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【溜塗老松茶器 西濱御殿之松を以て 吸江斎好み 五つの内】 [茶道具]

当店では大変珍しい、バリバリ(死語)の千家道具です。(^^;


今回は、紀州徳川家にも深いもので・・・私事ですが、母方の里が和歌山で、祖父が和歌山城の向かいにて、永年美術商を営んでおりました。

そんなことで、紀州に関するものであり、表千家ものであり、幕末期という組み合わせは親近感のあるものなので、稀に取り扱いたくなるのです。


それでは、ご紹介致します。



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【溜塗老松茶器 西濱御殿之松を以て 吸江斎好み 五つの内】


天保13(1842)年                    


幅9.1cm 高さ5.8cm




表千家四代の『江岑』は、大徳寺の沢庵和尚、玉舟和尚の尽力により、紀州徳川家に出仕することになりました。それは初代藩主頼宜の頃のことです。

出仕の際、大脇差建水を献上されたそうです。

その後、二百十年余もの長きにわたり、表千家と紀州徳川家の関係が続いていくのです。


そして、ときは江戸時代後期に移ります。

表千家十代目である『吸江斎』は、文政元年(1818)に生まれました。

9代の了々斎の嫡男が、文政6年に早世し、さらに了々斎もその2年後の文政8年に病死してしまい、表千家は後継問題に直面します。

そこで、了々斎の弟の子を千家に迎えることとなりました。そして、翌年文政9年・・・大徳寺宙宝和尚より斎号を受け、なんと9歳で家元を継承することとなるのです。

紀州徳川家10代の治宝公(一位様)は、了々斎から皆伝を受けており、自身でこれを預かり、吸江斎の成長を待ってそれを譲ろうと考え、後見として住山揚甫を任じます。

吸江斎は10歳で保全・旦入と共に紀州に出仕しました。その後、研鑽を積み続け・・・

天保7年、吸江斎19歳のとき、結婚と、皆伝を一位様から授かります。

紀州徳川家との深いつながりの中生まれたのが、この作品なのです。         


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同時代の、尾張徳川家の御深井焼と併せてみました。


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老松茶器、というものの本歌は『原叟好み』で、妙喜庵の松を以て数多く造られたことで有名です。

それに因んで、紀州徳川家の十代目『治宝(はるとみ)』公の隠居の場である『西濱御殿』の松を以て造られました。

治宝公は、文政6(1823)年の百姓一揆の責任を取って代を斉順(なりゆき)へ譲り隠居したのです。


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和歌山城の南西に、お庭焼きで有名な『偕楽園』の側に位置します。


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溜塗の中から・・・綺麗な松の木の目が美しく光ります。


古材とはいうもののの、厳選された木材にて『五つ』のみが製作されました。

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仕覆は、後世のもので『石畳緞子』の長緒となっております。


覚々斎の本歌に倣っており、紫の紐です。

もちろん、同じく・・・薄茶にも濃茶にもお使い頂けるお道具です。


                    
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外箱は、いわゆる『紀州箱』と呼ばれるもので、紀州道具に添えられる当時からのものです。


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『溜塗 老松 御茶器』


『五ツ之内』


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『西濱御殿御庭 三秀之松ヲ以て 好之』

『宗左』

『壬寅』


壬寅は、天保13(1842)年のことで、吸江斎25歳であります。

先述の通り、吸江斎は若くして家元を継承しており、19歳の時には『皆伝』を受けております。

年齢こそまだ若いですがこの時には既に、家元としての円熟期に入っております。

激動の時代であり、若年からの苦労もあったのでしょう、42歳にして早世してしまうことになります。

それは、ほぼ江戸時代の終焉と同時期であり、千家の歴史がスタートした江戸時代から新しい時代へと向かう最後のバトンを見事に繋いだのです。


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余談ですが・・・・


この作品は、平成24年6月号の『同門』(表千家 会報)の特集連載記事、『千家と紀州』にて掲載紹介された作品、『そのもの』になります。


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※ご成約済みです。多数のお引き合い有難うございました!



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【花寄蒔絵 平棗】 [茶道具]

『棗の実』、皆様はご存じでしょうか?

