶陶製作の為の釉薬研究や登り窯焼成を始めます。

文政7年頃には『交趾』や『青磁』の製作が可能となったようで、その技術力を見込まれたのでしょう、文政10(1827)年には『吸江斎』や『旦入』『仁阿弥』らの紀州徳川藩主『徳川治宝』の御庭焼の拡大に同行することになるのです。


以降、『交趾』作品の『永樂保全』として知られるようになるのですが、その次に手掛けたのが『染付磁器』であります。


当時、『仁阿弥道八』により京焼における染付磁器の完成が実現し、京染付の世界がスタートし始めたころでありました。


保全 沓形酒飲 (4)-1.jpg


ぐるっと見回してまいりましょう。


保全 沓形酒飲 (6)-1.jpg


保全 沓形酒飲 (7)-1.jpg


松竹梅、や人馬、碁打ち人物、漁夫、山水・・・といった、唐国の古染付で見られる意匠が取り込まれております。


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一か所を窪ませて、やや『沓形』にしてあるのも祥瑞等の踏襲です。

永楽初期のやや軟質磁器の雰囲気により、染付といっても固く・冷たい感じになってないのもこの作品の魅力なのです!

保全 沓形酒飲 (8)-1.jpg


内側には『河濱支流』印が押印されております。


これは『大江竜珉』和尚に祐筆してもらった字を印に興したもので、保全の『策』によるものです。

以降、受け継がれてて『優品』『逸品』に押印される傾向があります。


保全 沓形酒飲 (10)-1.jpg

底には書き銘があります。


保全 沓形酒飲 (2)-1.jpg

保全 沓形酒飲 (3)-1.jpg


17代永楽善五郎で、隠居後名『而全』の極め箱となります。


この作品は、作品や銘等から保全の『善五郎』時代と分析出来ますので、製作年代は『文政10(1827)~天保14(1843)年頃』となりますが、さらに言い伝えなどによる磁器焼成の年代も合わせると・・・天保12(1841)~14(1843)年とまで絞り込んでも良いかもしれません。


この時代の酒盃としては珍しく、『盃』形状ではなく『ぐい呑』形状であるところも嬉しい点なのです!


※ご成約済みです。


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【永楽和全 染付雲堂手 茶碗】 透月斎箱 而全極め箱 [幕末京焼]

今年初のご紹介です☆





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【永楽和全 染付雲堂手 茶碗】

幅    10.8cm

高さ   7.9cm

高台径  5cm

製作年代 幕末~明治初期頃


箱 十一代 藪内透月斎(竹窓紹智)箱  (1865~1942年)

  永樂而全極め箱

  眼鏡収納外箱 添




京都国立博物館に所蔵されております、永樂保全作の有名な古染付写しの作品があります。

おそらく本歌は『香炉』であったものをお茶碗に見立てたものですが、保全はそれをきちんとした『茶碗』として作りました。

https://syuweb.kyohaku.go.jp/ibmuseum_public/index.php?app=shiryo&mode=detail&data_id=19818



『祥瑞』と違って、ざっくり?とした絵付けが魅力のものです。


和全 雲堂手茶碗 (5)-1.jpg


やや、薄いブルーがかった生地色なので、こういう絵付けが合います。

和全 雲堂手茶碗 (6)-1.jpg


『雲堂手』とよばれるだけあって、『雲』と『御堂』の絵付けです。


このお茶碗は先述のように、和全の父である保全の写しなのですが、元の鴻池所蔵のものには理由があるのです。


「利休紀三井寺の香炉を茶碗に用ゆるより始まる」


万治(1658~61)年間より前から大阪の豪商せあった『鴻池家』に所蔵されておりました『紀三井寺』と呼ばれる古染付の有名な香炉が有ります。

地肌・藍色・模様の三拍子が揃った逸品といわれ、利休の手にあったものが徳川家康に入り、一時津田小平次の元を経て・・・再び徳川の所有となったようです。

元和・寛永(1615-44)年間の茶会記にその名が度々記されており世に知られるようになりました。

おそらく、鴻池家に入った後にそれを写すように保全に依頼して製作させてものと推測できます。


和全 雲堂手茶碗 (7)-1.jpg


内側は本歌が香炉の名残であったことから『無釉』とされます。


轆轤目がきれいに渦巻きます。

和全 雲堂手茶碗 (11)-1.jpg


内側側面に『河濱支流』印が押印され、特別作品であったことがうかがえます。


和全 雲堂手茶碗 (9)-1.jpg

高台側です。

『永楽』印もあります。

いい『土見せ』です!