もう今年は終わってしまいましたが、8月~10月下旬に成る果実です。


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「夏に芽がでる」ことからナツメ

「夏の梅」からナツメ

「夏の実」からナツメ


と所説有り、のようですが・・・・


この実に、似ていることから名付けられたのが皆様ご存じの『棗』という茶器です。


村田珠光が羽田五郎に作らせたものが最初期で、武野紹鷗なども大小の好み形があります。


利休時代に、一定の寸法と形状が定められ、その後千家を中心にバリエーションが生まれておりますが、元は『濃茶』のみで茶入しかなかったものから、『薄茶』の登場により生まれたアイテムで、室町から桃山時代に始まった様式です。


そのバリエーションのひとつ、に『平棗』というものがあります。


お点前としては、下ろすときの作法が増えますが・・・個人的には実は好きな手順です。

その、一呼吸置くような所作、が棗に対しての『敬い』感があるような気がするんです、よ。

そして、工芸的にも・・・平棗だと、面積が大きいためその意匠のデザインのキャンバスが広くなるので、より・・センスを求められる、というのもイイのです☆


そんな、『平棗』で珍しい意匠の優品をご紹介致します。




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【花寄蒔絵 平棗】



幅  8.7cm

高さ 5.8cm

大正~昭和初期頃




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研ぎ出し蒔絵に、様々な技法の蒔絵により、種々の花を描いております。



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『梅』 『桜』 『桔梗』は 高蒔絵にて。

『撫子』は 銀に螺鈿を。

『ひまわり』は 梨子地で。


連なるように、そして群れて離したり・・・・


その配置、はこれぞ日本的、ともいうべき美的センスです。

千家茶道具、とはまた違う観点からの意匠取りですね。


このような、無作(作家名の無い蒔絵作品)というものは往々にして、京都や加賀での有力漆器商が値を問わずは発注する豪家の依頼に対し、自身のセンスによるデザインとそれを実現出来る漆工・蒔絵師にそれに応じた製作依頼を行うという、『オーダーメイドプロデュース』により生まれるものです。

ですので、一品のみ、もしくは少数製作品となるものなのです。


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畳付き、や内側の梨子地も緻密です。

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大変薄造りの木地で、その形成力と素材の良さも求められます。



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御仕舞用の仕覆も添っており、大事に伝世してきた茶器です。


この時代のものですと、それ以前のやきもの、や以降のものとも親和性があるので、お使いやすい側面もあると存じます。


なにより、お洒落じゃないですか☆



※売却済みです。


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【大西浄雪 独楽摘 燗鍋】 二代眞葛香山 祥瑞 替蓋添 [茶道具]




中秋の名月から、間を置かずに秋分の日も過ぎ・・・

暑さは残るものの、すっかり日暮れも早くなりました。


「暦(こよみ)」と実際の気候とのズレを感じる近年です。


旧暦でいうところの、秋は7・8・9月で、その真ん中である8月のさらに真ん中の

・・・8月15日が「中秋の名月」であるのですが、

新暦では一か月ずれますので9月15日。(そして今年は満月の日付では21日でした。)


旧暦と新暦、の感覚の違いというのも、江戸期の作品を見ていく際には注意しないといけないませんね。


ともかくも。


現在は、「秋」なのです。



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見事な、栗が手に入りました。秋を感じますね~☆


秋の夜長といえば、お酒が欠かせません。(ですよね?)



今回ご紹介致しますのは、茶事に使われることの多い、『燗鍋』です。



単にお酒を注ぐモノというのでなく・・・「燗」というものを紐解いてまいりましょう。


唐代中期の有名な詩人で、のちに大臣まで務めることになった「白楽天(白居易)」という人がいました。

白楽天が在命中に日本にその詩が伝わり、平安期に大いに流行したそうです。

これは異例のことであり、その詩の造りはもちろん・・・白楽天自身のサクセスストーリー・・・平民の出から才能を見出され、天子さまに取り上げられるという人生への憧れ、というのも要因であったといわれます。

その白楽天の詩のひとつに、こういうものがございます。


『林間に酒を煖めて 紅葉を焼く(りんかんにさけをあたためて こうようをたく)』

 <送王十八帰山寄題仙遊寺より>



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浮世絵でこの情景を描いたものがあります。


平安時代には、すでに『燗』をしてお酒を温めるという手法が広まっていたことがうかがえるのです。


中世では鉄鍋が一般的な厨房器として使われ、江戸時代になって酒を温める鉄器『燗鍋』が造られ、それが鉄銚子へと変わっていきます。

直接火にかけて温める、直燗(じかかん)は、温度の加減が難しいため、次第に湯煎によって温めるようなものへと移行していったようです。


さて、現代では『燗鍋』は茶事において、銚子と同義で冷酒、もしくは燗したお酒を入れて盃に入れる為の道具として使われます。

しかし、その形状はやはり元の用途としての燗鍋の形状が由来のようですね。


茶事にこだわらず、発展昇華系である徳利から、逆に今は燗鍋を酒器の愉しみの一アイテムとしても宜しいのではないでしょうか?


ということで、今回の作品です。



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【大西浄雪 独楽摘 燗鍋】 二代香山祥瑞替蓋


幅  19.5cm×16cm 

高さ 15cm

口径 12.5cm

共箱




大西浄雪  安永6(1777)~嘉永5(1852)年


先代である大西浄元の長男で、京都の大西清右衛門家の十代を襲名しました。

古い名物釜の研究に長けており、その写しなどの製作も得意としました。

同時代の樂了入と同じく、大西家の歴史の中でも中興の祖といってもよいでしょう。


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摘みが、独楽形となっており、共蓋も輪が広がります。


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注ぎ口はシャープなデザインです。


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内側も・・・


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底部も、時代のわりには状態は良いほうと思います。


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共箱です。


そして・・・この作品を、さらに愉しくするアイテムが。


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替え蓋が添います!


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発色の良い祥瑞に、造形的な摘みです。


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いっきに、侘びた情景がまた華やかになります。


これは、同じお客様をお呼びした別の席で使う場合や、同じ席で再びお酒を盛り替えてお出しする場合に有用です。


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一見、水指の蓋のようにも見えますが、この摘み造りなどは燗鍋の蓋としての用を意識したものです。


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はい、二代眞葛香山の特別注文制作なのです☆


これは大正後期に旧蔵者が香山に直接依頼したものです。その旧蔵者というのは、二代香山を表千家に引き合わせた人物の家です。

おそらくは、世の中に1点しか無いパターンの作品です。


この点だけでも私としては萌えるのですが、元の燗鍋としての佇まいも良いのです!


これは、お酒を楽しむアイテムとして、コレクターズアイテムとして、ぜひお薦めしたい逸品です。



余談ではありますが。


先述の白居易(白楽天)・・・晩年は龍門の香山寺に住み、「香山居士」と号されておりましたのです。さらに、亡くなられた年齢も初代香山と同じ七十五歳であったことは、当ブログを記述している中でなんか不思議なものを感じました。



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【七代 白井半七 雲華焼 都鳥蓋置】即中斎朱書 箱 [茶道具]

ちっちゃいもん俱楽部、ちょこちょこご紹介して参りましょう☆




「半七焼」、は大きく2つに分けられます。


関東の「隅田川焼」・・もうひとつの名でいう「今戸焼」時代


そして、大正後期から、伊丹・宝塚へ移窯したあとの「乾山焼」時代


関西の財界人や、料亭「吉兆」のひきたてにより「乾山焼」時代の作品をイメージされる方、が多いこと思います。

しかし、今戸焼作品の味わいは、また異なる魅力に溢れているのです。


「隅田川焼」というものは、文政2(1819)年頃に・・・骨董商であったといわれる佐原菊鳩が、向島の百花園にて始めたものと伝わります。

隅田川中州の土を使って、都鳥の香合や、都鳥の絵付けのものを製作しております。

文人画壇らとの親交もあり、有名となった隅田川焼は人気を博したようです。

同じ地域に、今戸焼として元は土風炉師として製作をしていたのが半七家です。

初代はさかのぼること江戸中期に京焼での修行を得て始めたようです。


土風炉や伏見人形等の製作にて、代を重ね・・・六代頃に茶陶として頭角を現しだしました。


明治期には表千家の碌々斎との親交も深かったことも要因でしょう。


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【七代 白井半七 雲華焼 都鳥蓋置】即中斎朱書 箱


幅  4.6cm

高さ 4.8cm

大正時代 初期頃



土風炉師であったルーツから、雲華焼の技法は手慣れたものです。

土の良質な精製さ、や色合いの侘びさ、なども秀逸です。



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この彫刻の良さは見るべきものがあります。

川に浮かぶ都鳥です。



都鳥といえば・・・在原業平がモデルといわれる・・・伊勢物語の「東下り・隅田川」の中にこういう風に登場いたします。


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なほ行き行きて、武蔵の国と下総の国との中に、いと大きなる河あり。

それをすみだ河といふ。


(さらに進んで行くと、武蔵の国と下総の国の間に、たいそう大きな川があります。)

(それを隅田川と言います。)



その河のほとりにむれゐて、思ひやればかぎりなく遠くも来にけるかなと、わびあへるに、

渡守、「はや舟に乗れ。日も暮れぬ。」


(その川のほとりで群がり座って、(都へと)はるかに思いをはせると、果てしなく遠くまできたものだなあと、(皆で)一緒に気弱になっているところ)

(川の渡し舟の船頭が、「はやく船に乗れ。日も暮れてしまう。)



といふに、乗りて渡らむとするに、皆人ものわびしくて、京に、思ふ人なきにしもあらず。


(と言うので、(船に)乗って渡ろうとするのですが、皆なんとなく悲しくて、都に恋しく思う人がないわけではないのです。)



さるをりしも、白き鳥の、嘴と脚と赤き、鴫の大きさなる、水の上に遊びつつ魚を食ふ。

(そんな折も折、白い鳥で、くちばしと脚が赤い、鴨ぐらいの大きさであるのが、水面を気ままに動きまわりながら魚を食べています。)