和全 雲堂手茶碗 (10)-1.jpg


なかなかの造形で、見た目より軽やかに・・・そして、手にしっくりと馴染む感じが驚くほどです☆



和全 雲堂手茶碗 (3)-1.jpg

元箱は、藪内家十一代家元のものになります。

和全 雲堂手茶碗 (4)-1.jpg


透月斎の箱のものは、佳品が多いことでも知られます。


和全 雲堂手茶碗 (2)-1.jpg


『翠雲台蔵品』


和全 雲堂手茶碗 (1)-1.jpg


先代の永楽善五郎さんであります『而全』の極め箱も新たに造られており、表千家流・裏千家流の方にもお使い安いように仕立てられております。


和全 雲堂手茶碗 (5)-1.jpg


『紀三井寺』は中心に人物も描かれておりますので、中興名物の雲堂手茶碗である『面影』と呼ばれるものを写したという説もございます。


共箱がありませんので、製作年代を追うのは難しいところですが・・保全作品の写しであることと、晩年の作風からも鑑みて、幕末から明治に代わる辺りまでの作品と思われます。

大変珍しいものですよ☆


※売却済みです。


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【眞葛長造 模松本萩 俵鉢】 [幕末京焼]

10月といえば、『収穫』の季節です。

9月に輝く稲穂の黄金の草原から、刈り取られたお米たちが次々と『米俵』へと姿を変えていきます。


米俵.jpg


米俵、といえば『大黒天さん』が連想されます。

ニコニコした笑顔で福袋を持って米俵の上に乗ってる、あの方です。(関西ではつい円広志を連想してしまいますが)


元々は、そんなスマイリーな神様では有りません。(^^;


ヒンドゥー教における、シヴァ神の化身である『マハーカーラ』が日本に伝わったのが由来といわれます。

『マハ―』は、『大いなる、偉大なる』という意であり、『カーラ』は『黒・暗黒』を意味し、併せて『大・黒・天』と訳されたのです。


その雰囲気からも、元はきつい形相の神様で、『軍神』『戦いの神』という側面と、『財をもたらすもの』『福の神』という二面性を併せ持った神様であったのです。

密教とともに日本に伝来し、日蓮宗などで崇拝されたりし室町時代辺りでは、既に現在のイメージで『福をもたらすもの』『五穀豊穣の神様』などということになったようです。


ちなみに、対となる『恵比寿さん』は『大漁追福の漁業』の神様であり、双方共・・・商いに繋がることから『恵比寿・大黒』は商売繁盛の神様と知られるようになったのです。



さて、前置きが長くなりました。


今回、ご紹介の作品は『俵鉢』です。



長造 模松本萩俵鉢 (3)-1.JPG


【眞葛長造 模松本萩 俵鉢】


幅   19.7cm × 16.4cm

高さ  10.5cm

高台径  7.3cm × 8.3cm

制作年代 江戸時代後期 (1843年~1860年頃)

共箱



長造作品では、香合や盃、茶碗では見られる『俵』ですが、このような『鉢』では珍しいものです。


俵形状は、お茶碗や鉢、ではそのまんまを意匠化出来るメリットがあるので、非常に人気なものです。


この作品でも、見事な造形となっており観る者を愉しませてくれます。


長造 模松本萩俵鉢 (2)-1.JPG


側面は俵を縛り上げた縄の感じを、箆使いにて表現しております。

幾何学的な紋様にも見えて、美しいですね。


長造 模松本萩俵鉢 (4)-1.JPG


右回りロクロにて大胆に形成し、眞葛窯のお家芸である『藁灰釉』にて釉掛けされております。

箆による窪みにより陰影が浮き出し、とても味わい深いのです。


なにより、珍しいポイントがもうひとつ。


『松本萩』を模しているのです。

寛文(1661-~73)年間に大和三輪の大吉兵衛が萩に招聘され、藩主『毛利家』に仕え製陶し始めたのが萩焼の始まりです。

のちに、『松本』の地へ移転したことから『松本萩』とよばれるようになります。

淡白に青を帯びたような釉調で、釉の止まるところに必ず溜まりがあり、また全体的に細やかな貫入を生じるのが特徴とされます。


その辺り、を再現しているのです。

幕末期は、奈良の赤膚焼や四日市の萬古焼、そして京焼に於いても『萩焼写し』の需要が高かったという傾向があります。

その時期は、萩が手に入らなかったのでしょうか・・・。


長造 模松本萩俵鉢 (5)-1.JPG


高台は『桝高台』です。

俵ということで、お米を測る『桝』と組み合わされるものでしょう。

四か所に切れ込みを入れた割高台で、土見せ部分となっております。



長造 模松本萩俵鉢 (1)-1.JPG


共箱です。

『東山眞葛原陶工 楽長造造』

甲書きには、『模松本萩 俵鉢』となっております。



長造 模松本萩俵鉢 (3)-1.JPG


サイズもなかなか、で飾るだけでも見応え充分なのです!



眞葛長造 

1797(寛政9年)~1860(万延元年)

青木木米の弟子として作陶生活に入る。真葛ヶ原にて窯を開く。観勝寺安井門跡より「真葛」の号を賜り晩年華頂宮より「香山」の号を頂く。
長造釉といわれる独特の風合をもち、その雅味あふれる作風は仁清の再来を思わせる。江戸期の京焼の代表格のひとつと称される。


※売却済みです。



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