京には見えぬ鳥なれば、皆人見知らず。

渡守に問ひければ、「これなむ都鳥」といふを聞きて、


(都では目にしない鳥なので、皆(この鳥のことを)知りません。船頭に尋ねてみると「これは都鳥です。」)



名にし負はば いざ言問はむ 都鳥 わが思ふ人は ありやなしやと

とよめりければ、舟こぞりて泣きにけり。


(と言うのを聞いて、「都」という名を持っているのなら、(都の事情に詳しいであろうから)さあ尋ねよう、都鳥よ。私が恋い慕う人は無事でいるのかいないのか・・・と詠んだので、船に乗っている人は一人残らず泣いてしまいました。)


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胸に染み入る、お話です。

コトバ遊びのようでもありますが、風情があります。



さて、作品に戻りましょう。


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上から。


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「隅田川焼」の印銘です。

まるで、川に流れるかのような押印もまた、風情。


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即中斎による主書きがございます。 これは後年に書きつけられたものです。

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箱書きに際して箱を新調されておりますので、七代半七の共箱(大体が側面にあるのです)はございません。


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都鳥、です。


見ているうちに・・・この都鳥の羽根の灰色と、作品の雲華が重なってくるようにも感じますね。


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大正12(1923)年の関東大震災は、今戸焼の窯をも全崩壊してしまいました。

その機に、碌々斎の招きにより兵庫県伊丹市へと移窯し、半七は新たなステージへと進むことになったのです。


※御成約済みです。


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【正意 茶入 一尾伊織箱 大倉好斎極め 惺斎 箱】 [茶道具]

茶入の謎・・・・尾張陶を研究するときに、いつも頭の片隅で疑問なのが・・・茶入です。


桃山以前の瀬戸のやきもの、でいわゆる古い茶陶・・・は、『茶入しか』無いんですよね。

桃山時代や江戸初期ですら、茶陶は瀬戸でなく、美濃ですし。

茶碗とか、水指とか、他のアイテムは無いんかい~と、不思議でならなかったわけです。

うちの師匠にことあるごとに愚痴ってるのですが、返ってくる答えは『それしか売れへんかったんやろ』

確かに。

まだ、和物茶碗として・・・長次郎も織部も志野も有りません。

遠州七窯も定められず、唐物至上主義の最中です。


そんな中、天下人を始め・・・力のあるもの、国をもつもの、が所持された唐物茶入は手に入ることがまず、不可能です。

そこで、『茶入』というアイテムへの需要が高まったこと、代用が無いものであったことが、国産化への流れを進めたのが真実といったところでしょうか。


加藤四郎左衛門 景正が安貞元年(1227年)!に唐の土を持ち帰り作ったのが『唐物』で(他のものでいう唐物と茶入れの唐物では定義が異なりますね)、和の土を使って始めたのが古瀬戸であるといわれます。

その古瀬戸の中でも分類が分かれており・・・・


唐物、古瀬戸(からもの、こせと・ふるせと) ⇒ 春慶 (初代 加藤四郎左衛門 景正)

真中古(まちゅうこ) ⇒ 藤四郎春慶 (二代 藤四郎 基道)

金華山(きんかざん) (三代 藤四郎 景国)

破風窯(はふがま) (四代 藤四郎 政連)

後窯(のちがま)  四代以降の時代での・・・利休窯、織部窯、正意、万右衛門、新兵衛、宗伯、吉    兵衛、茂右衛門、源十郎、鳴海窯などを指します。


さらにそれぞれの中で、『~手』と細分化されますが、そこは割愛します。(^-^;



後の時代のように、作者名で称されていたら、わかりやすいのに・・・と思うのは今の思考であって、当時は『作家もの』というのが主流でなかったため、唐物や高麗のような呼称をわざとつけたのでしょう。


・・・と、いうのと、なによりも・・・作者の特定自体が出来ない、という事情もあったのかと思います。

そこで、あとは誰が所有したか、伝来したか・・・で価値観が膨らんでいったのでしょう。


そもそもが、始祖であります景正という人物すら、実在かどうかという論もあります。

しかし、いずれにせよ・・・瀬戸の和物茶入れはどれも、造りも端正で佳くされており土も釉も完成度は高いものだといえます。


そして、桃山後期~江戸前期頃の後窯以降・・・から、江戸後期頃の作家性が全面に出る時代になるまでの『間』がこれまたポッカリ空いてしまうという『謎』。


茶入、が数多く存在したことで、需給が崩れたのか、町衆への普及から薄茶へのシフトが進んだのか、作れる陶工が居なくなったのか・・・はてさて。。。



・・・といったことは、さておきまして。



今回、お気に入りの茶入が手に入りました。

昨年末に目にする機会があって、そのときも欲しかったのですが・・・半年を経て、ご縁がありました☆


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【正意 茶入】


幅 5.5㎝ (対角 6.4㎝) 高さ 9.3㎝ (摘みまで含むと10.3㎝)


桃山時代後期



一尾伊織 箱 

大倉好斎極め

古筆了仲 加筆極め

時代 仕覆  


惺斎 別箱 書付

点前 仕覆


眼鏡2重箱





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右側へ回してみます。



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重厚な造りの中、品があるのです。


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時代の元仕覆です。




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口造りです。



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側面のアップです。


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底面です。

いい、土です・・。


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正意(しょうい)は、茶入の作者の名前となります。


山高信離(やまたか のぶつら)という、後に・・・徳川慶喜の弟である昭武がパリ万博に視察へ行った際に渋沢栄一らと随行し、維新後も万博へ派遣され帝国博物館の館長を務めた人物が記したという・・『大成陶誌』に記されてる文を見てみますと。


「正意 室町四條下ル町に住す、眼科医師堀氏。正意は泉州堺の人、京都に移り住ひて室町四條下ルに住す、利休同時代なり、飴釉にして頽れほんのりと現はるヽものあり、品格最もよし」


天正~寛永年間(1573-1644)の人で・・・

京都で眼科医を業としたが,尾張の瀬戸へ赴き茶入を製作した、とあります。


うちと同じ泉州の出身で!大好きな尾張!へとなると・・・これは私に真向きとしか思えません。(^-^;



正意には、達磨のようなフォルムから名付けられた・・・初祖から六祖、というものや、面壁、岡辺、千草などが中興名物で有名であります。

それらは、伝来等により珍重され、当世まで伝えられております。

この在野の茶入は、以下の次第になります。


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眼鏡の外箱です。


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元の箱です。

開けてみましょう。



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一尾伊織 の箱です。


江戸時代前期の旗本・茶人です。

細川忠興(三斎)家臣の津川四郎左衛門に茶道を学び、三斎流一尾派を創始しました。

元禄2年(1689年)、91歳で没す。 当時としては大変な長命ですね。


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こちらは、箱の蓋裏にある極めです。


大倉好斎により、1853年に書かれたものです。


古筆鑑定家で京都の人です。紀州徳川家に仕えており、法橋に叙せられる。

文久2年(1863)に没す。





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古筆 了仲の極め状もあります。

明暦2(1656)年~元文元(1736)年 古筆鑑定家


表千家の箱書の受取状も添います。


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惺斎の前期の箱書です。

大正初頭です。


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こちらは、箱書の際に新調された点前用の仕覆です。


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面白い造りですね。挽屋の代わりでしょう。



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正意は、いわゆる・・・門外漢から、茶入の世界に入ったからか、形状に面白味のあるものが多いのが特徴といわれます。

この作品も、丁寧な轆轤から、四方へと形成する・・・いわゆる『型』からの『変化』を意図しながらも、あくまで使いやすさと風格とを併せ持つことに成功しております。

高さも男性の手のひらの高さとほぼ同じに合わせており・・・袱紗による点前も非常になじみやすく、かつ飾り映えもするのです。


痛みも無く伝世しております。

元の仕覆の文様は、ちと難解ではありますが・・そこは達磨等をモチーフにした正意作茶入もあることから、なにか紐解けるヒントがあるのかもしれません。


今回は、いつもと少し違った趣向で・・・尾張陶をご紹介してみました☆


※ご成約済みです。



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【珠光青磁 了入補茶碗 楽了入箱】 [茶道具]

なかなか、愉しめるお茶碗のご紹介です。

希少度はかなり高いです。(^-^;




村田珠光が見出し、後世へと知らしめた道具として・・・有名なものに、『珠光青磁』というものがあります。

天文11(1542)~天正(1575)年までの34年間の茶会記に、23回も登場することも知られております。


珠光から利休に渡ったものは後に戦国武将の三好実休に現在の価格で5千万円で譲られたとか。
(この茶碗は、本能寺の変で焼失したようです)

さて、珠光青磁・・・この機会に研究して楽しんでみましょう。


『珠光茶碗』といっても、数が少ないせいかよく知られていない部分が多いと思います。


珠光茶碗というのは、唐物です。

官窯にて完全なる管理の元、多大なコストをかけて還元焼成された『青磁』に対し、そこまでの温度管理をせずに(出来ず?)酸化焼成にて作られております。

それは『雑器』として生まれたものであったからと推測されております。


様々な諸説がありますが、研究が進む中で・・・最初の茶会記に登場した鎌倉時代のものは、現在知られている『珠光青磁茶碗』とは手が異なるものであったということです。

珠光茶碗に対する詳細な記述、が今でいう珠光茶碗と合致しないということです。

茶会記での登場回数の多い中、それは同じもの、同手、が複数回登場したということではなく・・・珠光茶碗に憧れ、それに類するものを求めた当時の茶人により、新たに発掘されたものが今で知られる『珠光青磁茶碗』の殆どを指すものとなります。

さらに江戸中期頃以降に、博多遺跡群で出土したシリーズが、現在知られる各地で所有・展示されている珠光青磁なのです。

福建省の同安県にて発見された窯跡で類似したものが出土したことから、現在では『同安窯系青磁』として分類されます。


同安窯系青磁(珠光青磁)は南宋時代である12世紀~13世紀に造られたもので、その中でも12世紀前半~中頃のタイプ、それ以降12世紀後半~13世紀に入るタイプがあり、後期になると文様が簡素化されている傾向にあります。


今回、ご紹介するのはその後期の窯によるもの・・・を、”使った”作品です。


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【珠光青磁 了入補茶碗 楽了入箱】


幅 16㎝ 高さ 6.4㎝ 高台径 5.2㎝ 重量330g


樂了入 箱




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了入が、3分の2ほどを補っているのです!


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反対側より



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見事なものです。


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珠光青磁(同安窯系)では、褐色のオリーブ色から枇杷色のものまで発色が様々あります。

(個人的には、保全等が写していたこの作品のような綺麗な枇杷色が好きです。)


暗めの色調ですが、澄んだ発色です。うっすらと飴色も感じさせますね。


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欠落部分を、きちんと樂焼にて形成され、文様も再現されております。



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高台側にうつりましょう。


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珠光青磁の無釉の土も特徴的です。


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反対側です。


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筋が多数見られます。

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了入の隠居印が押されております。



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了入箱です。



今回のタイプの珠光青磁(同安窯系)は、確認される全種類の珠光青磁茶碗の4割にも及ぶといわれ、一番多く目にするものといわれます。

唐物の中でもこの珠光青磁茶碗というものは、他の唐物に遅れて評価され、秀吉時代以降に人気がかなり高まったとみられます。

しかし、手に入れようにも入手する術がございません。

江戸中期になると発掘により、完品やそうでないもの、も含めて多数出土することにより、茶人の間で流通することとなります。それでもまだまだ稀少なモノです。

江戸後期になり、京焼での製作技術が高まった頃には写し物の製作が行われるようになりました。

もちろん、それぞれの陶工の名に於いて、です。



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大正12年に東京美術倶楽部で開かれた、『某伯爵家売り立て』目録に掲載されております。


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実は、根津美術館に所蔵されております3つの珠光青磁茶碗のうち、1つがこのお茶碗と同様の3分の2を了入で補ったものとなっております。

おそらく同じときに造られたものでしょう。



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「和漢この境を紛らわす」

村田珠光によるの唐物と和物との親和が大事だという教えです。これは珠光青磁の取り立ての根本にあるといわれます。

その当時は、唐物偏重であった傾向から、貴族相手ではない『侘び茶』へと移行する中、道具の取り合わせの面からも珠光が考えたものではありますが、信長の後に・・・桃山陶器等の和物が登場し人気を博したことから、高く取引された『最後の唐物』となったのです。


そして、時を経て・・・江戸時代後期にも、別の意味で和漢がひとつになった作品が生まれたのです。



⇒多数の御問い合わせ有難うございました。

ご成約済み、となりました。





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参考文献 京都府埋蔵文化材論集
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【中村宗哲(元斎)銀輪朱手桶 水指 即中斎好み 五つの内】 [茶道具]

当店では、珍しい流儀道具の登場です☆ (昔はそういうものばかりだったのですが・・)

といっても、やはり・・・珍しいモノ、というのは心がけております。



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【中村宗哲(元斎)銀輪朱手桶 水指 隋流形を以て 即中斎好み 五つの内】


幅 23㎝ 高さ 27㎝ 4986g


手桶というのは、古くから存在するもので・・・東山御殿に有った塗桶を元に、室町時代の侘び茶の創始で知られる茶人「村田珠光」が杉木地を使い、上下に籐の箍を掛けて水指として好まれたものが始まりと云われております。

後に「武野紹鴎」が真塗とり、台子用としてリメイクされたものが真手桶です。

紹鴎の愛弟子であった、千利休はそれを小ぶりにしたものを好みとしております。

天文八年(1539)に初めて茶会記の中で名称が登場し、永禄年間(1558~1570)から天正13年(1585)頃までが最も多く使われていたようで・・天正八年(1580)をピークに、天正十二年(1586)頃から減少し、天正十四年(1588)には代わって釣瓶水指が台頭し始めることになります。


江戸時代に入り、1600年代後半には四代目の逢源斎(江岑)好みの銀箍で内側を黒塗りにしたものが作られます。

約100年の時を経て、手桶水指が再び脚光を浴びることに。

遠州流や裏流でも新たな好み物が作られます。


五代目の隋流斎の好みの真塗、九代了々斎好みの小型真塗、十一代碌々斎好みの小型の朱塗 と、溜塗、真塗と続き・・・

十二代目の惺斎時代の好みでは、白竹張手桶・貝尽朱手桶、春野蒔絵黒手桶、秋野溜手桶、吹寄黒手桶、楽器蒔絵手桶、その他にも色漆物が色々と・・・手桶祭りとなります。(^-^;



その中で、隋流斎好みのものを基調とし、朱色に変えたものが今回の「即中斎好み」であります。

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隋流斎は、古風の千家流である千利休のスタイルを重んじておりました。

故に、好み物をあまり作らなかったことも特徴です。


そんな隋流斎が好んだ手桶、というのはどういったものなのでしょうか。


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フォルムは、利休形をやや細長くしたようなものでシュッとした印象になります。


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そして、手の両端が左右に出ます。(利休形は出ません)


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割り蓋は、段差がなく重ならないのも特徴です。


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足は、四つになります。(通常は3つ)


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即中斎の好みとして、5つ製作されたもののうちの1つです。


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花押です。


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作は、歴代の中でも在代の長かった名工、元斎宗哲です。


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彫り銘です。


十一代宗哲 明治32(1899)~平成5(1993)年

九代の次男で、母であり、夫の死と長男の廃業から宗哲を継承した十代を支え、襲名後も戦中戦後の多難な時期に多数の名作を製作。京都府文化功労者であります。昭和60(1985)年隠居。


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箱は印部に少しだけへこみがございます。



作品は綺麗な状態で伝世しております。


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朱色も落ち着いた色であり、そのフォルムと共に・・・艶やかな近代道具とも、侘びた古い道具とも合わせれることでしょう。


手桶、というものはその形状の由来からも・・・清浄で新鮮な水を汲んで来て、おもてなし、をするようなイメージがあります。

それは心配り、とこだわり、の精神を体現したお道具と言えるでしょう。



※ご成約済みです。



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【五代 清水六兵衛 染付兜 香合】 [茶道具]

今月号の古美術雑誌『目の眼』さんの、特集は『香合のたのしみ』です。


香合、いつか・・・寅さんのトランクに香合だけを詰め込んで、全国を行商してみたい・・などと考えることがあります。(^-^;


それはともかく、誌面では有馬頼底猊下のコレクションで、『祥瑞筋兜香合』が紹介されておりますが、今回ご紹介いたしますのは、それのアレンジ版ともいうのでしょうか。

戦前期に、『東の波山、西の六兵衛』と称された五代清水六兵衛の作品です。



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【五代 清水六兵衛 染付兜 香合】


幅 5㎝ 高さ5㎝ 

大正後期~昭和初期頃



なんとも、かわいくもあり凛とした雰囲気もあり。


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筋兜のような、堅さが無いデザインで、区切られない分・・・自由に面に絵付けをされております。

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小さく、またラウンドフォルムをキャンバスに山水や花鳥を描いております。


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蓋を開けてみました。


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銘は、なんと・・・・こんなに小さい印です。


この印は、五代六兵衛の祥瑞や染付作品の優品にのみ、使用される特別な隠し印です。


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共箱



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やきもの、の香合ですが・・・近代茶道流にこだわらず、兜ということで5月のお飾りにして愉しむのも良し、です。



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【御本立鶴 茶碗】 [茶道具]

「御本立鶴」は、高麗茶碗の中では一番有名なものでは無いでしょうか。


それ故に、現代にいたるまで様々な茶陶作家が挑戦し続け、「写し」が作られております。

そして、それを手本としてさらに茶会なので知られ広まっているのです。


その「写し」への挑戦は・・・古い時代にも朝鮮半島でも挑戦されておりました。(挑戦半島。。)


「本歌」というのはかなり数が少ないモノで、野村美術館に所蔵されておりますものは中興名物であります。

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小堀遠州から松平不昧へ伝わったものです。


世間で知られますように、寛永16年頃に3代将軍の徳川家光が描いた立鶴の絵を元に・・・小堀遠州が朝鮮に注文したものであるとの伝承で、その図案をお手本にしたことから「御本茶碗」と称されるわけです。

この最上手の本歌は、他に数多く伝世するものと区別して「本手」御本立鶴と呼ばれます。


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他に有名なものでこちらもございます。


こちらは原三渓旧蔵のものです。やや口径が小さいです。


比べてみますと、同じ鶴のようで若干異なるようです。


さて、序盤で・・・挑戦半島・・・と書きましたように、需要があったことから倭館での御本立鶴茶碗の製作は比較的長期間に及んだようです。

本手は江戸時代初期であるわけですが、そこから約200年の間に朝鮮にてオフィシャルの「写し」が作られるわけです。

その中の作品で、比較的優品が入りましたのでご紹介致します。


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【御本立鶴 茶碗】


幅 11.9㎝~12.1㎝ 高さ 9.4㎝~9.8㎝ 高台径 7㎝


ちなみに、本手の方は 幅 12.4㎝ 高さ 9.9㎝ 高台径 6.2㎝ と近似しております。

こちらはおそらく切り型か、もしくは仕様書が残っていたのでしょう。

鶴の方は数ある立鶴茶碗でも、足の形状等が異なるようです。


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本手では、2匹の鶴が象嵌されておりますが、後期モノと推定される本作品は1匹と簡略化されております。

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きれいな轆轤挽きでの形成です。


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高台もお約束の3つの切れ込みですが、この切込みもなかなかデザイン性を感じます。


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高台脇もいいですね。

高台内への釉掛けも、うれしいところ。


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伝世箱


この作品の魅力は、やさしさと大胆さを併せ持ったところでしょう。


造りこみから、なんだか・・・非常に作り手の気持ちが入ってるように感じるのです。




※ご成約済みです。


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【二代 矢口永寿 色絵金銀菱 茶碗 一双 淡々斎 箱】 [茶道具]

『野々村仁清』、は現在にいたるまで・・・『仁清写し』というコトバと手法で伝えられて続けてきたことで、茶道界のみならず一般の方にまで知られる有名な名工です。

キレイな、とか色絵、という認識が多いかと思いますがその実、単色で侘びた色調ながら艶やかなデザイン、カラフルでありながら落ち着いたモダンな意匠、といった400年経った今でも十分通用する・・・という表現は適切でないでしょう。むしろ、時代の先に居て追いつけない、という気が致します。

仁清は、香山と同じく技術力と表現力を兼ね備えた職長格であり、仁清窯を運営していたという捉え方が正しいようです。そして、その仁清をリードしたのが『金森宗和』であったことも広く知られます。


金森宗和は飛騨高山城主の嫡男として生まれ、のちに京都に上り『後水尾天皇』らの 公家サロンに交わることで宮中における茶道に多大な影響を与えたといわれます。

雅味あふれる道具を好み、自身のイメージを実現すべく、野々村仁清を指導して茶陶を焼かせ・・ここに『仁清』というブランドが確立し、現代へと伝わることになるのです。

そんな、仁清の有名な作品の『写し』で、何人もの陶工がチャレンジする中でも秀逸な作品が手に入りましたので、ご紹介致します。




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【二代 矢口永寿 色絵金銀菱 茶碗 一双 淡々斎 箱】



大(金菱) 幅 10㎝ 高さ 8.2㎝ 高台径 5㎝

小(銀菱) 幅 8.8㎝ 高さ 7.8㎝ 高台径 4.8㎝


製作年代 昭和27(1952)~39(1964)年頃





この作品の写しは、道八家でも製作されておりますが・・・永寿の作品ではめずらしいものです。

しかも、本歌に倣って・・・大小の入れ子となっております。


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本歌は、公家や武家の好みを反映させたもので、金森宗和が東福門院(後水尾天皇の中宮、徳川二代将軍秀忠の娘)への献上品として製作を依頼した仁清の特別作品です。


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端正な轆轤挽きからの形成です。


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意匠化された菱文と連弁紋の組み合わせに仁清黒、が引き締めております。

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高台側です。


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淡々斎の箱があります。

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仕覆も添います。




そして、続きまして・・・小さい方のご紹介です。


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金に対しての銀の対比も面白いものです。

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こちらの方も仕覆と淡々斎の箱があります。


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それぞれ、の箱に一双を収める箱があります。



本歌は、MOA美術館に所蔵される重要文化財です。

東福門院から土井相模守へと譲られ、山澄力蔵を経て、平瀬家より益田鈍翁に伝わったのち、MOA
の所有となりました。


サイズは(大)が幅9.9㎝ 高さ9.2㎝、(小)が幅8.9㎝ 高さ8.1㎝で、ほぼ同じです。

しかし、大きな違いが有ります。


MOA所有の写真を参考に、比べてみましょう。


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お気付きになりましたでしょうか?



『金』と『銀』が逆になっているのです! 


さらに線の意匠取りを若干変化させております。


仁清作品は、石川県にもゆかりがあり・・・県立美術館に、有名な雉の香炉一対も所蔵されております。

そして、金沢も小京都といわれる土壌と、武家による茶道の発展、地元の工人たちの発展といった要素などと・・・仁清の置かれていた状況に通じるもがございます。


そういったバックボーンから生まれた、2代目矢口永寿の逸品作品なのです。



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